節水コマ

めぞうなぎ

節水コマ

 蛇口を英語で何というか知っているだろうか。tapだ。タプタプだ。蛇口の後ろに秘められた水道栓から湧き出る水分が、蛇口によって堰き止められているのだ。その心の箍を緩めてやれば、いとも簡単に水は漏れ出す。障壁がなくなり、100が損なわれることなく100のまま出てくる。全てを以てして向かってくる水流を、押しとどめる物は何もない。


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 僕は流し場の蛇口を覗き込む。公園の水飲み場に設けられているような坊主型ではない。垂直の斜面に生え出して途中で元気をなくしてげんなりしたかのような、最もよく知られた型の蛇口である。据え付けられて、微動だにしない。動くことがあれば、それは寿命が近いという事だろう。前に使った誰かが栓をきちんと閉めなかったせいで、十数秒おきにしずくが落ちている。この一滴がいったいいくらになるのだろう、と思う。このまま見過ごして、未来永劫、この蛇口が誰にも使われないまま、凍らず枯れず無駄な一滴を垂れ流し続けた場合、どの時点でステルス戦闘機と同じ値段になるのだろう。一体何滴のしずくが国家を一年間運営するのに必要なのだろう。雀を横に並べて苛みながら、どちらがより優れた国家を築くのか観察してみたい。雀対蛇口だ。猫の額を先に溺れさせるのはどちらだ。南極の氷が全て溶けてしまうよりも先に、両者が地球を水没させてしまうのだろうか。蛇口は僕の顔を歪めて反射している。光の具合で、そして僕も身動ぎ程度はするもので、奇妙に捩じれた肌色が銀色の上を這い回る。所々を強い光線に貫かれ、斑の浮いた葉のような像になる。もしかすると、白く抜かれた部分はぴちょんぴちょんと下水へ撥ねる水滴に削り取られてしまった部分なのかもしれない。僕は気が付かないうちに、身体を水滴に穿たれ風穴を開けられていたのかもしれない。身体が軽くなり、徒競走のタイムが少しは改善されるだろうか。僕はミニ四駆のようなものなのか。細かくついた瑕に心を痛める。外身が堅牢なばかりに、致命傷を受けるまでは仁王立ちを余儀なくされる素材で生み出されてしまった蛇口に同情を覚える。苦しい、怖いという声を上げて、タオルを投げ込まれるまでもなく、外野からの暴力的なけしかけなど意に介さず、引くべきところで引けるような、自衛手段を講じる術を初めからその外殻の下に封じられている。殻の内には何があるのだろう。空洞か、蛇口とは全く関係のない何かか。瓢箪ではないが、独楽でも出てくるのだろうか。水が流れる度に、誰の目にもつかないところで寂しく回転し続けていたのだろうか。悲しい水道の中で、寂しく物理法則に流されていたのだろうか。外界へ流れていく水を見遣りながら、まだ見ぬ外界へ思いを馳せていたのだろうか。その回転は祈りか。蛇口を回せば水が出て、祈りを含んだ水で用を足していることを知らないまま、外出先から帰ったらうがいをしていたのか。そのうがいの音色は祈りか。独楽の奏でる祈りを受けた、更なる祈念か。叶え、とともに吐き出される。その祈りよ、流れてどこかで空へ登り、再び降りてきてこの口蓋で訴えの声を上げたまえ。

