ソモサンセッパ

小笠原寿夫

2017年12月22日

 いい小説を読むと、書きたくなる。

 これが、物書きの習性なのかもしれない。何も書き殴っている訳ではない。必死で構成を考えて、それを、最後にどうまとめようかと、思案する。溢れんばかりに、発想が出ていた頃は、必死で働いているときだった。仕事の副産物が、いい作品の根本なのかもしれない。

斯く言う私は、生活保護受給者。働かなくても食っていける。ただ、それでも書きたくなったり、話したくなったりするのは、物書きの習性というよりは、人間の本能なのかもしれない。

と、在り来たりな文章を書きつつ、パソコンをタイプする手が止まる。


 小説家になりたい。落語家になりたい。

淡い発想ではあるが、小説家も落語家も、立派な職業である。

「あなた、頭いいんだから。」

持論ではあるが、頭がいいのは、小学生までだと思っている。

「お前、おもんない奴の典型やな。」

そんなことを、先ほど夢で見た。面白いことが全てだとするならば、面白いことだけが、武器であるならば、私は戦死していると思う。

 ふわふわと部屋の中に充満する、言葉たちを集めて、切り取って、繋いで、私は、小説を書いている。物語を簡単に思いつくことが、出来る人は、それは、才能ではなく、経験だと思う。

「苦労してきて、苦労が足らん。」

痛々しい分、楽しいことを作り出す源泉は、その裏に潜む、苦悩や葛藤である。死をテーマに文章を書くことだけは、避けてきた。逃げているわけではなく、そこに人は快感を覚えないという唯一無二の私のポリシーである。それならば、メルヘンを書いていた方が、よっぽど得である。夢があった方が、事実を映し出すよりも、読み手は、快楽を覚えると思うから。



 物理と向き合ったものは、必ず、真実を知りたがる。科学と向き合ったものは、必ず、夢を見る。学問というものは、皆で作ったからこそ、次の世代に残すべきものだ。生ぬるいように見えるが、教育現場は、それなりに過酷だ。

 ゆとり世代が貴重だといわれる。ゆとり世代にも勉強したい学生は、居る。教育を受けられる権利が、如何に重要かということを、私は、問いたい。連想ゲームを繰り返しながら、自問自答しているので、この文章が、果たして作品になっているかすら、わからない。

 なにが言いたいのかも、定かではない。

「俺たちは、奴隷じゃない。」

その事実が、どれだけ素晴らしいものなのか。先人は問う。そして、子供たちは、無邪気に遊ぶ。その繰り返しでいいと思う。子供たちが、大人になったとき、当時の大人の苦労を知る。血生臭い努力やら、泥臭い仕事やら、そういうものを経験して、また次の世代に伝えればいい。物語を捨てた私は、真実を求めがちだが、その真実すら砂の器のように、手から零れだす。

「もうええか。」

「もうええわ。大体、書きたいことは書いたし。」

「ほな、飲みにいこうや。」

「俺、酒あかんねん。」

「なんでや?」

「文章がぶれるから。」

「寒いな。」

「雨上がりやしな。」

「そういう考え方もある。」

「な?」

「うん。」

「もうええわ。」

諦め。それが、人間が神に許された唯一の特権だそうだ。漫才でも「もうええわ。」で終わる。どんな無理問答をしたところで、人間は、「もうええわ。」で終わる。

 それが、同期だったあいつの教えである。

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