春の思い出の中に
琴月
春の思い出の中に
それは、偶然だった。隙間からもれる日差しに誘われた、柔らかな昼過ぎ。少し古びたベンチに腰を下ろしたのは、木陰になっているから。鞄の奥底に眠って、しばらく見ることがなかった日記帳を取り出す。最初の一ページを開き視線を落とすと、空欄が目立っているのがよくわかる。三日坊主にもならなかったと、思い出して笑ってみた。空白を集中して読む僕も、真っ白になっていくような気がした。
陽気な天気が眠気を誘う。微睡み続け夢へ飛びだってしまおうか。でも瞼が出会ってしまったら、友人との待ち合わせに遅れてしまうかもしれない。とりあえず、眠気覚ましに散歩でもしよう。働かない頭で考えても、寝てしまうだけだ。悪くない居心地だったのでまた来よう。栞を挟み、帰り支度を始めた時。薄紅が一片、舞った。
「隣いいですか?」
動作を止めたのは、ただの好奇心。軽く会釈をして、曖昧な大空を見上げる。意識が自然と彼女へ向いているのは、きっと気づかなくてもいいこと。そっと目を瞑った。
結局僕は友人のとの時間より、彼女との時間を優先してしまった。別に彼女と会話が弾んだとか、いい匂いがしたとか、そんなことは一切ない。理由は簡単で明確。隣にいて心地よかったから。
閉じていた日記帳を開く。服についていた花弁を数枚手に取り、新しい栞にした。空白が色付く。今度こそ本当に帰ろう。別れの挨拶はするはずがなかった。
彼女と同じベンチに座る回数が、片手では足りなくなった頃。彼女は僕に話しかけてきた。馬鹿と風邪の話。数カ月間は髪の毛を切らない話。それから、クリーニング屋のおばさんに孫ができた話。僕には関係の無いどうでもいい話を、ただただ聞いていた。飾られたぬいぐるみになった気分だ。思いのほか悪くなかった。
そして両手では追いつかなくなった頃。いつの間にか桃色に包まれた君が、大空から種をまいた。もちろん、不時着はあたりまえ。
「大嫌い」
悲痛な叫びが、大地を潤す。潤った大地は脆く二次災害を引き起こす。
「別れと出会い。どう頑張っても寂しさの方が心に響く。瘡蓋に薬を塗ったところで、痕は残ったまま。出会いの後に、別れがあるのは必然。だから、私は春が嫌い。跡を遺していくから。別れを連想させるから。春が、大っ嫌い。」
言葉を紡ぐたび、彼女を形作っている純情が綻んでいく。ほつれた糸に雁字搦めにされていく様子を、僕は静かに見ていた。
「貴方もいつか消えていく。私の目に映る貴方は、きっと今だけ。短い季節の間に、攫われるのよ」
“ そうは思わない?”と、囁かれた気がした。それに対して僕は、反応しなかった。というより何も理解出来ていないふりをして、困ったように眉を寄せた。無言が肯定だとするなら、違うのかもしれないけど。
「あたしの名前、特別に教えてあげようか?」
「知る必要ない」
間髪入れずに答えると、彼女は笑った。人生を詰め込んだ笑顔で、僕を見ていた。初めて言葉を交わした瞬間。それからだった。僕が彼女のことを君と表すようになったのは。
そして、これが君を見た最後だった。これが、君の最期だった。
あれからずっと花は枯れない。満開のまま僕に影を落とす。君の命が咲いている。僕の心が吸い取られていく。この下に埋めることができたら、少しは君に近づけるのだろうか。移ろう季節を感じられるのだろうか。
新しい息吹が枝分かれし、大輪の花を咲かせるように。生まれたてとは言えない想いも、膨らんで胸を焦がす。それなら、焦がし尽くしてしまえばいいんだ。傷ついてしまえばいいんだ。目も当てられないほど変色して、新しい純真に踏み潰されてしまえ。
純潔を折った。これは、僕を置き去りにした君への罰だ。宙に舞った香りは酷く甘くて。枯れてしまえば、ここで待つ必要はない。これは、捨てきれない僕の罪だ。嘘に居座ろうと、君を偽っている僕の夢だ。
いなくなったのは君だった。儚く散っていった。ずるい。ずるいよ。未来は望まなかった。今で精一杯だったから。振り返った時、瞳に焼き付く明るい色があれば、それでいいと思っていた。なのに君は思い出になることさえ許してくれない。僕が触れられるのはいつだって微かな独り言。雑音に溶け込む掠れた声は、すぐに擦り切れてしまうんだ。再生機は水浸しになって壊れた。 声が水に溶けていく。一緒に流れて消えてしまえと、花筏に想いを濁した。咲いた茜色は散ることなく。咲いた薄紅は水面に浮かぶ未熟な藍色に呑み込まれた。
僕は懲りもせずここに足を運ぶ。馬鹿みたいな頻度で。君を引き留めておく方法は考えつかないし、どうやっても忘れられなかった。温もりを探して、落胆して。木々の隙間から溢れる光が憎たらしい。
並木道に影が一つ。これが君ならいいのに、なんて。花吹雪が檻みたいだ。目隠しをされたまま、瞳を伏せて。
こうして僕は、夢見草に魅せられた。
君が嫌いな春に、囚われた。
春の思い出の中に 琴月 @usaginoyume
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