第10話 湊と直哉
一方、三河台高校の井伊直哉である。
新人戦の約半年前である7月初旬の放課後、井伊も学校内の剣道場で一人、竹刀を振っていた。部の全体練習は休みだが、稽古を欠かす日をつくりたくないのだ。
井伊は静かに素振りをしたかったが、
「直哉くん、頑張って」
「はぁ、カッコいい♡」
道場内に入り込んできた女子生徒が井伊を応援している。
ファンクラブの会員たちだ。なかには他校の生徒も混じっている。
(気が散るな)
と井伊は思ったが、それを女子に強くは言えない性格だ。
と、そこへ。
「おう、お前ら邪魔だ。神聖な道場に勝手に入り込むんじゃねぇ!」
と乱暴に怒鳴りながら、井伊よりも一回り体の大きい剣道着姿の男が入って来た。
進学校の生徒らしからぬ無精髭を生やしている。
三河台高校剣道部のエースであり、井伊の親友でもある本多湊だ。
「ちょっと、やめてよ!」
「なんで、あんたみたいな野蛮人が直哉くんの友達なの?」
とわめくファンの女子たちを道場の外へ押し出すと、バンッと引き戸を閉めた。
「直哉、これで稽古に集中できるだろ?」
「ああ、湊。ありがとう」
***
2人で息を合わせて、上下素振り、左右素振り、早素振りを行い、交互に
パンパン、パパンッ!
2人の他には誰もいない道場内に、竹刀のぶつかり合う音が響く。
体格でも実力でも優る本多が先に二本を取ったが、その間に井伊も一本を取った。
試合稽古を終えると、互いに礼をして、入口の引き戸を開ける。
靴を履いて外に出て、2人で肩を並べ、コンクリートの階段に腰掛けた。
校舎裏にある剣道場は、午後も遅い時間になると、すっかり日陰になる。
7月にしては涼しい風が、2人の汗を乾かしていく。
井伊が自分のカバンから水筒を取り出し、本多に勧めた。
「ポカリスエット。朝凍らせてきたから、まだ冷たい」
「おお、悪ぃな」
2人で見上げた空に、夏らしい入道雲が湧き立っている。
「なぁ、湊」
「あ?」
「俺たちって、何のために剣道をやってるんだろうな」
井伊の一人称は基本的には「僕」だが、本多と話すときだけ「俺」になる。
「何のため?」
と本多が井伊に水筒を返しながら聞いた。
「ああ。昨日、父さんに言われたんだ。俺たちはいくら頑張ったところで、剣道でインターハイに出場できるわけじゃない。東京都で2位になるのも無理だ。せいぜいベスト8かベスト16。その程度の目標のために、テスト期間中の貴重な時間まで割いて剣道をするのは、本当に合理的なことなのか、よく考えてみなさいって」
「へぇ。そんなこと言われたのか」
と呟いて、少し考えてから、本多は聞き返した。
「直哉は国立大の医学部を目指してるんだよな?」
「ああ。父さんは開業した病院を大きくしたけど、もう歳だからね。一日も早く俺に跡取りになってほしいと思ってる」
「必ず親の期待に応えなきゃならないってもんでもないだろ」
「いや、それは俺の目標でもあるんだ。父さんから強制されたわけじゃない。そのために今、剣道をやっていることに何の意味があるのか、時々分からなくなる」
「もう一口くれ」
と本多が言って、井伊の手から再び水筒を受け取った。
それをシャカシャカと振って、中の氷をシャーベット状に砕いてから言う。
「なぁ、直哉。人生はテストの問題じゃねーんだ。いくら悩んだって、答えが出ないこともある。徳田先生が言ってただろ。そういうときは、自分の中にある、今、いちばん美しいと思う気持ちに従いなさい。それが『美学』というものだって」
本多は水筒の中身を一気に飲み干すと、井伊に朗らかな笑顔を向けて言った。
「俺は、お前と剣道をしている時間が好きだ」
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