下野毛登頂基地
バスの出発時間ギリギリになって他の乗客がゾロゾロとバスに戻ってきた。
みんな手に手に紙袋を持って帰ってきたので、あんな店で何を買ったんだろうと勘八が不思議に思っていると、その半数くらいの乗客が太い背骨竹で作った容器を抱えており、その横に「清酒・塩梅」と筆書きのラベルが貼り付けられていた。
勘八はその時初めて、あのおばさんが言っていた「塩梅はどうかね?」というのが「清酒塩梅を買いませんか?」と云う意味だったことに気付き、歯ぎしりしたい思いに駆られた。
なんであんな紛らわしい言い方をしたんだ?
しかし、冷静になって考えてみると、治安局に発売禁止にされていたり、食品監督省の販売許可が得られず、事実上の闇酒となっている為、符牒や隠語として使える商品名を付けている可能性もあることに思い至った。それと同時に、子供の頃母に言われた「解らないことや不思議に思ったことは何でも聞きなさい」と口癖のように言っていた言葉を思い出した。
作治も「塩梅」を買いに行こうかどうしようか迷っていたが、一つしか無い乗降口から次々と乗客が帰ってきて、狭くなった通路を通ってくるので、それに逆らってバスから降りるには帰ってくる客に迷惑をかけてしまうので、どうにも躊躇っていたが、そうこうしているうちにバスは出発してしまった。
日はとっくに暮れ、辺りは暗くなっていたので、バスはライトをつけながら夜の道を走っていった。道の左右はもう人家も建物も見えず、街灯すら一本もない真っ暗な道をバスは悠然と走っていった。
道の左右は木々や低木と蔦草が生い茂っていたが、街灯も何もないので、殆ど何も見えなかった。
時間もまだ早く、勘八は早く寝入ってしまうと、必ず二・三時間で起きてしまい、それ以降寝れなくなってしまう体質だったので、持ってきた単行本の小説を取り出して、ウイスキーの携帯ボトルの口を舐めながら小説を読んだ。
思った通り、ステンレス製の携帯ボトルに入っているウイスキーは半分もなかった。
すぐに無くなったり、酔って寝てしまわないように勘八は舌の上に数滴ずつ落として舐めるようにウイスキーを味わった。車内には甘酸っぱい果実のような香りが広がり、これが清酒・塩梅の匂いなんだろうな、と勘八は推測し、羨ましく思った。
バスの心地いい揺れと満腹になった腹のせいでだんだん眠くなってきた。
勘八は残り少ないウイスキーを封印し、後の時間は起きていようと、小説に集中したが、やがてウツラウツラ眠ってしまった。
何か妙な寒気のようなものを感じて起きたのは、それから二時間ほどが経ってからだった。眠ったことさえ気づかなかった。
腕時計を見て初めて二時間が過ぎているのに気づき、同時に眠ってしまったことに気付いた。
バスは断熱処置がされているはずだし、実際、暖房が付けられて寝る前より温かい位なのに、何故寒さを感じるのだろうと勘八は不思議に思った。
そして、それよりも不思議だったのは妙な静寂さだ。
こちらも防音処理されているから、金属部分を伝って聞こえる僅かなエンジンやキャタピラの音しか聞こえないので、初めから静かなのだが、なにか静かすぎるほどの静寂さに包まれていた。
ふと窓の外を見ると、一面銀世界になっているのが見えた。「一面」といってもバスの窓から漏れた光が届く範囲だけで、五メートルもすれば夜の暗闇の中に飲まれていったが、見える範囲は全て新雪で覆われ、雪が降っていた。
静かすぎる静けさは、この雪が作る独特の静寂さのようだった。
よく見ようと窓に近づくと、窓枠が冷たくなっていて、極寒の外の寒さが僅かな隙間を縫って窓枠に伝ってきたのだと分かった。恐らく、冷気はこの窓枠から漏れているのだろう。
