第1章 剣難と幻聴と

1 始業式は樹の上で

 楽しい夢を見てやろうというささやかな野望は、もう少しで眠りに落ちようというまさにその瞬間、胸許で鳴り響く無機質な電子音によって水泡に帰した。聞き慣れない、メロディー以前の音の連なり。未設定の相手からメッセージが届いたときに鳴る着信音。

 ったく誰だよおい。憤懣ふんまんがもたげる。

 俺はYシャツの胸ポケットからスマホを取り出した。


「姉貴かよ。うぜー」


 マナーモードに設定し直し、通知内容を確かめもせずポケットに仕舞う。

 折角の寝入り端を邪魔しやがって。向こうからメッセージだなんて珍しいこともあるもんだが、どうせろくな用事じゃないだろう。

 俺は姿勢を正し、暗澹あんたんたる思いを打ち消すべく両の瞼を再び閉ざした。

 夏休み明け初日。

 誰もが味わう、甘美な過去への郷愁とそれに伴う絶大なる喪失感。学校なんてなくなればいいのにと本気で願わずにはいられない、一年で一番憂鬱なひととき。大抵はクラスメイトたちと顔を合わせ会話を交わすことで徐々に紛れ薄まっていくそんな感情を、俺は校舎裏のプラタナスの枝に寝そべりながら依然として抱き続けていた。

 別に感傷的な自分を気取っているわけじゃない。楽しかった夏期休業の終焉を認めるのがイヤで、夢の世界というモラトリアムへ逃避しようとしていただけだ。

 ただ、そんな逃避行にも一つ、問題がつきまとっていた。これは難題だった。


「なんなんだろうな……あの草原」


 就寝時に見る夢が、常にワンパターンであること。それが俺には長らく悩みの種だった。悩みというと少々大袈裟かもしれないが、羨望せんぼうに溢れた思いで他人がする夢の話に聞き入っていたのは事実だ。

 俺の場合、夢の舞台は見憶えのない一面緑の大草原と相場が決まっているし、概要はといえば、ほかに登場人物もいないその平原を独りひたすら走り続けるという、殺風景で味気ないものなのだから。

 これから見る夢の操作。無理無理、そんなのできるわけがない。少なくとも俺には。こればっかりは独力で制御できるものじゃない。

 またあの大平原の夢なのか? 夢ってもっとバラエティに富んでいていいはずだよな? 今日こそは、この休み明けのダークでディープでブルーな心情を補って余りあるような、聞いた連中が腹を抱えて笑うような面白い夢を見てやりたい。さっきは思わぬ邪魔が入ったが、携帯の音も消したし、今度こそちゃんと眠りに落ちるだろう。

 涼しげな風が枝の合間をって吹き渡る。

 風通しだけなら屋上で寝るのも悪くないけれど、天然の木陰は陽射しを見事に遮断してくれるし、何よりベッド代わりの太い枝はコンクリートほど熱くならない。寝相さえ気をつければ、ここは最適の寝床だった。


「……なんだ?」


 何か聞こえる。

 どこか遠くのほうで、複数のあし音と、そして何やら言い争うような声。

 一連の物音は次第にこっちへ近づいてくる。

 仕方ない、このやかましい連中がいなくなるまで睡眠はお預けか。早くあっちへ行けっての。ていうかもう始業式終わったのか? いや、そんなはずはない。俺まだ一度も寝てないし。

 それに、式が早く終わったのだとしても疑問は晴れない。声がするのは、式場である体育館とは正反対の、学生寮と校舎とを結ぶ遊歩道の方角。

 てことはだ。おおかたサボったのがバレて、教師に無理矢理連れ出されてでもいるんだろう。ははーん、さては素人だな、サボりの。そっちはダメなんだ。寮にいたら絶対見つかっちまうって。

 どうせ隠れるなら、俺みたいに確実な場所を押さえておかないと。

 そんなことを徒然つれづれなるまま考えつつ、俺は腕を組み眼を閉じたまま、段々近づいてくる話し声になんということもなく耳を傾けた。


「ち……違いますです。盗んだんじゃありません」

「ならば何故お主がそうして手に持っておるのだ」

「こ、これは……違うです」


 ……?


「何が違うというのだ! いくら刀身を隠そうとも、そのつばの形が何よりの証拠。そんな小細工で我らの眼をあざむけるなどと思うてか」

「小娘、何故に我ら里見衆さとみしゅうの家宝を盗み出した? いかなる左道さどうに用いようと企んでおるのだ」

「し、知りませんです。ルキだって、困ってるです……」

「笑止! 噂によればお主、凄腕の〈逐電士ちくでんし〉と接触を図ろうとしておるらしいではないか」

「…………」

「そうはさせぬ。我らより逃げ切れると思うなよ」


 ……なんなんだこの会話は。

 がしかし、どう考えても教師連中と生徒の日常会話ではなさそうだ。

 よく判らないが、ゴタゴタに巻き込まれちゃ堪らない。こんなときはじっとしているに限る。黙っていれば気づかれないだろう。

 樹木の上で身動ぎ一つせず、謎の一行が通り過ぎるのを待つ。


「やめよ! その刀はお主に扱える代物ではあらぬ!」

「その構え、あくまでも我らに楯突たてつくつもりか!」

「い、いえ、そんなんじゃ」

「ならば何故刀を振り上げておる!」

「ち、違うです……腕が、勝手に」

「我らを愚弄する気か! ふざけるな」


 丁度プラタナスの間近にやって来たところで、跫音が不意にやみ、声音が緊迫の度合いを増した。なんかやだなぁ、この感じ。よりによって俺の真下で。

 眼を閉じたまま、忌々しい思いに眉をひそめる。

 その直後だった。

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