クリスマス、終末にて

@kuriki_sasa

クリスマス、終末にて

 1


 メリークリスマス。

 今夜はクリスマスイブ。

 雪と氷に覆われた街は耳鳴りがしそうなほど静かで、道路や電柱、その他あらゆるものが星の明かりを受けてきらきらと輝いていました。

 幻想的で残酷な、静止した世界。

 だけど私にはそんな景色を楽しむ余裕などありません。

 私は必死で走ります。

 十年間健やかに育ってきた腕と足をこれでもかと動かして凍った街を駆け抜けます。

 足を前へと出すたび、背中のリュックに詰めた缶詰達ががらがらと私を鼓舞しますが、そんなことではどうにもならないほど限界はすぐそこに迫っていました。

 肺は凍え、心臓は破裂寸前です。

 膝は笑い、額から汗が流れます。

 それでも私は止まりません。止まれません。

 気温によるものとは別の寒気が私を突き動かしています。

 後ろから足音。二人分。

 缶詰同士がぶつかる音に紛れて確かに聞こえます。

 錯覚ではありません。幻聴ではありません。たしかに私を追ってきているようでした。

 廃工場で食料と薬品を盗んで、かれこれ十分ほどでしょうか。こっちは全力で走っているというのに徐々に距離を詰められています。

 この足音が誰のものにせよ、今の街で私のような子供を追ってくる奴にろくな奴はいません。

 渇いた喉が水分を求めて蠢きました。

 捕まったら殺されます。

 何とかしなければ。

 あまり迷っている時間はなさそうでした。

 私は決心を固めると、ひときわ大きく息を吸い込みます。

 八メートル先、曲がり角。

 呼吸を止め、一息に走り抜けると、カーブミラーの支柱を掴んで急カーブ。手袋が表面の氷を削り取ります。

 そのままの勢いでリュックを下ろすと、私はずるりと得物を取り出しました。

 レミントンM1100。猟銃です。

 私は急いでそれを構えます。ストックをしっかりと肩に当て、曲がり角から現われる誰かに意識を集中します。

 近付いてくる足音、呼吸音、そして私の心臓の音。セーフティを外し、指を引き金に。

 じりじりと焼かれるような緊張の中、ついに奴が姿を見せました。

 落ち窪んだ目に伸び放題の髭、痩せこけた身体には元は服だったであろう赤い布切れがかろうじて張り付いています。

 やっぱり。

 サンタだ。

 サンタは私を見付けると雄叫びを上げ、こちらに走ってきます。

 銃など見えていないかのような突撃は恐しく、私は逃げ出しそうになりますが、唇を噛み締めて何とか踏み止まります。

 一秒、二秒、限界まで引き付け──、

 そして出来るだけ見ないように目をつむると、力を込めて引き金を引きました。

 肩への衝撃と轟音。

 生温い雨と鉄の臭い。

 耳鳴り。

 おそるおそる目を開けると、上半身が抉れた死体が一人分倒れていました。

 やりました。勝ちました。

 その喜びもすぐにもう一つの足音でかき消されます。

 私は急いでレミントンを構え直し、曲がり角を見据えて引き金をしぼります。

 いつでも撃てます。来るなら来い。

 しかしいつまで経ってもサンタの姿は見えず、代わりにひょろひょろとした声が聞こえてきました。

「頼むから落ち着いて。銃を下ろして」

 驚きました。人間です。

 サンタは言葉を話しません。これは人間です。

「お願いだから撃たないでくれ」

 私は目をぱちくりさせながらレミントンを下ろします。

 なんということでしょう。

「大丈夫です。撃ちませんよ」

「本当に?」

「本当です」

 私がそう言うと彼はおずおずと姿を表しました。

 十五、六歳でしょうか。声のイメージ通りの縦に細長い風貌。混じりっ気なしの白髪。蛍光グリーンの防寒具。手には金属バット。

 本物の人間です。生き残りです。

 あまりの衝撃に呆気にとられていると、彼は私を見てはにかみながら言いました。

「君を助けに来たんだ」


 ※


 今このとき、私を助けてくれる人は誰もいません。

 母は今日も金切り声で私を罵しります。

 成績が──。こんな簡単な家事が──。その目付きが──。

 私を床に正座させ、自分は椅子に座り、何度も何度も何度も何度も汚い言葉を私に向けて吐き出します。

 私はできるだけ母の不興を買わないようにうつむき、聞き流しながらただひたすらに耐えるのみです。

 たまにリモコンや、コップなどが飛んできて私を痛め付けますが、もはや些細なことでした。

 いつからこんなふうになったのでしょう。

 あとどれくらい耐えればいいのでしょう。

 五年? 十年? 十五年? 大人になれば逃げられるのでしょうか。仮にそうだったとして、まだほんの子供である私にとって、その時間は永遠とも言えるほど長く感じられました。まるで未来がなくなってしまったかのようにすら思えます。

 絶望です。地獄です。ただ、そんな地獄にもほんの少しだけ救いがありました。

 母が飲み終わったビールの空き缶を私に投げ付けたとき、家の外にヘッドライトの光が見えました。

 父の車です。

 瞬間、母は怯えたようになり、私に部屋に行けと命じます。

 私は大人しく従います。反発したい気持ちもありましたが、それ以上にこの場から早く離れたかったのです。

 時刻はもう深夜でした。

 階段を登り、部屋に行き、布団に入ります。人の入っていなかった布団はひんやりと心地良くて、痛む身体を癒してくれます。

 その直後、階下から玄関のドアが開く音と父の声が聞こえました。

 父は母に二言三言話しかけるとそのまま私の部屋へと向かいます。

 すぐに心配そうな表情の父がドアから顔を覗かせました。

 私がおかえりと声をかけると父は今日もごめんなと私にあやまります。

 そして父はベッドに腰掛け、私の頭をやさしく撫でながら言うのでした。

「母さんは今ちょっと変になっているだけなんだ」

「分かってる」

 私は最大限の慈愛をもって答えると、父はすまなそうに頷きます。それから母さんには内緒だぞとプリンをくれました。

 私の大好物です。

 父は私がプリンを頬張るのを見届けてから、部屋を出ていきました。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 私は父が大好きです。母とは違い、私の話をきちんと聞いてくれるし、休みの日は遊んでくれるし、何より私を対等に扱ってくれます。それがどれだけ救いになっているか。

 でも地獄は変わらず地獄なのです。どんなに救いがあろうとも。

 私は食べ終えたプリンのカップをゴミ箱に捨てると、冷えてきた鼻を暖めるため、頭の先まですっぽりと布団にくるまりました。

 暖かさに満足し、目を瞑ります。

 来週にはもうクリスマスイブ。

 ああ、サンタさん。私は母が嫌いです。あの女を殺してください。


 2


 意味ありげに現われた男の子──仮にも年上のようなのでお兄さんと呼びます──を私は知りませんでした。

 話したことはおろか、この街で暮らしていて一度も見たことがありません。

 もしかして別の街から来たのでしょうか。

 何のために?

