犬男

 爺さんが見えなくなって暫くすると、一台の薄汚れた合成メタンの自家用車が向かい側から現れ、轟音を立てて去っていった。質の悪いD級の合成メタン車らしく、腐ったような悪臭ををプンプン振りまいて去っていった。


 出会った車はその日それが初めてだった。


 1時間ほどすると今度は後ろから合成メタンのトラックがやって来たが、こちらはもっと質の良いエンジンを使っているようで、余り嫌な匂いはしなかった。ヒッチハイクをしようかどうか迷っている内にそのトラックは猛スピードで作治を通り過ぎて行ってしまった。


 道は緩やかな下り坂で、小高い山間のクネクネした見通しの悪い道だったが、結構交通量はあるようで、アスファルトの上は雑草や蔦に侵食されていなかった。

 道路の脇は雑草や低木がびっしり生えていたが、車の往来が頻繁にあるようで、たまにアスファルトの割れ目から運と根性の強い雑草が顔を出しているくらいだった。


 安心して歩いていると、突然道の前方で五十センチくらいの鬼カマキリが困ったように首を左右に振りながら作治の方を見つめていた。

 驚いて一瞬立ち止まった後、長鎌を振り回しながらゆっくり近づくとそいつはサッと脇の草むらの中に逃げていった。


 遺伝子操作初期の実験昆虫が脱走し野生化したものなので、毒を持っていたり、人間を襲うように改造されてたりはいなかったが、周りの環境に擬態できる鬼カマキリ等もいて、気が付かずに近づいて、驚いた鬼カマキリにヤラれることがあるので、油断はできない。



 昼近くになると、道の脇に背の低い雑草が広がる空き地があって、そこは従来種の白詰草が殆どだったので、そこにカーボン紬のシートを敷いて昼飯を食べた。商店街で見つけた炊飯機能付きパックの「非常用ほかほか炊飯ご飯」というものと「鯖の缶詰」と粉末スープの素「とろ~りクリームシチュー」で豪華な昼飯にした。いずれも「スーパー蛇ガ丘」の半壊した地下倉庫で見つけたもので、非常に美味くて珍しいものだったが、旅立ちの最初の食事だったので、今まで勿体無くて食べられなかったものを一気に食べてやろうと思ったのだ。


 今まで本物の米を食べた事はこの非常米意外にはなかったし、本物の鯖も食べたことはなかった。缶詰は作治の読めない旧字体で書いてあったので合成物か遺伝子操作された代用魚かもしれなかったが、イワツキの爺さんは「本物だ」と太鼓判を押していた。


 十分力のつく食事に満足し、再び旅を再開して一時間くらい経った頃、後方から薄汚れた変なトラックのようなものが近づいてきた。


 それまで何台もの凹みだらけのトラックや自動車とすれ違ってきたが、それはそれらよりもっとオンボロで、運転台にも荷台にも屋根がない小型トラックのようなものだった。しかも、恐ろしいほど低速で近づいてきた。それは何かに警戒しているというより、明らかに低速しか出ないポンコツ車だからなのだと分かった。

 時々、白い煙を吐き出しながら、シューシューという奇妙な音をたてて近づいてきた。

 作治が振り返り、そいつがやってくるのを立ち止まって待っていると、早足に歩く程度のスピードでゆっくり近づいてきた。十分ほどじっと待って、漸く乗っている人間の顔が判別するようになった。


 運転席に乗っているのは復員帽を被った眼の大きい痩せぎすの男で、後ろの座席には大きな犬男が座っていた。

「犬男」とは大戦中に戦闘用に人体改造された兵士で、文字通り首から上が犬の顔をした男の事だ。作治は以前にも何人かの犬男を見たことがあった。その誰もが外見に似合わず、心優しく親切な男達ばかりだった。


 初めて会ったのはまだ作治が幼い頃だったので、その異相を見た途端に泣き出してしまったが、「ああ、ゴメンネ。怖がらせてしまったね」と言って優しく微笑んてせくれた。


 犬が笑うのを見るのも初めての事だったので、驚いて立ち竦めていると犬男は近寄ってきて、「ゴメン、ゴメン」と何度も困ったような顔で謝り、作治にチョコレートバーや甘い栄養棒をくれた。


