伽の呼び声
碧夜
伽の呼声
いつからあの扉は見えなくなったのだろうか。
幼い頃はいつでもそこへ行けたのに。
ふとしたときに思い出しては、泡沫へと消えてしまう。
虹のように美しく存在するまやかし。
初めて扉と出会った日。皆が真っ黒の服に身を包んでいたのを覚えている。
頼子、よりちゃん。と母が自分を呼んでいる声が聞こえた。
声は聞こえているのに誰の姿もそこには無かった。
代わりにあったのは、大きな扉。
まるで映画のお城に出てくるように重厚で煌びやかな二枚扉だった。
開けてみたいと手を触れてみたが、本当に開けてもいいのかと迷っていた。
勝手にこんなところにきて、こんな場所へ入ったら怒られるかもしれないと、手を引っ込めて戻ろうとしたそのときに声が聞こえた。
優しく、包み込んでくれるような温かい声が。
入っておいで。と、そう誘われて私の手は誰かに引っ張られるかのように扉を押した。
扉の先にはまさに豪華絢爛という世界が広がっていた。色とりどりのドレスに、光り輝く宝石を身に着けた美しい人達がパーティをしていたのだ。
今まで見たこともない世界に魅せられ、私の心は舞い躍った。
しばらくそこに立っていると、後ろから声が聞こえてきた。扉の前で聞いたような優しい声。
振り返るとそこには金髪をふわふわとなびかせたこの中でもとりわけ美しい顔の少年がいた。
少年は私と目が合うと、笑顔を見せた。ようこそ、ただ一言そう言って、私の手を取って歩き始めた。
いつの間にか私の衣服も淡い桃色のドレスに変わっていて、少年も王子様のような服になっていた。
流されるままに、流れるままに、彼と共にパーティーを楽しんだ。一緒に笑いながら踊って、料理を食べて、時間を忘れてしまうほどに。
どれくらいそこに居たのかわからない。私が心底楽しい、と少年に告げると彼は哀しげな顔で良かった。と呟いた。
そして、もう一度私の手を取って、扉の前まで歩き出した。
扉の前で少年は、そろそろ帰らないと、と私に言った。もう少しだけここに居たい。それでも少年は首を横に振るだけだった。
少年はその扉を開けて、私を先へ行かせようと手を振った。
扉に向かって歩いて、扉の先へ足を踏み入れたとき、私は彼の名前も聞いていないことに気がついた。
急いで振り返り、あなたの名前はと、焦る声で問いかけたが、もうそこにはあの世界は広がっていなかった。
まるで幻だったかのように扉は消えた。楽しかった思い出は、心に残っているのに。
先程まで扉があった場所を見つめて、名前と呟く。
そうすると、どこからともなく、頭に直接響くような声が聞こえた。あの少年の声だ。
ごめんね、僕に名前は無いんだ。扉から出る前の哀しそうな顔が目に浮かんだ。
いつの間にか私は母に抱かれたまま、父を見送っていた。
あの扉と少年は一体なんだったのだろうか。そんなことを思って気を紛らわせる。
いつの間にか、外は真っ暗で土砂降りの雨変わっていた。
冷たい空気を浴びて凍えそうになるのを抑えて、母の手を強く握り締めた。
次に扉と出合ったのはいつだったか。初めのときからそんなに時間は経っていなかったと思う。
母が実家に戻るというので、行きなれていた学校を転校することになったときだっただろうか。
見知らぬ人と新たな関係を築いていかなければならない。それはやはり憂鬱なことで、私の心を薄暗いものに変えるのには十分な理由だった。
不安は尽きず、悪い想像ばかりが募る。明日が来なければいいのに。自分の殻に閉じこもるように私は目を瞑った。
目を瞑ったまま夢を待っていると、どこか不思議な感覚が襲ってくる。
身体が宙に浮いて、飛んでいくような、風に流されていくような、そんな感覚。
ふと目を開けると、そこにあったのは大きな扉だった。以前見たものとは違って、綿のようなもので出来ている。間からはところどころ青い光が漏れている。
黙ってそれを見ていると、頭の中で声が聞こえた。入っておいで。優しい声で。
手を伸ばして綿に触れると、私の手は綿を通り抜けてしまった。綿の扉の先で、誰かが私の手を掴む。
恐ろしいとか、嫌だとかいうことは全く無くて、暖かな温度が心地よかった。
そのまま引っ張られて、私は扉の向こう側へ。そこに広がっていたのは、青々とした世界。ここは空だろうか。だとしたら、さっきのは雲かもしれない。
手の先を見ると、あのときの少年が私を捉えていた。やっぱり、彼だったんだ。私と目を合わせて笑う彼の姿に安心した。