 ふと湧いた疑念が緩みかけた緊張を引き締め直してくれます。

 安心してはいけません。安堵してはいけません。彼が人間かどうかはまだ定かでなく、仮に人間だったとしても味方かどうかは分からないのですから。

 私には銃があるとはいえ、年齢、体格共に明らかに私の方が不利でした。襲われたらどうなるか。

「……」

 すぐに構えられるようにこっそりと銃を持ち直します。しかしお兄さんはそんなことは全く見えていないかのように安堵の吐息をもらしました。そしてへなへなと雪の上に座りこむとぼんやりと呟きます。

「良かったぁ……、生きてたぁ……」

 その姿はあまりに無防備で、私は拍子抜けしてしまいます。

 敵か、味方か。

 もし私に敵意があるなら銃を前にこんな隙を見せたりしないでしょう。引き金を引きさえすれば確実に殺せます。いやいやいや、私がそう考えることすら計算の内なのでは?

 色々な考えがぐるぐると頭の中を巡りますが、答えには辿りつきません。

 堂々巡りです。行き詰まりです。

 考えても考えても分からないので、私は私の直感を信じることにしました。

「あの、とりあえずここから離れましょう。多分、すぐに集まってきます」

 遠くから近付いてくる足音。

 私はへたり込んだままのお兄さんに手を差し出します。

 お兄さんは嬉しそうにその手を掴みます。大きな手が力強く私の手を包みました。

 他人に手を握られたのは久しぶりだったので私はどぎまぎしてしまいます。ましてや知らない男の子です。

 私はその気持ちをごまかすように手を引っ張ると、お兄さんを立ち上がらせました。

 色々と聞きたいことはありますが、まずはなによりも安全の確保をしなければなりません。

 サンタは建物にはあまり入ってきません。

 知能が下がっているのか、それとも吸血鬼みたいなものなのか。

 何はともあれ見付からない内に家に入り、鍵を閉めればひとまずは安心できます。

 私はきょろきょろと遠くを見渡します。

 えーと、えーと、あのマンションが見えているということは、うん、住宅街はあっちです。

 吹きはじめた風がつもった雪の表面をまきあげました。じきに吹雪になるでしょう。

「気を付けてくださいね」

 私はお兄さんの手を引くようにして駆け出します。


 ※


 永遠に続くかと思われた地獄は、クリスマスイブにあっさりと終わりを迎えたのでした。

 その日も私は図書室で時間を潰してから学校を出ました。もちろん母といる時間を一秒でも短くするためです。

 帰り道、街はすでにクリスマス一色で、店も民家も電飾が光り輝いています。その光景はまるで私を馬鹿にしているようで、陰鬱な気分をさらに加速させました。

 陽が地平線に消えると同時に私は家に着きました。

 違和感。

 父の車が停まっています。

 どうしたのでしょう。仕事が早く終わったのでしょうか。……もしかしてもしかすると、クリスマスイブだからでしょうか。

 本当に?

 途端にさっきまで私を暗い気持ちにさせていた全てが愛しく思えてきました。

 おいしいご飯、ケーキ、プレゼント。

 何年ぶりでしょう。心が弾む音が聞こえてくるようです。

 私は久しぶりに意気揚々と玄関のドアを開けました。

 そこには惨劇が広がっていました。

 いつもの玄関は、廊下は、家は、完膚なきまでに赤く染まっていました。

 香ばしいチキンの香りではなくむせかえる血の臭いが、甘いホイップクリームではなく弾けた脳漿が、楽しいおもちゃではなく頭の吹き飛んだ母の死体が、私を出迎えてくれます。

