僕と俺 もう一人の自分
クレヨン
第1話 鏡の中の『俺』
1
平日の午前、眠気を誘う仕事、つまらない書類作り、僕はパソコンと向き合っている。
キーボードを叩きながら、時間をしきりに気にしていた。別に用事があるわけではない、しかし無機質なオフィスにどこか居心地が悪かった。
大学卒業をして幾つかの会社を面接して、今の会社に入ったのは何年前だったか。こんな僕に仕事をくれて、給料を払ってくれるとわかったあの頃は泣きたいくらいに嬉しかった。実際に涙が溢れた。
だけど今になり、どこか物足りないのを感じていた。慣れてきたからだろうか。何故なのか。
「吉村、ちょっとこい!」
声の主は課長だ。僕の上司になるのだが、あまり好きにはなれない人である。見下すというか上からの目線が、強烈なのだ。中年で髪は薄い。愚痴はキリがないからここまでにしよう。
僕が仕事をしている横の左側のデスクから、ため息が聞こえてきた。補足すると、僕の席はため息の主から見て上座にある。上座とは肩書きだ。課長が上座に居るとして、僕はその中間ぐらいに存在していた。僕の下座にいるのは、吉村さんと言う女性で年齢的には僕とあまりかわらない。なかなか清楚な顔立ちで、あどけなさと少しだけ短気な所がある。
「何か御用ですか」
少しハスキーな声で、尖った威圧感を僕は感じていた。嫌なヤツと言う険悪感が半端ないくらいに、僕の全身を襲っている。
「とにかく来い! 命令だ」
「命令ですか?」
僕は気づかれないように、ため息を吐く。仕事の手を少し止めていた。少し背筋を伸ばし、肩を回す仕草をしながら少し見渡す。僕をはじめ数人が、少し可笑しな雰囲気に苦笑気味だった。やっぱりみんな、関わりたくないんだ。もちろん僕もその一人だ。
「……指示だ」
課長が言葉を変化させる。声のトーンが低くなり、おもしろくないことが、パソコンと向き合って仕事に集中しているのフリ演じる僕の耳にも入ってきた。
吉村さんはデスクを立ち上がり、課長の席にいく。彼女が僕の背中を通るのがわかる。そして課長と話を始めた。
「この書類だが、よくこんなので私に通したな。全くなっていない。あの会社は気難しいことを、吉村さんアナタ知っているのか? やり直せ、こんなの部長に見せら……」
「お言葉ですがこれは、部長からの承認があります」
「へ?」
僕は二人のやりとりを耳だけで聞いていたが、目線も二人に動かした。それは僕だけでなく、みんながそうみたいだ。
「昨日、課長が有給休暇を取った時に、書類にあるその会社から、急ぎの要件がありました。その時に私はみんなの意見を聞きながら、書類を作成しました。本来は課長の御意見も必要ですが、不在でしたから直接に私が部長に見て頂きました」
吉村さんが威圧的に、課長に述べている。しかしこれは彼女が正論である。実は昨日、そんな電話が部署にあった。かなり急で少し強引な要望で、この会社じゃなかったら断っているぐらいに酷い内容だった。
それを対応したのが、吉村さんだ。みんなの意見を聞き、その書類を部長まで持って行った。凄い実行力と行動力に、僕は凄さを感じる。僕はできない。
「部長に指示を頂き、書類を作成しました。本来なら、課長を通さず直ぐに承認を頂きたかった。何故なら急ぎでしたから。でも『通すだけの時間はあるから』と部長のお言葉があり書類を課長の席に置きました。もし駄目なら、課長はこの一件に関してはスルーします。私が直接に部長に持っていきます」
そう言いながら、片手を出した。課長はオドオドしている。何故なら今の部長と課長は、水と油である。本当に反りが合わないことが、下っ端の僕でさえわかるからだ。
「わかった、そんな話なら仕方ない。しかしそれなら、どうして……」
「部長からお聞きだと、私は思ってました」
吉村さんがそう言うと、軽く一礼をしてデスクに戻り始めた。それを見た僕は、まずい! そんな感じでパソコンに視線を戻した。画面は黒くなっていて、スクリーンセーバーになっている。それを解除すると、何事もなかったかのようにパソコンと向き合い始めた。
