その6:青空(六)~力道山復活・あの旗に託した未来(ゆめ)を──東北は負けねぇ!
六、Here Today Act.6
その建物へ初めて足を踏み入れた日、世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』の御曹司は一〇分と経たない内に猛烈な頭痛と眩暈に見舞われ、病人のように蒼白な顔で屋外へ飛び出してしまった。右手で押された口元からドイツ語の呻き声が漏れていたが、喉の奥からこみ上げるものを耐え抜いたかどうかは定かではない。
一つの事実として、オランダ・アムステルダムまで親友を訪ねるときにも
それも無理からぬことであろうと、誰もがザイフェルト家の御曹司――ギュンターに同情を禁じえなかった。一度でも屋内に立ち入った経験のある人間は揃って
ドーム型の天井には照明器具など取り付けられておらず、光を取り込むガラス窓すら一枚もない。中央付近に置かれた机を取り囲むようにして筒状のフロアスタンドライトが七台ばかり立てられているが、テーブルランプを除くと室内を照らす物はそれだけである。
台座はラタンを編み上げたカバーで覆われ、ガラスの筒にはモンステラの葉を象った模様が生い茂るように散りばめられていた。
テーブルランプのほうも何本かの珊瑚を組み上げた支柱と円錐型に藁を編んだシェードが珍しい。建物の主は南国情緒を好んでいるようで、机と椅子の下に敷かれた正方形のラグマットでも真っ赤なハイビスカスが大輪の花を咲かせている。
壁一面を覆い隠すような形で並べられた本棚からは分厚い書物が今にも溢れそうだ。
間接照明しかない室内ではすこぶる読みにくいだろうに、そこから抜き出されたと
光源の乏しさはともかくとして、これだけならばありふれた書斎である。折角、取り揃えられた南国情緒を台無しにしているのは、机に面した中心部にて日本家屋の大黒柱さながらに
本物の自然物であったなら、あるいはギュンターも拒否反応までは起こさなかったであろう。そもそも「巨大樹」という表現すら比喩に過ぎないのだ。大抵の人間にはパソコンの残骸を積み上げた前衛芸術にしか見えない。
改めて
木の幹と見えるのは何らかのサーバーと
如何なる意図が込められているのかはついに誰も確認できなかったものの、薄暗い異空間に何年も籠ってこれを完成させた人物は枝と木の実に見立てていたのかも知れない。
『
人類の祖先に知恵を与えたという禁断の果実とは正反対に鉄片からぶら下がるモニターは見る者に混乱を振り撒くのみである。真っ青な画面に白い文字が隙間もないほど並んでいるのだが、これを正確に読み取れる人間は絶無に等しいだろう。何しろ地球上に存在する数多の
それぞれのモニターに表示される文章は全て異なっており、〝木の幹〟から張り出して蔦の如く鉄片に絡まっているケーブルでもって連動しているわけではなさそうだ。
夥しい量のケーブルは〝木の根〟の如く床一面に走っている。その内の数本は机上のパソコンにも接続され、多くのモニターと同様の文章を液晶画面に映し出していた。一つだけ他と違うのは操作用の小さなパネルが表示されている点であろう。
常人には理解し難い文法に従っているのか、英語・仏語・独語・伊語・露語などを組み合わせた文字列が操作パネルの入力欄に打ち込まれていく。不正解を示すかのような不協和音が狭い空間内に鳴り響いたのは、作業が一段落して甲高い打鍵音が天井に跳ね返った直後である。
それも並みの音量ではなかった。天井や壁から突き出した幾つものスピーカーが一斉に起動し、口を開けて準備していないと鼓膜が破られてしまうような轟音が四方八方から容赦なく降り注ぐのだ。聴覚に異常が生じなくとも脳を揺さぶられて失神し兼ねない。完全防音を施した壁でなかったら、近隣住民が徒党を組んで怒鳴り込んでくるだろう。
「……今に始まったことじゃないけれど、ホゥリー先生のダメ出しは本当に手厳しいな」
椅子から立ち上がる際に引き摺った溜め息はたちまち残響に掻き消されてしまったが、そこに瓦礫の如き巨大木を作り上げた人物の名前が含まれていた。
無論、その呟きはオランダの
長らく向き合っていたパソコンから本棚へと身を移し、机上の壁を更に高くする材料を見繕っているのはストラール・ファン・デル・オムロープバーンであった。
オランダ式キックボクシングの名門ジムとして全世界に名声を轟かせる『バーン・アカデミア』を率い、また同国の格闘家たちを束ねる〝顔役〟として畏れられてきた『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家の御曹司である。
『ハルトマン・プロダクツ』が本社を置くハーメルンで行われたスポーツ用ヒジャブの発表会にその
プレゼンターが「人類の可能性を拡げようという歴史的瞬間」と述べるくらい大切な一日ということもあり、会場となった多目的ホールではネクタイを締め、背広まで羽織っていたが、現在は胸元が覗くほどアプリコットのワイシャツのボタンを外している。ダークブラウンのスラックスもサスペンダーで緩く吊っており、身体的な負担を軽減している様子であった。
長く伸ばした
間接照明しかない空間では見え難くて不便であろうが、ゴーグル型のサングラスで双眸を覆っており、パソコン画面が意味不明な文字列に埋め尽くされていく
床だけでなく壁や天井を覆い隠す〝蔦〟はそれぞれの連結部に電球が内蔵されており、これが夜景を彩る
そもそも、
赤褐色の
彩り様々な〝星屑〟を背にしていることもあり、比喩ではなく本当に煌めいて見えるのだが、機械などに頼るまでもなく『レーナ』は希望の光を纏っている――と、ストラールは心の中で甘やかに呟いた。
そのマフダレーナ・エッシャーも将来を誓い合った
何よりも室内が極端に寒い。スカートの裾がくるぶしまで完全に覆う長袖のワンピースを着ていても気を緩めた途端に風邪を引きそうになってしまうのだ。
机上のパソコンや金網の内側に立つサーバーが熱暴走で故障することを防ぐ為、スピーカーの間隙を縫うような形で取り付けられたエアコンは人間が凍えそうになるほど室温を低く設定している。この状態を常に維持し続けているのだから、アムステルダムの片隅へ局地的な寒波が到来したように感じるのも当然であろう。
遠い祖先の時代に環状運河地区が整いつつある一七世紀のアムステルダムへと流れ着いたものの、本来は深い森の中で自然と共に歩んできた一族であり、SF映画を彷彿とさせるような機械とは本質的に相容れない。事実、ただ歩を進めるだけでも凍てつく風が薬草の
決して居着きたいと思えない空間ではあるものの、
『
ストラールと共に
