報われない、報われたい
恋愛:男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい
恋:特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。
そうか。僕のこの想いは辞書的に言うと、そもそも恋ではないのか。辞典を閉じて積み重なった文字の束を眺める。温かみのない文字はどれも、僕の感情を否定するばかりで、肯定してくれるものは一つもなかった。溜め息を吐いて重い腰を上げる。窓の外には星が輝いていて、実際に輝いているのは人工の明かりなのだけれど、それでも綺麗だと感じるものが僕を照らしている。こんな時間まで自分の感情を探していられるとは、思ってもみなかった。そのことに驚きつつ、一冊ずつを棚に戻していく。元居た場所へと帰っていく。それらが指を離れていくたびに、僕を否定する言葉が反芻する。僕は間違っているのだろうか。自転車に乗って、風を切って、自宅へと向かう。このまま、誰からも見えない存在になれたらいいのに。それなのに、僕はどうしてまたここ来てしまうんだろう。彼女と初めて会った、この場所に。自転車を止めて、ゆっくりと歩く。さっきまでの風が凪いで、生温さが全身に張り付く。ブランコに乗って、ただ前を向いていた。漕ぐこともせずに、座っているだけ。 あの日、彼女はこの公園で泣いていた。夜の中で彼女だけが、輝いていたのを覚えている。
誰かが泣いている。何故かはわからないけど、そう思った。今にして思えば、引き寄せられたのかもしれない。夜の公園を恐れることなく進んでいく。ベンチに倒れこんでいる人、よく見るとヒールを脱ぎ散らかしていて、鞄も無造作に置いてある。
「あの……大丈夫ですか?」
それは、極めて業務的な口調だったと思う。彼女を心配する気持ちがあったわけではなく、ただそう言わなければいけない気がして。僕が声を掛けると、その人は勢いよく振り返ってこちらを見た。涙で溢れた顔に、必死の形相。思わず後ずさりしてしまう。僕を見るその瞳が、とても美しかった。
「あ……ごめんなさい……」
「いえ……そんなところに居たら、汚れてしまいます」
「え?」
「それに、折角こんなに良い星空なのに、背を向けるなんて勿体無いですよ」
僕は地面に落ちているヒールと鞄を拾って、ベンチの上に置いた。その横に座って輝く星を眺める。織姫と彦星、間に流れる天の川。僕がぼーっとしていると、倒れこんでいた人も腕で涙を拭いてゆっくりとベンチに座りなおした。
空を見る彼女の横顔は、儚げで、凛々しくて。思わず見とれてしまった。涼しい風が通り抜け、我に返る。ハンカチを取り出して、彼女に手渡すと、ごめんなさいと静かに微笑んだ。
しばらく黙っていると、不意に彼女が口を開いた。
「……ねぇ」
「……はい」
僕は彼女の方を見ずに返事をする。
「どうして、私の隣に居られるの……」
「どうして、とは」
「だって……気持ち悪いでしょう」
「どこがですか?」
「どこがって……」
僕は彼女の方に向き直った。この人のどこに気持ち悪いという要素があるのだろうか。僕には、わからない。
「あなたは、綺麗です。少なくとも、僕にはそう見えます」
「……あなた、変わった子ね」
「……よく言われます」
あぁ、今思えば初めて会ったときから彼女に焦がれていたのかもしれない。
次に会ったのは、その何日か後。約束したわけでも、また会おうと連絡したわけでもない。でも彼女は偶然そこに居た。
「あ!!」
塾の帰りに公園を通ると、僕を呼び止める声がした。彼女はそこに立っていた。
「この前はごめんなさい」
「いえ、僕は別に……」
彼女はハルナさんといい、この間は、恋人に振られて自棄になっていたそうだ。あんなところを見られて、恥ずかしいわ僕に笑いかけた。
この日から、僕とハルナさんは、たまにここで会うようになった。今日のご飯、最近見た映画、そんな何気ない日々の話を。
約束があるわけでも、なんでもない。待ってるわけでも、待つわけでもない。お互いに、なんとなくそう思っていた。
彼女とは、色々な話をした。主に、彼女の話すことを僕が聞いているだけだけど。僕にはそれが、楽しくて、嬉しかった。
