第8話 田中に改名しろ
「遅い。もっと速く!」
相馬香苗から指示されたメニューを1ヶ月間こなしてから入部した秀一だったが、剣道部の稽古にすぐついて行けるようになったわけではなかった。
(やっぱり僕、この学校の剣道部でやっていくのは無理なのかなぁ)
と自信を失いはじめていた、ある日の帰り道。
「おい、そこの1年」
「あ、伊吹先輩」
秀一は2年の伊吹涼介に呼び止められた。
涼介は(秀一がまだ会っていない天童豪太を除けば)男子剣道部で最強の剣士であり、事実上の主将でもある。この頃の秀一にとっては雲の上の存在だ。
その涼介から「付き合え」と言われるままに、秀一は駅前のカフェに入った。
***
「何でも好きなもの頼んでいいぞ。今日は俺が奢る」
とカフェのカウンターで涼介が言う。
「いえ、けっこうです。自分で買います」
「ダメだ。奢らせろ」
「奢らせろって脅されたの初めてなんですけど……」
そんな2人のやりとりを先に入店していた2年の女子部員たちがからかった。
「あ。涼介君って、やっぱりそっち系なんだ?」
「イケメンなのに彼女いないし、男子同士で仲良すぎると思ってたんだよねー」
キャハハハハ。
「うるせぇ。んなわけあるか!」
と赤面しながら言い返す涼介を見て、秀一は、あれ? と思った。
(伊吹先輩って、こんな人だったんだ)
女子にからかわれて、怒るよりも照れている。
稽古中、剣道着に身を包んでいる涼介はクールで厳しいキャプテンだが、今、ネクタイをゆるめ、ワイシャツを着崩している涼介は、どこか子供っぽくも見える。
***
結局、秀一が注文したアイスティーの代金も涼介が払ってテーブル席に着いた。
「どうして僕なんかを誘ってくださったんですか?」
と一口飲んだアイスティーをコースターの上に置いて、秀一が聞く。
「たまたまだ」
と涼介はコーラを一口飲んでから答えたが、自分も中学時代に初心者から剣道を始めた涼介は、秀一がそろそろ自信を失いはじめる頃だろうと分かっている。去る者は追わない主義だが、この変わり者の少年だけは何となく辞めさせたくなかった。
「理由を付けるとすれば」
と言ったのは、秀一に自信を持たせるためだ。
「今日の追い込み稽古、1年で最後までやり通したのはお前と赤石だけだっただろ。その祝いだ」
「やり通したと言っても、僕はただ最後までやっただけで……。速さも正確さも全然ダメでしたし……。赤石さんとは大違いでした」
「当たり前だ。赤石に勝てるのは2年でも俺と陽平だけだよ。今のお前は稽古をやり通しただけでも自信を持っていい」
「そうですか。でも……」
「でも、じゃねぇ。初心者のうちから他人と比べるな。以前の自分よりできるようになったことに自信を持て」
「は、はい!」
言い方は乱暴だが、言っている内容は優しい。秀一は涼介に年上の友達のような親しみを覚えはじめた。自分に向けられた好意も感じている。
***
「ところで」
と涼介がテーブルの下で長い足を組みながら聞く。
「お前はなんで、赤石にまで『さん』をつけるんだ。同じ1年だろ? そういえば、他の1年もさん付けで呼んで、敬語で話してるよな」
ああ、それは……と秀一が説明する。
「年齢や立場に関係なく、誰にでも敬語で話すようにしつけられてるんです」
「しつけ? お前、良家の坊ちゃんか」
「良家というほどじゃないですけど……。信州の真田家ってご存じですか?」
「真田幸村のか?」
「はい、そうです。うちはその信州・真田家の末裔なんです」
そう誇らしげに話す秀一を見て、涼介は「へぇ」と言ったきり、少し黙った。頬杖をつきながらストローをくわえ、何かを考えている。それから唐突に言った。
「お前にその苗字はもったいない」
「は?」
「田中に改名しろ」
「そんな、できるわけないじゃないですか!」
「真田とか速水とか伊集院とかいう苗字は、漫画でも主役かそのライバルがつけてる名前だ。ダサメガネのお前にはもったいない。それに、お前は何となく田中っぽい」
「どういう理窟ですか! 全国の田中さんに失礼でしょ! ……ダサメガネなのは認めますけど」
「うるせぇ。俺は明日から田中と呼ぶからな」
「そんなの認めませんからね」
伊吹先輩ってこんなに子供っぽい人だったのか、と秀一は呆れた。
しかし、その場限りの冗談だとも思っていたのだが……。
***
翌日、秀一が部活に顔を出すと、
「おっす、田中」
「田中くん、こんにちは」
「田中、今日も頑張れよ」
涼介だけでなく、ほとんどの部員が田中と呼ぶようになっていた。
(大人気ない。なんて大人気ない剣道部なんだ……)
しかし、これを機に、秀一が以前にも増して部員たちから愛される存在になったのも確かだった。それを画策した張本人である涼介が秀一の肩をポンと叩いて言う。
「良かったな、田中」
「真田です!」
秀一のツッコミ属性が開花したのもこの頃である。
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