不穏


宴のたけなわもずいぶん前のように感じられるほど、飲み始めてから時間がたつが、いまだ三人に話の種は尽きない。


正確にはずっと碧嘉と班諒が問答を繰り返している。陵荘はというと、半刻前までは議論に参加し、盛んに語り合っていたのだが、いまでは酔いが回ったことによる眠気が怒涛のように押し寄せてきており、二人のする議論を左で聞いては首を振るだけの存在となっていた。


――よくまぁそこまで話すことがあるものだ


と、陵荘は半開きの眼で旧友を見据えながら感心した。


思えば碧嘉は昔からそうだ。


少しでも興味のあること、わからないことがあれば班諒に答えを求め、納得がいかなければ邸宅に宿を借りてでも議論を尽くしていた。泣きじゃくりながら班諒に舌戦を挑んでいるのを見たのは、どれほどだろう。


知への冒険心が大雪山より高いのが、子明だ。そんな男と友人であることが、おれにはうれしい。


「それで、いつごろ郡府へお越しになるのですか」


碧嘉がももに手をついて、行儀悪く尋ねた。楽しそうである。


話の中心はすでに地方の話題から京師の土産話を経て、根州の政治の話になっている。


「それが、早ければ明日にでも、と思っている」


「明日」


碧嘉は驚いた。


朝廷から印綬を預かり、遠路歩き詰めで帰ってきたのが昨日である。


班諒は見てわかる通り頑強でもなければ健脚の持ち主でもなく、地方を回るのも頻繁に体を休ませなければとてもままならなかった、ということを先ほど聞いたばかりである。体力に自信があるはずがない。


「そこまで急がれる必要はないのではありませんか。今は冬季ですし、郡守に指示を仰いだり許可を得なければいけないようなことはあまりありませんよ」


「それが、そうもいかんのだ」


半分寝かけていた陵荘がゆっくり目開いた。口が動く。


「どういうことです」


班諒は両袖に手を入れ腕を組んだ。下を向いている。


「あぁいや、めでたい席で話すことじゃないんだよ」


「それを言うなら勝州にお帰りになった奥方の話もするべきではなかったでしょう」


聞いていたのかと言いたげに班諒が口をすぼめる。班諒は感情を内に秘めない。


「それはそれ。この話は舌に乗せても苦いだけだ」


「そういわれると、先生。おわかりでしょう」


そうだ、ここには子明がいるのだ。


班諒は口がすべったといわんばかりに唇を噛んで左眉を上下した。双眸で語る碧嘉の追及から必死に逃げるように目をぎょろぎょろさせている。


やがて観念したのか、班諒は指で炉辺をトッと打つと、わずかに残った濁酒をほおばり、舌の滑りをよくするために口内を酒精で潤した。


「憶測の域を出ない、と前置きさせてもらいたい。私とて同祖の縁は大事にしたいのだ」


「同祖とは、また」


大げさではないか、と凌荘は目と口を細くした。



「乱世が、近いかもしれんのだ」



聞いたとき、陵荘の口は惰性で笑みを浮かべていたが、目だけが笑ってくれなかった。心臓が、是非生きようと彼を打つ。


碧嘉はというと、一瞬顔がこわばったのち、双眸そうぼうを斜め右下に向かせ、長くない顎鬚をしごいていた。


室内が急に冷え始めた。饗宴の熱が寒風にさらわれてゆく。炉を照らす焚火のぬくもりだけが三人のいのちを繋いでいるかのようだった。


「なにを見てきたのです、先生。どうやら、単なる物見遊山の旅ではなかったようですが…」



「もしそれが本当だとして、なぜ先生がそれを知っているのです。古昔こせきから大賊の出現には背景や前兆がつきものですが、網州は地味も豊かで民衆も、いまのところはよく治まっている。そのような賊の跳梁ちょうりょうを許す余地など、どこにありますか」


陵荘は世情に詳しくない。だが、さすがに隣州の情勢くらいは郡府で人づてに聞こえているし、ここ数年のうちに何度か州間の使者として網州へ派遣されているのだ。当地で得た知己ちきも多い。陵荘の言には書物などでは得られない「じつ」が伴っているはずであった。


班諒はいきなり舌がなめらかになった陵荘に少し驚いたが、ふっ、と笑って話をつづけた。


「九年前、私の友人だった常呂ところ郡の太守が網州飢饉こうしゅうききんの折、激昂した郡民に殺されたことは話したかな」


「先生から直接には。しかしそれは不当に課税して利を得た太守に非があったということではないのですか」


陵荘が歯に衣着せずに言う。さすがに無遠慮すぎたかとすこし後悔した。班諒はゆっくりと頭を振り否定した。


閻定えんじょうほど仁の心が篤かった人物を、私はほかに知らない。その話を聞いたとき、必ずおおきなうそがあると直感した。私は真実を知るために、巡遊行の締めとして網州を訪れたのだ。そして、わかった」


