漣の中を

琴月

漣の中を

扉を開けたら微笑むポニーテール。恋に鈍そうな真面目なやつが、眼鏡の底で笑っている。

「今日は私に触らないで下さいね」

「なら、帰って」

笑顔が固まっていく。流れる空気が止まった。見開いた目に、涙の膜。閉じかけの小さな上唇が、小刻みにふるふる揺れている。動揺を隠すように、下唇が潰された。

救いようのない思考回路を、助けようとしてくれている。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。俺でさえ見捨てた俺を、拾い上げてくれる人がいたとは。

「なんで、笑ってるんですか……?」

「呆れただけ」

熱く火照った頬と反して、冷ややかで侮蔑が入った視線。本格的にやばいかもしれない。何度も経験したから、直感でわかる。数秒後に俺は切り離される。

乾いた音が響いた。熱を帯びた頬。痛いのは俺じゃなくて、あんただろう。後悔を嘆く後ろ姿が一番綺麗に見えた。そう感じてしまうので、人を傷つけることに罪悪感はない。両手では数え切れないほど見送ってきた。誰かを愛することができたら、自分も愛せるのかもしれない。でも、無理だ。




「一緒にいるのは楽しいんだけど……時々息継ぎの仕方がわからなくなるの。わたしはまだ自分の足で立っていたい」

もうとっくに俺は息継ぎの仕方を忘れてしまった。がむしゃらに手足を動かしたって、水面には届かない。遠ざかっていく迷い。空気がなくても苦しくなかった。逆さに映った世界が居場所を与えてくれた。溺れたことに気づかず、泳ぎ回っていた。

でも、酸素がないのなら。ここから逃げ出したいと願うのは当然で。独りは寂しいと知ってしまうのも当然のことで。口から溢れた泡が物語っている。先に息ができなくなったのは、僕だった。

「俺も楽しかったぜ。三ヶ月お疲れちゃん」

俺を掬いあげないでくれてありがとう。対価を払う義理はない。陸に足をつけることができても、声を失ってしまったら生きていけないんだ。愛を乞う俺は愛を謳う声が必要不可欠。俺を救いあげないでありがとう。

「……お世話になりました」

あの子は何を感じているのだろう。考えてみても、他人の気持ちがわからない。誰かになんて成れない。もう、無理だ。




夜の街を歩く。行先も決めずふらふらと。何処かに遠くに逃げたい。愛を手に入れるために自分を犠牲にできるのか。いや、できるはずがない。隠し持ったナイフは躊躇せず喰い込む。

電話がかかってきた。表示された知らない名前。本当に面倒くさい。

「今どこにいるのよ?」

「家だけど」

「外にいるわよね。嘘はやめて」

交通量の多いこの通り。まぁ、普通にバレる。

「……夏祭りの約束」

「バッグ好きだったよな。そっち行くわ」

たぶん誘ったのは俺。でも思い出せない。その程度の存在。

「あー、バッグよりネックレスの方がよかったのか。ごめんごめん。フレンチを奢ってあげるから、機嫌直してよ」

きっとこの約束も数時間後には覚えていないんだろうけど。今が楽しければそれでいい。そんな考えだから嘘を吐く。

「……愛はお金では買えないわ」

「なら、俺の家行こうか」

「……可哀想な人。約束はなかったことにしてあげる。わからないことが罪だとは言わないけど、さすがに気をつけた方がいいわよ」

わからないのに気づけるはずない。レッテルを貼れよ。欠陥品でも不良品でもかまわないから。価値をつけろよ。俺を見ろよ。

別に愛に飢えてはいない。哀れむなよ。哀されるのは、俺よりあんたがお似合いだ。誰のものでも構わない。選り好みはしないから。もう、不要だ。




とにかく走る。太鼓が呼んでいる方へ。行き着いた先は喧騒と混沌。人混みをかきわけて屋台を渡る。食べても食べても物足りない。金を使いたい。虫が煩わしい。満たされない身体が悪態をつく。うるさい花火の音は目覚まし時計の音に似ていて憎たらしい。

氷を頬張る。痛みが頭に染み渡る。冷たくて感覚が麻痺する。白く弾ける視界の端で影が動いた。

純情は嘘だった。ロングスカートで守られていた魅惑の秘境も。恥ずかしがって閉じられた瞳も。ミニスカートから覗く、薄汚い欲望にまみれた真っ赤なルージュが、夜の香を纏ってくるくる踊る。見知らぬ男の腰に手を這わしキスを強請る顔を、俺には見せてくれなかった。

「大好きだよ」

溶かした砂糖でコーティングされた甘いドーナツとイチゴ牛乳を合わせて食べたようにドロドロしている。おまけに語尾にはハートマークがみえる。

きもちわるっ

溶けたかき氷が地面に落ちる。ついに雨が降った。海と陸の境界線がなくなった。待ち望んでいたはずなのにちっとも嬉しくない。涙が降る。循環してまた戻ってくるのだろう。水と同じだ。俺もあいつも。結局のところ変わらないじゃないか。

異常だったのは俺だけじゃなかった。何も感じなくなってしまった。誰かと重なってみえる。もう、駄目だ。




吐き捨てられた言葉が蘇る。

“ 貴方は私ではなく、幻と付き合っているのよ ”

俺の人生に意味なんてなかった。存在した証もないみたいだ。飼い主に遊んでもらっている犬が羨ましい。不必要になっても殺処分してもらえる。誰にも認められない俺は、帰ることさえ認められない。

……もう、いいや。

消化不良を起こしても、食欲が抑えられない。つまらない焦燥をビールで一気に流し込む。狙いはあの子。真っ赤な金魚を一匹ぶら下げたいたいけな少女。一人でいるのが運の尽き。

「ねぇ、お嬢さん。俺を慰めてみない?」

早く、俺と一緒に成ろう。早く、俺と一緒に堕ちて。さぁ、早く。俺と一緒にさよなら、しよ。


そして俺は、夏を身に纏った。

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漣の中を 琴月 @usaginoyume

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