吉村さんがデスクに戻った時、少しだけチラッと僕を見ていた。僕はそれを察知するが無視をする。今は仕事だから、彼女には視線を向けないでいた。そう言うことにしておいた。
再び無機質な時間が、流れ始める。まるで空気が、激しさを拒むようだった。
2
夜、僕はアパートに帰ってきた。かなり寒いけど、ホッとする。仕事から解放された実感が湧いてくる。今日も半分残業だった。意味は残業時間の半分だけを、残業時間として手当をもらい残り半分は自分の未熟さ故の理由となり、サービス残業にされてしまう。
はっきり言えば、労働基準違反だ。しかし訴えることを僕はしない。いや、僕もしない。なんだか暗黙の決まりがあり、僕はそれに従っていた。
アパートに着くとまず手にあるビニール袋から、お惣菜を取り出した。平日はこれが僕のオカズになる。休みの時は、少しは自炊をする。そして掃除洗濯も、休みに一気にする。一人暮らしで身に付いた習慣だ。慣れた……と思う。
お惣菜は小魚の唐揚げ甘酢餡かけ、マカロニサラダ、それだけだ。いらないけどレシートもある。二つの合計額は、ワンコイン以下で自販機からお茶も買えた。良心的な安さで、ボリュームもある。そしてなかなか美味しい。
夜遅くまで営業しているお惣菜屋で、よく僕もお世話になっている。通り道にあることも、僕が利用する理由でもある。背中の丸くなったおばちゃんが、笑顔で応対してくれる。愛嬌のある笑顔で、どこか温かみのある雰囲気に安らぎをくれたのは少し前のことだった。
ヨレヨレの背広をハンガーに吊し、シャツとスラックスを脱ぐと速攻でジャージ姿になる。部屋着でもあり、パジャマ替わりでもある。仕事のストレスをたっぷり纏った背広をからの解放されたい理由も、スピードの後押ししている。
小さなテーブルにおばちゃんのお惣菜を置き、冷蔵庫から沢庵の漬け物を取り出した。沢庵は母さんが漬けた自家製だ。母さんは実家から、定期的に僕の好物を送ってくる。実家は僕の住むアパートからは少し離れた場所にある。
実を言うと、ここしばらくは帰っていない。詳しく言えば帰れない。父に勘当されているからだ。何故そうなったのかは、僕が落ちこぼれだから。
僕の上には兄さん姉さんが居て、僕は一番下である。二人共良いところに就職し将来が約束されている。頭も良くて、学生時代は成績優秀者だった。
それに対して僕は悪い成績ではなかったが、そこそこだった。中位よりは上にはいたが、父はそれが気に入らなかった。自分が教師という立場からか、父のプライドが僕を認めてくれなかった。いつも差別されていた。
「言っておくが、これは区別だ。お前のためだ。悔しいなら、私を喜ばせてみろ」
これが口癖だった。くそ! 見る目を変えてやる! 躍起になったこともある。だけど父を喜ばすには突きつけられたハードルは高かった。僕は大学を卒業するまでは家に置いてもらい、就職したらさっさと家を出された。なんの励ましもなく、父は背中を向けていた。僕はそんな姿を勘当と受け取った。
その父も今は校長になったらしい。だけど僕には、関係ない。僕は僕だから、僕なりの人生を歩んでみせる。認めてくれるとは思えないけどやってやる。
僕は母さんの、沢庵一切れ食べる。浅く漬けてあるから、すごく食べやすいそして歯ごたえがいい。カリカリと顎(あご)に心地よい音がする。それが耳に伝わる。
母さんは僕の唯一の味方だった。兄さんも姉さんもどこか冷たく、父さんは問題外だ。しかし母さんは、僕に気をかけてくれた。世話の妬けると毎日思っていただろう。いつも何かにつけ、母さんに泣きついたからだ。一人暮らしになり、僕なりのに振り返る。だけど家の中で一番優しかった。それがなんだか、嬉しかった。
3
いつしか遅い晩ご飯を食べている。モクモクと味気ない食べ方だった。美味しいけど、どこか満たされない。理由は家族が居ないからだろう。これに気づいたのは、少し前のことになる。僕自身が……いや少し違う。しかし気づいた、気づかされた。
気づかされるとは?
