汚泥に語る悪魔
明日原 藍
第1話
或る男が居た。
男は田舎のよく栄えたる街に住んでいた。或る日、その街に災厄が訪れた。災厄は悪魔よりもたらされ、あらゆる苦しみが街を呑み込んだ。人々は為す術もなく、悪魔に許しを乞うた。悪魔は、生贄を捧げれば、ここ一帯の呪いは止めてやろう、と言った。人々が寄り集まり、誰を生贄にするか話し合った。白羽の矢は男に立った。男はただ静かな声で「了承した」、とだけ答えた。
悪魔は街にほど近い山の上で待つと言っていた。月が出た頃、男は数人の監視役に連れらて、山への道を歩いた。山の麓まで来ると、監視役は「ここからは一人で行け」と言った。男に逃げる意志が無いことは、街の人々は充分知っていたらしい。季節は冬であったから、逃げても恐らく男は凍え死ぬか、飢え死ぬか、どちらにせよ不名誉な死しか待っていない。小さな懐炉を揉みながら、一人山道を進んで行く。パキパキと小枝を踏み折る音が、冷たく澄んだ空気に響く。葉も実も無い、枝ばかりの寂しい道中である。日が沈むにつれ、白い息がはっきりと見えるようになる。雪が降っていないとはいえ、厳しい寒さだ。だが、男にとってそれは瑣末なことだった。延々と枯葉と枝ばかりの道を登って行くと、突然、視界が開けた。木々は乱暴になぎ倒され、草や枯葉は焼いてしまったのか、およそ100平方メートル程の黒い空間が出来ていた。木の焼け焦げた匂いが満たすその真ん中に、1人の、幼気な少女が立っていた。
「実に、」少女の口から出てきたのは、低くしわがれた老人の声であった。「実につまらない奴が来てしまったものだ。その恰好を見れば果たしてお前は生贄なのだろう」
男はその実、恐ろしさよりも、何か神秘的なものを眼の前にしているという畏れ、そして安堵を感じていた。
「そうです。私が生贄です」
男は頭を垂れ、体から力を抜いた。今すぐ殺されるだろうと思っていたからだ。
「まぁ待て。今のお前は殺す価値すらない。その魂の味気なさといったら…あぁ、なんと言おうか。お前などは泥と同じだ。このままではあまりにもつまらない」
思いも寄らなかった言葉に男は困惑した。
「殺すのならできるだけ早くして下さい。私は死ぬ為にここに来たのです。そして私は痛いのは嫌いですから、もう一思いに殺してください。あなたは私の魂を食らえばそれでおしまいでしょう」
「それがつまらないと言ったのだ」
少女の表情は何一つ変わっていないのに、声から強い嫌悪と怒気が滲んでいた。
「まぁ、殺し方はたっぷり考えるとしよう。そうだな―」
少女は散らばった木片を男との間に積み上げると、その可憐な指で火を付けた。そして、何か見えない力で、炭と灰から立派な椅子を作ると、それに座った。
「お前は余程俺のことが怖くないと見える。それはどうしてか」
男は悪魔の意図が全く掴めず、どう答えればいいのか考えあぐねているようだった。悪魔は更に語気を荒らげて言った。
「正直に答えればいい、せめて暇つぶしくらいには付き合わせないと割に合わん」
男は慌てて答えた。
「私も正直驚いたのですが、その、私はもっと悪魔とは醜く、恐ろしく、きっと眼の前にすれば全ての感情が消え失せるような、そういう物だと思っていたのです。ところがどうでしょう、いざ来てみれば貴方は少女でした。確かに貴方は悪魔でありましょうが、その姿だとどうも私は恐怖を抱くことが出来ず、むしろ安心しているようなのです」
少女が答えを聞くと、少しの間、沢の水の音だけが聞こえていた。
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