くもり、のち、土砂降り

ふわり

第1話


 銀色の針のような雨の中を、私は走っている。粒の触れたところから肌が斬り裂かれていくのに、足を止めることができない。

 一週間前、私とあの子は出会ってしまった。私たちふたりはかつての親友であり、永遠に変わらない絆のようで結ばれていたはずなのに、駅前にあるインテリアショップであの子の首に巻かれているマフラーを目にするまで、私はあなたのことをすっかり忘れていることにさえ気が付かなかったのだ。かさつく指先で、荒い網目のひとつひとつに、17歳の純情を込めて編んだ、ピンク色のタータンチェック、手編みでつくった厚ぼったいマフラー。


 「その眼帯をとって」と言えなかったのは、白いガーゼの下のあの子の瞳を、私は既に知っているような気がしたからだ。


 ぐっしょりと濡れた髪をかきあげながら、古アパートの605号室のベルを鳴らして、目を閉じた。幾度もの夜を越えて、私は再びここに戻ってきてしまったのだ。あなたにとって、私の心を絡め取ることなんて、赤子の手をひねるよりもたやすいことなのだろう。あれだけ考えて出した結論さえ、今となっては正しかったのかも分からなくなる。


 がちゃりと鍵を外す音がして、扉は開いた。それと同時に、黒い影が私の腕の中に倒れこんできた。その鈍い体温に、肌の柔らかさに、私のファムファタルを感じた。髪の毛は油っぽくフケが目立ち、体からはひどい臭気を漂わせている。もう随分長い間、風呂に入っていないのだろう。それでも私は彼女の身体をつき飛ばすことはしなかった。できなかった、という方がおそらく正しい。

 じゃらり、と金属音のような音がして、足元を見下げる。貴子の棒切れのような両足首は、玄関から廊下へ、そうして奥の部屋のベッドまでつながる鉄鎖で拘束されていた。

 目の渕に紫色の痣がはっきりと残るお化けのような顔で私を見上げる貴子の、かさついた唇がゆっくりと開かれる。血の気のない病人のようなその薄い唇を、身体の芯から渇望していた記憶が脳裏に蘇ろうとしている。


「ごめんね、佳苗」


 貴子はそう言って、ちっとも悪びれずに微笑んだ。


 深夜3時のファミリーレストランはぽつぽつと席が埋まっている。私たちのようなふたり連れは少ない。スポーツ新聞を読みふけっている中年オヤジと目が合いそうになって、顔を逸らす。窓の外を見つめている貴子の右耳の上に、10円ほどのサイズの禿げができていることに、私はその時ようやく気付いた。雨は止む気配がなく、未だにさらさらと音を立てて降り続いている。


「お待たせしました、モンブランパフェとホットコーヒーです」


 ピンクのふりふりとした制服を身に纏い、やけに高いアニメ声を周囲に振りまいている店員がやってきて、生クリームが並々と注がれたモンブランパフェと湯気の立つホットコーヒーをガラステーブルの中央に置いた。貴子はなぜかもじもじと身体を揺らせて、私が二度勧めるまでスプーンを手に取ろうとしなかった。


「あのね佳苗。私ね、今お金なくて」

「いいよ。私が出すから食べて」


 そう言った途端、見る間に貴子はパフェを平らげていく。その姿をみて、きっとお金が返ってくることはないのだろうな、と諦めたように思った。

 熱く苦い液体が喉を通り、胃の中に落ちていく。ああ、この子はきっとあの頃のまま、何ひとつ変わっていないのだ。一度でも舐めきった相手には、何をしても許されると思い込んでいる。人間関係にひどくルーズで、その時いちばん側にいる世界でひとりきりにしか、不器量なあなたは自分の肉体を預けることができないのだろう。

 クリープの白色で揺れるコーヒーの膜に、私の強張った表情が浮かび上がっていた。パフェを綺麗に平らげた貴子が、唇を歪めて笑う。


「ああ、美味しかった。佳苗、覚えてる?良くこんな風に高校生の頃、ファミレスでダベったね」


 手首に残る、ケロイドのような横線の上に、真新しくできた青い痣が、ちらりと見える。水に挿したストローを苛立たしそうに噛むあなたを置いて逃げだせたなら、どんなに楽になれるだろうと思うのに、私の体は動かない。

 きっと言わないでおこうと思っていたのに、私は結局、そのことについて、あなたに尋ねてしまう。


「ねえどうして、まだあの人といるの?」


 貴子はまぶしそうに目を細めた。知らない銘柄のタバコを指先に、唇の隙間から出た灰色の煙が、私の顔に向かって吹き付けられる。ゆらゆら揺れる煙の向こうの貴子の目が、きらりと鋭く光った。


「あの人、私がいないとダメなの。一人ぼっちになったら死んじゃうの」


 夢見るような口調でそんなことを言う貴子の自己陶酔は見覚えがあった。他人を自分のものだと思い込み、どろどろにふたり溶け合うことを願っている、今も昔も変わらない、あなたのどうしようもないその悪癖。

 深呼吸をして、また珈琲を一口、飲む。



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