 当時は甘い物が貴重品だったので、作治の顔は一気に満面の笑顔に変わった。その後、その犬男と色々な話をした。驚いたことに犬男は無理やりこんな姿にされたのではなく、自ら進んで犬男に改造してもらったのだと言った。

 勿論、一度改造されたら二度と元の人間には戻らないと分かってやったのだという。


 犬男の殆どは特殊部隊などの隊長で、犬の異常に鋭い嗅覚と聴覚で敵の動きや爆弾の匂いなどを嗅ぎ分けて、部下の隊員を守るために改造されたのだという。犬の鼻を持てば二キロ先にどんな人間が何人いて、どんな武器を持っているかが手に取るように分かるのだという。そして犬男になったおかげで彼の部下は一人も死なずに済んだから、こんな顔になっても満足しているとラブラドールリトリバーの笑顔でやさしいく語ってくれた。



 そんな事を思い出しながら、作治は何だか優しい気分になってゆっくりやってくる二人を見つめていた。一方、二人は面白くなさそうな顔をして前を見つめていた。そして驚いたことに犬男の首には首輪が填められ、そこから伸びた頑丈そうな鎖は運転席の横に建て付けられた鉄柱に括りつけられていた。「なんて酷いことをするんだ」と驚いていると、作治の表情を伺っていた犬男が「停めろ」とぶっきらぼうに言った。


 犬男は更に作治の顔をジロジロと見つめた。

「お前、俺が怖くないのか?」犬男が作治の顔を覗き込むようにして言った。作治は激しく首を横に振った。

「何で鎖で繋がれてるんですか?」逆に作治の方が誰にともなく怒って尋ねた。

「こうしておけば、誰もが安心するからな。お前、犬男を見たことがあるのか?」犬男が言った。

「ええ、犬男は優しい人です。こんなことするなんて酷い。部下を守るために犬男になったのに…」

「お前、よく知ってるな。ドギーソルジャーって言うんだ」今まで黙っていた痩せ男が少し怒ったように言った。

「ハハハ、犬男でいい。犬男を知らない奴は首輪とリードで繋ぎ止めてないと不安がる奴がいるからな。パニクって撃ってくる奴さえいるんだ。俺も無用に手荒な真似はしたくないからな」犬男が目を細めて嬉しそうに笑った。


「どこへ行くんだ?良かったら乗って行きなさい」


「大顔の方へ行きます」


「なら、途中まで一緒だ。乗って行きなさい」犬男が隣の席を指差してブルドックの顔で満面の笑みを浮かべた。


 作治は少し躊躇した。


 こういう詐欺的なやり口で近づいてくる追い剥ぎのような連中のことは色々聞かせれてきたからだ。車に乗った途端にスピードを上げて銃や刃物を突き付けて身ぐるみを剥がす、という手口は誰でも知っていた。


「なあんだ、俺達を追い剥ぎかなんかだと思ってんのか?」痩せた男が眼をしかめて言った。「俺たちゃ、心優しい傷痍復員兵だぜ。ねぇ、少尉」


 少尉と呼ばれた犬男は口の片方をぐにゃりと上へねじ曲げた。それがこの犬男の微笑みらしい。

「最近は俺たちを知ってる者が少なくてな。そういう奴に出会えると嬉しくなるんだ」犬男は隣のシートを指し示しながら言った。

 作治は少し戸惑ったが、勧められるままリュックを背中から下ろし、少尉の隣に腰掛けた。

 二人の席の前には鋳型金物か何かで作った分厚そうで小さなタンクのようなものがあり、犬男はそこに開けられた扉をフットペダルで開けて、油のような液体が染みこんだ木片のようなものをトングで摘んで、何個か投げ入れた。どうやら、形状からして原始的なスチームエンジンらしい。所謂、蒸気機関だ。

