32 水面下のたたかい(後)

「はー、終わったー」


 旅館の部屋に戻ると、旭は広縁の椅子にふにゃふにゃと体をあずけた。


「到着してすぐ報告会だったものね、退屈させて悪かったわ」


 用意されていた急須から茶を注ぎながら、彰吾は旭に声をかける。

 それから視線を旭の反対側、入り口のあたりに留まったままの夕季とノクスへ向けた。

 二人は妙な間合いを保って、無言のまま互いを牽制し合っているようであった。


「……疲れたでしょ?」

「う? う、うん、ちょっとね」


 旭の答えに、彰吾は苦笑した。

 夕季とノクスは行きの車内でもこの調子であり、何かと旭に近づこうとしては静かに火花を散らしている。

 言い知れない緊張感にあてられて必要以上に疲れた様子の旭が気の毒に思えた。


「アサヒも災難だねえ。ま、小難しい用事も終わったことだし、あとはくつろごうじゃないか」

「そうネ。温泉でリラックスしていらっしゃいな」

「うん……あ、虎珠達はどうするの?」


 ヘレナと彰吾に促されるままうなずいてから、旭は広縁に向かい合って座った虎珠を見た。

 虎珠はテーブルに置いてあったダイキャスト製のパズルを両手で弄びながらぼんやりと答えた。


「んー、俺や濤鏡鬼はフロってピンと来ねーからなあ。テキトーにブラブラしてるよ。この辺、山防人みかたらしいからよ、ラ=ズが出歩いても平気なんだろ」

「ならラ=ズ組は私と一緒に観光しましょうか。案内役が居た方がいいでしょ」


 決まりだね、とタオルを手に立ち上がった旭に今度はノクスが声をかけた。


「旭、一人で大丈夫……?」


「大丈夫だよ。銭湯だとお父さんと一緒だけどね」


 *


 旭たちが部屋を出てすぐ、夕季はヘレナに耳打ちした。


「ヘレナさん、ちょっといいですか」

「なんだい」

「さっき嵐剣丸と調べてきたんですけど、いまこの宿泊施設に泊まっているのは私たち以外は男性客だけです」

「それで?」

「……浴場で何かあった場合、対処が難しくなると思いませんか」


 夕季は鉄面皮ポーカーフェイスを崩さない。

 表情が無いからこそ、見る者はその意図を想像する。


「……旭が心配」


 本気で旭の身を案じ始めたノクスを見て、ヘレナは舌を巻いた。

 実際のところ、この旅館は山防人の息がかかった施設である。宿泊客もおそらく身をやつした関係者だ。

 だが、夕季は最小限の情報と立ち振る舞いでノクスの不安を煽ることに成功した。こうなってしまえば放っておいてもノクスが行動を起こすだろう。


 ――そう、ここまでの流れは明らかに計算ずく。綿貫つらぬき 夕季ゆき工作員にんじゃとしての手管を持ってすれば造作もないことであった。


「――しょうがないね。まあ、があるからねえ?」


 ニヤリと口の端をつりあげるヘレナに、あとの二人もうなずいた。


 *


「広―い!」


 旭が歓声をあげる。誰もいない大浴場は貸切状態だ。


「ほう、こいつは結構なものじゃないか」

「うん、すごいね、ヘレナさん……って、えええええええええ!?」


 旭の声が大浴場に反響する。

 背後にいつの間にか一糸まとわぬ姿で仁王立ちするヘレナが居た。

 遅れて夕季とノクスが素肌を白いタオル一枚で隠しながら後ろにならんだ。


「ど、どどどどど、どうして!?」

「どうしてって、ここは女湯だからねェ」

「おんな、ゆ――なんで、僕、男湯に入ったはずなのに」

「さあねえ?」


 ヘレナは顔を真っ赤にしてうつむく旭を見おろして――魔破斗摩マハトマのちょっとした応用さ――と胸の内で呟いた。


「どうしよう。ぼっ、僕、男なのに」

「アサヒは――ふむ、大丈夫。セーフだよ」

「どこ見て言ってるんですかヘレナさん!?」


「そうね。まだギリギリ合法セーフ……」


 夕季もヘレナが見るのと同じ部位ばしょを凝視。

 眼鏡を外した裸眼の視界は少々かすんでいるが、鍛え抜かれた心眼で補った。完全にアウトである。


「……旭……洗ってあげるね」


 ノクスが白い頰を上気させてタオルを構える。

 自身の柔肌を隠していたタオルである。旭は思わず手で自分の目を覆った。


「そこまで子ども扱いするものじゃないわ(そう。子供から大人への過渡期を控えた微妙かつ絶妙な状態――とでも言うべき姿――秘伝の止血剤鼻血どめを服用してきたのは正解……! この絶景に小娘を介入させることなどあってはならない……さりとて私がとって代わるのも下策……最適解は、旭くんが自分で体を洗っているところを目に焼き付けておくこと……! そうすることで今後は脳内で再生が可能……先々を見越した完璧な戦略……! そんなことも分かっていないとは、所詮小娘!)」

