第2話 目が覚めたら季節が変わっていまして。



 エリシュカの考え通り、その話はそれで終わった。そのはずだった。



(……状況を整理しなければ)



 全身を包む倦怠感と戦いながら、寝台から身を起こし、エリシュカは思考を働かせる。


 窓の外に見える風景は、昨日までは冬のものだった。木々の葉は落ち、色鮮やかな花など望むべくもなく、常緑樹がかろうじて景観を整えていたものの、うら寂しい感じは拭えなかった。


 しかし、今エリシュカの目に映るのは、色とりどりの花が咲き乱れ、緑はみずみずしく存在を主張し、春告げの鳥が嬉しげに果実をついばむ、そんな風景である。

 一夜にして季節が移り変わった――そんなことがあるわけがないのは言うまでもない。


 そして、今なおエリシュカの意識を奪わんとする、この睡魔にしては凶悪な感覚。


 エリシュカは、曲がりなりにも良家の子女としてはしたないと自覚しながらも、舌打ちせざるを得なかった。ちなみに曲がりなりにも良家の子女たるエリシュカがそんな所作を知っているのは、平民からの叩き上げの武官であった母親の影響である。



(間違いなく、魔術ね)



 この国、リーヴェンデッテは魔術の盛んな国である。宮廷付きの役職に、文官と武官の他に魔術師の枠があることからもそれは窺えるだろう。


 今エリシュカを襲っている異変は、まず間違いなく魔術によるものだ。窓の向こうのことを考えれば、エリシュカの意識の上での昨夜から、現在に至るまでこの魔術は行使されていると考えられる。


 つまり、エリシュカは季節が変わるほどの期間、魔術によって眠らされていたということになる。



(でも、誰が、何のために?)



 エリシュカは、自分が他者からこんな魔術をかけられる心当たりがなかった。

 人間、生きていれば誰にどんな感情を抱かれても不思議ではないが、とある事情もあってエリシュカの交友関係は狭い。その狭い交友関係の中で、自分に魔術を――しかもこんな、ただ眠らせるだけの、いまいち目的が不明な魔術をかけようという人間は見当たらない。


 生命を脅かすような魔術でない時点で、エリシュカに害を為そうという目的ではないだろうと考えているが、では何が目的なのかと考えてみてもまったく予想がつかない。


 答えの出ないことを延々と考えていても仕方ない。エリシュカはようやく寝台から降りた。


 が、すぐに転んだ。

 自分の体が思い通りに動かない。特に足は感覚が遠く、このままでは立ち上がるのは無理だろうと思われた。


 エリシュカは再び舌打ちした。もう良家の子女が云々と考える余裕さえなかった。



「いるんでしょう、エッド」



 今なお魔術が行使されているという状況でエリシュカが目覚めるには、他者が介入しなければ有り得ない。そうして、そんなことをしそうな人物に、エリシュカは心当たりがあった。


 確信をもって呼びかければ、案の定くつくつと笑う声が聞こえてくる。



「俺が出てきてもいいんですかね、嬢さん?」



 暗に寝起きの姿を晒してもいいのかと問いかけてくるが、そんなもの今更である。彼がエリシュカの近くに居て、他者の魔術を妨害している時点で、どうせ姿は視認されているのだ。

 一方的に見られているというのは気分がいいものではないので、せめてあちらの姿も現してもらいたい、というのがエリシュカの考えだった。


 まあ、いくらそこに居るとわかっていても、宙に向かって話しかけるのはちょっとおかしいひとのようで嫌だった、というのが主な理由ではあるが。誰が見ているわけでなくても、嫌なものは嫌である。