 薄緑色の壁紙とのコンストラストは見事なものです。

 メリークリスマス。

 気付くと私はその場に座りこんでいました。膝が笑い、身体に力が入りません。全くといっていいほど動けません。本当に驚くと人間って声も出ないんですね。

 何とか目をそらすように視線を上に上げると、母の向こう側、暗闇の中にサンタ服の父が立っていました。

 呆然とした様子のその手には吹き消した蝋燭のように煙をくゆらせる散弾銃が握られています。

 父が趣味に使っている猟銃です。

 普段は鍵がかけられていて誰にでも持ち出せる物ではありません。

 そのことからもこの惨状が父によるものであることは間違いなさそうでした。

「おかえり」

 父は私に気付くと、ふと我に返ったようにそう言いました。

「お母さん、死んじゃったみたいだ」

 見れば分かります。

 それは全くいつも通りの口調で、この状況からすると逆に異様でした。

 まるで別の生き物のようにきょろきょろと動く眼球。血走った目。

 私は怖くなって逃げるように床を這います。しかし父はそんな私を撃つわけでもなく、悲しそうに見るだけです。

「お父さん、どうしちゃったんだろうなぁ」

 そして腕を無理矢理動かすようにして散弾銃の銃口を咥えました。

 あ。

 大きく広がった口。

 引き金にかかった指。

 後悔と恐怖に震える瞳。

「何でだろうなぁ。ごめんなぁ」

 あとほんの一センチ指先が動くと父はこの世から消えてしまうでしょう。

 母のように。

 ああ、駄目です。これは駄目です。いけません。

 母の死こそ願いましたが、こんなものを願ったつもりなんてありません。

 私は父の顔を見ます。目が合います。沈黙。不安定な表情。

 その瞬間、勝手に身体が動いていました。

 私は立ち上がり、血溜まりを飛び越え、母の死体も踏み越え、転がるように父のところまで疾走すると、その銃に手をかけます。思い切り力を込めます。

 瞬間、銃声。

 あまりの音に父も私も一瞬だけフリーズします。

 天井には大穴が開き、そこから二階が見えました。しかし父の頭はまだ付いています。

 私の勝ちでした。ですがここで止まるわけにはいきません。

 もう恐怖はありませんでした。一度動いてしまえばあとは勢いです。

 私の短い人生の中でも一番の速度で考えが巡ります。

 この様子ではまたいつ死のうとするか分かりません。母を殺した程度で大好きな父を死なせるわけにはいきません。誰にも私の家族を奪わせません。

 ピコーン。

 私はまず、まだフリーズしている父の頭を散弾銃で思い切り殴りました。

 狙い通りの一撃が父の意識を刈り取ります。

 気絶した父に睡眠薬を飲ませると、リビングまで引きずって行き、椅子に縛り付けました。これで一安心。

 次は死体の処理です。これ以上血液で家が汚れるのを防ぎましょう。

 納屋からブルーシートを出すためにサンダルをつっかけ、庭へと出ます。

 と、そのときでした。

 花火のような爆発音が聞こえたかと思うと遠くの空がオレンジ色に染まりました。陽はとっくに沈んでいますし、あちらに大きな商業施設などはないはずです。炎でしょうか。

 風にのって悲鳴やらサイレンも聞こえてきます。

 いったい何が──、

 突然、背後から轟音。

 振り返ると隣の家に車が突っ込んでいました。

 何がどうしてしまったのでしょう。

 私は周りを見渡します。

 そこかしこで何かが起こっていました。

 排水溝からは人が逆さに生えています。

 通行人が別の通行人に殴られて地面を転がっています。

 イルミネーション鮮かな街路樹は人で飾り付けられていました。

 ここまでくればさすがの私も気付きました。

 何か大変なことがおきています。


 3


 玄関には空の花瓶が置かれ、その傍らには元々住んでいたであろう家族の写真が並んでいます。

 そこは普通の民家でした。そして今現在においては普通の廃墟です。

 割れたガラスの破片などを考慮し、私達は土足で上がり込みます。住人などもう居ないのにどこか罪悪感を感じてしまうのは状態が比較的良いからでしょうか。かといって安全である保証はないので仕方ありません。

 私は銃を構え、クリアリングを済ませます。そして危険物がないことを確認してようやく一息つきます。

 私はリビングのソファにばふんと腰を下ろすと防寒用マスクを脱ぎました。

 息苦しさが解消され、代わりに冷たい空気が体内に取り込まれます。

 鳥肌が立ち、身体が大きく一度震えました。

「……くしゅっ」

 私は懐から蒸れて湿ったティッシュを取り出すと思い切り洟をかみます。

 皮膚とティッシュが擦れて痛みますが、腐っても女の子ですし、洟たれという訳にはいきません。赤くなった鼻が女の子としていいかは別として。

 まあ銃を装備している時点で女の子云々は手遅れな気もしますが。将来への不安は募るばかりです。

 そんなことを考えていたらお腹が鳴りました。恥ずかしい。

 窓の外ではごうごうと吹雪が唸っています。どうせ動けないことですし、安全なうちにさっさと食事にしたほうが良さそうです。

「……お兄さん?」

 そういえばお兄さんの姿が見えません。さっきまでそこに居たのに。

 私が呼び掛けるとお兄さんはごそごそとシンク下の戸棚から這い出てきました。

「んんんー、んっんんー」

 両手には缶詰、口には別の保存食を咥えています。

 私はそんなお兄さんを見て久しぶりに笑いました。

「さ、ご飯にしましょう」

 私はリュックから携帯用コンロを取り出すとやかんをかけます。青白い炎が暗闇の中ぼんやりと光ります。

 お兄さんはその間に見付けた食料をテーブルに拡げました。

 サバの水煮、焼き鳥、シーチキン。カップ味噌汁。缶詰パン。乾燥わかめごはん。

 すぐに準備は整います。

 ごちそうの時間です。情報交換の時間です。

「お兄さんは本当にサンタじゃないんですよね?」

 私は熱々の味噌汁をずずずと啜ると、ずっと気になっていたことを切り出します。

「その疑問はごもっともだよね。こればっかりは信じてもらうしかないんだけど、僕は感染していない」

「本当ですか?」

「予防接種を受けているから」

「冗談なんかいりません」

「君、あんまり友達いないでしょ?」

「余計なお世話です」

「どうもね、僕の年齢はギリギリセーフみたいなんだ。十六歳、一つ上の兄は見事にサンタになったけど、僕はならなかった」

「それを信用しろと?」

「君だって自分が感染していないことを証明できないはずだ」

「……」

「仮に僕が感染していても君と話せるくらいの症状だし、そして君の手元には僕を殺せる武器がある。まずはこれでどう?」

 私は手元のレミントンを見やります。安易な嘘も粉々に砕くことのできる暴力装置がそこにはありました。

 自分が撃たれる可能性を考慮してまで私の前に座っている、この状況を持って私はお兄さんを信用することにしました。少しだけですけど。

「……いいでしょう」

「次は僕の番。この街に君以外の生存者は?」

「かろうじて父が生きています。他の人は知りません。多分、全員死んでいると思います」

 私は信頼の証として正直に現状を報告します。

 上級生の新堂くんはサンタによってお腹に石を詰められて死にました。同じクラスの坂下ちゃんはサンタによって自分の手足を食べさせられて死にました。

 それ以来、街では誰も見掛けません。

「……二人だけ、か。この街ならと思ったんだけどなぁ」

「お兄さんのところは?」

「僕だけ。皆サンタと寒さにやられた」

「……」

 そうです。本当に怖いのはサンタよりも飢えと寒さです。

 怪我、病気、その他何でも、寒さは弱った人間から順番に殺していきます。

 こんな状況で私やお兄さんのような子供が生き残れていること自体、奇跡のようなものでした。

 重苦しい空気。

 私は話題を変えます。

「次は私の番ですね。お兄さんはどうしてこの街に来たんですか?」

「ああ、……光を見たんだ」

 ……スピリチュアル?