温暖化の影響で首都でもほとんど雪が降ることは無かったので、ずいぶん高地まで登ってきたことが分かった。それもかなりの高地だ。恐らく酸素ボンベがないと外には出られないだろう。
何の変化もない単調な雪景色を観ていると、まただんだん眠たくなってきた。久しぶりに見た雪景色に興奮しつつも眠気がゆっくり足元から絡みつき、勘八は夢と半覚醒状態を沈んだり浮かんだりしながら浅い眠りに微睡んだ。
ガタン、という軽い振動で勘八は再び目を覚ました。
気が付くとバスは停まっており、バスの横には白くて頑丈そうな大きな建造物が建っていた。
その建造物からジャバラ式のボーディングブリッジが伸び、バスの前部昇降口に繋がれていた。後ろを見ると、コンテナの後ろ側に出入り口が付いていたらしく、白い建物から伸びたもう一つのボーディングブリッジをそこに密着させ、ロックする作業をサンペイかヒヤマがやっていたが、ゴテゴテした気密アーマーを着ていたのでどちらかかは判らなかった。
運転席の上にある案内電光掲示板には「下野毛登頂基地」と書いてあった。
勘八はヨロヨロとベッドから降りると入口に向かい、入口近くにいた姉崎友江に尋ねた。
「少しバスを降りてもいいですか」勘八は尋ねた。
「ええ、どうぞ。ここも少し長く停車しますから」と姉崎は言って勘八を昇降口へと促した。
「ここは禁煙ですかね」勘八はタラップを降りながら姉崎に尋ねた。なんとなくタバコが吸いたくなったのだ。
「おタバコならこちらでどうぞ」と姉崎は勘八を先導し、無人の小さなバーカウンターへ導いた。
既に閉店しているようだが、営業用ではなく、サービス用のバーのようで、いつでも利用は可能のようであった。
四脚のスツールしか無いミニカウンターと言うやつで、姉崎はカウンター脇にある壁のスイッチを幾つか押して、バーの照明と換気扇をつけてくれた。そして、脇の方からやたらと年代物らしい灰皿を取り出して勘八の前のカウンターに置いた。
スツールに座ろうとした時、左手にウイスキーの携帯ボトルを持ったままなのにその時初めて気付き、苦笑してボトルをカウンターに置くと、胸のポケットからカワカミタバコを取り出して火を着けた。
やがて、コンテナにつながっている方のブリッジから気密アーマーを装着してヘルメットを小脇に抱えた二人の男が気だるそうに降りてきた。
気密アーマーを着ているので体型は詳しく分からないが、一人は殴り相撲の力士のように大柄で屈強な感じでやたらと黒い肌をしていた。もう一人は黄色い発光義眼を入れた背の低い男で、痩せているようだった。
「サンペイとヒヤマはどうした?」発光義眼の男が尋ねた。
「まだ外よ。二人とも遅いわね」
するとバス本体に繋がるブリッジの横にあるエアロックのようなドアが開き、床を這う白い冷気とともに二人の気密アーマーが入ってきた。
二人は急いでヘルメットを脱ぐと、
「ちょっと弱ったことになった」とヒヤマが本当に弱ったような顔で言った。
「どうしたい?」丁度、バスから降りてきた策股運転手が尋ねた。
すると二人は開いたままのエアロックの奥からボロ布に巻かれた冷凍ヒラメ鹿の様なものを引っ張りだした。よく見ると「前へならえ」の格好で手を伸ばしたまま凍っている二人の男女のの冷凍死体だった。
「あれっ、コイツは俺が轢き殺したやつだぁ」と策股が間延びしたしゃべり方で言葉を漏らした。
「殺してはいなかったようだな」サンペイが策股に言った。「メインシャフトの点検縦溝にあるガードバーに両手でぶら下がってたんだ」
「どうして猫撫山のパーキングに停まった時に逃げなかったのかしら」姉崎が顎に人差し指を当てた。
「両手と両足の先だけ手前らの石化ガスで石になっちまって、手を離せなくなったんだ」サンペイはそう言ってからチッと舌打ちした。