ここで最期の
外観を確かめるまでもなく学術機関とは思えない構造であるが、このドーム型の建物をホゥリーが『アカデミー』と称していたことも記憶に留めている。たった一人の教え子にとって「先生」の遺産はそのまま最後の課題となり、これを解き明かすべく最愛の
「
「……
目の前の
「……ギュンターが一緒だったら、暇を持て余して『本よりも映画を観ろ』と煩わしく絡んできそうだね。スヒップホルとランゲンハーゲンで空港も飛行機も別々だから、機内でレーナと静かに過ごせるのは有難いかな」
「掛け替えのない親友に随分な言い草じゃない。向こうはわたしたちよりも乗り継ぎが多いし、更に
「ホゥリー先生みたいに痩せ細って現れたら私も驚くかな」
「また縁起でもないことを……。そもそも、若い頃のヴァランタインさんは非常に恰幅が良かったと聞いているわよ? 一緒にするのはさすがにギュンターが気の毒よ」
必要な記述を確かめていた書物を閉じ、これを本棚に戻したストラールはマフダレーナに椅子を勧め、腰掛けた
「とりあえず、『ラアウ・ラパアウ』の本を何冊か見繕うとしよう。薬草術を極めたキミから教わることも多いだろうし」
「同じ薬草術でも
「お礼を貰えるようなことは何もしていないよ。レーナと過ごす時間を私の全てより大切にしていきたい――ただそれだけのことさ」
『ラアウ・ラパアウ』という不思議な響きの言葉をマフダレーナの耳元で囁きながら、ストラールは己が日本まで赴く理由を探るべく記憶の水底へと意識を沈めていった。
*
キリサメたちが水平線を望む
むしろ、散歩には最適な頃合いであると語った
他の地区と同様に脇ノ沢も東日本大震災で壊滅的な被害を受け、六〇艘を超える漁船が大津波によって流出してしまっていた。二〇一四年に
震災の翌年から陸前高田市で開催されているサイクリングイベントひいては一九二〇年アントワープオリンピックに倣い、復旧半ばの姿こそ目に焼き付けておきたいというイズリアルの希望にはキリサメたちも反対する理由がなかった。
その予定が何の前触れもなく変更されてしまったのは、
携帯電話の経路案内ではなく、
更地に砂利を敷きながらロープで仕切ってもない急拵えの駐車場のようであり、塀の如く積み重ねられた土塁によって海辺と隔絶されている。復旧に至っていない防潮堤の
腰の辺りまで積まれた土塁へ吸い込まれるようにして歩み寄り、その向こうに広がる水平線に視線を巡らせたままイズリアルは全く動かなくなってしまった。砂利を砕いて根を張ったかの如く直立不動で波音に耳を傾け始めたわけだ。
一〇分も歩けば
特別なモノなど何もない場所だからこそ
海の幸に恵まれた陸前高田市の人々にとって漁港ほど身近に感じる場所は他にないだろうが、水産業の要だけあって港湾施設へ気安く立ち入ることはできない。これに対して一行が立ち止まったのは職業や立場の別もなく誰もが通う公道である。この町の〝日常〟へ気に留めるほどでもなく当たり前のものとして溶け込んだ風景なのである。
海を臨む駐車場から後方を振り返ってみれば、公道を挟んだ向こう側に木立の生い茂る小高い丘が見て取れた。互い違いに傾いた木々や漂着した〝何か〟に抉られた窪みなど天災の爪痕が生々しく残っている。
「広田湾なう――っと。正確には広田湾付近ってコトになるんだろうけど、そこまで気にするフォロワーもいないだろうし、イージーに行くとしよう」
青空と境目もなく交わった水平線に口笛を吹いた沙門は、陽の光を跳ね返して煌めく穏やかな波を
彼は陸前高田市に足を踏み入れて以来、町の
最初の内はキリサメも写真撮影が趣味なのだろうとしか考えなかったが、カメラ機能の起動を意味するシャッター音に続けて沙門は決まって「なう」「わず」などと謎めいた言葉を呟きつつ
しかも、
今度も厚めの唇でもって愉快な口笛を吹いている沙門は
キリサメは置き去りとなっているものの、沙門と同じSNSは未稲や希更など多くの格闘技関係者も利用している。むしろ、登録していない人間を捜すほうが困難であり、数十万という
二〇一四年五月までに全世界で二億もの
「……先程も頼んだが、イズリア――当方のことはネット上に載せないで頂きたい。キミはどうやらアメリカ留学の経験もあるらしいが、それならば余計に〝揉め事〟は望むところではないはずだ。『
「先程も申し上げましたがね、イズリアルさんに迷惑を掛けることこそ俺には望むところじゃないんスよ~。あの美しい顔を曇らせたくないッスからね」
「……その感覚は自分には理解し兼ねるが……」
〝揉め事〟という言葉の裏側に訴訟の可能性をも匂わせたVVの警告に対し、沙門は大仰に肩を竦めて見せた。
イズリアル・モニワも『NSB』の団体代表へ就任する以前から個人用アカウントを登録し、MMAに関連する事柄だけでなく
沙門が投稿した
一緒に行動していることをSNSで匂わせれば
「そんなに心配なら俺のアカウントをダイレクトにチェックしたらどうです? 今の画像だって『
「誰かに指示されるより先に済ませておくのが〝
「こういうオトナにだけはなりたくないってお手本丸出しッスねぇ」
現在地の写真をインターネット上に投稿すれば、即ち自分の居場所を不特定多数へ公表することにもなる。VVから警告を受けるまでもなくイズリアルが――『NSB』の代表が陸前高田市に足を運んでいることを誰にも知られてはならないと沙門も心得ていた。
(……話の流れはまるで読めないけれど、麦泉氏も話していた例の緊急事態に関わるコトなんだろうな。居場所を特定されるのは一番厄介だろうし……)
SNSへ一度も触れたことがないキリサメにもイズリアル・モニワの置かれた状況は十分に
〝その話〟に麦泉が言及したのは
発端は先月末に全世界を激震させたアメリカ合衆国大統領専用機――エアフォースワンへのサイバーテロ事件まで遡る。『バルトロマイの福音書』に
超大国の政権中枢を支える上級職員でも政府高官でもない。その日、エアフォースワンに
もう一人は『NSB』副代表の孫娘である。政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと大統領へ同行していたのだ。
事件当日、大統領はフロリダ州に所在するコンテナ・ターミナルを視察して経済活性化を奨励する
現大統領とホワイトハウスを争った対立政党の重鎮は
カービィ・アクセルロッド――『不沈艦』の異名を取った
事態が収束する見通しの立たない中、
サタナスは格闘技そのものを重大な人権侵害と見做し、苛烈な抗議を
今年の二月には〝縄張り〟が脅かされる状況に怒りを募らせていた『NSB』のファンが『ウォースパイト運動』の活動家を殺害する事件にまで発展し、アクセルロッド上院議員はこの忌むべき
