第8話 確認障害の男
1
男は物忘れが激しかった。
小学生の頃、男は学校に行けば教科書を忘れ、教科書を取りに帰ると、何を取りに帰ったのかを忘れ、そのうち学校を抜け出した事を忘れ、学校から連絡を受けた母親が玄関の戸を開けるまで、のんきにドラマの再放送を見ているほどだった。
周りの大人たちからこれでもかと注意され、父親からの鉄拳制裁を恐れた男は、いつしか全てを確認するようになっていた。
朝、玄関のドアを開けると、空を見上げて雨が降っていないかどうか、傘が必要かどうかを確認する。
昼、弁当箱の蓋を開ける時も、弁当はきちんと揃っているか、蓋は壊れていないかを確認。
夕、帰り道では、忘れ物はないか、今日の自分は友人たちにとって、良きクラスメイトであったかを確認しつつ、門限までの時間を確認。
夜、布団の中で羊の数を確認しながら、自分の想像している1匹1匹は、本当に羊なのかどうか、山羊ではないか、アルパカではないかを確認。
男は少し、確認をしすぎる青年となった。
2
男が高校を卒業して、地元の大学へ進学して2週間が経った。
大学への道のりも、男にとっては少しずつ日常になりつつあり、夕焼けに浮かぶ飛行機雲を目で追いながら、男は歩行者信号が青になるのを待っていた。
直後、バンッ!!と大きな音。
男が視線を落とすと、フロントバンパーが大きく凹んだ軽自動車と、目の前でサラリーマン風の紳士が仰向けに倒れている。
日産 キューブだ。
いや違う、交通事故だ。
男は頭がカッと熱くなるのを感じた。
助けないと。だが何をすればいい?
何を最初にすべきだろうか?
そうだ、救急車。
いや、AEDか?
違う、まずは目の前の紳士の意識があるかどうかを確認するんだ!
男は紳士に駆け寄り、頭を持ち上げて呼びかけた。
「大丈夫ですか?」
返事はない。再度男は呼びかける。
「大丈夫ですか?」
紳士は目をつむったまま答えない。
「大丈夫ですか?」
男は焦った。目の前の紳士の意識があるかどうかは、男には分からない。医学的知識も無い。
紳士の意識の有無は、紳士に確かめるしかない。
そう、紳士的に、真摯に。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
男は続ける。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?」
早く答えてくれ、あなたの命がかかっているんだ。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
すると紳士が薄目を開けて、ゆっくりとこう囁いた。
「大丈夫じゃ…ないだろう」
そうか、大丈夫じゃなかったんだ。
男は確認をし過ぎてしまっていた。
3
男が大学を卒業するまで、残り2週間を切っていた。
男の大学生活は非常に充実していた。
親友と呼べるほど、仲の良い友人も出来、不動産会社に就職も内定している。
唯一男が後悔することがあるとすれば、同じ政治活動サークルに所属するマドンナ、サキさんに想いを告げていない事くらいだ。
サキさんはとても美しい女性だ。
才色兼備という言葉がそのままそっくり似合うというか、それでいて少し抜けているところもあり、それが男には可愛らしく思えた。
この春から、サキさんは政治学を学ぶため、ドイツの大学院に編入することが決まっている。
そんなエリート街道をひた走る彼女と、平凡な生活を送っている自分とで釣り合いが取れず、男は告白をする気にはなれなかった。
親友にだけ、彼女に対する想いを告げたことがある。
男の親友は、「正直に言うけど、俺もサキさんが好きだ。だがな、あのひとはお前に気があるんだ。だから俺は格好をつけて身を引くよ」と、男も知らない彼女の想いを教えてくれた。
告白をしなければならない、男は、漢にならなければならなかった。
しかし男は恋愛に対しては奥手だった。
確認を怠らない男の性格が災いし、本当に彼女が男の事を好きなのかどうか、彼女の事を想うたびに、何度も何度も一人暮らしのワンルームの布団の中で確認を続けた結果、大学生活の終わりまで時間がかかってしまった。
想いを伝えないといけないのは分かっていた。
しかし男には、告白をする勇気がなかったのだ。
ティッシュ配りのアルバイトの横に立ち、横からティッシュを回収するという、謎のアルバイトに向かうため、男はワンルームのドアを開けた。