「いいから早く出て来て。現状と、今後について話したいの」


「それはそれは。雇われの身としては、是非ご意見を伺わなくてはなりませんねぇ」



 そもそもそのためにエリシュカが起きるようにしただろうに、そんなことを飄々と言う。

 おちょくっているとしか思えないが、ことここに至って、エリシュカの純粋な味方になり得る人物は彼くらいしかいないというのが頭の痛いところだった。


 エリシュカの眼前で、空間が歪む。渦を巻いたその中心から、にゅっと手が突き出てきた。その手が空間をまるで布か何かのように掴んで、無造作に引っ張る。

 大きく口を開ける形になったそこから、一人の少年――に見える――が姿を現した。


 未だ座り込んだままのエリシュカの目線に合わせるように屈んだその人物は、にこやかな――本性を知っているエリシュカからすれば胡散臭い笑顔を浮かべる。



「お久しぶりですねぇ、嬢さん」


「私の感覚では、つい三日前にも顔を合わせたのだけど――そうじゃないということね?」


「ええ、ええ。嬢さんも勘付いてらっしゃるでしょうが、三日どころか三月経ってますねぇ」



 さらりと告げられた期間に、エリシュカは眩暈を覚えた。が、根性で堪えた。倒れ伏している場合じゃない。



「情報は」


「ある程度は集めておきましたよ。嬢さんのお気に召すかはわかりませんがね」


「少なくとも、気に入るような内容じゃないのは最初からわかってるでしょう」


「ま、それもそうですねぇ。じゃ、まず嬢さんにかけられてる魔術についてですけど」


「待って。いえ、確かにその内容を真っ先に聞きたいのだけど、その前にこの魔術、破棄できないの?」



 エッドは無駄口を叩かないわけではないが、打てば響くような会話ができるのでその点は話が早い。

 しかしこの、一瞬でも気を抜けば意識を消失しそうな状態で情報を詰め込むのは利口ではない。それゆえのエリシュカの問いに、エッドは小首を傾げた。

 見目が少年だから許される感じがするが、実年齢には見合っていない。当然、実年齢を知っているエリシュカは微妙な気持ちになった。



「破棄、してもいいならしますけどねぇ」


「破棄することで、何か問題があるってこと?」


「いえね、破棄するとさすがに術者に気付かれるんですよ。そこから依頼主に情報が行って、不利益にはならないかと憂慮してるわけです」


「……一理あるわね。情報が出揃わないとなんとも言えないけど――術者と依頼主はわかってるの?」


「ええ、もちろん」



 それならばさっさとその情報を提示して判断を仰いでほしかったところだが、単に利害の一致で協力を得ている身としてはそこまで求められるものではないのもわかっている。

 なのでエリシュカはそれについては不満を口にすることなく、先を促した。



「術者は宮廷の二位魔術師、依頼主は嬢さんの元婚約者殿ですねぇ」


「………………」



 エリシュカは額に手を当てた。いっそ頭を抱えたいところだったが、一応人前でそこまでするのは憚られたのである。



「…………レナクが、依頼主?」


「ええ。嬢さんの元婚約者殿の友人に、二位魔術師がいたでしょう。術者はそいつですよ」


「……………………」


「嬢さん、嬢さん。ちょっと女性としてどうかってくらいの顔になってますよ」


「放っておいてちょうだい」



 渋面というのも通り過ぎた凄まじい顔になっているらしいが知ったことではない。


 問題は、終わった話のはずの元婚約者がこの事態に絡んでいることだ。


 ものすごく、ものすごく遺憾ではあるが、その事実によってエリシュカにはこの一連の流れがなんとなく読めてきた。


 クソがつくほど真面目な(エリシュカの母談)シルヴェストルの若様である。

 義理を重んじ、折り目正しく、浮ついた噂などからきしの、品行方正を絵に描いたような、行き過ぎて不器用の域にすら入っている男である。

 正式に婚約を解消する前から、『異世界の少女』との噂が流れていたのをおかしいと思わなかったわけではなかった。


 けれど、恋は盲目という。人を馬鹿にするという。確か初恋もまだだったはずの幼馴染だ。

 恋だの愛だのの熱にのぼせればそういうこともあるかと思っていた。……が、間違いだったのかもしれない、とエリシュカは認めた。



「『異世界の少女』の動向は?」