「いや、何かそういうのじゃないから引かないで。なんていうか信号弾? みたいなものが空に見えて」

「信号弾、ですか」

「そう。あいつらはそんなことしないだろうし、だったら生存者だと思って」

「でも、危険もあったでしょう。何でわざわざ」

「かっこつけたいところなんだけど、正直に言うと寂しかったんだ。寂しくて寂しくて、気が狂いそうだったんだ」

 お兄さんはそう言って恥かしそうにはにかみます。

 その目をよくよく見ると真っ黒な隈が浮かんでいました。

 きっと大変なことが沢山あったのでしょう。

「ああ、そうだ。あとこれもあったしね」

 お兄さんは赤くなった顔を隠すようにして、懐から一枚の紙を取り出います。

「これは、何ですか」

 それは綺麗に折り畳まれたビラでした。

「二日前、僕の街の上空でヘリが撒いてた」

 そこには国連のマークと、様々な言語で次のようなことが書かれていました。

 十二月二十五日の零時に国連の手配した船が私の街の港に着く。

 生存者はそれに乗って脱出してほしい。

 感染の疑いのあるものは申し訳ないが乗船を許可できない。

「……脱出」

「その様子じゃ君は知らないみたいだし、ちょうど良かった。明日一緒に行こう」

 これは。

 私は考えを巡らせます。すぐに答えは出ました。

「駄目だ」

「え?」

「私は行けません」

 お兄さんの顔が驚愕に染まります。

「どうして!」

「どうしても行けないんです」

「こんなところに居たって死ぬだけだ!」

「それでも行けないんです」

 お兄さんは大きく溜め息をつき、頭を抱えます。

 私がどうしてこんな愚かで未来のないことを言っているのか理解できないのでしょう。

 私も理解できません。

「私は父を治さなきゃいけないんです」

「……治すって、もしかして君の父親は」

「はい、感染しています。縛ってないと私を殺そうとするくらいには重症です」

「……それをどうするって」

「治します。治療します。元に戻してみせます」

「無理だ!」

「無理じゃありません」

「チラシを見ただろ。国連だって匙を投げてる。治療法なんてないよ!」

「方法だって分かってます。陽の光を浴びさせればいいんです。夜が明ければいいんです」

「どうしてそんなことが言える」

「サンタクロースはイブだけの存在のはずです。陽が登れば元に戻るんです」

「そんな馬鹿なことがあるか。現実逃避はやめてくれ」

「現実逃避じゃありません。お兄さんこそ自分が絶対正しいなんてどうして言えるんですか」

「僕は君より年上だ。君よりも多くを知ってるんだ」

「でも全てを知ってるわけじゃありません。サンタは治せるんです」

「あれはただの感染症だ。パンデミックだ。そんな簡単なことで治るわけがない」

「いいえ、治ります!」

「治らない」

「治ります!」

「治らない」

「治ります!」

「もし、仮に、本当にその方法で治るとして」

 そこまで言ってお兄さんは窓の外に目をやりました。つられて私も見ます。

 吹雪は既に止んでいました。

 外には暗い暗い闇が君臨しています。澄んだ空気の中、星がきらきらと輝いているのが見えます。

 そのとき上の階からけたたましいベルの音が鳴り響きました。目覚まし時計の音です。

 私は腕時計に視線を落とします。時刻は昼の十二時。

 だというのに太陽は見えません。暖かな陽射しは射してきません。

 もちろんここは日本で、これが極夜などではないことは自明でした。

 しかしこの状況において、私もお兄さんも驚くことはなく淡々と外の闇を見続けます。

 なぜならこれが今の日常だからです。

「もし、仮に、本当にその方法で治るとして、もう二年も夜は明けてないじゃないか」

 お兄さんは思い出したかのように泣きそうな表情を浮かべると、そう言いました。

 窓の外、太陽のあるべき位置はぽっかりと黒くぬけおちています。


 ※


 街が異変に包まれたあの日、私はすぐさま家の扉を閉めると籠城を始めました。

 縛り上げた父と、頭が吹き飛んだ母と。

 今日で一週間経ちますが、来るかと思われた警察は来ず、実に静かなものです。

 ただ、異変は収まるどころかどんどんとその異常性を露にしていきました。

 まず大きなもので、太陽が昇らなくなりました。

 クリスマスイブの日の入り以降、私達は太陽を見ていません。

 アメリカ、ヨーロッパ、アジア、北極圏、南極圏、どこからも太陽は見えません。

 もちろん世界は大混乱で、宗教関係者たちの自殺フィーバーが連日ニュース番組を賑わわせていました。

 いや、正確には太陽は昇っているし、見えてもいるらしいのです。

 その光が届かなくなっただけで。

「──太陽を覆った謎の構造物は──、──と見られており──」

 リビングのテレビが今日も特集番組を流していました。私は毛布に包まりながらそれを見ます。

 NASAやJAXAや世界中の天文家達によるインタビュー映像。

 使われている映像は異なっていますが、内容は全て同じです。

 太陽がすっぽりと何かに覆われてしまっている。

 ネット上では未知の天文現象なのか、それとも地球外生命体の仕業なのか、喧々諤々の論争が繰り広げられています。

 そんな諍いは可愛いものですが、現実問題として避けられないものがありました。

 寒冷化です。

 原因が何であれ、今まで太陽から受けていたエネルギーを受けられなくなった地球は急速に冷えていきます。

 詳しいシミュレーションの結果などは知りませんが、毛布で耐えられなくなるのも時間の問題でしょう。

 そして、街にはあれ以来暴徒化した人達が溢れ返っていました。

 優しかった隣のおじさんも、痴呆の進んだ裏のおじいちゃんも皆、狂いました。

 周りの大人達はみんな狂いました。

 彼らは人の言葉を聞かず、話さず、血走った目で見付けた人を殺します。自分が殺されるまで人を殺し続けます。

 まるでホラー映画でも見ているようでした。

 父の拘束を解けば、きっとすぐに彼らの仲間入りでしょう。

 政府の発表によると未知の感染症とのことですが、はたしてそれもどこまでが本当か分かりません。

 赤色を好む習性と異変の始まった日から、彼らはサンタと呼ばれています。


 4


 二人とも無言でした。

 外を、雪と氷を、暗闇を、黙って見つめます。

 携帯用コンロの青白い炎だけがぼんやりと二人を照らしていました。

 会話の糸口を失なったときの気まずさ。

 叱られたあとのような、独特の空気感。

 何かを切り出さなければと焦るほど言葉が見付かりません。

「……ごめん、言い過ぎた」

 最初に沈黙を破ったのはお兄さんでした。

「でもやっぱり僕は君を止めるよ」

「……」

「君には悪いけど、叶いもしない夢で命を捨てるなんて馬鹿げてる」

 私もこれが無謀なことだと分かっているので何も言えません。

「僕といっしょに逃げよう」

 それでも私は首を縦には振りません。

 同意する訳にはいきません。

「どうして」

 その様子を見て、お兄さんはまた泣きそうな顔をすると何度めかの溜息を付きました。

「我慢してたけどはっきり言わせてもらうよ。キツい言い方になるかもしれないけど死ぬよりはいい。結局、君は現実を見ていないんだ」

「……」

「具体的にどうするつもりなんだ。まさか太陽に行くとか? 馬鹿げてる」

「……」

「そもそもこの異常の原因が何か分かっているの? 分かる訳がない。大人だって何も分かっちゃいないのに、僕らなんかに分かるはずがない。そんなのやるだけ無駄だ。行くだけ無駄だよ。僕らみたいな子供は死ぬだけだって」

