千手忍法帖(せんじゅにんぽうちょう)
躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)
忍法 幻燈蝶(にんぽう げんとうちょう)
「こっちよ、
まゆは幼い弟の手を引いて山道を駆けていた。遠くで村の者の声と銃声がする。
織田信長がこの伊賀の里に軍勢を率いて攻め込んで来たのだ。
火を吹く鉄砲の前に次々と倒れて行く手練れの者達の中に幾つも見知った顔をまゆはその瞳で捉えた。みんな死んでしまった。家も焼かれ、あちこちで兵による略奪と強姦が繰り広げられた。
(私達が何をしたと言うの……)
村の外の事など知らないまゆは刀を引っ掴み、ありったけの蓄えを布袋に入れて懐にしまうと、死んだ両親に手を合わせ、弟と家を出た。
山の中に隠れたが、山狩りはとうに始まっており、すぐに見つかってしまった。そして今こうして追われている。弟は怖いだろうに泣き言も言わず必死に付いて来る。手に小太刀を握って歯を食い縛って付いて来る。
……早く何処かに落ち着き、可愛い弟を胸に抱いて慰めてやりたかった。
兵の銃弾はなかなか彼女を捉えられず、しかも装填から発射まで時間がかかる。いつもの時間短縮の為に交互に撃つやり方では彼女の姿はたちまち伊賀の森に消えてしまう。やむを得ず、男達は走った。
一人が彼女の背に小柄を放ったが、後ろも振り返らず、彼女は弾き、掴み、打ち返した。銀光が放った男の喉に吸い込まれ、
「げうっ」
と一声発するとのけぞり、倒れて行った。
まゆは必死に逃げたが、ついに崖の先に追い詰められた。
男達は銃口を向け、下卑た笑いを浮かべた。
「女……脱げ」
まゆの眉間に怒りと屈辱のしわが深く刻まれた。
「けだものめ」
まゆの足元に銃弾が音を立てて食い込んだ。何処吹く風と言う顔で相手を睨みつける気丈な姉の腰に弟はすがり付いていた。一人が少年の美しさに気付き、舌なめずりすると言った。
「俺はガキの方だ。めんこいのう、わっぱ」
自分に向けられる獣の目に少年は震え上がった。
「ね、姉様……」
「……目を閉じて下がっていて、千手丸」
弟は一瞬ためらったが、二歩、三歩飛び退くと、手で両目を覆った。
「……?」
男達は怪訝そうな顔をする。まゆの唇から微かに声が漏れ、何かを短く唱えると、はっきりこう言った。
「『
その瞬間男達の視界をそれぞれ七色の羽をきらめかせた蝶が覆った。その羽の奥では、国に残して来た家族が得体の知れない者達に蹂躙され、殺されて行くのがありありと浮かんでいた。皆こちらに助けを求めて手を伸ばしながら返り血を浴びた者達に凶笑を向けられ、殺されていった。
苦悶の声を一人が漏らした途端、その男の視界から脳髄が焼き切られ、頭が破裂した。他の者達も次々に血味噌をぶちまけ倒れて行く。
血の霧の中で弟と抱き合い、再び手を引いて逃げようとした彼女が一発の銃声の響きと共にのけぞった。
「あ……」
それを一人の黒衣の男が見下ろしていた。あっ、と思った瞬間には娘が撃たれ、地に伏していた。
そして少年の顔を見た男の目が見開かれる。
「るい……」
黒衣の男は眉間にしわを寄せ、太刀を掴んだまま飛び降りた。
どう、地に伏した彼女に弟が飛びつき、揺さぶった。
「姉様、姉様ぁ!」
何時の間にか地に伏している男達の仲間数人に追い付かれていたのだ。少年は姉にすがり付いたまま、男達を睨み付けた。そして言った。
「許さぬ……許さぬ!
封印を、禁忌を……今、解く……!