 蛇口はその後ろに抱えきれないほどの現象を背負っている。その重みに流す涙が、今もまだ一々落ちている。伝う頬がないのが、拭う手がないのが痛ましい。僕は『「』のなりをした蛇口にそっと手を添え、優しく持ち上げて『L』の形にする。涙がこぼれないように、上を向いて歩くこともあるそうだ。下ばかり見ているのは悪いことではないが、その涙に空の色が映る時、雲という脱脂綿が悲しみを吸い取って忘れさせてくれるかもしれない。小さな口が僕の方を向く。慎ましい直径が空洞を囲み、透明な水を湛えている。残念ながら雲は儲からないタクシーと同じで、客のいない道を流れてばかりいる。その下で涙も流れてばかりいる。このままでは蛇口はふやけて、薄く叩き延ばしたアルミホイルの切れ端が垂れ下がることになるやもしれない。僕は蛇口の涙を啜り上げることに決めた。差し出すハンカチの持ち合わせがなかったし、温風を吹き出すに足りるドライヤーを常備するほど用意がよくなかった。唇を円形に開き、蛇口の先端全てを口に含む。湿り気が接着面を濡らす。まずは染み出た分を拭わなければ源泉まで枯らすことはできない。舌で表面張力に支えられた分を舐めとると、鋭利な縁に表面を擦られる。そのまま先をすぼめて、狭い蛇口の中へ入っていこうとする。詰め物防止の、アルミカップみたいな形をした金具が入ってすぐのところに仕込まれていて、その幾つもの尖りを持った星形に行く手を阻まれる。口腔に力を込めて必死の形相で肉塊を押し込むと、金属の味がした。蛇口の味を感じることができたように嬉しく思い、僕は前とは比べ物にならないくらい、舌で腕立て伏せが出来るくらい、舌で瓦が割れるくらい力を込めると、ぐりゅぐにゅと分裂するような感覚がして、さらに奥まで入っていった。金属の味だと思ったのは、舌が割けて滲み出した血の味だった。僕の痛みと蛇口の涙を天秤にかけ、蛇口の涙の冷たさが僕の痛みを忘れさせる。僕が進めば進むほど、蛇口の涙は除かれ、僕の痛みも消えていくのだ。ホイップクリームを絞り出す工程とは逆の向きに、僕は水道の中へ、蛇口の中へ舐めいる。高い摩擦音とともに蛇口を捻る。水が吹きあがる。口腔の中で弾け返る。目の前が水飛沫で見えなくなる。目を閉じた僕は、蛇口へのディープキスを再開した。うねるように、のたうつように中へ。侵入を拒む膜を越える度にいくつもの僕に分岐し、向かい来る水流の中でイソギンチャクの先端のように舞い踊る。舌の根元まで入り、喉、首、頭、肩、腕、胴、腰、足と蛇口の中へ進んでいく。ぷちぷちと切れ、骨が砕け、背後に飛んでいく奔流に赤が混じる。びたびたと夾雑物がねずみ花火のように飛び散りながら、僕は蛇口の中に入りおおせた。何十何百という紐状に分かれて洗われながら、行く先に独楽が回っているのを見つけた。僕は独楽に巻き付く。人知れず回り続けている、そう君はまるで小さな地球だと。正月も年末も関係なく回り続ける君は、井の中にいるべきではないと。僕は独楽を大海に出してあげようと思い、規則的に、螺旋を描くように独楽に下方から巻き付いていく。まるでビデオテープだ。出征を祝う紙テープだ。クラッカーの先から出る天然パーマ仕様の花紙だ。絡みついて、独楽を回してやる。止まった時計の針を回してやる。蛇口の外には、回り続けるよりももっと素敵な事が、今現在蛇口から噴き上がっているよりももっともっとたくさんあるのだと教えてやるために。勢いをつけて外界に向けて身を引いた僕、それに合わせて脱出に向けて回転を始めた独楽。賽は投げられたのだ。卓の上方へ放られたサイコロのように、ドライアイスを入れてキャップを閉めたペットボトルのように、千々の僕と模様の溶け合った独楽は空中へ飛び出した。ことり。少し離れたところに落ちた独楽は、回るのをやめて23.4度傾いて止まっていた。世の中を斜に見ることに夢中になっているのだろうか。肘を立てて頭を乗せ、ぐうたらとしているのだろうか。紐にはなってはいけないよ。快晴の太陽が照りつけ、ミミズのようになってしまった僕の切れ端は順繰りに乾いていった。乾く端から、蛇口を飛び出す水が散水のように気つけ水をかけてくる。プールの中で余りにも長い時間裸眼で目を開けていたみたいに、視界がゆっくりと霞んでいった。

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