彼女とここで二人きり、それだけで十分だった。そのはずだったのに。
「しきー?しーきー」
「……」
「志希!!!!」
「うわ……なんだ、湊か」
「なんだじゃないでしょ!何回呼んだと思ってるの?」
「なにも叩かなくても……」
幼馴染の湊に叩かれた頭をさすりながら、抗議の目を向ける。
「あれ、もう昼?」
「そうよ!いつまでぼーっとしてるわけ?」
気がつくと授業も終わっていて、教室の人はまばらだ。
「あれ、なにこれ」
気がつくと、数学のノートが机の上に乗っていた。
「数学の課題!さっき出せって言われてたでしょ!」
なるほど、それでこの量か。机の中をあさって自分の分のノートを取り出す。
「はい」
「ありがと。じゃあ、持っていくから先にご飯食べてて」
そう言って、湊は大量のノートを抱えた。僕は立ち上がって、港の持ってるノートを半分奪い取った。
「ちょっと!?志希?」
「持ってくよ。ちょうど購買にお昼ご飯買いに行くところだし」
僕らは無事にノートを送り届けて、教室へ戻った。
「ふー、ありがとう。助かったよ」
「ん?いや、別にいいよ」
お弁当を開けながら、彼女の言葉に返事をする。
「ねぇ、それにしても最近上の空だけど、何かあった?」
「うーん……」
何もない、というと嘘になる。だけど、ハルナさんのことを話したくはない。だからと言って、このまま心配させ続けるのも。
しばらく悩んで、湊には今の気持ちを伝えることにした。
「実は……」
もしかすると、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。このもやもやした感情を。
「なるほどなるほど。最近知り合った人がいて?その人が街中で知らない人と歩いているのをみて?よくわからないけど、もやもやするって?」
「うん……」
「はぁー……」
湊は溜息を吐いて、お弁当を口に放り込んだ。そうして、ペットボトルの水を一気飲みし、勢いよく机に叩きつける。
僕は黙ってそれを見ていた。
「あのねぇ……それって、その人のことが好きってことじゃないの?」
「好き?そりゃあ、嫌いだったら話したりしないし……」
「そうじゃなくて!!恋よ!恋愛の好き!!」
目から鱗が出た。生まれてこの方、恋愛なんてものには縁が無かったし、興味も無かった。それがまさか、恋?
「まさか」
「私だって、志希からそんな話が聞ける日が来るなんて思わなかったわよ……本当に」
湊は少しだけ、イライラしているような表情を見せた。そう言えば、湊のそういう話も聞いたことがないな。
まぁ、でも、これはすこし進歩したのかもしれない。
そうか、僕がハルナさんに抱いている感情は、特別なものなのか。僕はなぜかそのとき、はやくハルナさんに会いたいと思った。
それから、数日後。いつも通り塾の帰り道に公園へ入ると、ハルナさんが居た。いつもと違って、寂しそうな顔で座っている。
「あ、しきくん」
「お疲れ様、ハルナさん……どうかしたの?」
「え?」
「いえ、いつもより、なんていうかその……悲しそうに見えたから」
「へ?」
ハルナさんは、間の抜けた声を出した。その声が可愛くて、思わず目を反らしてしまう。ハルナさんは声をあげて笑いだした。
「ふふ、志希くんって、意外と鋭いわよね」
「ハルナさんがわかりやすいって可能性も……」
「あら、そんなことないわよ?」
いつの間にか、僕らはお互い笑い合っていた。
「実はね、また振られちゃって」
「また?」
「そうなのよー!!もう、嫌になっちゃうわ」
「ハルナさんを振るなんて、そいつ見る目ないね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
「本当のことだから……」
自分で言っていて、顔が赤くなるのが分かった。前までなら、なんともなかったんだろうけど。湊との会話を思い出して、少し意識してしまう。
そうして、手で顔を隠していると、ハルナさんが僕の髪をわしゃわしゃと撫ではじめた。
「可愛いわねー!もう!!」
「ちょっ、ちょっと!」
思わず手を出してしまう。嬉しさと、気恥ずかしさと、そんな感情が混ざって追い付かない。
心臓がいつもよりも速く動く。こんな気持ちは、初めだ。
