第6話 フィーと嵐の夜の話

 その一件があって以来、フィーは少しずつ、本当に少しずつ出会ったのだけれど、徐々に徐々にポポとの距離を縮めて行った。

 食事のとき以外は全く近寄ろうとはしなかったのが、例えば洗濯物を干している時や何気なく本を読んでいる時、外に出て体操をしている時など、意味もなく傍に近寄ってきた。そして、特に会話をすることなく隣にいて、じっ、とポポのすることを眺めていた。

 時期を見計らい、ポポはフィーに色々なことを教え始めた。

 お金の使い方、文字の読み方そして書き方、鳥や花の色々な名前。

 これは誰も知らなかったことなのだけれど、フィーはとても高い知能を持っていた。フィーはとても賢くて聡かったし、何より真面目で一生懸命だった。難しい文字も花の名前もあっという間に覚えてしまった。フィーは知識に飢えていた。見て、聞いて、感じたものを、まるで泉のようにしてどんどん吸収していったのだ。それだけではなく、いつのまにやら包丁や火の使い方も覚えて料理を手伝うようにもなった。

 時が経つにつれ、フィーの知識もできることもどんどんどんどん増えて行った。 フィーには、誰も知らないような素晴らしい才能があったのだ。

 フィーはとても自立心が強く、強情で、ひとりでなんでもやる子供だった。手のかからない、掛かりすぎない甘えることのない子供だった。

 山の麓の村にいるポポの友人たちは、フィーに会っては「手のかからない子供だ」「可愛くない、子供らしくない子供だ」と口々に言い合った。

 けれども、フィーはまだ子供だった。知らないこともわからないことも、怖いことも恐ろしいこともたくさんあった。

 その日はとても激しく雨が降っていた。

 雨だけではない、風が強くて雷が鳴り、家がぐらぐらと揺れていた。「こんな風くれえで、そんな簡単さ吹き飛びはしねえよ」とポポは笑って言ったのだけれど、フィーは不安で仕方がなかった。こんな猛獣のような強い風に吹かれては、自分たちが住んでいる古くて小さなこの家は、吹き飛ばされて跡形もなく木端微塵になってしまうのではないか。あっというまになくなってしまうのではないか。

 食事をとっている間も入浴をしている間だって、ずっとずっと気になっていた。

就寝前、髪の毛と同じ銀の色を持つ立派な眉が八の字に下がっていることに気が付いたポポが「一緒に寝っか」と声をかけてくれたのだけれど、強情張りなフィーは、意地でそれを突っぱねた。

 一度目はすんなり眠りに落ちることができた。問題はその後だった。

 一度眠りに落ちたはずのフィーは、何の因果か途中で目覚めてしまったのだ。流石のフィーも失敗をしたとそう思った。なにせ、フィーが起きたときはまだ真夜中。月も星も出ていなく辺りは真っ暗。しかも外からはごうごうというまるで腹を空かせた獣の唸り声のような突風の音が聞こえてきて、それがぐらぐら家を揺らした。

 フィーは怖くて堪らなかった。頭の上からすっぽり分厚い布団をかぶり、自分自身を守るためにまるで芋虫のようになる。時々、急にピカッと光り、遠くで雷が落ちる音がした。しかもそれが、段々近寄ってきている気がしたのだ――。雷が落ちたらどうなるのだろう、もしこの風で、家が吹き飛ばされてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。

 フィーは布団に潜り込んだまま、はっ、と両手でヘソを抑えた。先日、ポポに教えてもらったお話だった――雷様は、雷の音と共に悪い子のヘソを取りに来る。悪い子のヘソは、雷様に取られてそのまま食べられてしまうのだ。

 その言い伝えを思い出し、フィーはがちがち奥歯を鳴らした。それだけではない、いつの間にか涙が溢れて小さく嗚咽さえも漏れていた。

 迷信なのだろう、ポポが語った作り話なのだろうと、フィーは思ってたし実際それは正解だった。けれども幼いフィーにとって、未だかつて感じたことのない得体のしれない自然の恐怖はあまりにも大きすぎた。いとも簡単にフィーの意識を覆して、体丸ごと真っ黒い闇で包み込んでしまったのだ。

 ピカッ――

 雷が極近くに落ちたことは、光の眩しさと音の大きさですぐに分かった。

 その落雷を合図にしたかのようにして、フィーは自分のベッドを飛び出した。枕を持ってきてしまったのは偶然だった――あまりに怖くて恐ろしくて、思わず掴んできてしまったのだ。