「……」

 お兄さんは必死で捲し立てます。それはもはや懇願でした。

「大人がなんとかしてくれるまで保護してもらうんだ。国連の船に乗れば食料だってあるし、兵士だって居る。そこで解決するのを待つんだ」

 私は頷きません。

 絶望的に何かがすれ違っています。

「僕といっしょに逃げようよ。頼むから。もう死んでほしくないんだ」

 私は頷きません。息の荒いお兄さん、黙り続ける私。沈黙が訪れます。

 分かっています。お兄さんの言うことは正論です。ド正論です。

 場合によって即命に関わるこの状況で、好き勝手に動くのは危険です。私よりも賢いはずの大人たちに任せたほうが生き残れる可能性は高いでしょう。

 それでも私は頷きません。

 私はぐちゃぐちゃに絡まる思考を何とか言葉に変えて、ぽつりと吐き出します。

「生き残ってどうするんですか?」

「え?」

 最初の言葉が出ると、次はすんなりと続きました。

「生き残ることがそんなに大切ですか?」

「……そんなの、死んだら全て終わりじゃないか」

「……私、家では一人で居ることが多かったんです。母はあんまり私に構ってくれなかったので」

「……」

「ホームコメディが好きだったんですよ、私。一人でよく見てました」

「……」

「やっぱりフィクションなんで大袈裟なんですけど、どこか私の憧れる家族があって」

「……」

「だから太陽が無くなって何かがおかしくなったとき、少し嬉しかったんです。ようやく家族で過ごせるんだって」

「……」

「家族と居たいと望むのは間違いですか?」私は全てを吐きだします。「夢はあきらめないといけないんですか。目的は達成されないといけないんですか。確率が低いことは悪ですか。何かに挑んで死ぬことは不幸せですか。世界がこんなことになって、せっかくしがらみも何も全て無くなって、それでも私はまだ好きなことを我慢しなきゃいけないんですか」

 一気に捲し立ててから自分を落ち着けるように大きく息を吸います。

 感情にまかせた言葉はやっぱり論理的なんかではなくて、でも私にとってはこれが真実でした。

 年齢を重ねればまた違う答えになるのかもしれませんが、今の私には今しかないのです。もちろん失敗するつもりはありませんし、死ぬつもりも毛頭ありませんけど。

 お兄さんは私の言葉に呆然と私を見詰めます。

 一瞬の静けさ。

「でも──」

 しかしお兄さんの声はガラスの割れる音に遮られました。

 何事でしょう。

 私とお兄さんは口をつぐみ、耳をそばだてます。

 音は二階。そしてバタバタという足音。

 心霊現象でしょうか。

 いいえ違います。

 私は急いでリュックを背負い直すと、お兄さんに向けて叫びます。

「走れ!」


 ※


 クリスマスイブから二週間が経ち、異変はさらに進行していました。

 まずテレビから人が消えました。次にラジオから音が消えました。そして昨日、街から電気が消えました。

 太陽もなく、月も見えない街は本当に真っ暗闇です。

 気温はさらに下がり続け、氷点下が当たり前になりました。

 事故を起こした車、転がる死体、その他あらゆるものが白く凍りつきました。

 そんな中で私は変わらず籠城を続けています。

 非常用食料をほそぼそと食いつなぎ、生きています。

 ですが父はもう意識がないようでした。

 充血した瞳。

 目の前に差し出された食べ物に反射的に噛み付くだけの人形のようです。

「……」

 お腹が鳴りました。

 ここ数日はまともなご飯を食べていません。

 残りの食料もあと僅かです。

 肉はまだポリ袋の中にありますが、さすがに倫理観は捨てられません。

 決断のときが近付いていました。

 つまり、諦めて死ぬか、抗って死ぬかの二択です。

 私は考えます。

 同じ死ぬなら──、


 5


 ドアを蹴破る勢いで開け、外に出ます。

 後ろを振り返るとお兄さんの姿、そしてその奥の暗闇に爛々と光る目が見えました。

「屈んで!」

 片手でお兄さんの頭を抑えると、もう片手で引き金を引きます。

 肩が外れそうなほどの衝撃。鈍痛。轟音。耳鳴り。

 それらと引き換えに何かが廊下に崩れ落ちます。

 けれども足音は途切れません。硝煙の香りに奴らの臭いが混じっています。まだ何体か居る。

 私はお兄さんの手を取るとすぐさま身体を反転させ、道路に向けて駆け出しました。

 危険です。危険です。危険です。

 頭の中ではアラートが鳴り響きます。

 何で、どうして。

 いつもなら家に入ってこないはずなのに。

 何か気が立つようなことが?

 一体何が。

 混乱する頭でごちゃごちゃと考えますが、もちろん答えは出ません。

 考えられない頭に酸素は不要です。トップスピードまで一気にギアを上げます。

 引き攣る筋肉。

 縺れる足。

 頑張れ私。

 まずは何とか安全な場所に行かないと。

 目の前には丁字路。左から物音。右へ。

 ビルの角、そのまま真っ直ぐ。

 あの標識のところを左折。

 後ろからは奴らの特徴的な足音が聞こえてきています。

 振り返り発射。すぐにもう一発。

 防寒マスクの内側は吐息に濡れ、不快感を増します。

 次は、次は、次は──。

 足音が聞こえなくなる方へ、全速力。

 無我夢中です。

 アニメなら私の足がぐるぐると円を描いていることでしょう。

 脳内麻薬で気持ち良くなりはじめたとき、身体の後ろに伸ばした腕が不意に引っ張られました。

 ずしりと身体が重くなり、私は急停止します。

「ちょっと、何で止まるんですか!」

 振り返りお兄さんに文句を言います。

 しかしお兄さんはこっちを向くことすらせず、遠くを見詰めていました。

 私もつられて視線の先に目をやります。

 急ブレーキの理由がすぐに分かりました。そして奴らがいつもと違う行動を取った理由も。

 光です。

 遠くに光が見えました。

 言うまでもなく太陽ではありません。月でもなければ星の光でもありません。

 それでも私達の足を止めるには十分でした。

 凍った海の向こうに煌々と輝くそれは船の光です。

 暗闇の向こうをゆっくりと動いていきます。

 あれが国連の船でしょうか。

 じゃあもしかして私たち以外の人が?

