第3章 ばそきや盛大!

 勘弁してくれ、と正直思った。もともと人込みは好きではないし、ただでさえ気が滅入っているのに、浮かれている群集の中をかき分けて歩くなんて冗談じゃない。

 健司の考えていることがそのまま伝わったのか、

「やだ。行くの!」

 連れてって~! と叫びながら、美春が頭の両脇で結わえた髪をぶんぶん振った。

「もう絵日記に書いちゃったもん。だから絶対行かなきゃだめなの」

「あのなあ」

 どうしてこうなるんだ? かと言って、さすがに一人で夜祭りに行って来いとは言えない。健太と美春は自分の弱点だと今さらながら思う。

「ねえ、焼きそばとかお好み焼きとか、いろいろ買ってあげるからさあ」

 貯めていたお小遣いを持ってきたと巾着を突き出す。

「お父さんからボーナスだってもらったよ。“金魚野郎はどうせ空っケツだろーから美春がご馳走してやれ”って」

 余計なことを。別に金には困っていないと言おうとしたが、ここは美春を立てて黙っていることにした。

「これだって、せっかく着たのに」

 今度は腕を広げて浴衣の袖をはためかせる。健司の目の前で、紺地に朝顔の柄が踊った。

「お母さんとおそろいなの。一緒に着てお祭り行こうねって」

 倒れた健太に恵子が付き添うことになったため、それは叶わなくなってしまった。

「うんと楽しみにしてたんだよ……」

 美春が急にしゅんとして顔を伏せた。無理もない。父親と争奪戦をしようかというくらい美春は母親のことが大好きなのだ。そのまま泣き出すかと思ったら、ぐっと顔を上げて健司をにらんできた。

「行ってくれないんだったら、お兄ちゃんとけん兄のこと一生うらんでやる」

 美春の眉間に、刻み付けたような皺が並んだ。

「そんな顔するな。どこで覚えたんだ」

「本で読んだ。『くまのパディントン』」

 主人公であるこぐまの特技なのだと言う。ものすごい迫力だ。

「分かったよ」

 健司は息をつくと腰を上げた。気は進まないが、これでいくらかでも孝志への借りが減ると思えば我慢もできる。

 美春に少しだけ待ってくれと断って、ユニットバスの洗面台に向かった。痩せこけた長髪の髭面男が8歳の少女の手を引いていて、父親と間違われるならまだしも(それはそれで非常に不愉快だが)、妙な嫌疑をかけられでもしたらやっかいだからだ。

 髭だけでもと剃り落とし部屋に戻ると、美春は健司を見上げて笑った。

「あ、若くなった」

「もともと若いんだって」

 髪は――その鬱陶しさを今まで意識することもなかったが――このままで行くか、と前髪をつまんでいたら、

「あ。これあげるんだった」

 美春が巾着の中から何か引っ張り出し、健司に突き出してきた。見ると、琉金とでめきん柄の手ぬぐいだ。

「お誕生日のプレゼント。だいぶ過ぎちゃったけど。ごめんね」

「いや、ありがとう」

 もらった手ぬぐいで頭を包むと、額の辺りがかなりすっきりした。

「よーし、いっぱい食べるぞ!」

 美春が両拳を突き上げ、高らかに宣言した。


* * *


 外は意外と涼しかった。

 まだ明るい空の下を、健司と美春は夏祭り会場に向かう人の波に加わって歩いた。    

 美春は嬉しそうな様子で下駄を鳴らしている。その音に呼応するかのように、健司のハーフパンツのポケットの中で硬貨が踊った。

 8歳の従妹は、今日は自分が奢るのだと言い張り、100円玉二枚以外に健司が財布を持って出ることを許さなかった。美春の気が済むならそれでいいが、なぜ200円なんだろう、と思っていると、

「ねえ」

 美春が健司を見上げてきた。真面目な顔をしている。

「どうした」

「今度、家においでよ」

 黙っていると美春は続けた。

「けん兄どうしてるかな、会いたいなって、お兄ちゃん言ってたよ」

 それにさ、と下駄の先を見ながら言う。

「けん兄の言うことだったらきくと思うしさ」

「それはどうかな」

 今日、美春が来たのは事故みたいなものだが、本当は今の自分を従妹には見せたくなかった。健太にはなおさらだ。ただ、反乱の話を聞いた後では、会って話を聞いてやりたい気もした。もちろん意見などするつもりはないが。

「まあ、そのうちな」

 会場では盆踊りが始まったらしい。それらしい曲とともに、踊り手の団体を紹介していると思しきアナウンスが、反響してここまで聞こえてくる。その場に居て聞いたら公害並みの音質、音量に違いない。

 美春に合わせてだらだらと15分ほど歩くと、花火大会兼夏祭りの会場である市民公園に着いた。円形広場の真ん中に櫓が設置されており、その周りを盆踊りの列が二重の輪になって巡っている。さらに広場を囲むようにして、様々な露店が並んでいた。

「やっぱり、人多いな」

「うん」

「迷子になると困るから、手離すんじゃないぞ」

「迷子になんかならないもん」

 美春は不服そうな顔で言ったが、健司が差し出した手を大人しく握った。それから盆踊りの輪が半周くらい進むのを眺めてから、よしっ、と発すると健司の手を引いて歩き出した。

 美春が最初に向かったのは、入口に一番近い、輪のはじまりにあたる露店だった。すでに十人ほどの行列ができている。

「ばそきや盛大!」

 看板を指して嬉しそうに叫ぶ。

「ああ、“大盛やきそば”な」

「分かってるよ。そんなの」

 美春が呆れたように言った。

「でもどうして逆から書くんだろね。読みにくいのにね」

 同感だ。さらに言うなら、小3で“盛大”が読めるとは大したものだ。健司が褒めてやったら、

「漢字は得意なの」

 美春が母親の影響で本好きなのは知っていたが、最近では高学年向けのまで読んでいるらしい。たいていの漢字は学校で習う前に覚えてしまうのだと美春は嬉しそうに笑った。

「いいにおいだね。お腹減ってきた」

 と美春は言ったが、列には並ばずに健司を見上げた。

「ねえ、焼きそば何円?」

 行列が壁になって、美春の身長では値札が見えないようだ。

「500円、だな」

「ほんとに大盛り?」

「ああ。蓋をするのが大変そうだ」

 見たままを報告すると、美春はうなずいて巾着からメモとペンを取り出した。何か書きつけて、再び健司の手を取る。

「じゃ、次!」

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