「嬢さんの元婚約者殿と、あと何人か連れて旅に出た、ってことになってますねぇ。その中に、件の二位魔術師殿も入ってますよ」


「行先は?」


「初めに、北。それから東へ。なぜか道行は、一定間隔に首都に近づいては遠ざかる、を繰り返しているのだとか」



 本来なら、それは情報というにも満たないものだった。方角と、意味があるかもわからない補足。

 けれど、エリシュカにはその動きに覚えがあった。エッドも同じく覚えがあったからこそ、それを情報として示したのだとわかるだけの付き合いはある。



「世間的には、それはどういうことになっているの?」


「『異世界の少女』が『神子』だって噂、知ってます? 『神子』を正式にこの世界に迎える儀式、だそうですよ。で、ここから先は民衆の願望交じりの噂ですが、儀式が終わった暁には、元婚約者殿と『神子』が婚儀をあげるのだそうで」


「…………そう」



 何を言うこともできなかった。言うことが無かった、という方が正しいかもしれない。呆れとは違うが、言葉もないという点では同じだった。



「そこまで調べがついてるなら、私がどういう結論に達したかもわかってるでしょう」


「いえいえ、俺は読心術は嗜んでませんのでねぇ。言ってくれなきゃわかりませんよ?」



 言わせたいだけじゃないのかと思うものの、言わなければ協力はしないということなのだろう。或いはそれが、彼との新たな契約の楔となるのかもしれない。



「レナクを追いかけるわ。首根っこ捕まえて連れ戻すからそのつもりで」


「良家の子女の皮が行方不明になってますよ」


「取り繕う気分じゃないの」


「ま、その気持ちはわかる気はしますけどね。……嬢さんはそれでいいんで? 世間的に、嬢さんあんまりよろしくないことになると思いますけど。世間は『異世界からの神子』と『聖騎士団長』の恋物語に酔ってますからねぇ」



 そんなのは百も承知だ。別れた婚約者に追いすがるような真似をする予定は微塵もなかったけれど、見過ごせないのだから仕方ない。



「構わないわ。私の評判なんて、今まで毒にも薬にもならないようなものしかなかったのだし」


「だからってあえて毒を混ぜ込むような真似をするのはどうかと思いますけどねぇ」


「それで動きやすくなるのなら、利益の方が上回るでしょう」


「そりゃあそうですけども」



 含みのある言い方に、多少イラッとしてしまったのは、人間なので仕方ないだろう。

 半眼を向けたエリシュカに、エッドは「わぁ、こわいこわい」と、ちっとも怖く思ってなさそうな口振りで両手を上げた。馬鹿にされているようにしか思えない。



「言いたいことがあるのなら、今言って。動き出してからは、あまり貴方の意思を汲むつもりはないの」


「嬢さん合理主義ですもんねぇ。そういう時に道具としてちゃんと扱うからこそ、俺は嬢さんが気に入ってるわけですし」


「それは有り難いことね。……で、言いたいことは?」



 再度の問いかけに、エッドは瞳を閃かせた。鋭く、心の奥底にまで斬り込むような眼差しで。



「嬢さんは、それでいいんですね?」



 それが、先程の世間体に関する問いとは一線を画したものであることは、エッドの雰囲気が物語っていた。


 エリシュカはそこに含まれた意味を正確に読み取って、それでも迷いなく頷く。迷う理由など、どこにもなかった。


 エッドはエリシュカの答えが最初からわかっていたとでもいうように――否、わかっていたのだろう、すぐに纏っていた雰囲気を霧散させ、普段通りの掴みどころのない笑みを浮かべた。



「それじゃ、他に俺から言うことはありませんねぇ。うまく使ってくださいよ?」


「言われなくても」



 実質、今エリシュカが頼れる――使えるのはエッドだけだ。彼をうまく使わなければ、目的を達成するどころかこの首都から出ることも叶わないだろう。そうするしか活路はないのだ。



「心強いことで」



 楽しげに目を細めるエッドに、エリシュカは溜息を吐きたいのを堪える。こういう人物なのはわかっているので、苦言を向けるだけ時間の無駄だった。


 手始めに、術者と依頼主が判明した魔術を破棄するように伝えて、エリシュカは今後の動き方について考えをまとめることにした。

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