二人の両手は手首のところから折られており、手首から折れ口のところが石になっていて、壊された石像のようだった。
「ひでぇ死に方だ」黒い大男が言った。
死体の方に歩み寄り、愕然とした顔で死体を眺めている勘八にちらりと目をやった姉崎は、
「酸欠と低体温症で気絶している時に凍死したんでしょう。二人とも寒さも痛さも感じないまま死んでいったんだわ」と言った。
しかし、それは勘八のショックを和らげようとして言ったことに違いなかった。
姉崎の言うことが本当か嘘か判らないが、二人とも靴が脱げ、石化したその踵が随分削られていることから見て、自分の手首をもぎ取ってでも脱出しようとした跡が見て取れた。
「どうする、コレ?」ヒヤマがまた困った顔で仲間の顔を見回した。
「ここに置いとくのはマズイわ。第三エアロックの隔壁内に安置しましょう。あそこなら誰も使わないし、いつも0度前後だから。会社には下に降りてから連絡しましょう」姉崎が少し早口に言った。
サンペイとヒヤマは頷いて二人の死体を引きずって大きな展望窓の横にあるエアロックの中に放り込んだ。
死体の処理が終わると六人は勘八から少し離れた所に集まり、ブリーフィングを始めた。
どうやらリーダーは運転手の策股のようだったが、進行は姉崎が行った。策股はやたらと左腕を気にしていて、手首や肘を曲げたり伸ばしたりしていた。
勘八から離れていたのであまり声は届かなかったし、専門用語ばかりだったので話の内容はよく判らなかったが、新たに登場した二人の内、色が黒くて大柄な方がニコル、背の低い発光義眼の男がマイクという名だということは分かった。
勘八が丁度二本目のタバコを吸い終わった頃、ブリーフィングは終わり、サンペイとヒヤマは装備を解いてコンテナの方へ歩いて行った。ニコルとマイクもヘルメットを被りエアロックの方へ向かった。
策股はまだ手首をコキコキ曲げていたが、「やっぱりちょっと油を差してくる」と姉崎に言うと、白いドライバー手袋を脱ぎ、左腕を肩のところまで腕まくりした。シャツの中からは鋼色した金属製の義手が出てきた。
人工神経を生の神経に繋ぐ旧式のタイプでクローン培養やDNAをいじったりしていない大戦前のシロモノだ。そうすると義手を着けた時はすでに成人になっていたはずだから、策股運転手は見かけよりも遥かに歳をとっているのかもしれなかった。
勘八が三本目のタバコを吸おうかどうか迷っていると、再び姉崎が勘八の方へやってきて、掌紋キーでキッチンのドアを開け、「ケーキのお礼をしなくちゃね」と勘八に言った。
そして、後ろにある観音開きの扉を指紋照合キーで開けた。中には様々な種類のボトルやグラスが並んでいた。その中から琥珀色の液体が入った1ガロン入りのペットボトルを引きずりだした。
「ウイスキー、もう無いんでしょ?」姉崎は勘八の携帯ボトルを指差した。「これは特別よ。さあ、貸して」
勘八は僅かに残ったウイスキーを飲み干してから、ボトルを姉崎に渡すと、姉崎は漏斗を使って琥珀色の液体をボトルに入れてくれた。
「大麦はもう絶滅したみたいだから、勿論、代用ウイスキーだけど、中でも本物に一番近いそうよ」
勘八も本物のウイスキーは、今までに一度だけ、ショットグラス一杯だけしか飲んだことが無かったから、本物との差など判りようもない。
「ありがとう」勘八は頭を下げて感謝した。
「もう一つ、お返しがあるの」姉崎はいたずらっ子のような目になって、幼い少女のように言った。「コッチ来て!」
姉崎はキッチンから飛び出すと勘八に手招きして、大きな展望窓の方へ跳ねるようにして駆けていった。
