第2話 魔王さまの出立
玉座の間を出てすぐ、ストラの元にメガネを掛けたメイドがパタパタと駆け寄ってきた。
立ち聞きしていたのか、眼には涙を溜めている。
「ぼ、坊ちゃまー! い、今のお話は本当なのですか!?」
「ああ、しばらくはここを離れ、勉学に集中する事になった」
あまりのショックに、メイドはくらりとその場にしゃがみ込んでしまう。
「うう、そんな……。訓練校に入ったら、私がお側に居られないじゃないですかぁーーー!!」
めそめそと泣くメイドの名は、アマルスィ。
サキュバスとミノタウロスの混血児であり、血を吸う為のキバと、牛のような豊満な乳が特徴的だ。
「蔵書を読み漁るのは、もう卒業だ。見聞を広めるには、丁度良い機会だろう」
「そういう問題ではないのです! ああ、きっと悪い虫が山ほど寄ってくるに違いないわ!」
アマルスィは、顔を青くして身を震わせる。凶器に近いそれが、ぶるるんと激しく揺れた。
「こんなに魅力的な坊ちゃまを、誰が放っておくというのでしょうか? いいえ、きっと初日から争奪戦が始まるに違いないわ! ああ、何てこと! 坊ちゃまの初めては、このアマルスィが奪うと決めていたのにぃーーー!」
「いきなり危険な発言をするな、この馬鹿者」
ストラは、思わずチョップを喰らわす。
叩かれたアマルスィは、何故か嬉しそうだ。
アマルスィは元々最前線の軍団長を勤めていたが、生まれて間もないストラに一目惚れし、以来専属メイドとして常に側に居る。
この城の中でブルートの笑い声に耐えられるのは、ストラとアマルスィぐらいだろう。
「ハッ、そうだわ! 私も参謀訓練校に入れば……!」
「アマルスィ、三桁のかけ算と割り算は出来るようになったか?」
ストラは、サド気の強い笑みを浮かべながら質問した。
「え? ア、アハハ……」
アマルスィはいきなり抱きつき、ストラの顔に胸をギューッと押し付ける。
「そんな事知りません! 私は、坊ちゃまの事で頭がいっぱいなのですから!」
ストラの口は、その凶悪な凶器によって封じられてしまった。
◇----------------◇
それから四日後、生まれ育った城を離れる日がやって来た。
母親は百人以上居るが、父親と実母にだけ短い別れを告げ、アマルスィと共に馬車に乗り込む。
胸の内に宿るのは、故郷を離れる寂しさでも、訓練校に対する不安でもなかった。
自分の知識を試せるという、静かな高揚感だった。
丸三日という長い馬車旅を終え、ストラとアマルスィは、とある辺境地に降り立つ。
そこは深林の中にポッカリと丸い穴が空いたような場所であり、辺りには魔族の集落も、野生のモンスターも居るような気配が無かった。
「随分と遠くまで来たのだな。これでは人間たちの領地に近いのではないか?」
ストラは周囲をぐるりと見渡してから、そう口にした。
「仰るとおりです。ここは、誰も支配していない緩衝地帯(対立する国の間に挟まれた場所)の一つ。俗に言う『空っぽの黄身(デゼルト・トゥオルロ)』部分です」
アマルスィは、得意の軍事知識を嬉しそうに喋った。
計算は全くダメだが、実戦を通して学んだことは絶対に忘れないという。
ストラたちが居る大陸は『卵殻大陸(ウォーヴォ・コンティネンテ)』と呼ばれるように、千年間毎日オムレツが食べられる程、巨大な卵の形をしている。
今も人間と魔族は『白身の部分』を日々奪い合っているが、軍事的に利用価値が無く、ましてや住むにも適していない、人間にも魔族にも見捨てられた場所の事を、卵になぞらえて『空っぽの黄身』と呼ぶようになっていた。
「なるほど。わざわざここに来たという事は……」
「はい。お察しの通り、参謀訓練校は境界線の近くに建っています。人間を勉強するならば、やはり人間を観察した方が早い、という事ですね」
「ふむ、合理的だな」
「ここからまた別の馬車に乗って頂くのですが、出発時間は……」
アマルスィは、掌よりも大きい懐中時計を取り出す。
一年前に、「カチカチうるせぇからやる」と言われてブルートから貰った物だ。
「時刻は、十時ぐらいですね。十二時――陽が昇りきるまでは、あの森を抜けた所で待っているそうです」
「それ以上待つのは危険……という事か」
見捨てられた場所とはいえ、ここは境界線近くだ。敵が長く留まっていれば、当然人間は警戒するだろう。
「ふむ、少し急ぐか。それでは行ってくる。留守は任せたぞ」
短い別れを告げ、ストラは荷物を受け取る――事が、出来なかった。
アマルスィは、拗ねた顔でカバンを胸の中に埋め、渡そうとしない。
「坊ちゃま、アッサリとしすぎです。このアマルスィとのお別れが、寂しくないのですか?」
「むっ、それはすまない。生まれたときから世話になっているというのに、申し訳ない事をした。そうだな、ささやかではあるが、アマルスィの為に千の言葉を紡ごう」
「ああ……何て嬉しいお言葉なのでしょうか!」
アマルスィは感激のあまり、カバンを更に強く抱きしめる。
シワ一つ無かった革製のそれが、胸の中でもみくちゃにされていた。
「ですが、それでは馬車の時間に間に合わなくなってしまいます」
「ふむ、それもそうだな。やはり急ごう。留守は任せたぞ」
ストラはカバンに手を伸ばす。しかし、アマルスィは不満顔でそれをかわした。
「……坊ちゃまはご存じですか? 千の言葉にも勝る、一つの行動がある事を」
「聞こう。それは何だ?」
アマルスィは舌なめずりをして、自分の唇を湿らせる。
ぷっくりとした赤い唇の向こうに、血を吸う為のキバが見え隠れした。
「それは、キスです! 親愛の証であり、気を許した者同士のみが出来る、最高の愛情表現の一つ! 坊ちゃまのキスは、千どころか万の言葉にも勝る事でしょう!!」
「……そうか?」
「そーなんです! 勝るんです!」
アマルスィは、鼻息を荒くして断言した。
興奮してきたのか、カチューシャの下から角が出始めていた。
避けられないと感じたストラは、観念したようにため息をはく。
「……分かった。ではしばしの間だけ、眼を閉じていてはもらえぬか?」
「モ、モチロンでございます! ああ……! ようやく、ようやく坊ちゃまの初めてをもらう事が出来るのですね!!」
アマルスィは眼を閉じ、艶やかな唇を前に差し出す。
「こ、こうで宜しいでしょうか? なにぶん私も初めてなので、優しくして頂けると嬉しいのですが……」
「ああ、分かった。優しくしよう。だから、そのまま眼を閉じていておくれ、アマルスィ」
「ぼ、坊ちゃまァ……!」
期待で身体は火照り、サキュバスの本能が目覚めるかのように、隠していた黒い翼が姿を現す。
汗ばむ身体。
高まる欲情。
もしもキスをされたら、そのまま次の――。
唇は、まだ触れ合わない。
アマルスィは、もう一度舌なめずりをする。
唇は乾いていくのに、身体は湿っていく一方だ。
「ま、まだでございますか? アマルスィは、アマルシィはもう……限界です!!」
アマルスィは黒い翼を羽ばたき、ストラに飛びつく。
だが、抱きしめようとした腕の中は、空っぽだった。
荷物も、いつの間にか消え去っていた。
「……坊ちゃま?」
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