深島一丁目海底居住区

ヴァッサーツォイク

 縁側に涼しい風が舞い込んできた。


 庭の隅から気の早い機械コオロギや機械鈴虫の音が遠慮がちに聞こえていた。蜩の音はもう聞こえない。庭の中と外の草には早くも露に濡れ始めていた。


 夜空には満天の星と、黄色く大きな月が町を見下ろしていた。


「綺麗なお月様ねぇ」菜穂子は天を仰いで、そよ風になびく長い黒髪を押さえながら呟いた。白と薄紫の浴衣が良く似合う。


「本当、いつ見ても綺麗ねぇ」千鶴はそう言うと、お盆の上の抹茶クリーム団子を頬張った。彼女も白と薄紅色の浴衣が良く似合っていた。アップに結い上げた

 茶色の髪の毛の下の項が艶やかだ。


 菜穂子は胸まである長い黒髪を結い上げ、千鶴は茶色い髪を肩に垂らしていた。


 二人は夜空を見上げながら縁側に腰掛けていた。二人の間には抹茶クリーム団子が山と盛られている。


 あたりには機械の蟋蟀と鈴虫の声しか聞こえない。


「本物のお月さまもこんなに綺麗なのかしら?」菜穂子がそっと呟いた。


「そうねえ、本物は写真しか見たことがないけれど……」


 ここは水深六百メートルの水の中。コロニーに穴が空いたら水圧でひとたまりもない海底火山の麓にある。月と見えるのはコロニー群を照らす海底発光機。地下深くの地殻発電により電力を供給され、昼間は太陽として、夜は満月として利用される共用照明。


 この世界は大戦前の世界を彷彿させるように造られていた。機械蟋蟀や機械鈴虫、偽の満月。ここは半永久的に「秋」の世界だ。


「明日はお勤めなの?」千鶴が菜穂子に訊ねた。


「そうよ。ヴァッサーツォイクで水中散歩よ」


「何言ってるの。明日は地熱発電機の点検って言ってたじゃない」


「そうよ。退屈なものよ」


「発電機が壊れたら、お日様も拝めないし、電気も使えない。重要な仕事よ」


「あーあ、海面に出る仕事はないかなぁ」


「海上は放射能で汚染されてるわ。行けっこないでしょ?」


「あれっ、来てたのか?」千鶴の兄、長谷川章介が居間に現れた。


「お兄様、帰ってたの?」


「章介さんもお団子どう?美味しいですよ」


「俺は良いよ。二人で食べなさい」そう言うと章介はその場を後にした。


 機械蟋蟀と機械鈴虫がイミテーションすすきの影で鳴いていた。



 ヴイーッ、ヴイーッ。


 菜穂子がヴァッサーツォイクに乗り込むと、警報音が鳴り響いた。ウォーターロックに水が浸水していく。


ヴァッサーツォイクとは深海用に造られた人型ロボットだ・


「アレス・クラー(全て順調)、管制官ゼーロッツェ」菜穂子は無線に向かって元気よく答えた。今日は無線の調子がいい。やはり、地上と海中では電波の届き方が違う。


「───注水六十%」


「メインモニター、オン」


「───注水八十%。」


「空気循環器、スイッチオン。ライストゥンク・アレス・アン(パワー・オール・オン)!」


「───注水百%、ハッチを開く」


「了解、出航する」


「───菜穂子、今日は長谷川と麻里絵のサポートだ。落ち着いてやりゃ出来る」


「了解、ありがと」


 菜穂子の「社会奉仕活動」はヴァッサーツォイクを操ることだった。


 海底居住区では誰しも十六歳になったら、社会福祉活動と称した居住区インフラ維持の為の活動をしなければならない。学校があっても、「社会奉仕の日」には学校を休むことが許される。それだけ人手が足りていないのだ。