そういうと班諒は自分の椀に酒を注ぎ、それを呷って一息入れた。





班諒の話をわかるためには、”網州飢饉”について知っておかなければならない。





九年前、延元えんげん年間八年目の年。


母子里を史上類を見ないほどの冷害が襲った。


なかでも道東(母子里の東部、都から見て道が東に延びた先にあるという意味から)の被害はすさまじく、他州は流通させる作物を限界まで減らすことで何とか食っていくことができたが、根州、釧州、網州では、冬を越すだけの蓄えもない民が多数を占めており、その深刻さはいっそう、目を覆うほどであった。


加えてたちまちの内に物価が高騰し、広大な荘園を有する貴族や大地主が、そうした世情を利用して、大利だいりをむさぼり始めたのである。


のちに宣帝とおくりなされる鄒祜すうこは、この窮状を知りすぐさま三公を招集し、穀倉の開放を協議させた。宣帝の恤民じゅつみんの心がそうさせた、という点には疑いはないが、それ以上に富の不均衡により生ずる地方権力の勃興を恐れたのである。実際に根州などでは大事な経済基盤となる家畜や作物の種をほぼ食べつくしてでも飢えをしのごうとした者までいたのだ。


はたして豊平から、穀物を満載した車が、道央道と中央街道に沿って長蛇の列を形成した。延元八年もすでに十月に入っており、雪が降る前に穀物を届けねばならない救民将軍、揚固ようこと救世将軍、周誕しゅうたん両人の責任の重さは、函朝始まって有数のものだったろう。


朝廷から穀物の供出があると正式に郡府から告げられた三州の住民たちは、涙を流して喜び合った。郡からしてみれば高騰した食物の不買運動を促進するという極めて政治的な目的があったのだが、民衆にしてみれば飢えの恐怖から解放される喜びは筆舌に尽くしがたいものがあったのだろう。


揚固が率いる輸送隊は、彼自身と彼の幕僚達が練り上げた綿密な輸送計画のおかげで、賊の寇略こうりゃくに遭うことなく十一月に入るまでに胆州たんしゅう日州じっしゅう、を抜けて勝州の半ばまで到達することができた。


ここまでくると揚固は、ほっと胸をなでおろすことができる。釧州軍が総出で迎えに来てくれるからである。途中に通った諸州は兵糧の供出を主に行うだけで、兵力は一部しか提供してくれなかったのだ。


かくして揚固は十一月の半ばには釧州に、十二月に入る直前に根州に穀物を送り届けることができた。到着した穀物はそれぞれの郡府に分配され、それまでに被った民衆の損失も勘案にいれて適正価格よりもずっと低い値段で売買された。むろん、買い占めなどは許さなかった。


ひるがえって網州である。


網州に向って輸送隊を指揮していた周誕は、むろん賊に対する備えを怠らなかった。まず通過予定の諸州中にげきを飛ばし、兵馬と糧秣りょうまつの出し惜しみをしないように強く勧告した。従わない郡太守は皇帝から預かったせつを根拠に、周誕自ら斬殺した。


そうして三万にまで増えた大軍を、上州旭川に入った時点で三隊に分けておいた輸送隊に、それぞれ一万ずつ分配したのである。これには、ただでさえ長すぎる隊列を短くすることで賊の攻撃から守りやすく、さらにこれから入る山地で大軍を速やかに展開しやすくすること、分進する形で網州に入ることで、たとえ少し到着が遅れようとも降雪する前に網州全体に穀物をいきわたらせるという意図があった。


匪賊ひぞくが多いという網州へ物資を運ぶのである。この程度の配慮は周誕にとって当然のことであった。


延元八年はすでに十一月の下旬である。


三隊はそれぞれ分進する形で網州を目指し始めた。一隊は大雪街道を南下し北見へ、一隊は下川街道沿いに北上し、興部こうぶへ、周誕は各隊の連絡を受けやすいように中央を通る道、石北街道を通り遠軽へ向かう。


分進を開始してから五日ほど、各隊は行軍上の難所である北見山地へ入山した。この時点で周誕は、最後の一手を打つ。網州への援軍要請である。


県令・県長(どちらも県の長)から食料が届きつつあると知らされた網州の民は抱き合って喜んだ。実のところ、釧州と根州には穀物がすでに届いているのに、網州だけ全く音沙汰がなかったので、民衆は皆、愁眉しゅうびを寄せていたのである。それだけに内にたまった不安を解放させたときの余波はすさまじく、命をつなぐための穀物を蓄えた納屋を開け放ち、酒蔵さかぐらを解放して宴会を催すものまであらわれた。


ところがである。

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