僕は小魚の唐揚げを口の中に放り込むと、近くに置いてある手鏡を見た。鏡を見るほどお洒落ではないが、この鏡が僕に教えてくれた。だけど勘違いはしないでほしい、鏡が教えてくれたんじゃあない。
晩ご飯を食べ終わると、簡単に後片付けを済ませる。スマホの目覚ましアラームを設定し、軽くシャワーをする。休みなら近くの銭湯でゆっくりするけど、明日も早いからシャワーで済ます。
シャワーを浴び終わると、ジュースのようなチューウハイで喉を潤し鏡の前に座る。そして鏡を手にする。そこに写る冴えない顔は僕だ。しばらく見ている。するといきなり、目を瞑り少し俯き加減になった……しかし、これだけは言っておく。
僕は、目を瞑っていない!
瞬きはしていると思うけど、決して目を瞑っていない。そして俯いてもいない。姿勢は丸くしてるけど、俯いてはいないと言い切れる。
何故か?
それは鏡に写る僕は、『僕』じゃあない。そう、彼は『僕』とは違う存在なのだ。その違う存在が、視線を上げて目を開いた。どこか尖った感覚があり、どこか冷めた雰囲気があるが口を開いた。
「お疲れさん、どうだった?」
どこか優しく、どこかやるせない、そんな声を僕にかけてくれた。彼は僕とは違う。そう、僕じゃあない。
「おい、俺の声が聞こえているか?」
鏡の中の僕が、笑っている。そう、彼は『俺』という存在だ。物心がついた頃から、『俺』は僕に話しかけてきた。物心のついたのはいつだったかは思い出せない。ひょっとしたら僕が、生まれからずっと僕を見ているのかも知れない。
疲れた一日の最後は彼との会話をする。それが僕の日課だった。たまに人いない場所で、鏡のある場所ならよくお節介を妬くなんだか少し迷惑なところもある。
「ボーッとしてるだろ。お前はそんなんだからさ」
『俺』が笑っている。僕は少し腹立たしいけど、無言で聞いていた。彼は視野が僕とは違う。そしてその視野に、助けられたこともたくさんある。だから腹立たしいさを、打ち消していた。
「麻衣子ちゃん、凄いな」
俺はいきなり言った。麻衣子ちゃんなんて、おいおい! 僕は驚いた。麻衣子とは吉村さんのことで、今日会社で課長とやりあった彼女のである。
「お前はあの可愛いの好きだろ?」
『俺』が僕を冷やかす。僕は首を横に振った。確かに吉村さんはかなりモテると思う。けれど僕は、少し苦手意識がある。どこかピリピリとしていて、イライラとしているような感じがあるからだ。
「バカ、彼女は頑張っているんだ。負けたくない一心で、歯を食いしばっている。お前はそんな麻衣子ちゃんを、支えないといけないんだ。これは異性としての、好意や疾しさなんて小さいモノじゃあない。会社の同僚として、しっかり助けてやれよ」
僕は無言で聞いている。吉村さんは確かに頑張っている。だけど何故だか、僕を避けてもいた。
「お前がそんなだからだ! いや、違う。お前、も、そんなだからだ。厚かましく思われてもいい、少しだけでいい、手を差し伸べてやれ。疾しい意味でなく」
吉村さんは女性である。僕は男だ。同性ならできそうだけど、異性にはなかなかハードルが高い。わかっていながら難しいことを、『俺』は突きつける。
「まあ、麻衣子ちゃんにも問題はある。男を寄せつけないからな。おそらくは、想うのがいないんだろうな」
おいおい、想うなんて。彼女は結婚相手を探しに会社に来ている訳ではない。それをそんな言い方はないだろ! 僕は鏡に睨みつける。
「確かに、だけど麻衣子ちゃんを助けてやれ。お前が先に踏み込んで行け! 今日はここまでにしてやる。明日も頑張れよ! 何かあったら鏡を見ろ。俺がついている」
そう言い、『俺』は目を瞑り少し俯く。そして鏡には僕が写し出された。顔は同じでも今の鏡に写る僕の姿は、『俺』以上に冴えないでいた。
僕は鏡から視線を外すと、近くにあるスマホを手にした。ブログサイトを開くと、僕のホームページに入りフレンドのやり取りを始める。眠気が深くなるまで、スマホに釘付けになった。
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