MMAを巡る憎悪が果てしない暴力の応酬へと連鎖し始めていた。何しろ『ウォースパイト運動』という〝思想〟はSNSを通じて共有されているのだ。他者の持つ〝権利〟を叩き壊さんとする激情ほど同調し易く、速やかに増殖していくものである。
テロ対策にも匹敵する警備体制が『
『
「……さっきから〝揉め事〟って何度も仰ってますけど、イズリアルさんが今、この場にいるってコトは『
「日本ではこういうコトを『耳が痛い』と表現するのだったな。しかし、サタナスに煽られた不届き者は地上に存在する全ての格闘技を敵視している。遅かれ早かれ『
「それなら『NSB』と足並みを揃えて
「さりげな~く俺に対する悪口を差し込むのはいけねェよ、お嬢ちゃん」
「統括本部長の家族が『足並みを揃えて
「もう完全に〝押し貸し〟じゃん! 悪徳金融の手口じゃん!」
他の〝誰か〟が割り込む隙間もないほど密着しながらキリサメの真隣に立つ未稲もVVの物言いは大いに不満であり、口の先を窄めて苛立ちの度合いを示している。
『NSB』による視察の件は『
『
奇しくも
二つの視察が同日に重なってしまったのは樋口の策謀であろう。
彼は『NSB』の試合を新たな次元にまで進化させた『
(……あのとき、確かにモニワ氏の顔は明らかに強張っていた。それどころか、その話をする麦泉氏も納得していない様子だった――ここまで来ると樋口氏は自分の敵がどれだけ増えるのかを試しているとしか考えられないな……)
ギュンター・ザイフェルト――つまり、『ハルトマン・プロダクツ』の経営者一族が同じ会場に訪れることを麦泉から教えられた瞬間、イズリアルの纏う空気が張り詰めた。樋口による隠蔽工作の有無はともかくとして、視察そのものが急な決定であった為に『NSB』の情報網にも引っ掛からなかったようである。
しかし、それは日程調整の不手際に対する苛立ちではなかったようキリサメには感じられた。『NSB』と提携するスポーツメーカーなど聞いた
アメリカ合衆国大統領を巻き込んだサイバーテロの最大の
忌々しい
格闘技を人権侵害と見做す思想がインターネット上のやり取りを通して際限なく増殖していることは
幼馴染みの少女と遠い彼方に引き裂かれてしまった『七月の動乱』は、キリサメが生まれる以前より
もしも、
(……つまり、同じ思想を分かち合う人々の間でこそ狂気が膨らんでいくことをこの人も痛感しているわけだな――)
水平線の向こうに目を転じながらもVV・アシュフォードという気難しそうな男について思案し続けていたキリサメの左脇腹を沙門が右肘で軽く
「そういうのは見て見ぬ
「そこまで仰るということは沙門氏も最初から気付いて……?」
「これまた昔話になっちまうけど、大叔父が警視庁の機動隊に勤めていたんだよ。俺たちを敵視してきやがる『ウォースパイト運動』とは毛色が違うけど、日本でも長くて硬い棒切れやパイプ爆弾で〝世直し〟を試みた連中が暴れ回っていたんだよ。そのテの連中はブレーキの壊れた暴走列車と大差なかったって、盆暮れ正月に一族集まる
沙門から〝昔話〟を耳打ちされたキリサメの脳裏に亡き母の授業が甦った。自分たちの思想を正義と疑わず、内部闘争も辞さない圧倒的なる暴力を
『昭和』と呼ばれた時代の半ばには苛烈極まる思想に衝き動かされた若者たちが国内外に血の色の劫火を放ってきたのである。同じ〝世直し〟を唱えながらも主張の隔たりや主導権争いなど様々な思惑から分派を繰り返し、それぞれがテルアビブ空港での銃乱射や長野県に所在する山荘の占拠といったテロ事件を起こしている。
〝正義〟の証明として武力闘争を選ぶなどペルーに
一九六〇年代半ばから東西冷戦の延長といった性質に変わり始めたベトナム戦争へ反対するべく決起した日本の若者たちは東京の市街地で警視庁機動隊と衝突し、暴走の有り様は
「アメリカ留学中に居候させて貰ったキックボクシングのジムはシアトルに
余人の耳に届かないほど小さな声でキリサメだけに話しかける沙門の
これにはキリサメも唖然としてしまった。アメリカから日本へ銃器を持ち込むという違法行為を見抜いた上でVVに挑発的な行為を繰り返していたわけだ。苛立ちから
「ちょっと意味を読み取れなかったんですけど、今の話って何なんですか? どうして銃社会なんて話が? しかも、
「……みーちゃん、あの……」
少しばかり離れた位置にて岳と肩を並べつつ水平線を眺めているイズリアルや、二人の傍らへ戻っていった麦泉とVVに沙門の控えめな声は聞こえなかったようだが、キリサメの真隣に立つ未稲の耳にはさすがに届いてしまった。
耳打ちならばまだしも、
「お嬢ちゃんもなかなか地獄耳だな。それともデバガメ趣味ってヤツかい? ヤバいってのはアシュフォードさんのコトだよ。あの
「沙門氏、それは……っ」
「キリくんの言う通りだよ。それは幾らなんでも突飛でしょ。それじゃあ何ですか? あの人、どこぞから送り込まれた特殊エージェントだとでも?」
「当たらずとも遠からずと俺やアマカザリは踏んでるんだよ。ここ最近の『NSB』を振り返ってみなって。団体の代表に
「いや、『
「どんな心得があるのかは本人に
「……もう一回、今度は強めに釘を刺しておきますけど、キリくんを妙なハナシに引っ張り込んだら
未稲の意識を銃から引き離すよう言葉巧みに誘導し、暴力に基づいた〝世直し〟という共通点から警視庁機動隊と激闘した日本の活動家たちと『ウォースパイト運動』を絡めて納得させていく沙門にキリサメはただただ感心するばかりであった。
キリサメ自ら説き伏せようとしていたなら、はぐらかそうと試みている間に口を滑らせ続け、結局はVVが左腋下へ隠し持っている物に言及せざるを得なくなったはずである。
その場に立ち会ったことはなく、立ち会いたいとも思わないが、おそらく沙門は女性を口説く際にもこのようにして自分のことしか考えられなくなるよう引き込んでいくのだろう。色恋を差し引くとしても彼はそもそも頭の回転が桁外れに早いのだ。
「キリくんもキリくんだよ。この人に変なコトを吹き込まれそうになったら私にすぐ相談して。……〝今〟、隣に居るのは私なんだから。隠し事はスケコマシの始まりだよっ」
「……みーちゃんが何を言ってるか、ちょっと分からないけど……」
キリサメの態度に腹を立てているらしい未稲は頬を膨らませた状態でそっぽを向いてしまったが、それでも密着に近い状態だけは維持し続けていた。
未稲の機嫌を損ねた原因が自分にあるとは想像もつかないキリサメだが、それでも小さな声で紡がれた言葉が愛らしくて堪らず、今すぐにでも
*
