欠片たちの物語(蛇足)

蟹井克巳

ちょっとお借りします



※こちらは筆者の長編小説「転がるペガサスとユニコーンパラダイス」から派生したお話となっています。一話完結のショートショートですが、元の作品を読んで頂くと、さらに楽しめると思います。






 ちょっとお借りします!


 頭の中で突然そんな声がしたのは俺が良い気持ちで歓楽街を歩いている時だった。会社の帰りに同僚たちと楽しく飲んだ帰りだったから素直に「ああ、幻聴とはちょっと呑み過ぎたかな?」と思ったのだが、すぐにそれが間違いだと気付いた。


 ……えっ、あれれ、足が勝手に!


 そう、俺の足は自分の意志とはまるで違う方向へ勝手に歩き始めたのだ。今まで行ったこともないような路地に俺の足は向かっていた。自分の体が勝手に動いている。その恐怖にかられた俺はもちろんすぐに助けを呼ぼうと思った。しかし次の瞬間、俺を裏切ったのは足だけではなかったと悟ることになった。


 こ、声が出ない!? 手も動かない! 俺の体が自由にならない!


 焦る俺を尻目に俺の体は慣れた様子で入り組んだ路地を歩いていった。いったい今の自分はどんな顔をしているのだろう? ふとそんな疑問に襲われた。恐らく表情さえ何者かに乗っ取られているのだろう。私の精神はこんなに恐怖でいっぱいなのに、たまにすれ違うほろ酔い気分のサラリーマンたちは私の顔に全く関心を払わなかった。


 ちくしょう! 何なんだよ! いったい俺の体はどこに向かっているんだ? 誰か助けてくれ!


 そう思っていると突然俺の足は立ち止まった。初めて見る店の前。どうやら小さなバーのようだった。俺自身はあまり初見の店にひとりで入る方ではないのだが、操られている俺の手は何の躊躇もなく、その店の戸を開いた。


「いらっしゃいませ」


 店内には壁のあちこちに花の描かれたお洒落なポスターが貼られていた。こぢんまりとしているがなかなか趣味の良さそうな店だった。声を掛けてきた白髭のマスターも品が良さそうで店と良い意味で一体になっているような感じがした。こんな形で入らなければ「良い店を見つけた」と素直に喜べたに違いない。しかし今の俺は不安の方が明らかに大きかった。案の定、俺の体は勝手に軽く会釈をしてカウンター席に座ると注文をしてマスターに話し掛け始めた。


「初めてお邪魔したのですが良いお店ですね。マスターはジョージア・オキーフがお好きなんですか?」


「おお! そうなんですよ。いやあ、嬉しいなあ。これをわかって頂けるとは」


 おき、じょー……、何だって?


 嬉しそうなマスターには悪いが聞いたこともない単語だった。自分の口から出た言葉とはとても思えない。たぶん人の名前なのだろうが、欧米っぽいな、くらいの感想しか持てなかった。俺の体を乗っ取って喋っている何者かは結構こういうものに詳しいのだろうか?


 そんなことを思っているとマスターとは違う若い声の男性が急に話に割り込んできた。 


「オキーフなら僕は花よりも動物の骨を描いたシリーズの方が好きですね」


 誰だ? 俺の首が勝手に右を向き、その眼はカウンターの隅に座っていたスーツ姿のまだ若そうな男性を捉えた。


「おっと、すいません。勝手に口を挟んじゃって」


「いや、良いんですよ。お若いのに絵がお好きなんですか? お詳しいようですが」


「いえいえ、そんなに詳しいわけじゃないんですよ。以前、画家が主人公の小説を書いた時にちょっと調べたので印象に残っているだけで」


 自分の口が勝手に青年と会話をしている。その変な状態に戸惑ったものの青年の気さくな感じに影響され、俺はちょっと楽しい気持ちになった。陳腐な小説によくある手垢のついたこんな状況も一度くらいなら面白いかもしれない。不思議とそんな気になった。そういえば、今、彼は「小説」と言ったような……。そんな俺の疑問に答えてくれたのは青年ではなくマスターだった。


「お客さん、彼は小説家の先生なんですよ。若手の中では結構注目されている期待の星なんです」


 へえ、そうなのか。不勉強な俺は全く彼の顔を知らなかった。


「へえ、そうなんですか。すいません、不勉強なもので存じあげなくて」


 変な表現だが俺の口は俺の代弁をするようにそう言った。しかし妙な感じがした。言葉とは裏腹に驚きの感情が込もっていない気がしたのだ。俺を操っている奴はひょっとしたらこいつのことを前から知っていたんじゃないか、そんな気がした。


「いえ、とんでもない。謝らないでください。マスターはいつも大袈裟なんですよ。ちょっと賞を頂いただけで世間的には全然有名なんかじゃないんです」


「それでも大したものじゃないですか。私なんてしがない普通の会社員ですよ。何の才能もなくてね。自分の才能を活かして食べていけるなんて羨ましいなあ」


 くそ! なぜかここだけ本当のことを言いやがって。俺は俺の口を動かしている奴にあかんべえしてやりたい気分だった。


「こんなことを言うと怒られるかもしれないですが、僕は普通の会社員に憧れるなあ」


「ほお、なぜです?」


「会社は休みがあるでしょう? でも小説家は自分が話を生み出せない場合は誰も代わりをやってくれませんからね。もちろん有給休暇なんてないし一日中小説のことを考えてないといけない因果な商売ですよ。例えじゃなくて本当にいま書いている作品のストーリーを夢に見ることもあるんです」