彼は多くを語らない。
私も何かを問いかけない。
会話らしい会話はなく、無言の時間が続いたりもする。けれど、そこに不快感はない。
彼と一緒に流れる空気は穏やかで、不安もどこかへ流れていってしまう。
雲の上を歩き、空を渡る。切れ間から映る地上は、遠く小さく、模型のようだ。
このまま二人でどこまでも行けそうに思えた。世界の果てまで、地球の終わりまで。
どんどんどんどん歩いていくと、切れ間から覗く地上が迫ってくる。
私は歩く足を止め、その場でうずくまった。彼は心配そうに、しかし私が何故止まったかは理解しているようで、同じ目線に座り声をかけてくれる。
帰りたくないと、薄っすら涙を浮かべ呟く。彼は私の頭を撫でて、大丈夫だよ、と囁いた。
ここに居れば、嫌なことも忘れられる。でも、ここに居たら見えないこともある。
顔を上げ、不思議そうに少年を見る私の手を彼はしっかりと握って、再び歩き出した。
彼の言った言葉が、何を意味してるのかはわからないし、それでもやっぱりここに居たいと思ってしまう。
ここでお別れだ。そう言って、彼は雲の真ん中で立ち止まった。うすることも出来ない。帰らなくてはならないのだ。
私は名残惜しくて、彼の手を握ったまま黙っていた。
彼はやっぱり、大丈夫、とそう言うのだった。
私は雲の中へと落ちて言った。帰ったら、空を見上げてごらん。落ちている最中に、優しい声が響いた。
目を覚ますと、私は布団の中で、居間からは美味しそうな香りが漂っていた。
眠い目を擦りながら起きていくと、祖父母が料理の仕度をしていた。座って待ってなさいと言われて、大人しくテーブルに座っている。
さっきまで夢を見ていたのだろうか。記憶は鮮明に焼きついている。
少年と別れる瞬間は今生の別れのように思えて、離せばもう二度と繋げないように感じて、悲しみでいっぱいだったのに。今はまた会えるから大丈夫という安心感が包んでいる。
しばらくすると母も起きてきて、皆で食卓を囲む。今日は新しい学校に通う日ということで、どこか浮き足立ってしまう。
前日にあった不安は、どこかへ行ってしまった。
母と一緒に家を出て、少年が言っていたことを思い出した。空を見上げてみると、大きな虹が私達の行く道に架かっている。
彼が言っていたのは、こういうことだったのだろうか。嫌なことは確かにないだろうけど、その分楽しいことや嬉しいことはも増えていかない。私は彼と居て楽しいと思うけれど、きっと彼は私の世界がそこで止まってしまうのを喜ばない。
この世界をもっと見て。君なら大丈夫。
そんな声が聞こえた気がした。
大丈夫、大丈夫。心の中で繰り返す。少年の顔を思い浮かべて、何度も何度も繰り返す。
いつかあの哀しそうな笑顔じゃなくて、本当の笑顔が見られるようになれるといいな。
頑張ろう、やってみよう。そんな心持で私は学校へと向かった。
母に手を引かれて、あの少年のことを思い浮かべながら。
その扉は至る所に現れて、至る所へ私を連れて行った。
あるときは動物が沢山いる自然の山だったり、あるときは深く青い海の底だったり。
二人で廃墟や塔を探検したこともあった。
でも、一番印象に残っているのは小高い丘とそこに建つ小さな木の家だった。
風にそよぐ草原と淡い色の花が美しくて、その中で寝転んでいる少年がまるで芸術作品のようだった。
私が黙ってそれを見ていると、彼は笑顔で私に手招きをしてくる。
私は彼の横に静かに座った。
彼は目を閉じて安らいでいる。穏やかな気分だった。
その日は初めて、彼が私に帰ることを促さなかった。
いつまでも、ここに居ていいのだと錯覚してしまいそうになる。
夜になると、そこは満点の星空が見えた。
辺りは暗く、外灯も無い。二人を照らすのは一つだけ。
外で寝転び夜空を見上げる。小さな光に吸い込まれる気がした。
天と地の境目はどこだろう。果てしなく続く地平線はいつまでも真っ直ぐに伸びていた。
乙女座のスピカにうしかい座のアークトゥルス。天の川のデネブに、秋の一つ星フォーマルハウト。その全てを焼き焦がすシリウス。
君はどの星が好き?
星空を指差して彼は問いかける。星や星座に関する神話はいくつもあって、そのどれもが神秘的で魅力的で、好きな話も星座ももちろんあった。
ただ、本物を目の前にしてみると、どれも同じくらいに綺麗で、どれか一つなんて選べなかった。
あなたは?