『
少年の目を見ていた一人が頭の奥に妙な感じを覚えると、視点が切り替わった。かなり低い位置から男達を見上げている。傍には自分の撃った女が地に伏している。
そして今、抜刀し、男達に斬りかかっているのは自分ではないか。男は混乱した。
一瞬にして間合いを詰めて来た仲間の動きを認めた刹那、一人が銀光に喉笛を切り裂かれ、ぶは、と血を吹いて崩折れた。
……斬りかかっている自分の仲間の男から、意識を失うその時に彼はこう聞いた。
「よくも姉様を」
鉄砲に胸を撃ち抜かれ、また一人。即座に銃口を握り横薙ぎに振り抜く。銃把の直撃を受けて一人が顔面を砕かれ、悶死した。数秒でその場に立っているのは仲間を惨殺した男一人になったが、彼は自分の喉笛に刀をざく、と突き立てると仰向けにのけぞり、倒れていった……。
どういう事だ? 今、自分の目の前で起きた光景は一体……。
転がっている屍骸を見渡し、それでも尚、何時でも抜刀できる様に気配を伺いながら、黒衣の男は少年の傍に立つと、今度は首をかしげた。
少年はそれまで白痴の様に男達が殺される様を見ていたが、今は再び姉を揺さぶっている。
「死んでは嫌だよう! 姉様、姉様……!!」
疑問は残ったが、それはひとまず後で考える事にし、男は呼びかけた。
「小僧、姉上はもう助からぬ。……姉上の敵を討ちたくはないか」
少年は振り返ると、小太刀を構えて言った。
「おじさんは誰?」
「少なくとも姉上を殺した奴らの仲間ではない。嘘ではないぞ。それに時間もない。
生き延びたくば俺と一緒に来い」
「う、うう……」
少年は姉の背に手を置いたまま苦悩した。
「ここもいずれ奴らに知れて囲まれる。実力で姉上の足元にも及ばぬ奴らも多いはずだ。そいつらに鉄砲で撃ち殺されるぞ?
……悔しくはないのか?」
「……悔しいよ……」
千手丸と姉に呼ばれた少年の瞳から涙がこぼれた。
「ならば俺と来い。天に誓って悪い様にはせん」
「……分かった」
少年は一度だけ姉の背中にすがり付くと
「さよなら、姉様」
と呟き、小太刀を鞘に収め、立ち上がった。
彼を小脇に抱えると、男が己の掌から銀の糸を彼方に見える太い枝の樹に絡み付かせ、地を蹴って飛んだ。音もなく枝の上に着地すると間髪いれず枝から枝へ黒い影は飛んで行く。
遥かに消えて行く姉の姿を抱きかかえられたまま千手丸は見守っていた。
男が常人には聞こえぬ特別な話法で少年に話しかけた。
「俺は
「千手丸。
……
「千手丸か。
……何故かな、お前とは長い付き合いになりそうだ」
それには答えず千手丸は彼の腕にしがみついて嗚咽し始めた。
「……ね……姉様……」
「……涙を流しても構わん。姉上の事を思い出すのも止めはせん。
だが今は声を出すなよ、千手丸。仲間の所まではそうかからんからそれまで辛抱してくれ」
彼は声を押し殺し、こっくりと頷いた。
「いい子だ」
少しも速度を緩めずに飛びながら、沙衛門の手が千手丸の頭を優しく撫でた。
夜。
あの場所から遠く離れた森の樹の下でひとつの火が燃えていた。焚き火だ。煙は樹の葉を幾つも通る内に拡散され見えなくなる。そこにいるのは一組の男女。
男の方は野太刀を自分の肩に立て掛け時々枝を火に放り込んでいるが、その着物の柄が甚だ悪趣味であった。
赤い格子窓の奥で逆さまに吊るされた花魁が髪を振り乱し、涙を流しているのだ。そしてそれは、彼のさっぱりとした爽やかな中にも色気を放つ容貌と相反して、奇妙な妖気を漂わせていた。
女の方は年の頃は十六、七くらいに見えるが、髪を布で覆う様に縛って海賊の船員の様にしている。気の強そうな、筆で引いたかのような眉が美しい容貌を引き立てている。