 私はお兄さんの方を見遣ります。

 お兄さんはふらりとその場に座り込みました。

 安心して腰が抜けただけのようです。

「ほんとうに来てくれた」

 息も切れ切れにそう呟きました。

 でもまだ気は抜けません。周りからはまだ奴らの気配がぷんぷんと臭っていました。

 街全体のサンタたちがあの光に刺激されています。

 いつ気付くかれるか、気が気でありません。

 奴らがまた落ち着くまで安全な場所を探さないと。少なくとも明日の朝、船が出港するまで。

 私はお兄さんの腕を全体重かけて引っ張り、起き上がらせます。

 確かこの辺りには──。

 周りを見渡すと暗闇の中に薄らと赤い屋根が見えました。

 クラスメイトの斎藤さんが住んでいた家です。

 もちろん今は無人。ここら辺に探索に来るときに隠れ家として使わせてもらっています。

 斎藤さん家ならいくつか武器と食料が隠してあったはずです。

 静かに身を隠せば朝までならなんとかなるかもしれません。

「あそこに避難しましょう」

 微かな期待を胸に私がそう言ったときでした。

 視界の端のほうで何かが光ったかと思うと、次の瞬間──、

「え?」

 目の前で斎藤さん家が砕け散りました。


 6


 あまりに突然のことに景色がスローモーションになります。

 世界から音が消え、あらゆるものがゆっくりに見えます。

 割れる家中のガラス。飛び散る破片。軋み、めくれ返る屋根。折れる柱。粉々になる壁。瓦礫と粉塵。そして宙を舞う斎藤さんのぬいぐるみたち。

 それら全てが。

 こちら目掛けて。

 声も出せず。

 暗闇の中。

 ただ降り注ぐ瓦礫を。

 私達は。

 私は。

 ああ、本当に、今日はなんて日だろう。

 材料を集めにいっただけなのに変なお兄さんに出会っちゃうし、サンタには追われるし。思い返せば走りっぱなしです。

 挙句の果てにこんなことになるなんて。

 目線だけを横に向けるとお兄さんも呆然と宙を見上げていました。

 見開かれた目。だらしなく開いた口。愕然とした表情。

 しかしその手は私を庇うように伸びていて。

 私は。

 私は。

 私はそんなお兄さんに父の姿を見てしまいました。

 あとは知らない内に身体が動いていて。

 私は腕を思い切りお兄さんに突き出し、そして──。

 スローモーションが終わりました。

 耳をつんざくような轟音、とんでもない衝撃ととめどない激痛が同時に私を襲います。

 瞬間、暗黒。


 7


 痛みでの覚醒。

 さっきまでとは別の意味で時間間隔が狂います。果たしてどれくらい気絶していたやら。

 目を覚ましても周りは暗闇で、何が何やら分かりません。

 分かるのは全身の鈍い痛みだけです。

 幸いにも両手両足と頭はくっ付いていて、潰れてもいません。リュックはどこかへ吹き飛びましたが、レミントンは握ったままです。

 まだ生きています。

 そりゃまあ、身体の至る所がずくずくと痛んで、鉄の臭いのする暖かな液体が出ちゃっているので決して無事とは言えませんけど。

 少しでも頭を冷静に保つために私は記憶を一つ一つ手繰り寄せていきます。

 あれが、艦砲射撃というものなのでしょう。

 なぜこちらを狙ったのでしょうか。

 星の光だけの暗闇です。世の中にはそんな明かりでも昼間のように見えるゴーグルもあると聞きますが、それでしょうか。

 でもわざわざ私達を狙うなんてあるのでしょうか。

 いや、サンタと間違えられたってのが答えですかね。この闇の中、見た目だけで判別なんてできないでしょうし。

 外を歩いただけで吹き飛ばされるなんてたまったものじゃありませんけど。

 さてと。

 どうしたものか。

 流石にこのままだと遅かれ早かれ死んでしまいます。

 まずは圧死を回避しましょう。

 頭の上のほうからは微かに風を感じます。あまり深くに閉じ込められた訳ではなさそうです。

 手近な角材を手に取ると、隙間に挿し込み、こじっていきます。

 慎重に、慎重に、少しづつ。

 だんだんと吹き込む風が強くなっていきます。

 新鮮な空気。

 もう少し、もう少しで。

 力一杯に角材で突き上げるとガラガラと崩れる音がして空が顔を出しました。

 星が見え、こもった熱気を風がすぐにさらっていきます。あれだけ恨んだ凍える外気も今は少しだけ心地良く感じられます。

 私は身体を起こすと辺りを見回します。

 しかしそこには誰もいません。

 瓦礫と炎と炎と瓦礫に囲まれ、人間は私だけ。

 見渡せど見渡せどお兄さんの姿は見えず、ただただ暗闇が広がります。

 助けた恩を返せなどと言うつもりはありません。たかだか会って数時間の関係です。

 それにお兄さんは生き残るためにここまで逃げてきたのです。

 死にたがりの子供を助けるために危険に飛び込む必要はありません。

 これでいいのです。

 私は額から溢れてきた血を掌で拭うと、威嚇するようにレミントンを構え直します。

 さっきも言ったとおり人間は私だけ。

 でも人間じゃない奴らはわらわらと集まりはじめていました。

 あまりの数に笑えてきます。

 泣きっ面に蜂。一難去ってまた一難。

 孤軍奮闘。絶体絶命です。


 8


 炎の明かりが奴らの姿を浮かび上がらせます。

 落ち窪み、夜のような暗闇を湛える瞳。対照的に日の光のような白さの毛髪。細く、骨と皮だけの腕。大きく膨らんだ腹。

 身にまとう赤いボロ布も合わさり、まるで鬼のようです。

 奴らが鬼なら鬼であふれたこの世は地獄でしょうか。

 あながち間違っていないようにも思えてきます。

 周りを一瞥。

 だいたい五十体くらいでしょうか。

 まばらに散ってはいますが四方はしっかりと囲まれていて、無傷で切り抜けられるとは到底思えません。