私は逆に問いかけた。
彼は静かに右手を上げて、ゆっくりと握ってみせる。そうして寂しそうに私を見て笑う。
僕は全部好きじゃないな。
どうして、という声は音にはならず。けれど、彼にはそれが伝わったようで、続けて話出す。
届かないものに手を伸ばしても、虚しくなるだけだから。
届かないもの。私もそうだろうか。届かないのなら、手を伸ばす意味なんてない。そう思っているのだろうか。
私達は無言のまま、空を眺め続けた。夜は明けずに、また夜が来る。何度も何度も繰り返して。
そこでは眠ろうとしても、眠れなかった。目を瞑ってみても、意識は依然はっきりしたまま。
少年に尋ねると、彼は表情を変えずに普通のことのように、それはそうだろうと答えた。
ある事象のなかで、同じ事象は起こらない。
私はどういうことかわからずに、聞き直した。
彼は大人になったらわかるよ。と言って苦笑いをする。
私はどうしても気になって彼の腕を揺さぶった。
彼はそうだな、と顔に手を当てて考える。
私はこのとき、どうしてそんなにもそれを知りたかったのだろうか。子供ながらの意地だろうか。
少年が知っていることを、私は知らない。たったそれだけのことで、置いていかれた気分になったのだろうか。
彼は私の頭を撫でて、卵の中にいる子は卵を生めないってことだよ。
私の頭は余計にこんがらがった。
彼は彼で、あれ、なんか違うかな。なんてとぼけた顔をしている。
納得はできなかったけど、まぁいいや。なんて思ってしまう。
君が気がつけば、眠ることだって出来るさ。
一生それに気がつかなければいいのに。彼の言葉からはそんな本音が一瞬だけ見えた。
きっと、それに気がついてしまったら、彼に会うことはなくなってしまう。
なら、私は気がつかないままでいい。眠らずにここに居たい。
彼の側に。彼と共に。
今はここで。二人で居よう。
いつか君が僕を忘れてしまうその日まで。
彼の作り上げた料理はとても美味しくて、特に玉子料理は絶品だった。
君に喜んでもらえてよかった。
彼は私が料理を食べる姿を笑顔で見ているだけだった。
家の中には多くのものが置いてあった。よくわからない木彫りの置物、鹿の剥製、古びた本、国名の無い地球儀。
興味が湧くものばかりで、私はわくわくしていた。
一緒に本を読んだり、地球儀を眺めたり、望遠鏡を覗いたり。
二人で毛布を被りながら、そんな穏やかな時間を過ごしていた。
いつまでも陽は昇らず、夜は明けず。輝く星々は姿を変えず。月は満ち足りたまま。
どうして。
不意に言葉が滑り落ちた。どうして、どうして。
私は間違っていたのかな。私が間違っていたのかな。
これ以上言葉を紡げば、きっと涙を流してしまう。それでも想いは溢れ出て、止まらなくて。私は両手で顔を覆った。
彼は優しく私を抱きしめた。頭をそっと撫でながら、大丈夫、大丈夫と囁いてくれる。
大丈夫。君が懸命に、誰かを想ってやったことが間違いだなんてあるはずがない。人を思い遣れる君を間違ってる、なんて言う権利は、この世界の誰にもない。だから大丈夫。君のしたことは批難されるものじゃない。もし世界の誰かが石を投げるなら、僕が守ってみせるから。
だから安心していいんだよ。彼は笑顔でもう一度私の頭を撫でた。
彼はいつだって、私が気がつかない私の望む言葉をくれる。優しさをくれる。
彼の言葉は、私の閉じた心に入り込んで温めてくれる。消えかけた炎を消えないように守ってくれる。
彼のことは素直に信じられた。嘘でも気休めでもない。彼は本当にそう言ってくれている。
だからだろうか。彼の側にいるのがこんなにも落ち着くのは。彼といると安心するのは。
私達は二人で寝転んで、夜空を見上げた。
あれは白鳥座、天の川、ベテルギウス、北極星。
二人で指を差しながら名前を言っていく。星の名前、星座の名前。
やっぱりこんなに綺麗なもの達の一番なんて決められない。
本当は皆、いつだって光輝いているのにね。
でも、私はあなたが知っていてくれるなら、それでいい。
彼はいつもみたいな哀しげな寂しそうな、泣き出しそうな笑顔じゃなくて、心の底から嬉しそうな顔で微笑んだ。
次第に月は下がっていき、全天を焦がすような光が全てを包み込んでいく。
さぁ、帰ろうか。
淡い橙の陽が深い青と混ざり合って、その境目が見えなくなるころ、彼はそう言った。
いつも帰りたくないと駄々をこねていたけれど、今日は素直にそれを聞き入れられた。
彼の手を取り、後を着いて歩いていく。
それじゃあね。
手を振る彼を置いて、私は扉の外へと戻った。
入ったとき、この扉の周りは宇宙の中のように真っ暗で、点々と光るものがあった。
今はとても青い。
ありがとう。私はそう呟いて、歩きだした。
そういえば、結局彼の名前はわからないままだったな。
たまに夢を見る。幼少期の頃の夢。不思議の扉をくぐって、少年に出会う夢。
今では、あれが本当に在った事なのか、幼い自分が見た夢なのかもわからない。
今はもう、あの扉の元へ行くことすらできない。それは私が大人になってしまったからだろうか。
もうあの扉の向こうへ行く必要は無い。
そんなことをしなくても、自分の力で乗り越えられるようになったから。
それでもたまに、思い出す。
彼の笑顔を、彼の言葉を。
そうして、もう一度会いたいと思ってしまう。
彼は元気にしているだろうか。
でも今の私が彼に会ったら、きっと彼は心配そうな顔をするのだろう。それは容易に想像が出来る。
だから今は、一人で頑張ろう。彼が心配しなくても済むように。
大丈夫、大丈夫。
私にはもうあの扉は見えなくなってしまったけれど、彼はいつも私のことを守ってくれているから。
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