「ああ、それは休まらないでしょうね。あの、失礼だが今も少し表情が優れないように見えますが」


「あれ、そうですか? ああ、ひょっとするとそれは小説とは違うことで悩んでいるからかもしれませんね……」


「小説以外の悩みですか。……あの、初対面の私でも良かったらその悩みを話してみませんか?」


「えっ!? いや、でも……」


「ひとりで抱えるより他人に話した方が気も楽になるでしょう。むしろ初対面で詳しい事情を知らない私のような人間だからこそアドバイスできることもあるかもしれない。どうです?」


 俺は確かに人の相談に乗るようなタイプではなかったが、俺を動かしている奴はなかなかのお節介野郎らしかった。


「……そうですね。あなたとここで会えたのも何かの縁かも知れません。じゃあ、お言葉に甘えて少しお話させて頂きます」


 そう言うと彼はふうっと息を吐いた。そこには何かしらの覚悟が見えた。


「実は僕にはいま結婚を考えている彼女がいるんです。たまに喧嘩もしますけど、まあ、うまいこと今までやってきました。僕は彼女を愛しているし彼女も僕を愛してくれていると思います。ただ、彼女が結婚に乗り気じゃない感じがして……」


「なるほど。それは君が小説家だということと関係あるのですか?」


「いや、そうは思いません。確かに小説家なんて収入は安定していないし結婚となると不安に思うのが普通でしょうね。でも彼女はそんなことを気にする娘じゃないんです。僕が言うのも恥ずかしいですけど思いやりがあって前向きで性格のとても良い娘なんです。彼女が気にしているのはむしろ僕じゃなくて彼女自身のことだと思うんです」


「彼女自身? 彼女に結婚できない理由があると?」


「はい。実は彼女は……、言い難いことですが、ある大きな罪を犯したことがあるんです。でもそれは彼女が自分自身を守るためには仕方ない行動だった。彼女は法に則ってちゃんと罪を償いましたし、僕は全く気にしていません。それを知った上で彼女と結婚したい、彼女をこれからも守って行きたいと思っているんです。でも彼女はずっとそれを気にしている。笑顔でいる時も僕に寄り添っている時も心のどこかでそれを気にしている。それがわかるんです。忘れたくても忘れられず苦しんでいるようです。そんな彼女に、これ以上、僕は何をやってあげればいいのか、最近わからなくなってしまったんです」


「なるほどね。うむ、難しい問題だ。君も辛いでしょう? 傷付いて苦しむ相手を見守ることは自分が傷つくより苦しいからね」


 ほお、俺の口、なかなか良いことを言うじゃねえか。俺はちょっと泣きそうだった。


「僕は大丈夫です。でも彼女の傷を何とかしてあげたくて」


 そう言った彼の表情には嘘など微塵も感じられなかった。気持ちの良い青年だ。ところが俺の口はそんな俺の感想を無視して意外な言葉を口にした。


「……失礼だが、君は心のどこかで自分に酔っているんじゃないですか?」


「えっ……、それはどういう意味ですか?」


「彼女を守るとか言っていましたよね? でも一方的に守ってやるなんておこがましい考え方はすでに恋愛とは言えないと思いませんか? そんなのただの同情ですよ。ひょっとしたら彼女も君のそんな気持ちに気付いているんじゃないかな?」


 ば、馬鹿野郎! 俺の口の馬鹿野郎! なんてひどいことを言うんだ! おまえ、いったい何様のつもりだよ!


 ……あっ、俺の口か。


「そ、そんなことはありません! 同情なんかじゃないんです!」


 彼は語気を荒げて否定した。当然のことだ。そしてそこにそれまで黙って俺たちの話を聞いていたマスターが加勢した。


「お客さん、彼はそんなナルシストではありませんよ。いつも彼女のことを第一に考えている素晴らしい青年だ。ここにも何度か彼女と一緒に来てくれたことがありましてね。お互いを大事に考えていることが二人の会話を聞いているだけでわかるんです。お客さんの言うような関係には見えませんよ」


 そうだ、そうだ! 俺の口の野郎、もうこれ以上いい加減なことを言うのは止めろよ!


