第2話 フィーが家出をした時の話
嵐の日に親切な村の医師により取り上げられた異形の赤子は、それから数日も立たぬうちにとある児童養護施設に預けられた。年老いた医師はとても同情的で親切であったのだが、いかんせん子供を育てるには少しばかり年を取りすぎていたし、子供を育てる余裕もなかった。あと何年生きられるのかもわからなかった。そうして実際、その老夫婦はフィーが3つを迎える前に流行病で死んでしまった。
フィーが預けられた児童養護施設は「児童養護施設」といいつつも、実際は子供を守り育てるために充てられているはずの金銭を懐に納め、牛乳の代わりに水をやり、衣服をケチり、赤ん坊を仰向けにするところをうっかりうつぶせに寝かせ窒息死をさせ、掃除をしなかったという理由で叩いたり寒い中薄着で一晩放置をさせたりするようなひどい場所だった。預けられている何十人という子供たちが皆、体のあちらこちらに傷を作り痣を作り、あばら骨を浮き立たせ常に空腹で涎を垂らしていたとしてもまったくおかしくもないようなところだ。
勿論それらは日常的に、本来子供たちを守るべき養護教諭たちの手により行われていたわけなのだけれど、そんなただれた環境の中で本来健やかに育つべく子供たちに悪い芽が生えてしまってもおかしくないはないのだろう。
「フィー」という名前は、彼に深い愛情を注ぐ誰かによって名付けられたものではない。 フィーは同じ児童養護施設で共に暮らす他の子供たちとは、何もかもが決定的に違っていた。
頭を染める薄い鉄色は薪が燃え尽きた後にできる灰のようであったし、殆ど感情を移すことのない緋色の瞳は、灼熱の炎のようでもあった。
フィーは極端に感情の起伏の少ない子供だった。 他の子供に――否、人間に当たり前ある、『怒ったり』『泣いたり』というような感情を、殆ど表に出さないような子供だった。
石に躓いてこけて膝小僧を擦りむいても「痛い」の一言も上げやしない、布団を片付け忘れて鞭打ちの刑になっても泣き声の一つも上げやしない、指示された時間内で掃除が終わらなかったので一晩外で放置されても涙のひとつも零さなかった。
ただ、食事の少なさについては彼もいくらか不満に思っていたようだったが――あまりの彼の感情の少なさに、彼の周りの人たちは関心をし、呆れ、それから馬鹿にした。 実際、フィーには感情がないわけでは決してなかった。ただ、フィーは生まれつきとても我慢強く意固地であり、それと同時に意地っ張りだったのだ。
もし、彼の周りにいる人間がもっと思慮深く思いやりだとか観察力を持っていたらそんな不名誉な名前を付けられることはなかったのだろうけれど、残念ながら彼の周りにいるのは、少しばかり心の歪んだ可哀そうなもの達ばかりであった。
そんな中で、彼が“
物心ついたときから、彼はずっと「failure」(出来損ない)だった。
死んだ母親もかつて彼を取り上げてくれた老医師も、周りの誰かも彼に他の名前をつけようとしなかったしつけようとも思わなかった。
フィー自身も自分の名前に特に違和感を持つこともなかったし、自分が「出来損ない」であることを自覚し実際そうだと思っていた。
家名はなかった。施設には家名がある子供もない子供もたくさんいた。
ただ、「家名がない」という事実は「フィー」が「フィー」であるひとつの理由だった。 彼は、生まれたときからすでに「出来損ない」だったのだ。
さて、フィーはずっと「フィー」のままであったのだけれど、先にいったように彼にはきちんと「感情」があり、「悲しむ」「楽しむ」といったものが欠落しているわけでは決してなかった。
掃除を忘れて、罰として薄いシャツ一枚のみで寒い夜空の下放り出されるのは嫌だったし、食事のときスプーンを床に落としたからという理由で鞭打ちの刑にされるのも嫌だった。他の子どもがそれをされているのを見るのはもっと嫌だった。一度、鞭を持った大きな体の男性教諭に「やめてあげてくれ」と懇願したら、フィーも一緒に叩かれた。
