いまなら
藤村 綾
いまなら
俺はゆったんだ。
寒い日だった。シャワーを浴びてきてと、女がいつもの所作でバスタオルとはみがきを用意するものだから、流された、あるいは、女のペースにまんまと乗せられたと、ゆったほうが正しい。女は至極冷淡で冷静だった。
「最後に抱いて」
帰り際。
俺が立ち上がった瞬間、すがるような悲願を込めた目を向け、いつもと変わららぬ口調で当たり前のよう口にした。
女は本当に貪欲なやつだった。
淫乱、マゾ、いや、変態……
どの部類にも属さないほど言い様のない質だった。けれど、しなやかで、白くて、柔らかいその肌に事実俺はのめり込んだ。いっときは、毎夜、求めたこともあるし、この身体は依存性があるかもしれないと慄いたこともある。
抱けば抱くたび女は俺の形になっていった。ぴたっとパズルが当てはまるように。
「俺、今日はそんなつもりで来たわけじゃないんだ。だめだよ!無理!だっ、」
まで、饒舌にゆうも、「最後だからって、言ってるでしょ!」と、大き声で遮れてしまい、俺は黙ってしまった。
つい、最近までは身体を重ねる行為はごく自然だった。俺は既婚だから実際することといえば、身体重ねる以外ない。女もそれに応じた。けれど、あっちが俺にのめり込めば、のめり込むほど俺は辟易し、離れたくなった。端的にいえばめんどくさくなったのだ。身体だけが好き。したいときだけ会えばいい。それは俺だけの都合で、女が本気になってしまった以上、俺から別れを言わないとならない。
そうでないと永遠に続いてしまう。俺も限界だった。仕事、家庭、女、親。何かを排除となれば、最初は女だ。正直、遊ぶ女など他にいる。本気の恋だの愛だのはもうたくさんだ。
シャワーから出て、暖房の部屋に移動した。暖房をつけた分だったのだのであまり効いてはいない。女はシャワーをしに行った。
暖かい風が俺の身体にまとわりつく。裸の身体に沁み入る中、俺はまだ迷っていた。
ー本当に抱くのかー と。
女は本当にそれで割り切って最後にするのだろうか。また最中に泣き出すのではないのか。やだ。最後なんて嫌だ。とか。喚き散らさないだろうか。そんなことをぼんやりと考えながらも、暖房の風を受けていた。おもてはとても寒い。暖房の効きが悪い。
「……な、なにしてるの」
女が急に部屋に入ってきて怪訝な顔で俺を見た。
「あ、寒いからさ、立ってた。暖房の下で」
「ふーん」
身体がまだ濡れていた。部屋が常夜灯でも、水の粒は薄暗い光でも反射をする。この女はいつも濡れて出てくる。
「ほら、まだ濡れてる」
女は、俺を一瞥し、わかってる、というような形相で俺を見て、タオルで背中を拭いた。
そして、布団の上で仰臥する。視線はまっすぐだ。泣いてもいない。至って冷静。
それが、怖かった。
「なぁ」
「なあに」
「今なら、引き返せるぞ」
その言葉は女に向けてゆった言葉ではなく、俺自身に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
女は、ふっ、と、少しだけ笑顔になって、なによ今さら。それだけゆって目を綴じた。
俺は黙ったまま女の横に滑り込んだ。いつものよう女を抱きしめる。身体が死人のようとても冷たかった。
「本当に最後だからな」
意を決して俺はやっとそのくさい科白をゆったのだ。最後。本当に最後なのか。俺がゆったことなのに、にわかに自分でも信じられなかった。
女は変わらず、泣きもしないで、普通だった。女の身体だった。匂いだった。
柔らかい肌。綺麗な方ではないが、身体だけは良かった。身体だけ。いや、これだけ続いたのだ。きっと、根底では嫌いではないと思う。もし、嫌いだとしたら、今日抱けないだろう。普通は。別れ話をしに来て抱くとか。そんなドラマのようなことなどはない。
好きだから、別れるときもあるし、そうしなければ、ならない時もある。
「ねぇ」
行為がすんで薄めを開け天井を向いたまま、女が俺を呼んだ。
「ん?」
「あたしね、別れがさ、来るなんて思っていなかったんだよ」
暖房の音がいやに耳についた。俺は言葉を探す。
「別れはあるよ」
これをゆえば女は絶対に泣くとおもっていた。
「うん」
裏切られたよう女は泣かなかった。最後とゆった。けれど、泣かない。
俺は女の本心もなにもかもよくわからなくなっていた。混乱。
「じゃあ、さ、行くわ」
「わかった」
洋服を着て、帰り支度をした。女はバスタオルを巻いたまま俺の着替えを見ていた。
「よいしょ」
立ち上がった俺の前に女が前に立ち、背中に腕を回してきた。
しばらく、声を忘れた。また泣くのかと思い覚悟をした。
いつも寝て交わってばっかりいたから気がつかなかったが、女はとても背が小さかった。子供のように小さかった。俺の頭一つ分は小さい。
「ありがとうね」
小さな身体からやっと声を絞り出した感じの声が胸に響いた。
何もゆえなかった。
俺はその腕を離し、じゃあな、だけゆって玄関を開け、じゃあな、と再度ゆい手を振った。
女は結果的に今日は一度も涙を見せなかった。
女も手を振って、笑顔で、バイバイと、俺を見送る。
扉が閉まったせつな、細く閉まりかけた、その扉の向こうで女が足元から崩れるのが見えた。
俺は見なかったことにし、駐車場に急いで車のエンジンをかけた。
やっぱり泣くのを我慢していたんだ。
急に雨がパラパラと降ってきた。少しだけ雪みたいなものが混じっている。女の涙なのか、俺の心の涙なのか。星のない空は分厚い雲に覆われ、顔色を変える。さっきまで晴れていたのに。
これはやっぱり女の涙だと勝手にいい聞かせ、それでも俺はアクセルを踏み込むしかない。
粉雪のちらつく中、俺はハンドルをきつく握りしめた。最後に女を今しがた抱いてきたこの手で。きつく。ただ、きつく。
いまなら 藤村 綾 @aya1228
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