『ハルトマン・プロダクツ』を統べる会長であり、国際規模の競技大会に関わる様々な利権を貪り食らう〝スポーツマフィア〟の総帥として数限りない悪意に突き刺されてきたトビアス・ザイフェルト――その孫であるギュンターが一族を代表して岩手県で開催される興行を視察し、『
金メダリストを数多く輩出するなど格闘技王国として知られるオランダに
歴史上、ドイツとオランダは戦火を交えたこともあったが、
その
(――ああ、想い出してきた。……ウクライナで新たな難民が大量発生する見通しだと、
まるで他人の記憶を覗き込んでいるかのような感覚がストラールを包んでいた。
ザイフェルト家の
それでいて余計な記憶ばかり
スポーツ用ヒジャブの発表会へ共に出席した際、
『ガダン』の将来にも関わりが深い事柄という点が最たる要因であろうと、ストラールは自らの混沌とした追憶を分析している。
それはアラビアの
正確にはかつて〝少年海賊〟であった一人と表すべきかも知れない。
日本企業のタンカーに対する襲撃というニュースによって生々しい実態が全世界に知れ渡ったばかりであるが、アラビア海を荒らし回る海賊団は人身売買によってソマリアの子どもたちを戦闘員に仕立て上げていた。
ガダンと行動を共にしている年少者のグループも全員が少年海賊である。悪魔が棲む船から一緒に脱走した仲間たちを支える為にも〝プロ〟の格闘家になりたいと
彼が生活するドイツの難民キャンプは『ハルトマン・プロダクツ』が全面的に支援している。ザイフェルト家を代表して
自分の半分しか生きていない少年が背負った
人種も文化も全く異なる土地から逃れてきた難民をどのように受け入れるべきか、ドイツを筆頭にオランダなど
挙げ句の果てには〝少年海賊〟というガダンの身の上まで吉見たちに自慢してしまったのだ。公私混同も甚だしく、恥知らずの上に愚の骨頂――と、ストラールは他者に対する断罪と似たような心持ちで己の浅慮を改めて詰った。
「――あなたが未来に目を向けてくれることはわたしも嬉しいのよ? それはそれとして時おりガダンに妬けてしまう乙女心も
「……レーナ、そういじわるしないでくれ」
「自分ではない誰かの為、真剣になれるあなたの誠実さがわたしの心に少しだけ
「冗談にしては
自己嫌悪で満たされていたストラールの心に
異形の〝巨大樹〟が中央に
オランダの首都は朝焼けの色に染まっていた。靴音を跳ね返す石畳と同じように朝日で
鼻孔がむず痒くなるほど瑞々しい植物の香りで肺を満たしたストラールには次いで空腹感が襲い掛かった。
彼は郊外に所在するドーム型の建物に夜通し籠っていた。今は亡き恩人から託された研究に寝食を忘れて没頭しているのだろうと見破ったマフダレーナは異形の
『格闘技の聖家族』の御曹司は
自分の左腕に両手を絡ませ、チョコレートより甘やかな体温で寄り添ってくれることがストラールには堪らなく幸せであった。何より近く愛しい
隣同士のベッドで産声を上げてから
ガダンのことになると我知らず熱が入ってしまい、マフダレーナ本人からそれを冷やかされる始末であったが、ストラールの人生は彼女の存在なくして有り得ないのだ。
「ガダンも日本に連れて行ってあげたいというあなたの気持ちは分かるけれど、贔屓が過ぎると却ってあの子が辛い目に遭うわよ」
頬が落ちそうになるくらい甘いミルクチョコレートのように自分を包んでくれる。そのように浸っていると急にビターチョコレートよりも苦くなる――愛しい体温の下に隠された毒気もまた
耳元で「可愛い反応」と冗談めかして囁かれたものの、彼女の頬を紅く染められるような小気味好い
ガダンは
己自身の経験に基づき、ガダンを『
「ストラールにとっては特別な存在であっても、難民キャンプで生活している一人という事実は変わらないのだから」
無様な姿まで何もかも見守ってきた相手だけに考えていることは互いに見通すことができる。だからこそストラールは心の中身を覗き込まれても冗談めかしていられるのだ。
朝日を追い掛けるかのようなランニングを日課としているのか、はたまた毎年一〇月に開催されるマラソン大会に向けたトレーニングなのか。二人の真横を一組の親子が園内中央の噴水を目指して賑々しく走り抜けていく。
溌溂とした面持ちで先導する娘から励まされ、左右の腕を大きく振って張り切って見せる両親という微笑ましい場景を見送ったストラールとマフダレーナはどちらともなく互いの指を絡め合っていた。
そうかと思えば、小道に面する茂みの向こうより過剰なほど互いの
「ガダン本人を連れていくのは難しいけれど、彼の面白がりそうなお土産なら持ち帰ることができるかも知れないわよ」
「いつぞやギュンターが話してくれたずんだ餅かな? ……
「冷凍してドイツまで運ぶ為の段取りを確認しなくてはいけないわね。でも、わたしが言いたかったのはガダンが使っている上着のことよ。確か
ストラールが記憶している限り、ガダンは海外から送られてきた支援物資に混ざっていた古い
「キリサメ・アマカザリについて調べていたら、興味深い情報に行き当たったのよ。
「その名前はガダンから遠ざけたほうが良かったんじゃないのかい」
液晶画面に表示されたのは『
事実、彼は文句の一つも口にせず当該選手の経歴に目を走らせていく。同団体のMMA選手に関する情報を吸い上げることには興味がなく、これを手掛かりにマフダレーナの意図を読み取ろうとしていた。
「……これはキャッチコピーのつもりかな? 例の最年少選手が自ら名乗っているのか、主催者のほうで捻り出したのかは分からないけれど、『ケツァールの化身』というのは如何なものだろう。さすがの私もケツァールの生息地が南米でなく中米ということくらいは
世界的なデザイナーとして高名な
プロフィール欄の解説によれば日系ペルー人とはいえ両親は共に日本人である。
キリサメ・アマカザリ――ガダンにとっては良き先例になるだろうとMMA日本協会副会長たちも話していた『
(……しかし、この少年とガダンが結び付くとは想像し難いな。死んだ魚のような目とガダンの燃える眼差しを一緒に見ることはさすがに無理があるし……)
互いに絡み合わせる形で腰に締め込んだ三枚の布切れは先端が尖り、斜めの切れ込みが幾つも入っている。全身像を捉えた写真を見る限り、風に
臀部を覆うように五枚ばかり垂らされた飾りは燕尾服を彷彿とさせる
「そこはわたしもどうかと思ったけど、注目して欲しいのは名前の漢字表記のほう。『天を飾る』と書いてアマカザリと読むそうよ」
マフダレーナによる解説を受け、ストラールの
「日本でも珍しい
「どうやって個人の
「世界最大のスポーツメーカーが持つ