だからフィーは決断した。
7つの誕生日を迎える前に、彼は養護施設を飛び出したのだ。
やり方は簡単だった。夜、子供たちも養護教諭も全員が寝静まったのを見計らって、こっそり抜け出す。正門と裏門の両方に大きな体の怖い男の門番がいつも二人ずつ立っているが、簡単な作業だ――誰にも見つからず、捕まることさえなければ。
この養護施設の「お仕置き」や「食事」に耐え切れず逃げ出そうとした子供は今までもたくさんいた。フィーが思いつくだけで8人はいた。けれど皆、きちんと逃げだすこともできず、裏門もしくは正門で、下手をすれば施設の廊下で捕まって「お仕置き」をさせられた。
フィーはとても感情の起伏の少ない子供だったが、とても行動力のある賢い子供ですらあった。
フィーは抜け出すための努力をした。施設の中にある隠された通路を探り、寄宿舎の隅にできた鳥の巣からきらきらと光り輝く硬貨や指輪を貰った。「外出用」のコートや鞄はとうの昔に穴が空き、至るところが解れていたから針と糸を使いこっそり修理をするしかなかった。(糸はもう使い物にならなくなった衣類を解いて、針は鳥の巣に入っていたものを使用した)
フィーはもうずっと施設の中で暮らしていて、施設の外がどのようになっているのか、外へ出たら、否、出られたら一体どこへ向かえばいいのかまったく何もわからなかったが、以前施設を抜け出そうとして失敗をし、見事「お仕置き」になったかつての仲間がいっていたことを覚えていた。
「いいか、フィー。外に出たら、東の都に向かうんだ。東の都には、うまい食事も綺麗な服もたくさんあるから、こことは全然違う、いい暮らしができるんだ。でも、北の方向には絶対行っちゃ駄目なんだ。北はここよりも全然田舎で、寒いばっかりで食べ物も何もないんだ。それどころか、熊とか蛇とか怖い動物ばかりなんだぞ」
7歳年上の赤毛の少年は得意げに鼻を鳴らしてそういった。もっとも、彼は裏門から抜け出そうとしてあっさりと門番に見つかり、そのまま「お仕置き」送りになり結局戻ってこなかったのだが――
フィーは彼のことを覚えていた。かつて、赤毛の少年が見せてくれた地図のことだって覚えていた。これは誰も――本人さえも気にしていなかったことなのだが、フィーは記憶力が抜群によかったのだ。
漸くのこと片手で数えられる程度のお金を溜めて、穴の開いた衣服を直し、抜け道を見つけ出した。あとは逃げるだけだった。「逃げるだけ」と言いつつも、ちゃんとそのためのタイミングというものが存在をする。フィーはそれを知っていた。
この養護施設から十キロほど離れた場所に、市長の家が存在した。市長であり、富豪でもあり、そしてあたり一帯の権力者ですらあった。 あるとき、その家でパーティーが開催されることになった。市長の一人娘の誕生日とその婚約を兼ねた盛大なパーティーだ。
町の権力者や重役のすべてを招いたそのパーティーに、勿論施設の養護教諭も呼ばれていた。なぜなら、この施設は「親のいなくて恵まれていない可哀そうな子供たちを引き取って精一杯の愛情を注いている素晴らしい家」だからだ――一応、表面上は。
だから、怖い鞭を持った男の教師も睨み付けるようにして掃除を言い渡す女の教師も、体ばかりがやたらと大きい門番だって、一体どんな服を着て行こうかどのようなごちそうがでるのだろうとそればかり考えて、踊り狂うほど浮かれていた。
それはフィーとて例外ではなかった。人形のような表情の下、燃える炎の瞳の中で、彼はずっと待っていたのだ。
その日。教師たちが綺麗なドレスを身に纏い真新しいタキシードでめかし込み、軽くステップを踏みながら出かけて行ったのを確認し、フィーは行動に出た。
