エピローグ 6

 屋上へ出るドアを開けると、とたんに心地よい風が吹き抜けた。ドアからのぞく景色の先には、前のめりにフェンスに寄りかかる基山の背中が見える。反応が無いのを見ると、こっちに気づいていないようだ。


(あれ、でも吸血鬼ってすごく耳いいよね。血を吸った後じゃなくても常人のそれよりずっと上だって聞いたけど)


 なのに私が来たことには全く気付かず、近づいてみても無反応。私はそのまま歩を進めると、基山のすぐ後ろまでやって来た。


(まさか眠ってるわけじゃないわよね。立ったままだし)


 さらさらとした黒髪が風に揺れている。よく観察してみると、何やらぶつぶつ言っている。もしかして、何か悩んでいるのだろうか。おーい、基山―?


「……怪我、平気?……怪我、平気?……」


 やっぱり私に気づく様子は無く、何だかよくわからないけど同じ言葉を繰り返している。


「『怪我、平気?』よし、これで声をかけよう。きっと、大丈夫……」


 すごい集中力だ。私はすぐ後ろにいるのに、全く無反応。普段なら持ち前の女子アレルギーを発揮して距離を作ろうとするはずなのに。

 そんな基山を見ていると、あることを思いつく。私は末端型冷え性で、五月だからそこまで冷たくはならないけど、それでも手はひんやりしているとよく言われる。そんな自分の両手を無防備な基山の両頬に近づけて――えいっ。


「ひゃうっ」


 とたんに基山がおかしな悲鳴をあげる。慌ててこちらを振り返るも、私を見るととたんに力が抜けたようにその場に座り込んだ。


(大丈夫かな?)


 ちょっと脅かしてやろうとは思ったけど、これは驚き過ぎじゃなかろうか。まさか私の顔を見て腰を抜かしたとでも言うのだろうか?


「立てる?」


 ちょっとショックを受けつつも、手助けしようと手を伸ばす。基山はその手を取ろうと腕を伸ばしたけど――

 手を取る直前で動きが止まった。最初はどうしたのかと首を傾げたけど、やがてその理由に思い当たった。


「もしかして、女子の手握るのに抵抗ある?」

「それは……」


 顔をそむける基山。どうやら図星らしい。


「この前は大丈夫だったじゃない。もう女子アレルギーは克服したのかもって思ってた」

「あれは、たぶん夢中だったから……ごめんなさい。今はちょっと難しい」


 そう言って基山は私の手を借りずに立ち上がった。まあ、言いたいことはわかるけど、それでも、ねえ。


「あの時は私の血を吸ったり、抱きしめたりもできたのに」

「あ、あれは…」


 とたんに基山の顔が赤く染まる。思わず口に出してしまったけど私だって恥ずかしい。てっきり女子アレルギーは克服できたものと思ったのに。

 何だかだんだん腹が立ってきた。あれだけ恥ずかしい思いをさせておいて、女子アレルギーに逆戻りとはどういう事か。私は基山の両頬をつまみ、ギュッと引っ張った。


「いふぁい、いふぁいれす」


 ああ、なんだか癒される。間違いなくいつもの基山だ。あの時私を助けてくれた基山も格好良かったけど、やっぱりこういう無垢で子犬みたいな基山の方が私は好きだ。

 満足した私は引っ張るのをやめ、基山を解放する。すると基山は頬を押さえながら、申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめん。あの時平気だったのは、水城さんの血を吸ったせいかも。大量の魔力が流れ込んで気持ちが高揚したから、一時的に平気になっていたんだと思う」

「要するに、私の血を吸ってテンションがハイになったから、興奮して平気で女子に触れるようになったってこと?」

「そう言う事になるけど……その言い方は止めて。何だか変態みたいに聞こえる」


 あ、がっくりと肩を落としてしまった。そんなつもりで言ったんじゃないけれど、こんなに嫌がっているのならもう言わない方がいいだろう。

 それよりも、もっと言わなきゃいけないことがある。しょげた様子の基山に向かって、ずっと言いたかった言葉を告げる


「遅くなったけど、この前は助けてくれてありがとう」


 ようやくお礼を言う事が出来た。すると基山は驚いたように私を見る。


「水城さん、怒ってない?」

「怒る?どうして?」


 すると基山は、気まずそうに目線を反らす。


「さっき言った、血を吸ったり……抱きしめたりしたこと……ごめんなさい……」


 見ると耳まで真っ赤になっている。もしここで怒っているなんて言ったら、すぐさま土下座でもしてしまいそうだ。


「気にしなくていいわよ。怒ってないから」


 これは嘘偽りの無い本心だ。そもそも血を吸うように言ったのは私の方だし。

 二度にわたり犯人に血を吸われた後は、正直吸血鬼をとても怖いものだと思ってしまっていた。だけど基山に吸われた後はどうしてだろう。そんな考えはどこかに消えてしまっていた。

 犯人に吸われた事はもちろん思い出すのも嫌な出来事ではあるけれど、基山に血を吸われたことで、まるで心に負った傷が修復されたかのように、私は今まで通り平気でいられたのだ。感謝こそしても、怒るだなんてとんでもない。

 あと気になるのは私を落ち着かせるために抱きしめた事や、病院に運ぶために抱えあげた事だけど。あれだって恥ずかしくはあったけど、それで怒るような恩知らずではない。もし怒ることがあるとすれば……


「文句があるとしたら一つだけ。無茶しすぎだってこと。助かったから良かったけど、本当に危なかったんだから」

「それは、刑事さんにも怒られた」


 そういえば基山は、あの時本当はパトカーの中に隠れていなければならなかったのだ。本当に随分と無茶をしたものだ。私の血を吸ったことで何とかなったけど、もし吸わなかったらどうなっていたことか。想像しただけでぞっとする。

 もう二度とあんな無茶をしないよう言うと、基山は素直に頷いた。けど、なんだか心配だ。もしまた同じようなことがあれば、今度も無茶しそうな気がする。


「まあ、あんなことそうそう無いから大丈夫か」


 私はそう言って笑ったけど、なぜだろう。基山は浮かない顔をし、嫌な事を口にする。


「そうそう無いとは、言い切れないかもしれない」

「はっ?どういう事よ?」

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