「その名職人がキリサメ・アマカザリの親類で、難民キャンプに例の上着を送ってくれた人物かも知れないのか。まだあの
ハーメルンで
しかし、ゴーグル型のサングラスで覆われた双眸は相槌など求めていない。『天飾』なる家名の職人について説明されたのはこれで何度目であったのか――と、黒いレンズの向こうから儚げな眼差しでもって
「ペルーの『アマカザリ』と
少しばかり強く首を横に振りつつ
「コレが魔眼の類いでないことは誰よりもレーナが
両者の間でしか通じないような暗号めいたやり取りに「機会があったら
口では来訪の意欲を示したものの、実際に東京へ足を踏み入れる頃には左手から心の奥底まで伝った愛しい
オムロープバーンという家門を背負う者として決して口にすることなど許されない思いすら〝永遠〟を誓い合った
八時間もの時差が生じる海の向こうで挨拶を交わした
〝今〟、隣に居るのは私なんだから――先程のいじらしい言葉に心を射抜かれたキリサメは未稲の華奢な
今まさに彼女の肩を掴もうとしていた左右の五指が急に止まったのは、その間際に養父が振り返った為である。
改めて詳らかとするまでもなく、養子が実娘を人目に付かない物陰へ連れ込まないよう目を光らせていたわけではない。八雲岳の名前を呼ぶ大きな声が公道のほうから飛び込んできたのだ。
「水臭ぇでねぇが、八雲先生~っ! 道案内だら自分がいるではねぇですか~!」
「ンなコト、頼めるワケね~だろ! お前さん、
「いやいや! 居でも
岳が両手を大きく振って応じた声の主は格闘技に携わる人間の目には特別に不思議ではなく、それ以外の人間には珍妙と映るような風体であった。三日月の刺繍が眉間で
黒地の
〝特徴の塊〟としか表しようがなかった。鬼貫が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
彼は三年前の会合にも被災地の代表という形で加わり、極めて神妙な面持ちで都内の格闘技関係者たちと向き合ったのだ。しかし、過剰に大きな
リングへ挑む際にこのような〝キャラクター〟を演じているのか、三年前の会合と比べて今日は
サイクロプス龍は陽気の二字がプロレスマスクを被っているようなものであった。先程の会話でも触れた通り、準備の為に『
「……そうか、こうして――こうやって時間は
キリサメの呟きを肯定するように沙門がその右肩を優しく叩いた。
沙門から教わった三年前の様子との落差が余りにも大きかった為に一瞬だけ面食らったものの、底抜けとも思える明るさこそがサイクロプス龍の本来の姿なのだろう。
『まつしろピラミッドプロレス』しかキリサメは類例を知らないが、サイクロプス龍ひいては『
異種格闘技食堂の特設リングでも彼は誰よりも声を張り、
ドイツ史上最悪の独裁者が取り仕切った一九三六年ベルリンオリンピックまで〝餌〟として利用し、『ハルトマン・プロダクツ』の総帥を計略で動かそうとする樋口に戸惑った顔も、MMAによる復興支援に懸念を示した顔も、いずれも本来の姿に違いはあるまい。陸前高田市に根を張る人々と同じようにサイクロプス龍も三年という時間の中で様々な思いを積み重ねてきたのだ。
(……
この
その記憶が心を軋ませ続ける限り、サイクロプス龍のようにはなれないだろう。『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだペルー伝統の
そもそも『七月の動乱』から一年にも届いていないのでサイクロプス龍と同じ心境に至れるはずもないのだが、生来の
「八雲岳――その名は混迷の時代に眩い光を
違和感と共に喪失の恐怖すら覚えた未稲がレインコートの袖を強く引っ張るほど虚ろな目に変わっていくキリサメに対し、軽やかに舞い踊る岳とサイクロプス龍へ感激したらしいイズリアルはまたしても芝居がかった調子で拍手を送った。
改めて
この岩手県で『
「貴方たち『
「いきなり私に振らないで貰えません⁉
「
「……空手バカの息子並みに
激しい頭痛に苛まれているかの如く苦悶の声を洩らしながら頭を抱えた未稲は言うに及ばず、VVと揃って置き去りにされてしまった麦泉も大きな口を開け広げたまま呆然と立ち尽くしている。
両手を大きく広げることによって海と岳を同時に指し示すイズリアルの姿を「野原で高らかに唄うジュリー・アンドリュースみたいなんですが……」と往年のミュージカル映画に
「あの〝独眼竜〟を引き継いだ彼も、サイクロプス龍もまた一つの太陽ね。岩手というこの土地を隅々まで照らすことでしょう。我が祖先の大いなる遺産にも等しくて――」
「――僕もあの人のようになれるでしょうか。岳氏のように……」
尊敬してやまない伊達政宗に倣った風体のサイクロプス龍へと目を転じ、〝祖先〟の面影を重ね始めたイズリアルの声をキリサメの問いかけが遮った。彼女の言葉は意味深長であり、
自分は
しかし、その声は
『
しかし、心の奥底で渦巻いていた迷いを吐露し、誰かに答えを求めたことなど今日まで一度もなかったのである。
(きっと次に化けて出たときは
イズリアルが振るう熱弁に耳を傾け、改めて確認するまでもなく
見れば通りかかった地元の人たちが岳のほうへと歩み寄っていくではないか。サイクロプス龍の風体が何よりも目立つので先ずそちらに意識を引き寄せられ、次いで岳の存在に気付いた様子であった。
岳の姿を認めるや否や誰も彼も双眸を見開いて驚き、握手を求めながら嬉しそうに笑うのだ。有名人だから持て囃されているわけではない。東日本大震災に
「アマカザリはどこまでも真面目だよなぁ。あんまりガチガチだと、バカっつう二文字をアタマに付けられちまうぞ。程よく肩の力を抜いていかなきゃバテるのも早いしよ」
瞬時にして真後ろまで回り込み、おどけた調子で両肩を揉み始めた
三年前の会合には岳や沙門と肩を並べる大器の人々が一堂に会していたのだ。
昭和を代表する二人のプロレスラーは言うに及ばず、一九九〇年代半ばから日本格闘技界を牽引し続けてきた『
『
その
おそらくアルフレッド・ライアン・バロッサは年端も行かない少女をテロの標的に選んだサタナスとその〝同志〟――『ウォースパイト運動』の活動家にも同じことを決然と言い放つであろう。
格闘技そのものに対するテロ行為が全世界を震撼させる
MMA日本協会を代表し、生まれ故郷の代表として立つことが叶わない〝難民選手〟の受け入れなどを話し合ったのではないかと沙門は推し量っていた。
ブラインド柔道のパラリンピアンであり、心身のハンデを持つ人々が安心して働ける社会の実現に向けて奮闘する
養父と熱い抱擁を交わしながら何事かを語らっているサイクロプス龍にもキリサメは敬意を抱かずにいられない。彼と『奥州プロレス