部屋の隅に掛けられている埃を被った古い時計が丁度0時を指すくらい、フィーはぱっちりと目を開けて、そっとベッドを降り立った。ブラインドなどあるはずがない、ただ大きいだけが取り柄の窓からは月の光が差し込んで、群青に染まった夜の世界を照らしていた。
フィーは割り当てられたロッカーの中から、ほつれを直したコートと穴あきを直した鞄を取りだし、そっ、と音を立てぬよう身に纏った。同じ部屋の子供たちは、それぞれすきっ腹を抱えつつもとうの昔に夢の世界に飛びだっていた。起きるはずがなかったのだ。起きていることがばれたら間違いなく「お仕置き」をされてしまうような時間だったし、まだ年端もいかない少年たちにとって、この現実は辛すぎた。夢の世界のほうが、まだいくらか柔らかく傷つきやすい子供たちの心を優しく包み、癒してくれていたのだ。
フィーは物音ひとつも立てぬようにこっそりブーツを履くと、そのまままるで夜を這う猫のようにして部屋を出て、扉を閉めた。
真っ暗な廊下を走り寄宿舎の後ろに回り、3階にあるトイレの窓から木を伝って外に出た。それ以外に方法はなかったのだ。なにせ、南と東両方に位置する玄関のカギは施設長と施設長夫人がそれぞれ分担をして持っていたし、フィーはまだ、鍵がなくとも鍵を開けて外に出る手段を知らなかったのだ。
表門と裏門にはそれぞれ二人ずつ門番がいて24時間体制でいつでも警備をしているのだけれど、夜の11時から5時くらいまでは仮眠をとりつつ2時間おきくらいに交代をしている。門番だって体が大きいだけの人間だ。お腹もすけば眠くなる。0時を過ぎればうとうとするのが当たり前なのだ。
体のあちこちに小枝や枯葉をつけたフィーが裏門に急ぐと、そこにはやたらと厳めしい恰好をした門番が一人いた。かろうじて立ってはいるのだが、風に吹かれるようにしてあっちにいったりこっちにいったりふらふらとして足元がおぼつかない。頭はまるで振り子のように揺れているし、時折かくんと体全体が波打って、鼻提灯さえ飛び出ていた。次第に波打つ回数が減っていき、頑丈な体の門番が器用にまっすぐ立ったままぐーぐーという寝息を立て始めたことを確認すると、フィーはそれまで身を潜ませていた繁みから、かさり、という乾いた音を立てて現れた。
この養護施設は、外の世界から敷地全体を隔離するようにして高い塀で囲われている。フィーのような小さな子供や、間抜けに鼾を掻いている門番の身長を二つ合わせても決して届くような高さではない。
ただフィーは、身長はなかったがその分とても身軽だった。
門の両端に並ぶように、門の内側と外側合わせて4本立っている大木のうちの一本に手を掛けると、そのまま窪みに足を掛け、枝を伝い、時々足を滑らせて、器用に慎重に登って行った。
地上から2.5メートル程高い場所に上り詰め、短い手を精一杯伸ばして塀の屋根に手を掛けて、そのままぽんっと野生の猿のようにして飛び乗った。遠い足の下では、まだ門番はすうすうという安らかな寝息を立てていて、それどころかぺたんと地面にお尻をつけて安らかな眠りに旅立っている。
どうやら暫くこの門番は起きないであろうということを確信し、フィーはほっ、と天を見上げた。美しい月だった。まるで今日のこの日を祝福しているかのような、逆にこれからの未来を暗示しているかのような、恐ろしいくらいに神々しい月であった。
ほんの数秒、もしくは数十秒――数分だったのかもしれないが、フィーはまるで魂を抜かれたかのようにして――いいや、実際抜かれてしまい――美しい満月に見とれていた。 それからはっ、と気が付いて、塀から降りるために向かい側にある木の枝に飛び乗る準備をした。飛び乗るために膝を軽く曲げた瞬間に、彼は「フィー
」と呼ぶ小さな声に動きを止めた。
恐る恐る下を見ると、そこには自分と同じ年の子供がいた。
「ケビン」