「ううッ――なんか寒気がする」

「大丈夫? はやく温泉、入らないとね。旭くん」


 夕季は上半身を屈めて旭と視線を合わせる。

 恥ずかしさで伏し目がちになった少年の視線の先に、タオルで隠した豊かな胸元がちょうど飛び込んでくる。


 それすらも、飛騨筆頭くノ一の計算のうちであった。


 *


 なし崩しに混浴することになった旭は、開き直って露天風呂に浸かっていた。当然のごとく両隣に位置取った夕季とノクスのことは努めて気にしないようにしている。


「こうして見ていると、あなたがダイラセンだなんて信じられないですね」


 夕季が向かいのヘレナを眺めるように見て言った。

 虎珠たちと同じラ=ズの彼女にとって温泉は水風呂のようなものであろうが、この場の風情を楽しんでいるといった様子である。


「すごかったんだよ、ヘレナさん。ドリルのついた列車と合体しちゃったんだ」

「……合体変形と巨大化。パシフィスと名乗ったあのダイラセンも、同じようなことをしていた」

「もしかしてダイラセンって、みんな巨大ロボットみたいになれるの?」

「そう言われてみれば、あたしの知る限りダイラセンは例外なく大きくなれるね。ま、大陸を融合ったんだからね、あれでもずいぶん小さいもんだろ」

「知る限り、ですか。それでは、先の報告にあった“メガラニカ”も?」


 夕季がその名を口にすると、ヘレナは飄々としたおもてのまま眼差しだけを鋭くした。

 旭の隣で、ノクスが膝を抱き寄せるようにした。


「ああ。ダイラセン・メガラニカ――二十年前にアトランティスを復活させようとした張本人。巨体タッパとパワーはあたしと互角だったが、いやらしいからめ手が得意でね、厄介なヤツだったよ」

「でも、勝てたんだよね」

「そうとも。私と刻冥、そしてギョーゾーが力を合わせてね」

「お爺ちゃんも戦った、って……あんな大きなやつと!?」

「試作品のDRLで刻冥と電身したのさ。事実ギョーゾーが居なければ危なかった」


 懐かしむように言って、ヘレナは左の脇腹に手をやった。

 ほかには傷ひとつない肌に一点、そこにだけ痛々しい古傷が残っていた。


 ヘレナの古傷にときどき目をやりながら、ノクスが尋ねる。


「……今の刻冥は、強い?」

「そうだね、どういうわけか、電身していたあの時のままの強さだ。新しいパートナーを見つけたのかね。あのがそう簡単に鞍替えするとは思えないけどね」

「……どうして断言できるの?」


刻冥あの子はギョーゾーにだったからさ」


 *


「あら、旭君?」


 大浴場から部屋へ戻るところで、不意に声をかけてきたのは里美であった。


「わ、里美先生。先生も旅行?」

「うふふ、奇遇ね?」


 浴衣姿の里美に旭はどぎまぎした。

 ノクスは以前と同様に旭を抱き寄せ「はやく行こう」と急かし、ヘレナは首をかしげ。

 そして夕季は、鉄面皮で隠しきれない驚きの色を目に浮かべた。


「到着されたばかり、ですか?」

「ええ。これから浴場へ行こうかと」

「――“風”は強くありませんでしたか」

「そうね。よく“廻って”いて――」

「!」


 会釈して通り過ぎる里美に、夕季はそれ以上言葉をかけることはせず。

 うつむいた眼鏡のレンズに、蛍光灯の白い光が反射していた。


 *


 広々とした露天風呂に、美女が艶かしい肢体を浸している。

 滴る水の玉が里美の首筋から鎖骨をすべって水面へ吸いこまれた。

 周囲に広がる山々の風景にけこむかのような、画になる美しさである。


「あら、また入られるの?」


 里美が振り返ることなく言った背後には、裸の夕季が立っていた。


「――気配、消してたつもりなんだけど」

「昔から勘が良いって言われるんです」

「とぼけないで、めい。あなた、草戸そうど めいでしょ」

「私は、堂本里美よ」

「“廻る風”! 合言葉に答えておいて、人違いだなんて言わせない! 山を抜けて、今までどうしてたの、メイねえちゃん!」


 叫ぶように“めい”と呼ぶ夕季に対し、里美はゆっくりと立ち上がり。


「――――?」


 里美が背中越しにそう言うと、足元の湯がひとりでに渦をまき水の柱となって全身を包んだ。


「待って、明!」


 夕季の声は、巻き上げられた水音にかき消され。

 水の柱が消えた跡には、堂本里美の姿はどこにも無かった。

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