そういえば、ハルナさんはいつも振られると泣いていたな。初めて会った時も、何回も。
だから、泣いてないのが珍しくて、なんでだろうと気になった。
「あら、そんなに見つめてどうかした?」
「……今日は泣かないんだね」
「そうねぇ……私もびっくり」
「心境の変化、とか?」
「んー、なんだろ。君のおかげかな?」
「え?」
「意外と、君に助けられてるのよ、こう見えて」
その瞬間、ハルナさんが輝いて見えた。夜空の星よりも、なによりも。そんな笑顔で、そんなことを言われてしまったら。
自惚れますよ。その言葉が、喉元まで出かかった。それを言わなかったのは、ハルナさんにそんなつもりはないとわかっていたから。
わかってる、わかってるんだ。ハルナさんに、そんな気はないって。それは、近くで見てきた分だけ、僕も知っている。
肝心なところでは一歩引いて、近寄らせない。ハルナさんはそういう人だから。
いつまでも僕の頭の中では、湊の言葉とハルナさんの笑顔が渦巻いていた。
もし、これが恋だとするなら、僕はハルナさんとどうなりたいのだろうか。
彼女はきっと、僕のことをそういう風には見ないし、きっとこれからもない。
そもそも、彼女のことを少ししかしらないのに、好きだなんて、本当にいいのだろうか。
図書館で一人、白紙のノートにペンを転がす。何をしたらいいのかすらわからない。
「自分のことなのに、わからないなんて……」
ぼそりと一人で呟いた言葉は、誰に届くわけも無く、空気となって消えていった。
僕がハルナさんについて知っていることと言えば、ハルナさんという名前と、BARで働いてること。恋人はいない。可愛い人より、かっこいい人がタイプ。後は……。
当たり前だけど、知らないことの方が圧倒的に多くて。この気持ちはきっと、悔しいってことなんだろうな。
多くの文字が並んでいて、そこに自分の感情を探す。だけどどこにも、そんな正解は載っていなくて、見つけることなんてできなくて。
帰り道の公園は、いつもよりも寂しかった。
「しーきー」
「…………」
「しきー?」
「……」
「志希ってば!!」
「うわ……ちょっと、叩かなくても」
「叩かないと気づかないでしょ!」
「そんなこと……」
あるかもしれない。それにしても、今回は何のノートで叩かれたんだろう。
頭をさすりながら、そっと見てみた。
「ねぇ、またぼーっとしてる。どうしたの?」
「どうしたって言われても……」
「また、例の人とのこと?」
「……」
「何にも言わないってことは図星ってわけね」
流石に幼馴染、僕のことはよくわかっている。不機嫌そうな顔で、溜息を吐いて。でも、それでもいつも傍に居てくる、とてもありがたい存在。
「これはさ、伝えちゃいけない思いなんじゃないかって。伝えたところで、今の関係が崩れて気まずくなるだけなんじゃないかって。そう思って」
「え?」
「きっと、一生報われない。それなら、こんな気持ちいらなかった」
僕の言葉はただ空気中を漂っていて、湊に届いているような気がしなかった。自分で自分の心に言い訳して、それを正当化してるみたいで。
湊も流石に呆れたかな。
「私、志希のことが好きだよ」
「……」
「友達とか、幼馴染とかじゃなくて、恋愛の意味で」
「…………」
「私は、志希に恋してる」
「……辞書的にいうと、それは恋じゃないらしいよ」
「だから?それが何?」
「何って……」
「私が言いたいのは!そんなので自分の気持ちを消すなんて間違ってるってこと!!」
大きな声を上げて、まっすぐな目で、真剣な言葉を僕に告げる。
湊の言っていることは、本当のことで。だからこそ、僕を好きだっていうのも嘘じゃない。それはわかる。
「恋じゃないから何!?大事なのは自分の気持ちでしょ!!それに報われないって、どういう意味か、あんたの大好きな辞書でもう一回調べてみなさいよ!」
僕の机に辞書を叩きつける。僕はそれをパラパラとめくった。そうして、湊のいう通りに文字を探す。
報われない恋 報われない:苦労などが良い結果に結びつかないこと、努力したのにも関わらず期待するような成果が得られないこと。
「あんたは、努力したの?思いを伝えて、自分に向くように努力したの?何もしてないのに、最初から諦めてるだけじゃないの!?」