 作治が蒸気エンジンに驚いている間に乗り物はゆっくりと動き出した。


「スチームエンジンだよ。初めて見るか?」犬男はエンジンのボイラーを呆然と見つめている作治に話しかけた。作治は何も言えず、黙って何度か頷いた。

「エンジンと言ったって、ガラクタを集めて作ったもんだから、トロトロしたスピードしか出ないけどな」犬男はまた口の端を吊り上げて笑った。

「俺は皆からラビットって呼ばれている。コイツはマーク曹長だ」ラビット少尉は運転席の痩せた男を指差した。

「ヨロシク〜」マーク曹長が陽気に歌うように挨拶した。


 犬男なのに「ラビット」とは、変な感じだ。


「僕は作治です」作治は軽く頭を下げた。「ヨロシクお願いします」


 ラビット少尉は挨拶する代わりに作治の肩を軽く叩いた。

「大顔地区に何しに行くんだ?若いの」ラビットはふやけた木片を小さなボイラーにトングで投げ入れながら尋ねた。


「特に何かをしに行く訳じゃないんです。最近、復興が進んだという話を聞いて、どこかの町を見てみようと思ったんです」


「確かにあの辺は最近賑やかだな。ジーク教の僧兵が幅を利かせてるって話だ」ラビットは沈んだ声で言った。



 ジーク教は大戦後に生まれた新興宗教で水龍教とも呼ばれるのが一般的で、龍神を祀った社と龍神の祝福を得た非汚染の冷たい水を売って生計を立てているが、それは民衆向けの顔であり、本来は開祖に習い、修業を経て「覚醒」するための宗教だそうだが、作治には詳しいことは解らなかった。なんでも内戦当時、西政府の弾圧を受けたために、現在は東政府について軍務の一部を担っているという。


 犬男たちは後に西政府側に付いた勢力に造られた人造兵士なので、東政府の僧兵たちとは関わり合いたくないのだろう。

「だが、内戦はまだ休戦中だ。西も東も臨時軍事政権が握ってるし、政府のやり方は強引だ。街に出ると役人なんかもうろついてるから用心するこった」ラビットはボイラーに湿って少し柔らかくなった木片を放り込みながら、喉の奥で唸るように言った。

「役人っていうと治安警察とか憲兵とかですか?」作治はラビットの顔を覗き込んだ。


「ああ、それに法務警察やら統治局の局員とか色々だ」ラビットは困ったような顔で作治を見返した。


「それだけじゃないぜ。住民登録や市民登録してない市民とか居住許可書や移転許可書をもってない奴らに色々酷いことする役人がわんさかいるんだ」マークが作治を振り返って甲高い声を出した。



 作治は警察とは別に治安警察というテロや無差別犯罪に対処する警察が出来たことは知っていたが、法務警察というのは初めて聞いた。大戦が勝ち負けをつけられず、曖昧に終わって以来、縦割りの各省庁が権力を増強させようとしているという噂は聞いていたが、色々な省庁が独自の警察機能まで手に入れているとは知らなかった。恐らく役所関係の手続きなどはかなり複雑になっているのだろう。


 ラビット達が作治に話した事によると、「領土拡張計画」の副産物として隆起した下野毛山脈の方に行くらしい。



 下野毛山脈は国土内の群島を隆起させて本島と陸続きの巨大半島を作るために行われた領土拡大計画の結果、僅か一月ちょっとで一万メートル以上隆起した巨大山脈だ。急激な隆起よって起こった巨大地震のためにその辺りは誰も住んでいないと推測し、そこに犬男や猫男の村を作るのだという。犬男の多くは人間の顔に戻してもらえると信じて、西側へ渡ったが、そんなものは幻想で、人体実験の被験者にされるのが関の山だとラビットは言った。


 三人は、作治が出会った犬男の話や戦闘の武勇伝や旅で立ち寄った集落の話などとりとめのない話をしながらトロトロと進んでいたが、二時間ほど走ると道は左側の上り坂と南へ大きく曲がる下り坂にわかれた。ラビット達は左側、作治が目指す猫崎へは右側の道だとマークが教えてくれ、三人はそこで別れた。

 蒸気自動車は奇妙な形の葉が生い茂る木々の間にすぐに消えてしまったが、消えるまでラビットも作治も大きく手を振っていた。

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