唖の鶏

射矢らた

第1話

 冬。朝早くから起き出し、文机の前に胡坐あぐらをかいて腕組みしていた。組んだ脚の上には、三毛猫のばななが丸くなって陣取っている。二年前に幡ヶ谷の駅前でひろって以来養っている猫で、名前を吉本ばななか俵万智か迷った挙句、ばななを頂いた。さて、小説家である僕が、さいぜんから何を唸っているのかと言うと、今月も家賃(共益費込)を捻出できそうにないのである。1DK四万三千円。今月で、三ヶ月の滞納だ。三度目の何とやらという言葉があるから、そろそろ退去を命ぜられるかも知れぬ。それにしても、三ヶ月分というと、十二万九千円。そんな巨費をこの僕が払えるとでも思っているのだろうか大家は。なあ、ばなな。ばななの背中を撫でると、面倒くさそうに頭をもたげる。この猫は病気なのか、左目がいつも目やにで覆われていて、この上なく鬱陶しそうなのだ。猫に相談しても答えはない。外は、昨晩から断続的に雨が降り続いている。このところ雨の日が多い。冬の雨はいかにも寒々しくて好きでない。そうして、僕がいつのまにやら思考を停止し、ただぼんやりと窓を睨んでいたら、不意に、ヤノシンさん、と背後から声を掛けられた。僕がぎくりとして振り向くと、僕をヤノシンと呼んだ彼が、さらに、

「決めました」

と言った。僕は急にバカらしくなって机に向き直った。

「何を」

「死ぬことにします」

 その言葉に僕はまた振り返らなくてはならなかった。うちには猫のほかにもう一匹、なんの相談もできない者がいる。将棋指しの古泉亮介こいずみりょうすけだ。彼は来年二月で二十五歳になる。

「そうか」

 そうか、と言って、ふっ、と噴き出してしまった。

嘲笑わらわないでよ。本気なんです」

 彼はいつも大まじめである。また僕の悩みのタネが増えたようだ。

「死ぬのはいいけど、ひとンで死体になって転がるのはやめてくれよ。始末が大変だ。それと、そんなこといちいち報告してくれなくったっていいのに」

「へえ。冷たいじゃないですか、ヤノシンさん」

 古泉は立て膝で近づいてきて、肩越しに僕の顔を覗き込んだ。息遣いに耳を澄ませる。

「別に、いつもこんな感じだろう。とりたてて優しくした覚えもないが」

 わざと、突き放してみる。いつもいつも、この男に翻弄されているわけにもゆかない。

「ヤノシンさん、これ」

 古泉は、となりに座り直してから、上目遣いで紙切れを差し出した。見ると、千円札の束。凝視したまま動かないでいると、古泉は札束を僕の腕に押し付けてきた。

「取ってください、早く」

「どうしたんだ、これ」

 言われるがまま、全部受け取って数えると、千円札ばかり十八枚。

「昨日、雀荘行って稼いできました。家賃に充てて下さい」

 肩のすぐ後ろにある古泉の、刺すような目を見た。彼の瞳はいつも潤んでいる。将棋指しは麻雀も強いのかも知れない。僕は将棋も麻雀もやらないから、よくわからないが。持ち金は三万六千円、小泉の金を足して五万四千円。払える。

「いいのか? これ全部?」

「取って下さい。僕はもう死ぬんですから」

 金に目が眩んで忘れていた。そんなこと、言っていたな。

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唖の鶏 射矢らた @iruya_rata

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