頭を思い切り叩かれたような衝撃が走った。努力はしただろうか。振り向いてもらえる努力をしようと思っただろうか。この気持ちに気づいたときから、最初から無理だと諦めて、投げだしたんじゃないだろうか。可能性がゼロなんて、誰が言ったんだろうか。僕が自分自身で決めつけていただけなんじゃないだろうか。
「私は、努力したわ。あなたに、振り向いてもらえるように!でも、駄目だった。だから、そんなので諦めるなんて許さない!」
「……うん。ありがとう、湊。ごめん」
ようやく、目が覚めた。いや、今初めてわかった。結局僕は、自分のことでいっぱいいっぱいだった。
知らないなら、これから知っていけばいい。近寄らせてもらえないなら、少しずつ歩み寄ろう。
彼女の傍に居られるように、ハルナさんの傍に居てもいいと思われるように。
いつもの公園、いつもの景色、見慣れたはずのこの場面。なのに、心は晴れやかできらきらと辺り一面輝いている。
そういえば、いつもハルナさんはこの公園に居て、僕がくると笑顔で迎えてくれた。
こうやって、ハルナさんが来るのを待つのは初めてかもしれない。少しだけ、わくわくした。
ハルナさんは、どんな顔でここへ来るのだろうか。
「あら、しきくん?」
不思議そうにこちらを眺めるハルナさん、そして小走りでこちらへ向かってくる。
「珍しいわね、こんなにはやくここにいるなんて」
「……ハルナさんに会いたくて、塾さぼっちゃった」
「へ?」
「ん?」
「ふふ、あなたがそんなこと言うなんて、思ってもみなかったわ」
この人のこの笑顔を、一番傍で見ていたい。そのためには、報われないと嘆く前に、報われる努力をしなくては。
「……ハルナさん」
「なぁに?」
「僕、ハルナさんのことが好きです」
突然の告白に、ハルナさんは驚いていた。目を開いて、言葉にならない声を出している。
真っ赤にした顔が
「えっと……その……」
「別に、今すぐどうこうとかじゃないんだ。ただ……意識してほしくて?」
「あ、あのね……」
「?」
「しきくんは、その……気づいてないかもしれないけど、私実は、男なの」
「……そんなの見ればわかるけど」
「はい?」
「それに、僕も女です。生物学的にいえば」
「……え、ちょっと待って」
ハルナさんは、僕に向けて右手を出した。いかにも、混乱しています、といった表情で。
ぶつぶつと、独り言のように呟いている。
「しきくんは私のことが好きで……女の子で……」
その様子に思わず吹き出して、声を出しながら笑ってしまった。
「ちょっと!笑うことないじゃない!」
「いやっ、だってさ……」
「もう……!!」
ひとしきり笑った後で、一呼吸置いて、ハルナさんは僕の方を向いた。
真剣な目で、あのときの湊と同じような。
ハルナさんの答えはわかってる。
「ごめんなさい、あなたの気持ちは嬉しいけど……」
「……」
「ほら、私こんなんでしょ?だから……ね」
そう言って、目線を遠くの星に合わせる。
夏の星座は、どんどん遠くへ向かっている。
あの日に見た、二つの星も。
「……僕は男とか女とか関係なくて、ハルナさんが好きなんです」
「……」
「ハルナさんが織姫になるなら、僕は彦星にだってなってみせる。そのくらいの覚悟です」
じっとハルナさんを見る。彼女は少しだけ、本当に少しだけ、泣きそうに見えた。
「もう、本当に……勝てないわね」
勢いよくベンチから立ち上がり、僕の前に立つ。
僕の髪を勢いよくぐしゃぐしゃにして、満足そうに笑みを浮かべている。
「ありがとう」
「え?」
「あんたの本気の告白。おかげで吹っ切れたわ」
「それは……良かった、のかな?」
「一歩前進よ。あんたも、私も」
きっと、ハルナさんも心のどこかで迷ってたんだと思う。
恋人に振られて、このままでいいのかって。
きっと恋っていうのは、報われるとか報われないとかじゃない。
誰かを好きになることに、意味がある。
今度ハルナさんに会ったときには、またこんな気持ちでいられるようにしたい。
そう思って、僕も公園を後にした。
次に会える日を楽しみにしながら。
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