 ヴァッサーツォイクとは丸みを帯びた人型潜水艇である。背中と腹に推進装置を付けていて、泳ぐことが出来た。


 菜穂子はヴァッサーツォイクをウォーターロックから出し、海底へと向かった。真っ暗な海底に降りていくと、メインモニターにはメインライトにマリンスノーが映っていた。


 海底では既に長谷川章介と麻里絵が待っていた。

「───今日は地殻発電所のメンテナンスだ。二人共付いてきてくれ」章介が無線で送信してきた。


「了解」麻里絵と菜穂子が同時に答えた。


 水深三百メートルの海中は陽の光が届かず、真っ暗だ。ヴァッサーツォイクの脚が海底に着くと、土埃が舞い上がり、深海性のガッコミエイがするんと逃げていった。


「───地殻発電所までスラスターで行く。後に付いてきて下さい」


「はい」と菜穂子。


「了解です」と麻里絵。


 三人はヴァッサーツォイクのスラスターをふかし、地殻発電所の発熱パイプに向かった。


 甲殻類の大行列が三人の下を歩いていた。何万、何十万という大量の甲殻類だ。


城下蟹しろしたがにの大行列よ。漁協チームに連絡して」菜穂子が管制官に連絡した。


「───了解!水中ブイを投下してくれ」


「了解。水中ブイ投下」菜穂子はブイ投下スイッチを押した。


「───明日の配給はカニ料理になりそうだな」章介が嬉しそうに言った。


「───蟹料理なんて久しぶりですね」麻里絵も嬉しそう。


「───後は漁協のヴァッサーツォイクに任せて、俺達は排熱パイプに急ごう」




 作業は排熱パイプに溜まった硫黄を除去することだった。巨大な排熱パイプに取り付き、溜まった硫黄鉱物をヴァッサーツォイクの腕を使い、少しずつ除去していった。光熱を吐き出す排熱パイプに近づけるのは、ヴァッサーツォイクに乗らなくては出来ない作業だった。


「───硫化水素の噴出に気をつけなさい」章介が言った。


「了解」菜穂子と麻里絵は同時に言った。


 菜穂子たちはいつも地殻発電設備に関わる作業をメインとしているので、今回の作業も慣れたものだった。一度、温水を目指して鮫鯨がやってきたが、こちらを攻撃することなく去って行った。


 果もなくマリンスノーを降らす、沈黙の海底。しかし、耳をすませば各海底居住区から生活の証の雑音が、ゴンゴンと聞こえてきた。





 作業を終えて深町一丁目居住区に戻ると、菜穂子は深町の町民服である浴衣に着替えた。永遠の晩夏を演出する深町一丁目から三丁目は浴衣が町民服になっていた。


 人工灯に近い深町は暑い昼間と肌寒い夜に覆われていた。合計二十個ほどある居住町は協力しあい、電力と光源を共有しあっていた。深海町には深町の様に晩夏の町と冬の町、春の町などがあったが、お互いエネルギーを不公平なく割り当てていた。


「章介さん、一緒にマタイの市で買い出しに行きません?」菜穂子が尋ねた。


「ああ、千鶴に買い物を頼まれてるから、一緒に行こう」章介が提案した。


「章介さんは明日も仕事?」菜穂子が尋ねた。


「ああ、堀町二丁目まで野菜の買い出しに行くよ」章介が答えた。


「堀町ってことは冬物野菜ね」


「ああ」


 深町と堀町は夏野菜と冬野菜の交換をしている居住区だ。


「今日のお夕飯は何にするんですか?」菜穂子が尋ねた。


「今日。市にあるもので何とか作ってもらうよ」章介が答えた。


「チズちゃん、お料理得意ですものね」


「そう云う菜穂ちゃんは何にするんだい?」


「今日はシチューかな?本物の牛肉があれば良いんだけど」


 二人はシスティナ横丁を越え、マタイの市場に向かった。システィナ横丁ではまだ日も明るいのにもう呑んだくれた人が何人か見られた。


 マタイの市に着くと、まずは肉屋を尋ねた。本物の牛肉はなかった。


「今日はラム肉が出てるよ。ちょっと値が張るが安くしとくよ」太った肉屋の旦那が言った。


 本物の牛肉は勿論、本物のラム肉などもう海底居住区でしか手に入らないだろう。地上は放射能で汚染され、生き物など住んでいないのだから。


 菜穂子はラム肉を二百グラム買った。


 次に章介は魚屋に行きたいと菜穂子に言った。


 魚屋に行くと、今日見たのより大きなガッコミエイがあったので、章介はそれを四切れ買った。両親と千鶴と章介の分だ。菜穂子はいつでも一人分で充分だった。菜穂子の両親は菜穂子がまだ小さい頃、事故で死んでいた。それ以来、菜穂子の身元保証人は深町一丁目となり、中学を卒業するまで施設で育てられた。高校に入ってからは社会奉仕活動にヴァッサーツォイクのパイロットという副業を得てからは自立していた。


「良かったら今日もうちに来て良いんだよ」と章介が勧めた。「千鶴も待っていると思うよ」


「有難うございます。今日の授業の分、勉強したら行きますよ」


「それが良い、良かったら俺が教えるよ」


「有難うございます。章介さんに教えて貰えれば鬼に金棒ね」


 菜穂子は今日も千鶴の元に行こうと思った。今日一日、高校で起こった事柄を聞くために。

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