勘八はゆっくり歩いて付いていき、窓の外を眺めた。もう雲が発生する高度を遥かに超えているらしく、さっきまで降り積もっていた分厚そうな雪は見当たらず、ゴツゴツした大きな岩ばかりが転がっていた。
「下じゃないわ。上、上」姉崎が窓の上の方を指差した。
その指先を見上げると、勘八は「あっ!」と声に出して驚いてしまった。
降るような星々。
空一杯に満たされた星々。
そんな言葉がピッタリの星空が広がっていた。
真っ黒な宇宙を、光り輝く濃厚な天の川が二つに割いていた。小さな星まではっきりと見え、一等星などはそれが太陽と同じ恒星であると分かるほど眩しく輝いていた。
「凄い…」それしか言葉が出てこなかった。
「気が付いた?ここで見る星は瞬いてないの」姉崎がボソリと言った。
勘八もすでにそれに気付いていた。大気が殆ど無いので星が瞬かないのだ。だからこそ小さな星までハッキリ見えるのだ。
「大昔の人は宇宙船でこの辺りまで来ていたんでしょ?ああ、衛星軌道はもっと上でしたね」姉崎が感慨深げに言った。
「ううん、この辺りにも来たよ。但し、宇宙船ではなく飛行機でね」
勘八がそう言うと、姉崎は目をパチクリさせて勘八の顔を見た。
「大昔の大金持ちがね、スクラムジェットエンジンの民間機に乗って数分間だけの宇宙旅行を楽しんだんだ」勘八は星空に見入ったまま話した。
「大枚叩いて数分だけの宇宙旅行なんて馬鹿らしいと思ってたんだが、この光景を見ちゃ考えを改めさせられるよ」
「確かにここはもう宇宙の入り口ですからね」姉崎が独り言のように言った。
暫く、二人は星空を眺めたまま沈黙した。その沈黙を破ったのは姉崎だった。
「私ね、みんなよりこの風景が綺麗に見えるんですよ」
勘八は黙ったままだった。
「この風景だけじゃなく、全てがみんなより綺麗に見えるんです」
その瞳は真っ赤だった。
西政府の医療機関が施術するクローン義眼という技術があり、たまに失敗して色素が抜け落ちて赤い瞳のクローン眼球をしている下流層の人間を何人か見たことがあるが、あの赤は肉の赤で姉崎のルビーのような赤とは違っていることに勘八は気付いた。更に無機質で異常にに真っ白な白目部分も。
これは可視領域を通常人より広げられた特殊な義眼だ。赤外線領域や紫外線領域まで見ることが出来る。
「軍にやってもらったんだね」勘八は優しく尋ねた。
姉崎は僅かに微笑んで頷いた。
「同情する人もいますが、私はこの方が好きです」姉崎はまた星空に目を向けた。「西の人間と間違われないようにカラコンしなきゃならない時もありますけど、人より色んな物が見えるんですよ」
「例えば、どんなものが?」
「生きている人のオーラです。生きている人はボーッと光って見えるんですよ」
きっと赤外線のことを言っているんだろうと勘八は思った。
「ああ、この人は生きている。あの人も生きている、って思うとそれが誰であっても嬉しく思えるんです。おかしいですよね?でも、ここに来るとそれが正しいような気がするんです」
姉崎はさっきのオーラが無い冷凍死体を見てどう思ったのだろうか?寝台装甲バスの高速機関砲に粉々にされて急速にオーラを失っていく盗賊たちを見てどう思ったのだろうか。勘八は色々想像してみたが、結局判らなかった。
ただ、この瞬かない大銀河を観ていると、命というものがとても荘厳で尊いもののように感じた。この大宇宙に比べたら地球上の生命など塵以下の存在でしか無いはずなのに、何故か不思議と尊大なもののように感じてしまう。宇宙と命などまるで別次元のものなのにこの瞬かない宇宙を観ていると、それが同等のもののような気がしてならなくなってくる。
そして、この光景をいつか誰かに見せてあげたいと思った。
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