 あーもう、なんだってこんなことに。

 武器はレミントンと、あとは材木が少々。

 殘弾はレミントンに七発、ポケットに三発。

 軽く見ただけでも詰んでいます。

 でも私は諦めません。

 この程度の死に屈してたまるものですか。

 この程度の暴力に屈してたまるものですか。

 この程度の不可能に屈してたまるものですか。

 私は手頃な材木を掴むと火を移します。

 それから精一杯胸を張り、息を思い切り吸うと雄叫びを上げました。

 来るなら来い。死んでも生き残ってやる。

 暗闇の中でも奴らの目が興味から獲物に切り替わるのが分かりました。

 一瞬の睨み合いの後、私目掛けて駆け出すサンタ。

 合わせて私も駆け出します。

 痛む足を庇いながら跳ねるように一歩、二歩。

 生き残る道は一点突破です。力のない私では捕まったらアウト。押し潰される前に包囲を破る。それしかありません。

 三歩、四歩、ストップ。出来るだけ数を巻き込むように、引き寄せて、引き寄せて、ガチン。

 鼓膜が痛みを訴える。硝煙の臭いが鼻腔をくすぐる。熱い液体が顔を濡らす。

 目の前には頭部の欠けた身体が三つ。

 次。

 上からのしかかってくるのをスライディングするように躱し、そのままの勢いで後ろに回り込みます。

 後頭部。引き金。呼吸。

 次。

 肩に手がかけられます。防寒具越しに食い込む爪。

「──っ!」

 熱と痛み。

 耳元で聞こえてくる息遣いと強烈な臭い。背中にかかる肉の重み。

 私は銃身を肩口から思い切り背後へと突き出します。

 硬い銃口が柔らかな肉に触れる感触。

 すぐさま引き金。

 衝撃を体重で無理矢理に押さえ込んでもう一発。

 耳鳴り。

 肩を掴んでいた指が二度の痙攣の後、意思を失いました。

 急いで振り払い、つんのめるようにまた走り出します。

 いいぞ、いいぞ。

 悪くない。思った通りに動けてる。

 走りながらさらに一体。

 そのまま横に薙ぎ払うようにもう一体。

 はは、映画みたいだ。

 速く、もっと速く。

 あと何体だ。あと何体倒せば抜けられる。

 出口はどこにある。

 私は捕まらない。

 生き残ってやる。

 生き抜いてやる。

 ──と、そこまででした。

 がくりと、姿勢が崩れます。

 なんで。一体何が。

 視線を足元へと向けると、足首を掴む奴らの手。

 喉が擦れた音を出します。

 半狂乱になりながらもう一方の足で引き剥がそうとしますが、がっしりと食い込んだ指は剥れる素振りも見せません。

「──んのっ!」

 二度、三度。安全靴の踵で繰り返し蹴り続けます。

 鬱血する肌。

 なんでなんでなんで。

 四度、五度、もっと。

 離せ離せ離せ──。

 八度目にしてようやく掴んでいた指が砕けました。

 自由になる足。

 しかし、そのときには既に全ては終わっていました。

 私を見下ろす無数の目。

 炎に照らされてなお底の見えない暗黒。

 奴らの手が、顔が、私の手に、顔に、伸びてきて、私はそれから芋虫のように逃げようとします。

 狙いも付けず、荒い呼吸で引き金を引き続けます。

 そんな程度でどうしようもないのは分かっているのに。

 銃声。銃声。

 奴らの破片が雨のように私に降り注ぎ、次々と肉の塊となって倒れていきます。

 銃声。銃声。

 しかし、その奥から奥からどんどんと奴らが現われて。

 銃声。銃声──、

 カチリ、とついに弾が無くなりました。

 弾の無い銃などもはやただの鈍器です。そして銃を鈍器として使ったところでこの状況を覆すことなど出来るはずもなく、最後の悪足掻きすら不発に終わります。

 叩いても叩いても怯む様子すら見せません。ただただ淡々と、奴らは地を這う私に近付いてきます。

 そしてついに奴らの手が私に触れました。恐怖で総毛立つ身体。

 また我武者羅に振り払おうとしますが、次々と伸びてくる手に邪魔されてすぐに身動きが取れなくなります。

 私はもう私が襲われる様を見ていることしか出来ません。

 光のない虚ろな瞳。

 そこに写る私の身体。

 ああ、ここで終わるんですね。あっけないなぁ。

 足の指先、脹脛、太股、脇腹と、奴らが群がり、

 歯が食い込み、皮膚が裂け、血が滲み、

 恐怖と絶望と痛みから私が意識を手放そうとした、そのときでした。


 9


 突然、空が明るくなりました。

 炎でもなく、星でもなく、ましてや死に際の幻でもありません。

 もっと眩しく、目が焼けるような光。

 奴らも私を襲う手を止めます。

 私も含め、その場にいた全ての生物が目に焼き付くことも気にず呆然と光を見詰めていました。

 一体何が。

 太陽が。

 いや、あれは──、あれは照明弾です。

 時間差で何発も何発も光の弾が空に上がっていきます。

 輝きながらゆっくりと落ちていく光。

 私が光に見惚れていると、遠くから音が聞こえてきました。

 その音は私に近付いてきて、気付けばすぐ傍から聞こえます。

 それは足音であり、怒声であり、そして暴力の音でした。

 鈍い打撃音。

 同時に私に組み付いていたサンタの首がひしゃげて吹き飛びます。誰かが金属バットで奴らを殴っています。一人、二人、三人。殴られているというのに奴らは抵抗する素振りも見せず、狂ったように光を見続けます。

 一体何がそこまでさせるのでしょうか。

 太陽への思い出でしょうか。それとも奴らの生態でしょうか。

 ともかくあの光のお陰で私が生き延びられているのは確かなようです。

 不意に暴力の音が止みます。

 いつの間にか私に食らい付いていたサンタは一人残らず地面に倒れていて、見上げると代わりにお兄さんが立っていました。逆光で表情は見えませんが、声は聞こえます。啜り泣きの声。

