第9話 ~人種依存的麺文化~ ⑨ 結果・考察
蘭子は黒板の図を書き直しながら話した。
蘭子も自信がなくなってきたのか、黒板の主張にクエスチョンマークが書き加えられている。
「自分もそう思います。蘭子の仮説が見当違いだとは思えません」
おもわず声を発した。しょげている蘭子を見ていたら、少し肩を持ってやりたくなった。
「そう、そこなんですよ。大事な所は」
院生は答えながら、蘭子の板書に書き加えた。
「こうも完全否定される仮説に思えない。でも実際に形成されたのはラーメン文化でも、パスタ文化でもなく、『そうめん文化』だった」
「う〜ん、な〜んかあとちょっとで出てきそうなんだよね。どっかでこんな話を聞いたような‥。院試の勉強のときだったかなぁ‥」
院生がポクポクチーンしていると、後ろから声が聞こえた。
「…バリュー」
教授が何か言っているらしい。
「何言ってるんですかー。黒ちゃんよく聞こえなーい」
恐れ多くも先生をちゃんづけで呼びつける院生。研究室に入ったら、みんなこんな距離感なのだろうか。
「位置的価値(ポジショナルバリュー)」
今度は自分達まで聞こえる声で言った。が、自分には何の事だがわからない、蘭子の方に振り向いたが、彼女も首を振って、分からないジェスチャーをした。
ポジショナルバリューって何だ?ファストフードのメニューの話だろうか。
教室のみんながこの後の教授の説明を待っているが、教授は一向に次の言葉を発しようとしない。
「あーっ。そうか。それならつじつまが合う!合うのか?」
院生が声を上げた。
「どういうことなんですか?」
自分は院生に質問した。
「詳しくは細胞生物学の教科書、『The Cell 第5版 第22章多細胞生物における発生 』にたしか書いてあるから、そっちを後で見てもらいたいんだけど」
「つまりは、ニワトリの太モモを翼に移植したらカギ爪ができるってことなんだ」
「?」よくわからん。
「書いて説明したほうが早いな」
そう言って院生は何やら、生物学らしき模式図を書き始めた。
「僕も専門じゃないから、詳しくは生物学の博士号も持っている黒ちゃんに聞いてほしいんだけど‥」
「本実験の誤りは、文化形成の運命を『決定された(determined)』か『決定されていない(not determined)』の2値で理解しようとした点なんだ」
「この概念が間違っているわけではないし、実験デザインによってはこれだけで説明できたかもしれない。ただ今回はそうはいかなかった。もう一つ不足していた概念があったんだ」
「それが『位置的価値(positional value)』の概念」
「教科書にも書いてあると思うんだけど『細胞は特定のタイプに分化するよう方向づけられるよりもはるか以前に位置による決定を受ける』という概念だ」
「ニワトリの肢と翼の発生で説明するね」
「左上の図が肢芽。将来、脚を作る組織」
「左下の図が翼芽。将来、翼を作る組織」
「この二つの芽は最初は外見も同じで分化もしていない。ただ移植すると、全然似ていないということがわかる。肢芽から将来太モモになる領域の組織片を取り出し、翼芽に移植すると、移植片は翼の先端でも、太モモでもなく、指になるんだ。指は肢芽から作られる器官だ」
「つまり、移植した組織片は肢になる運命は方向づけられていたが、肢の特定部分になるまでは方向づけられていなくて、変更可能だったんだ」
「もちろんこの概念はPlanet Biologyにも拡げることができる」
「麺分化に詳しそうな蘭子さんに2つ質問したいんだけど‥」
院生は蘭子の方を向いて質問した。
「‥なんでしょうか」
「ラーメンの伝播ルートってどこらへんが起源なのかな?」
「よく言われているのは中国北部です」
「じゃあ、そうめんは?」
「そうめんはラーメンとは違う地域で、よく言われているのは中国南部です…ってあっ!あー‥」
何かに気づいた蘭子は頭を抱えて、教壇にうなだれた。
「蘭子さんは何か気づいたみたいだね。多分、僕と一緒の答えに行き着いたのだと思うんだけど‥説明する気力はなさそうだね」
「今回、ラーメン文化への分化能のみを有していると思っていた中国人達は、実はそうめん文化への分化能も有していた。つまり、ある種のいくつかの麺文化を形成するようには決定づけられていたが、ラーメンなどの特定の麺文化を形成する段階まではまだ方向づけられていなくて、変化しうる段階だったのだろう」
「で、ここから先は仮説なんだけど、移植した先の「南部」という合図に応答して、ラーメンではなく、そうめんを作りだしたんじゃないかな。ホントかどうかはわからないけど、暑いとこだしラーメンよりそうめんのほうがオールシーズン流行りそうだよね。まぁ、ここらへんの考察は10班の好きにしてくれ。お世辞じゃなく楽しみにしてるよ」
院生は明るい調子で話した。蘭子と対照的だ。
「はい。わかりました。」
1日ぶりにただの屍に戻った蘭子の代わりに、自分が返事した。
しばらく復活しそうにないな。後でラーメンでもおごって、はげましてやろう。
「黒ちゃん、最後に何かあります?」
院生はそう言って、黒川教授の方を向いた。
さすがに蘭子も顔を上げた。
表情を変えずに黒川教授は3つ言葉を発した。
「キレイで分かりやすい概念は役に立つ。すごく広まる」
「だだその下には何があるかを私たちは日々忘れてはいけない」
「Planet Biologistだとしても、Planet Biologyだけを勉強していてはいけない」
黒川先生は口を閉じ、元の真一文字の顔に戻った。
「‥はい。忘れないようにします」
絞りかすになった蘭子からは、最後のプライドを守るような言葉が返ってきた。
そんなズタボロなかたちで、自分と蘭子の初めての惑星生物学実習は終わったのだった。
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