マンションの自動ドアを開けると、男の親友がマンション横の自動販売機の近くで、しゃがんで煙草を咥えていた。
「どうしたんだ、こんな所で」
男の声に親友が振り向く。
「おい、お前今日が何の日か分かってるのか?」
「えっ?」
「えっじゃねえよ、今日だよ。サキさんがドイツに出発する日は。確認不足とか言うなよな」
もちろん、確認済みだ。
「ああ、分かってるよ。でもな、サキさんには、彼女の人生のこれからには、俺は必要ない気がしてさ。この気持ちは別に…いいんだ。」
男の親友はそれを聞くと飛び跳ねるように立ち上がり、男に殴りかかる。
男は冷静に右手を上げ、パンチをブロックする。
「お前…」
親友が呟く。
「サキさん、お前のこと待ってるぞ」
「まさか」
「本当だ。お前がもし空港に来てくれたら、サキさんの方からお前に告白したいって、この間相談されたんだ。」
「そんな…」
「いいのか、そんな意気地無しのままで。漢なら、空港に行って、てめえの気持ちくらい伝えてこいよ。」
「……」
「お前が告白しないなら、俺はお前を恨むぜ。俺だってサキさんが好きだったんだ…」
親友はもう一度、力なく男の胸に拳を当てようとするが、男は冷静にガードする。
「俺、空港に行くよ」
男は駅へと向かって走り出した。
男が去ったエントランス前の道路で、親友は男を見つめて、少し笑って独り言をつぶやいた。
「ああいうのは、ガードするもんじゃ無えよ…」
4
男は駅へと走っていた。
駅から空港までは片道40分。特急に乗れば少し早く、34分だ。
何時にサキさんがドイツへ旅立つのかは分からない。
だが、男はここで急がなければ、もう一生彼女に会えない気がして、息を切らせて走った。
5
駅前の大きな道路は車通りが多く、3車線もあり、通行には気をつけなければならない。
信号は駅から少し離れた場所にあるので、車の
波をぬって、反対側へ渡るのが最短ルートだ。
一刻も早く電車に乗らなくてはならない。
男は左方向を確認した。
車は来ていない。
右方向を確認。車が来ている。
左右の確認をした途端に、男の中の確認衝動が蠢き出す。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
一刻も早く渡りたいのに、男の確認癖が足を止める。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
左、右、左。
右、左、右。
男は自分の確認衝動を抑えようと必死になるが、そうすればするほど、目は左右をぎょろぎょろと確認してしまう。
目をぎゅっと瞑る。落ち着け。
俺がやるべき事はなんだ?
左右を確認して渡ることか?違う!
サキさんに、会いに行くんだ!
男は目を開けると、真っ直ぐ前を向いて、一歩を踏み出した。
キィーー!!!
大きなクラクションの音と共に、男の視界は空高く飛び上がった。
ああ…
轢かれた…のか…?
男の目には、雲ひとつない青空が映っていた。
周りから人の声がする。悲鳴をあげている女性の声、運転手らしき男の声が、ぼんやり響いていた。
サキさんに、会えなかったな…
男は、目頭が熱くなるのを確認した。
1人の青年が男に近寄り、男に声をかける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですか?」
青年は男の顔を覗き込み、不安そうに話しかけている。
何だ…?
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?」
やめろ!!
救急車を呼んでくれ!
AEDもだ!
今俺は無事じゃない!見れば分かるだろ!
青年はロボットのように、同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか?大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?」
男は、以前事故現場で救えなかったサラリーマン風の紳士を、思い出した。
あの時、自分はとても恐ろしいことをしてしまったんだと思い返した。
男は、声を振り絞って青年に伝えた。
「大丈夫じゃ、ないんだ…」
薄れゆく意識の中、男の見つめる青空には、飛行機がひとすじの雲を引きながら、ドイツへと向かっていた。
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