肌の色は健康的に日焼けし、着物の胸を押し上げる豊かなふくらみ、締まった腰から尻、太ももまでの女らしい線を描いた身体が野生美の様なものを漂わせていた。
彼女をちらちらと見ながら、男の方が口を開いた。
「沙衛門さん、帰って来ねえな」
どうやら黒衣の男の仲間の様だ。娘も口を開く。
「本当ね。どうしたのかしら」
「鉄砲で撃たれちまったんでなければいいけどな。やけに織田の奴らがバカスカ撃ってたから心配だよ」
「妙な事言わないでよ、
「あ、すまねえ。でもここしばらくの腑抜けっぷりを見てるとなあ、なんぼかマシになったとは言え、時々
『もう駄目じゃねえか』
って気にもなるぜ」
「うん……」
女が顔を曇らせるのを見て、名留羅と呼ばれた男が口を自分の掌で塞いだ。焚き火を覗きながら彼女は呟いた。
「……るい姉さんが死んでからしばらく経つけど、そろそろ元気になってもらわないと……」
沙衛門のかつての従者であった女の名を聞いて、名留羅も火を眺めながら
「ああ……」
と答えた。
彼らは言うなれば『何でも屋』だ。織田信長が各地を荒らし、支配し、屍山血河を築いているこの時代を生き延びるには戦争に絡んだ方が上手く渡って行ける、と言い出し、実践していた
雨代が何故、沙衛門に仕えようとしたのか、疑問に思った名留羅が聞いた。すると
「だってるい姉さんが里を捨ててまで信じて仕えた人だもの。それにどう言う人なのか自分の目で確かめたい」
という返事が帰って来た。里では彼女と小さい頃よく遊んだとの事であった。
彼女はそれから沙衛門に勝手に付いて回っている。彼の身の回りの世話をし、るいの代わりになれる様にと気を回して、そして彼の心を慰めるべく優しく接している。
そしてそんな彼女に名留羅が想いを寄せているのであった。
彼のアプローチは激しかった。雨代も彼の事は別に嫌いではない。知り合いになり、共に動く様になってから彼の人となりも、多少なりとも分かって来た。
しかし、自分は沙衛門の従者だ。彼がそれを知ったらどう思うか気になり、ある日彼に訊ねてみると
「お前の好きな様にするがいい。俺はお前が笑っているのを見るとるいを亡くした辛さを忘れられる。
俺にはそれだけあれば……もう……何も要らぬ……」
という答えが返って来た。彼はるいを亡くしてからしばらくの間絶望のどん底にあり、自分と名留羅がいなかったらとうに死んでいたが最近やっと回復しつつあった。
その時に聞いた言葉だ。
(彼にとりついたどうしようもない寂しさは結局は抜けないのかもしれない)
雨代はそう思っていた。
それ以来名留羅の求愛にはっきりと応えられないままだ。そんな宙ぶらりんの関係ではあったが、名留羅は嫌な顔ひとつせず、自分と沙衛門に
「三人だから片付けられる仕事もある。食い扶持が減ったりするのはかなわねえし、それに知ってる顔がこれ以上減るのは一寸辛いからな」
と苦笑しながら良くしてくれているのであった。
闇の中の気配に名留羅は野太刀の鞘を握り、横倒しにした。雨代が自分の脇に置いた薙刀に手を置くとふくろうの声がした。名留羅が同じ様に応える。焚き火の明かりに照らされて歩いて来たのは子供を抱えた沙衛門だった。
「遅くなった」
そういう彼の抱えた子供を見て二人は目を丸くした。
「どうしたんだそのガキ。隠し子?」
と名留羅が訊ねた。沙衛門は苦笑して千手丸を降ろすと火にあたらせた。
「包囲網の真ん中で殺されかけていた。一緒にいた姉が身を挺してかばったのを見て、連れて来たのさ」
二人は沙衛門の表情に何か吹っ切れたものを見た。雨代はそれは後回しにする事にし、子供に声をかけた。