フィーは少年の名前を呼んだ。 ケビンはつい数か月前に施設に来た、明るいブラウンの髪と黒い瞳を持つ少年だった。以前、鞭打ちの刑にされそうなとき、「やめてくれ」と言ったら一緒に鞭打ちの刑にされられたあの子供だ。流行病で親を亡くしてしまったケビンは、親戚中を盥回しにされたあげく、財産をふんだくられてこの施設に送られたのだ。
「フィー、やっぱり施設を出てくんだね」
表情の少ないフィーに比べ、同じ年のケビンの表情はずっと豊かで優しいものだった。 ケビンはフィーのことを慕っていたし、フィーもまたケビンのことを快く友人だと思っていた。
「止めるんじゃねぇ」
暗闇の中、月光に照らされ寂しく微笑む友人に、フィーは言った。
「俺は自分で決めたんだ。俺は、ここを出て自由になるんだ」
珍しく力強く雄弁に語るフィーに、「止めないよ」とケビンは言った。
「だって僕、知ってたんだ。フィーが何らかの準備をしてたこと。ただ僕は、最後にフィーに会いたかっただけなんだ」
そういうケビンの顔にはいくつもの痣が付いていたし、肉付きも悪くて、顎も針のように尖っていた。
フィーはぐ、息を呑み、それから血豆のできた手を差し出した。無論、届くはずもなかったのだが――彼は言った。
「お前も来い」
「え……」
「お前も来い。お前ひとりくらいならなんとかなる」
早くしろ、とばかりに催促をする、フィー。ケビンは少しだけ考える素振りを見せて、それから寂しげに瞼を閉じ、こう答えた。
「……僕は行かないよ。僕が行ったら、フィーの足手まといになっちゃう」
「お前ひとりくらいなんともない」
「なるよ。できることならそうしたいけど、僕はフィーとは違うんだ。ほら、こんな木すらも登れないし」
冗談交じりにそういって、木を登る動作をするケビン。ケビンの細い腕と小さな体は、太い幹にぽん、としがみ付くだけで、そのままずるずると落ちてぴたんとお尻をついて止まった。
ケビンはほらね、というなぜか誇らしげな表情を作り、ぽんぽんと泥のついた両手を叩いた。
それからはっ、と何かに気が付いたようにして辺りを見わたし、声を落とす。
「ほら、早くいかないと……もうすぐ、交代の時間だから。次の門番が来ちゃうよ」
くるくると豊かに表情を変えるケビンに、フィーは口元だけで微笑する。それから「ごめんな」と小さく謝罪の言葉を述べた。
寡黙な彼の声に、ケビンは寂しげに笑った。
「フィー。僕は君のことが大好きだよ。僕の最高の友達だ」
「俺だってそうだ」
そこで、遠くから人の足音のようなものが聞こえてきた。門番の交代の時間が来たのだ。さっ、と二人の間に緊張が走り、一気に体が強張った。
「……ごめんな、ケビン」
再び呟かれた謝罪の言葉に、ケビンは困ったように苦笑した。
フィーが今まさに飛び降りようとした、飛び降りるために塀の屋根を蹴り上げたその瞬間。
塀の中の、ずっと下にいるはずのケビンが「フィー!」と大きくはっきりと彼の名前を呼んだ。
「覚えておいてね、フィー!君は絶対に、“failure”(出来損ない)なんかじゃないんだ!」
ケビンの声は、ざわざわとした野太い門番の声によって引き裂かれた。交代に来た門番に捕まったのだ。
フィーは一度だけ振り返ると、それからさっ、と走り出した。フィーは足が速かった。それこそ、誰かに「止まれ」と言われるまで風のようにどこまでもどこまでも走り続けた。
フィーの赤い瞳からは透明な宝石のような涙が溢れ、頬をどんどん濡らしていった。走るたびに体に巻きつく温い風が彼の頬を撫で、慰めた。
ケビンが間違いなく受けることになるであろう恐ろしい「お仕置き」も、明日嵐のように巻き起こるであろう「騒動」さえも涙と共に拭い去った。
途中、こんな闇の中やたらとキラキラ光る賑やかなお屋敷の前を通るが、その痛みもイライラさえも、すべて闇の中に葬り去った。
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