二〇一一年三月一一日に現地で一四時四六分を迎えた『大王道プロレス』のレスラーたちはおそらく
(大昔に母さんから聞かされた円卓の騎士みたいだ。普通に考えたらアーサー王は岳氏なのだろうけど、例の会合には樋口氏が居たのだから椅子取りゲームが始まるか……)
MMA日本協会のメンバーも、倉持有理紗を始めとする『サムライ・アスレチックス』のスタッフも、誇り高き格闘家たちと同じである。誰もが
二本の指で標的の目を抉り、握り締めた拳を叩き付け、『
MMAすら勝つか負けるかという二択でしか捉えられなかった。それはつまり、暴力の応酬という
二〇一一年三月の〝あの日〟に〝円卓の騎士〟とも
同じ〝命を繋ぐ〟という行為でありながら、養父たちの挑戦とは全く重なり合うことがない。その事実が胸中に産み落とした懊悩は、目を逸らすことも叶わないほど膨らんでしまったのだ。
格闘技との直接的な接点は定かではないものの、亡き実父――
「……僕も岳氏のようになれるでしょうか……?」
改めてイズリアルと向き直り、キリサメは先程の問い掛けを再び絞り出した。
現状のままではMMA選手としての行く末に期待しているという
元フライ級の日本人プロボクサーである
(……こんな状態でリングに立ったら城渡氏にも失礼だもんな……)
初陣の対戦相手である
瀬古谷寅之助との闘いに関わって以来、何を血迷ったのか、御剣恭路はキリサメに対して「兄貴分」などと自称している。意味不明にして傍迷惑ではあるものの、友好的な感情を向けられていることは間違いない。つまり、これを裏切るような状況は想像しただけでも気鬱というわけである。
しかも、今度ばかりは口汚く面罵されても言い返しようがないのだ。
(……僕は岳氏のように――MMA選手になれるのだろうか……?)
同じ質問を養父本人にぶつければ満面の笑みで頷き返してくれるだろう。確かめるまでもなく分かり切った反応である。だからこそキリサメは
「ビバリーヒルズの広告代理店で働いていた頃に当時の上司からこういうアドバイスを頂いたわ――出会って間もない人間の言葉で頭を悩ませている問題が解決したならすぐに預金残高を確かめろ。そして、カードの暗証番号を変更しろってね。そういう手合いは〝獲物〟の思考ロジックを幾つものパターンに当て嵌めて自分の望む方向に誘導する腕利きの詐欺師だそうよ」
「……
「貴方にもその才能があるじゃない。私が続けたかったことを先読みしてしまうなんて。
「そして、逃げ
「貴方と私でお笑いコンビでも組んでみない? ベガスのステージにツテがあるのよ」
イズリアルが質問に対する回答とは言い難い例え話を持ち出した意図はキリサメにも伝わっている。だから、遮ろうともせずに相槌を打ち続けたのだ。彼女の背後に控えたVVが「美男子の生皮で作った仮面の下に豚の顔が隠れていても上辺だけで見分けるのは不可能だ。本性を暴きたければ
「ご覧の通り、私は全知全能の神なんかではないわ。今し方、VVが話していた女神ペレでもない。だから、そこは安心して貰って構わないわよ」
「詐欺の才能があるなら、そちらで稼いだほうが今よりずっと割に合うしな。戦いを取り仕切るという行為そのものが骨折り損ばかりだ。……いや、しかし、そうか――口八丁で選手を言いくるめ、
VVは
『NSB』を束ねる大器がそのまま顕れたかのような佇まいであり、誠実の二字を映した
「MMAの未来を担う人材とお互いの腹を探り合う不誠実な付き合い方は望まないもの。ところで貴方のほうは? 私のカード番号は判ったのかしら? 質問に質問で返すのは行儀が悪いのだけど、謝罪の言葉はセルフサービスで私の心から読み取って貰えるわね?」
「ご期待に沿えなくて申し訳ありませんが、僕はハリウッド映画の題材にはなりません」
「そうとも言えないと思うわ。『八雲岳の秘蔵っ子』と来れば目鼻が利くプロデューサーなら放っておかないもの。ダン・タン・タインと組んでみるつもりはない? きっと貴方ならヴァン・ウィリアムズとブルース・リーのような名コンビになるハズよ」
「次の言葉は『ハリウッドにコネがあるから口を利いても良い』――ですか? その切り返しは反則でしょう。岳氏の耳に入ったら自分も
「……キリくんとモニワさん、何というか、ヒくほど息ぴったりだね。私、海外ドラマの
こうして言葉と視線を交わす相手の
未稲が呆れ果て、麦泉が「今、頭の中で『熊蜂の飛行』が流れているよ」と肩を竦めてしまった喜劇のような掛け合いこそ不可能ではないが、ただそれだけでイズリアル・モニワの心を読み取れるわけではないのだ。
何事にも無感情なキリサメでさえ彼女こそ北米最大のMMA団体を率いるのに相応しい傑物であろうと理解している――が、人間としての器と性格は必ずしも一致するわけではない。ましてや挨拶を交わして半日と経っていないのである。イズリアル・モニワという個人の在り方など掴めるはずもなかった。
未稲とは異なる方向性で自身が愛好するモノへの想いが深く、
問われたことには答えようがないとイズリアルはビバリーヒルズの例え話を交えながら示したわけである。秋葉原で起こした不祥事のみを判断材料にする浅慮な人間には〝人種のサラダボウル〟でMMA団体を率いることなど不可能であろう。聞こえの良い
イズリアルから突き放された恰好ではあるものの、『
「……それでも敢えて一つのヒントを手渡すなら、……貴方のお父上から――八雲岳という男から目を離さないことね」
イズリアルが右の人差し指でもって示した手本は、この場の誰もが想像した男である。
ここまでの言行を振り返ればイズリアルが選出する相手は容易く予想できるのだが、今度は夢見心地に浸っているわけではない。MMAの将来を創っていくだろうと期待する少年を一つの指針へ導くその声は凛と張っているのだ。まさしく『NSB』代表としての態度といえるだろう。
「
「八雲さんに全力で抱き着いて頬擦りしてな。……息子としちゃあ、簡単に想像できちまうのが複雑ったらありゃしないぜ。両親のピロートークに出くわすほうがまだマシだ」
「……あなたの発言はどうしていちいちセクハラじみているんですかねぇ~」
未稲と沙門の会話を頬で受け止めたイズリアルは、ほんの少しだけ眉根を寄せた。
「……私だって八雲岳の全てを肯定しているわけではないわよ。『
「モニワさんがご承知の通りですよ。余震などの災害に見舞われても自己責任と契約書に明記されています。選手もスタッフも不可避の
「エディ・タウンゼントから否定された根性論や精神論が二一世紀の日本で未だに幅を利かせている現状が哀しいし、選手・スタッフの命を預かる団体として余りにも無責任で、明らかに誤った判断が八雲岳というカリスマで有耶無耶にされていることは否めないわ」