 俺は心の中でそう主張したのだが、俺の口は全くお構いなしだった。


「でも気持ちは見えませんからね。彼女の本心は彼女以外の誰にもわからない」


「それは……、そうかもしれませんけど……」


「小説家っていうのは物語を創るのが仕事でしょう? それはつまり常に物語を創る思考になっているということだ。その癖のせいで自分のリアルの人生まで飾られた物語にしようとしているんじゃないですか? 自分が設定した幸せに彼女を無理やり当て嵌めようとしていないかい? それを酔っていると言ったんだ」


「そ、そんなことは……。じゃ、じゃあ、あなたは『結婚は彼女の幸せじゃない』って言いたいんですか?」


「そうは言っていないよ。でも君は必要以上に焦っているように見える。気持ちよりも先に環境を整えようとしているとしか思えない。早く結婚しないと彼女が自分の元から離れていくんじゃないかって恐れているみたいだ」 


「恐れて……、いや、でも、そうか……」


 俺の口が言った「恐れ」という言葉を聞いて青年は急にハッとしたような表情を浮かべた。


「確かにそうかもしれません。僕は元々自分に自信がない人間だった。でも彼女を守るために強い自分を今まで演じてきました。でもそれもそろそろ限界なのかもしれない。僕は素の自分を彼女に見せるのが怖いんです。弱い僕に愛想を尽かして彼女が離れていってしまう気がして……」


「あなたは無意識に騎士(ナイト)気取りになっていたんだよ。だから苦しくなる。自分の心に自分で足枷を付けているようなものだ。そんなことをすると失敗するよ。僕のようにね」


「えっ、僕のように?」


「おっと、それはこっちの話だった。気にしなくていいよ。こういう時はね、原点を思い出してみればいいんだ。あなたが彼女と出会った頃のことを。そうすれば答えは自ずと出てくるはずだよ。そして変に構えずにその君の素直な思いを彼女にぶつけてみればいいんじゃないかな? そうすれば彼女だって素直に答えてくれるはずだよ」


「そうか、僕は無意識にカッコつけていたのかもしれません。あの時の素直な思いか……」


 どうやら彼は俺の口が言ったことにふと考える部分があったらしい。明らかにその表情がパッと晴れた。


「なんかすっきりしました。ありがとうございます。あっ、僕、これで失礼します。彼女のことを考えていたら会いたくなっちゃって。マスター、お会計お願いします」


「今度来た時でいいよ。これは私の勘だけどね、彼女もいま君からの連絡を待っているような気がするな。早く行ってあげなさい。それと今度来る時は必ず二人でね」


「はい! じゃあ、これで。お二人ともありがとうございました!」


 そう言うと彼は俺とマスターに深々と頭を下げ飛び出すように店を出ていった。静かさが戻った店内でマスターはニコニコと笑いながら俺に向かって話し掛けてきた。


「今時、珍しいくらい清々しい青年でしょう? お客さんのアドバイスが効いたようですね。私からも御礼申し上げますよ」


「いえ、私は何もしてませんよ。彼が忘れていたことをちょっと思い出させただけです。彼は絶望の淵にいた彼女を救うためにあの時こう誓ったんです。『きっといつか君が空ばかり見ないようにしてみせる、絶対に』ってね。それは自分の方に振り向かせるって意味じゃなかったはずだ。彼女がたまに空を見てしまうのは仕方ないこと。空はいつでも彼女の眼の前にあるのだから。でも常に隣にいて、その手をぎゅっと握ることで彼女を一人にしない。彼は最初そう思っていたはずなんです。でも大人になっていくとそれまでわからなかった部分も見えてくる。そのせいで彼は迷子になっていたんでしょう。でも、もう大丈夫。彼は自分を弱い人間なんて言っていましたけど彼は本来強い人間です。『親友』の『僕』が言うんだから間違い無いですよ」


「えっ? 親友って、お客さん、あんた、いったい何者なんだ? ずいぶん彼のことに詳しいが……」


「あっ、いえ、実際に会ったのは一度だけなんですけどね。でも親友です。転がっていた僕に翼を与えてくれたのは彼だから。だからこそ僕は『彼女』を彼に任せたんですよ」


「お客さん?」


 その時、「彼」は俺の心の中で「ありがとうございました」と言った。体から何かが抜けるような感覚があり、次の瞬間、体の自由が突然戻った。思わず俺はきょろきょろと店内を見渡した。でも声の主はどこにも見当たらなかった。


「お、お客さん、どうなさったのですか?」


「あ、いや、それが……。俺の方が聞きたいくらいなんだが」


 俺は怪訝な表情を浮かべるマスターに今まであったことをそのまま話した。普通なら頭がおかしいと思われても仕方ない話だったが、彼はなぜかうんうん頷きながら聞いてくれた。


「……なるほど。じゃあ、先程まで話していたのは本当のあなたじゃないと?」


「ああ。狐につままれたような話ですがね。俺はあの青年のことなんか知らないしオキーフなんて画家のことも今日初めて聞いたくらいですし」


「不思議な話ですねえ。それにしても狐か。いや、ひょっとしたらお客さんを化かしたのは一角獣かも知れませんよ?」


「はあ? 一角獣って角の生えた馬、えーと、ユニコーンでしたっけ、それのことですか? あれって化かすんですか?」


「まあね。お客さん、この店の名前、知っています?」


「あっ、そういえばまだ聞いていませんでした。それとユニコーンに関係が?」


「ええ。彼は私がこの店を開く前に勤めていた店の常連だったんですよ。それが縁でこの店を開く時に彼の作品から名前を取らせてもらったんです」


「そうだったんですか。それでこの店の名は?」


「この店は『ユニコーンパラダイス』っていうんです」




             (了)





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