 お兄さんは私を担ぎ上げると無言で歩き出します。

 ああ、私はまだ生きているんだ。

 私は安心感から意識を手放します。瞼に焼き付いた光を見ながら。


 10


 目を覚ますと、見慣れた天井が見えました。私の家です。

 私はリビングのソファの上に寝かされていて、辺りにコーヒーの香りが漂っています。

 平和な目覚め。

 さっきまでの全ては夢だったのでしょうか。

 そんなわけはありません。ボロボロになった家の中と身体の所々に巻かれた包帯が私を現実に引き戻します。

「目を覚ましたね。よかった」

 私がぼんやりと周りを見わたしていると、すぐ傍からお兄さんの声がしました。そちらに顔を上げます。見知った顔、泣き腫した目。

「あの、私は」

「無事だよ。どこも筋肉までは食い千切られてないみたいだし、たぶんすぐにでも動ける」

「どうしてここが」

 お兄さんは部屋の隅を指差します。

 そこには艦砲射撃のどさくさで無くなったはずの私のリュックが置いてありました。

「名札に住所が書いてあったから」

「ならあの照明弾も」

「君が作ったもの」

 ああ、やっぱり。

「こんなのを隠してたなんて。教えてくれればよかったのに」

「出会ったばかりの人に教えるわけないじゃないですか」

 私の返事にわざとらしく肩を竦めて見せるお兄さん。

「もしかして、これもお父さんを戻すための?」

「……強い光なら何とかなると思ったんですけどね。駄目でした」

 私がこの夜に散々走り回ってたのも改良のための薬品集めのためだったのですが、あれを見るに足止めが精々でしょうか。

 結局私の努力は無駄に終わったのでした。いや、そのお陰で命が助かったのだから万々歳ですけど。

「僕がここに来るときに見た光ってのも君が作ったやつだったんだね」

「かも知れません。何度か実験で打ち上げてますし」

「あー、少しだけすっきりした。危うく迷宮入りするところだったしな」

 お兄さんはそう言って笑いました。

「あの、それなんですけど」

「ん?」

「どうして助けに来てくれたんですか。あそこで逃げてれば確実に生き残れてたのに」

「……」

 お兄さんは私の質問に恥ずかしそうにはにかみます。

「僕はね、警察官になりたかったんだ」

「……」

「なら困ってる人は助けないといけない気がして。あ、いや、やっぱり忘れて。これ恥ずかしいな」

「いいじゃないですか警察官」

「……」

「きっとなれますよ」

 と、外からヘリコプターの羽音が聞こえてきました。

 あの照明弾を見て船から飛ばしたのでしょう。

「生存者の確保にでも来たんじゃないですか。行ったほうがいいですよ」

「……ねぇ、君はやっぱり来ないの?」

「お兄さんが警察官になりたいように、私にもやりたいことがあるので」

「……」

「ここでお別れです」

「そっか」

 お兄さんはもう一度はにかむように笑うと私に右手を差し出しました。私はそれを握ります。

 痛いくらいの握手。

「またどこかで会えるといいな」

「さぁ、どうでしょう。世界は広いですからね」

「……現実的なことしか言わないよね、君。なんかもっと奇跡とか子供っぽいこと言えないの」

「奇跡なんて起きませんよ」

「……」

「だから会いたくなったら会いに来てください」

 奇跡なんて起きません。

 だから何だというのでしょう。

 結果を願うだけの人間なんてサンタクロースにプレゼントをねだるだけの子供です。

 サンタクロースはもういません。なら子供は子供なりに生きていくしかありません。


 11


 私は地下室へ降り、唸るだけの父を引っ張り出します。それから溜め込んだ本や食料などをずた袋に詰め込みました。

 ですがこれをどうしたものか。

 大人一人に加えてこの大荷物。

 私の身体ではとうてい運べる重さではありません。

 うんうんと悩んでいると不意に古い記憶がフラッシュバックしました。

 ああ、そう言えば。

 表に出て物置を開けます。古新聞、釣り道具、工具箱、ガーデニング用品。所有者のいなくなったガラクタたちを手当たり次第に庭へ放り出していきます。

 えーと、確かここに……。お、あったあった。

 ほぼ全ての荷物を取り出した物置の奥にそれはひっそりと立て掛けられていました。

 真っ赤なプラスチック製のソリ。

 昔々、私が今よりもっと小さかったとき──父と母の仲がまだ壊滅的でなかったときに一度だけ家族でスキー旅行に行ったことがありました。

 もちろん小さな私はスキーなどできるわけもなく、たしか母がこのソリを買ってくれたのです。

 数少ない、幸せな記憶です。

 忘れられていただけかも知れませんが、ソリがまだ残っていたことを思うと少し感傷的な気分になりました。

 私は頭を振ってその気持ちを振り払うと、ソリを引っ張りだします。それから荷物の詰まった袋と父を乗せ、紐で縛り付けます。

 思ったとおりバッチリです。

 これで準備はオーケー。

 喉は潤っていて、空腹も感じません。

 体中痛みますが動きに支障はありません。

 ソリの紐を掴むと、ずっしりとした重みが感じられました。

 さてと。

 これからどこへ向かいましょう。

 ふとお兄さんの言葉が脳裏に蘇えりました。

 ──具体的にどうするつもりなんだ。まさか太陽に行くとか?

 太陽に、行く。

 何と馬鹿げた話でしょう。不可能もいいところです。あまりに非現実的すぎて私は小さく吹き出してしまいます。

 でも。

 でも悪くありません。

 いいじゃないですか不可能。いいじゃないですか非現実的。

 何といっても私はまだ子供で、未来は何も来まってないのです。今がどんなに絶望的な世界でも、先のない世界でも。

 行き先は太陽。

 上等です。やってやろうじゃないですか。

 なら最初の目的地は、と。

 数少ない知識から宇宙に行く方法を思い出します。

 よし。

 目標が決まった途端、何だか楽しくなってきました。

 心が踊り、身体が軽くなります。

 鼻息は荒く、足は自由に動きます。

 私はぐいと紐を引き、路面を覆う氷を踏み砕くように前へと踏み出します。

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クリスマス、終末にて @kuriki_sasa

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