「返す言葉もありません……」
両眉で八の字を作りながら右頬を掻く麦泉に一礼を
他団体の規範とならなければならない『
それは三年前の会合の顛末を沙門に教わったときからキリサメも疑問に感じていたことである。ブラインド柔道のパラリンピアンである
『三・一一』の本震にも匹敵する余震が数え切れないほど繰り返されるだろうと、災害研究の専門家も述べている。これらを踏まえた上で佐志は人的被害を回避し得る無観客試合であること、選手やスタッフの避難経路を最優先で確保する会場設営などを
動画サイトと提携し、試合の映像をインターネットで配信すれば都内の開催であっても岳が望むように避難所まで元気を届けられるとも佐志は訴えたのだ。
いずれの提案も気持ちばかりが先行する岳の発想を現実的な着地点へ導くものであったが、現在の『
『NSB』は既に『ウォースパイト運動』から〝攻撃〟を受けている。差し迫った状況下で危機回避能力を欠いた団体に大切な選手の命など預けられまい。同様の議論が最大のスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』で起きたことも想像に難くなかった。
「第二回興行のときには
「……『尊敬はしてるけど、安全面は褒められたもんじゃない』と続けたいワケですね。娘が庇ったら身贔屓みたいになってしまいますが、お父さんの――父の名誉の為に言っておきたいコトがあるんですけどっ」
「先程のお返しにこちらも『統括本部長は団体の運営に直接は関わってないし、ルールを決定する権限もない』と反論を先読みして差し上げましょう。……勿論、八雲岳が組織の体質を決定付けたとは思っていないわ。だけど、『
「火炎瓶や違法な放水で試合を妨害された『NSB』は幾ら心配しても足りない。……福島でも大きな余震が続いていますし、組み立て式の観覧席はどうしても耐久性に難があるので万が一の場合には観客もろとも崩落し兼ねない――そこは言い返せませんね」
「ただでさえ狭い空間に当日は色々な機材やテントが設置されていたのでパニックが起ころうものならそれが壁になって立ちはだかって、……控室のプレハブが置かれた駐車場にさえ辿り着けなかったハズです。モニワさんはそう言いたいんでしょう?」
「お嬢ちゃんとイズリアルさんもベガスのステージに立てそうだな。アマカザリにも負けない名コンビっぷりを楽しませて貰ったぜ」
「……
未稲は不愉快の三字を顔面に貼り付けているが、八雲岳の
アメリカの格闘技界から永久追放された
アメリカ最大のMMA団体という〝王座〟へ返り咲いた経緯について詳しくないキリサメにも立ち居振る舞いの一つ一つからイズリアルの才覚と手腕が感じ取れた。
「ついでに言わせて貰うなら危機対応能力への懸念は会場設営だけではないわよ。二一世紀にもなって体重別の階級制すら設定しない有り様には『
「こいつはまた、……『
「……日本の格闘技界は何時になったら
一秒たりともイズリアルは口を噤まない為、『アルジャーノン路線』の再現という指摘を受けて苦笑する沙門に『
世を去って久しい人物の名前を
つまるところ、イズリアルは樋口郁郎による支配体制を危険視しているわけだ。日本格闘技界に
麦泉もまたイズリアルの真意を悟っている。それ故に「国内他団体は『
他の誰でもない彼自身が樋口社長の強権的な手腕に穏やかとは言い難い感情を抱いている。そして、胸の奥に押し込めたドス黒い
腹芸ができるか否かではない。偽りを述べることは共催団体の代表に対して誠意を欠くことにも等しく、『サムライ・アスレチックス』の一員としてそれだけは避けなければならなかった。
「……先程の言葉を繰り返すわ。私たち、『NSB』は八雲岳の呼び掛けに応じたのよ。貴方たちのお父上が差し伸べてくれた手を振り払うことなどできはしないわ」
『ウォースパイト運動』を刺激し兼ねないという懸念も含め、全世界から注目を集めるMMA大会の実現に向けて歩調を合わせなければならないはずの日米両団体は大切な準備期間でさえ水面下では主導権争いを繰り広げている。おそらく臨時視察が行われる奥州興行も穏やかには済まないだろう。
『
改めて
規模の大小に関わらず競技大会の運営を支えるのは
『
巨額の
そこで国際的なスポーツマーケティング会社『エアフォルク・インターメディア』が調和と均衡を保ち得る方策として
この仕組みが初めて導入されたのは一九八二年にスペインで開催されたサッカーワールドカップ――『ハルトマン・プロダクツ』が運営団体と〝蜜月の仲〟の如く結び付いた国際競技大会であった。
商業化に拍車が掛かるオリンピックでも
広告利権が焦点となるスポーツメーカーが好例であるが、同じ業種のロゴマークが隣同士の状態で人々の目に留まれば試合場にて企業間の〝競合〟が発生し、宣伝効果まで損なわれてしまう。他社のスパイクシューズに対する購買意欲が促進されるようでは出資した意味が消え失せるというわけだ。
このような事態の回避にも有効である為、一業種一社という慣例に誰もが従っていた。そして、これこそ数多の企業が〝パートナーシップ〟へ群がる理由でもあった。
『エアフォルク・インターメディア』なるスポーツマーケティング会社はそもそも『ハルトマン・プロダクツ』の傘下企業であり、国際社会を一業種一社という体制へ誘導したことも経済活動の秩序を守る為などではなく、各種競技大会にまつわる利権の独占を目的とした謀略であろうと
ひいては
しかし、これは
ザイフェルト家の総帥による画策がスポーツこそ〝金鉱脈〟であると全世界に知らしめてしまったのである。つまるところ、〝スポンサーシップ〟とは友愛を連想させる聞こえの良い言葉とは裏腹に莫大な利益の俗称であるわけだ。
日米MMA双方の利害について譲歩し得る点と堅持すべき点を幾度も議論し、二〇一五年末の
万難を排して『NSB』を迎え入れるには普段の興行と同じように『ハルトマン・プロダクツ』を頼みにすることこそ適切であろう――これもまた妥協点の一つであるが、ホスト側の提案とあってはイズリアルたちもメインスポンサーという最大の〝特権〟を譲り渡すしかなかったわけである。
万が一、日本国内に潜伏している『ウォースパイト運動』が
当然ながら『ペースメイク・ブリッジ』にとっては不本意な結果である。『NSB』側の選手が使用する試合着や道具に関して『
想い出深い東京ドームで
(一体、これのどこが『武士道』なんですか? 自分の背中にある掛け軸が社長の目には見えていないんですか?