「お姉様はどうしたの? 坊や」
「死んじゃった。それとお姉ちゃん、俺は『坊や』じゃなくて十手千手丸と言うんだ」
「十手千手丸ね。覚えたよ。私は雨代」
「覚える。あまよ、だね」
「うん。ありがと、千手丸……」
膝を抱えて火の中を見つめている子供を見て、雨代は不憫になり、
「可哀想に」
と抱き寄せた。照れくさそうにうつむいて、それでも彼女の腕に逆らうような事はしない千手丸を見て名留羅が声をかけた。
「雨代はなかなかそういう風にはさせてくれないから、甘えられる時には甘えておきな、千手丸」
自分を哀れみの混じった目で見下ろす雨代の胸に抱かれながら千手丸はきらきらとした目を向けた。
「お兄ちゃんは?」
「俺か? 名留羅真夜ってんだ。『名留羅』でいいぜ」
「なるら、か」
……ややあって、火の中を見つめている沙衛門に千手丸が声をかけた。
「沙衛門のおじさん」
「何だ? 千手丸」
「俺……強くなりたいよ。姉様を殺した奴らを皆殺しにしてやりたい……」
「千手丸……」
雨代が千手丸の悲壮な決意に心を痛め、絞り出すような声を上げた。
「……千手丸、敵を討つとして、そのやり方はひとつではない。それは分かるな?」
「……うん」
「そして奴らに攻め入るのは大変難しい。お前もまだ色々身に付けなければならぬ。分かるな?」
「……うん。でも」
「まあ、おじさんの話を聞いてくれ。お前は知らないかもしれないが、織田の軍勢は天下をほぼ取りつつある。つまり簡単に討てる奴は他の武将の中にも恐らくそういないという事だ。
お前が力をつけてからでも遅くはないと俺は思うのよ。焦って失敗しては姉上の敵は討てないぞ?
……違うかな?」
沙衛門は千手丸を優しく見つめた。
それを見ていた千手丸の瞳から不意に涙がこぼれた。
「……でも……悔しいよ……。な、何もしていないのに、姉様……ひっ、死んじゃったよ……」
うつむいて千手丸がしゃくりあげ始める。優しく雨代がその頭を抱き寄せ、頬擦りした。
「さ、沙衛門さんの話は、ひっ……わ、分かる。言う事も、えふっ……き、聞くよ……」
喉がつまり、声が出なくなった千手丸は、雨代に背中をさすられ、震えていたがしばらくして言った。
「……でも、いつか……必ず俺……っ、ひっ、奴らを……殺しに行く。絶対にだ。
……だから、剣術とか……忍法とか……教えて下さい。一生懸命覚えるよ……」
名留羅が不憫そうな目を向けていたが、千手丸に近寄ると肩を叩いて無理に微笑して言った。
「水臭いぞ、千手丸。大丈夫、教えてやるよ。俺みたいな奴ので良ければな。
それに今決めた、行く時は一緒に行ってやるよ。見捨てたりなんかするもんか。
……だから元気出せ」
「に、兄ちゃん……」
「お前が元気じゃないと俺もつまらないよ。それに雨代が悲しむぞ?
なあ、雨代」
「そうね、私も……悲しいな。だから千手丸。一緒に頑張ろう?
ね? 強くなろうよ」
そう言って千手丸を胸にしっかりと抱き寄せている雨代は何時の間にかすすり泣いていた。
「姉ちゃん……」
声を上げて泣き出す彼を雨代は更に強く抱きしめた。沙衛門はそれを眩しそうに見つめていたが、千手丸に優しく言った。
「千手丸、お前は今から俺達の仲間だ。
何時も一緒だ、千手丸……」
それから千手丸は沙衛門達について仕事を手伝う様になった。暇な時にはひたすら剣術と忍法の修行に明け暮れた。
時には厳しく、時には優しく、この三人の男女は彼を鍛えて行った。
しかし、皮肉にもこの翌年、織田信長は本能寺の火の中に消えたのである……。
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