 転がるかのようにしてベッドを飛び出したフィーは、意味もなくリビングを走り回り、それからポポの寝室へ向かった。ポポはまだ起きていた。明るいランプをつけて、アルコールを飲みながら難しい本を読んでいたのだ。

 ポポはとても驚いた。

 なにせ、普段、滅多に感情を露わにすることのないフィーが血相を抱え枕も抱えて、まるで弾丸のようにして自分の部屋に飛び込んできたのだから。

「おお、どうしたフィー。先に寝たんじゃなかったのか」

 気の抜けたようなポポの問いかけに、フィーは明らかにほっとしたような表情を作った。それから、抱きしめた枕を更にきつく抱きしめて、ぽろりとひとつ涙を零した。

「なんだおめえ、怖かったんか」

 ポポがいうと、フィーはぐしぐしと目元を擦り、うん、と小さく頷いた。

 不器用すぎる子供の返答に、ポポは読みかけの本をぱたんと閉じた。そして椅子から立ち上がり、フィーを枕ごと抱き上げると、そのままベッドに転がした。

「まったくお前は、普段はあんなにしっかりしたような顔をしているくせに。とんだ甘えん坊な奴だなぁ」

 ピカッ――

 フィーはとても恥ずかしかったが、それ以上にとても怖くて寂しかった。もう何度目かの雷鳴にびくりと体を跳ねあがらせて、そのままポポの体に抱き着いた。

 珍しく素直なフィーの行動。ポポはおっとりと目元を下げて、フィーの銀髪を撫で上げた。

「お前が前にいたところでは、こんな天気はなかったんか」

 フィーはぐ、と両目を耳をポポの体に押し付けて、くもぐった声でこう答えた。

「……ながったわけじゃねえ」

「そうか」

「……んだけんど、すごく回数は少なかったし、こんなに大きな雷なかった」

 フィーの訛りも大分板についてきた、とポポは思った。この家に来た最初の頃は、話すどころか殆ど理解もできていなかったはずなのに。

「怖いか? フィー」

 銀色の子供は、ポポの胸に抱かれたまま、小さくこくんと頷いた。

「……でも」

「でも?」

「……じいちゃんと一緒だったら、一人でいるときよりもちっとだけ、ほんのちっとだけ怖くねえ」

 厚い壁の向こうに隠されていたフィーの本音は、きつく結ばれた糸がわずかな拍子に解れるように、自然にぽろりと零れて落ちた。

 それをポポが拾い上げようとした瞬間に、遠いどこかにまたしても大きな雷が落下した。肝心のフィーは声にならない悲鳴を上げてきつくポポの体に抱き着いた。ポポの寝巻はフィーの涙でぐしょぐしょになり、皺もついて大変なことになっていたのだけれど、そんなことは、ポポにとっては何の問題でもなかった。

 ポポは、その時初めてフィーから「じいちゃん」と呼ばれたのだ。

 なんという素晴らしい日なのだろう。どれほど外で雨が降っていようとも、どれほどの強い風が吹いていようとも、例えその風がこの家をばらばらにして吹き飛ばしてしまったとしても、ポポの心はまるで春の日の日差しのように暖かだったし、穏やかですらあった。

 ポポの知らない遠いどこかで、またしても雷が鳴っている。腕の中では、銀色の髪をした小さな生き物がぴるぴると震えながら必死に生命の連鎖をしていた。

 地上に響き渡る自然の呻きを聞きながら、ポポは銀色の子供を抱きしめた。ふと気が付くと、先ほどまでピルピルピルとまるで子兎のように震えていたはずの子供はいつのまにやら瞼を閉じて、すぅすぅすぅという穏やかな寝息を立てていた。引き離そうとするのだけれど、この子供はしっかりしがみ付いていて、どうしようともポポの体から離れようとはしてくれなかった。

 ポポはふぅと――安堵なのか諦めなのか、自分でもよくわからないような溜息をつき、それから足元に丸まっていた毛布を引き摺り上げて、自分とフィーの上に掛けた。

 漸くのこと栄養をつけ始めた小さな体は、抱きかかえると暖かくてまるで湯たんぽのようだった。

 雷は徐々に遠くへ向かって言っている気がしたが、まだまだ風が強いし雨が止む気配は全くなかった。

 まるで、遠いどこかで、知らない誰かが自分を呼んでいるかのような、そんな錯覚までしてしまった。疲れているんだ、と自分に自分に言い聞かせると、腕の中にいる小さな生き物が奇妙な声を上げながら身じろぎをした。

 ポポは小さな体を抱え直すと、体温の重みを肌で感じるようにしてゆっくりと目を閉じた。荒々しい風の音も雨の匂いも激しい雷の声さえも、まるで生命の営みのようだとそう思った。  

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