独米間で燻り続ける〝企業戦争〟の火種を把握しながら
世界を代表するスポーツメーカー二社の〝代理戦争〟に『
イズリアルほどの傑物であれば、部下である今福ナオリにさえ「欲に目が眩んだ権力者なんて漫画の中だけの話だと思っていたわ」とまで扱き下ろされた樋口の企みなど全て見透かしていることだろう。
(……つまり、岳氏と樋口氏が何かのきっかけで仲違いしたら合同大会の中止どころでは済まないというワケか。最悪、日米のMMA団体が戦争状態に突入するんだな……)
自身が所属するMMA団体のルールさえ勉強の途中であるキリサメには格闘技界の内情など想像すら及ばない。そのような少年にさえ『
リトル・トーキョーで開かれた共同記者会見をキリサメはテレビ画面を通してしか知らないが、少なくともその映像の中に樋口郁郎の姿は確認できなかった。『NSB』側の演説台には〝団体代表〟のイズリアル・モニワが立ち、これに対して『
『
『NSB』は選手の心拍数や有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など最先端技術を結集して
これら全てを複合し、高次元の技術で操作・実行していくシステムは『
日本MMAの未来に遺すべき
養父と樋口社長――それぞれの名前を呼ぶ声にも明らかに温度差があった。
改めて
もはや、キツネとタヌキの化かし合いにも等しい腹芸である。このような状況を日本では「盗人猛々しい」と言い表すそうだ――授業の一環として〝祖国〟の
「八雲岳を〝太陽のような男〟と呼ぶことには私も異論など唱えないわ。その輝きにどれだけ励まされたか、力を分けて貰ったか知れないもの。……『NSB』の組織改革に立ち向かったときだって眩いばかりの前向きさが一番の手本だったわ。陽の光は大地を育み、そこに根付いた人々に希望を示す――けれども、
人を惹き付けてやまない八雲岳という存在に頼り過ぎることの弊害を芝居がかった調子で指摘し、そこで言葉を区切ったイズリアルは深呼吸を一つ挟んだ
イズリアルが目の前の
麦泉自身、気まずさを堪え切れずにイズリアルから顔を背けてしまったのである。『ハルトマン・プロダクツ』の威光を借りて『NSB』の団体代表を押し潰さんとする手口は樋口の独創ではない。彼の師匠である
暗に樋口郁郎の所業を指してイズリアルは「日本の格闘技界は何時になったら
「……強過ぎる光が〝何か〟を捻じ曲げる――と、モニワ氏は仰りたいのですか?」
「どんな謎かけであっても読み解けるくらい貴方は頭が切れるでしょう? 挨拶を交わしてからまだ半日と経っていないけれど、……〝あんな
「買い被りですよ、そんな……」
そのイズリアルから促されてキリサメは養父の姿をただひたすらに見つめ続けており、二人は互いの背を向け合う恰好となった。
今や陸前高田市の人々だけでなく
この半日の間に教わった範囲でしか
「貴方と『NSB』は契約関係にないし、仮にそうであっても代表の立場から無責任な助言だけはしたくないわ。選手が出さなければならない答えを
「一瞬たりとも
「蜃気楼とも陽炎とも
イズリアルは八雲岳の全存在をただ単純に肯定することは誤りであり、彼の生き様からモノに基づいて己自身の
ドーピング汚染によって傷付いた選手への
直接的に言葉を掛けられた養子だけではなく実の娘も、イズリアルに勝るとも劣らない熱量で岳に焦がれる父の
「……どこを目指せば良いのか分からなくなっても、着いた先で迷ったとしても、この海原のように大きな背中を追い掛けていれば決して〝道〟を踏み外すことはないわ。八雲岳の大きな背中はそれ自体がMMAへ携わる人間の〝道〟なのよ。日本もアメリカも関係なく、世界中の誰もが求めてやまない太陽そのもの……ッ!」
己の言葉を噛み締めるかのように繰り返したイズリアルはキリサメたちに背を向けたままである。八つの瞳には岳の笑顔しか映っておらず、それ故に
己が紡ぐ一言一言は欺瞞に満ちているのではないか、伊達家が治めたこの地に
母なる海はイズリアルを満足させる答えを運んではくれなかったようだが、それでも日本に
「わざわざ目で追い掛けなくても無理矢理に視界へ割り込んできますよ。何しろ岳氏は大きな――果てしなく本当に大きな人ですから」
自分を取り囲んだ人々からせがまれ、力道山が最も得意としたという〝伝家の宝刀〟こと空手チョップをサイクロプス龍と共に再現し始めた岳をただただ真っ直ぐに見つめ続けるキリサメに対し、イズリアルは背中を向けたまま何も答えられなかった。
それぞれが別々の〝何か〟を瞳に映し、異なる
誰をも惹き付けてやまない八雲岳の
苦言を呈するといった生易しいものではなく、控えめながら樋口への敵愾心を隠そうともしなかった。あるいは八雲岳という存在こそが樋口郁郎を日本格闘技界に君臨し、古巣の
裁判所に正義の審判を求めるまでもなく格闘技という〝社会〟から抹殺されても不思議ではない樋口の暴挙さえ岳に対する数多の信頼によって見逃されている可能性を指摘したわけだが、こうした警戒心は樋口個人への嫌悪感とは異なる部分から染み出していた。
三年前――二〇一一年にも『NSB』代表は樋口郁郎の所業に戦慄を覚えたのである。
それは日本格闘技界全体として被災地復興を支援する為のチャリティー事業と、新たなMMA団体の旗揚げが発表された記者会見に
今こそ力道山の魂と戦後プロレスが果たした役割に倣うべきと八雲岳が拳を突き上げ、これに呼応する〝円卓の騎士〟が議論を交わした
ホテル側の許可を得た上で壁に留められた『日本晴れ応援團』の白旗を背にし、不死鳥の刺繍も鮮やかな絨毯の上に立つ記者たちを迎えたのは日本格闘技界を代表する人々だ。およそ半月前の会合時と同じように誰もが厳かな出で立ちであり、真摯という二字を貼り付けた顔で椅子に腰掛けていた。
それ故に室内の空気は神聖な儀式の如く張り詰めているのだが、その中でMMA日本協会の理事長だけが異彩を放っていた。濃紺の背広に同色のネクタイを合わせた装いは両隣の八雲岳や
実際には口を真一文字に引き締めているのだが、小粋に口笛を吹きつつ飄々とした足取りで現れたかのような印象を記者たちにも与えていた。それでいて厭らしく感じないのは顔立ちに生来の人柄が
MMA日本協会理事長――
元から栗色に近い毛髪を更に
所属団体が計画した東北復興支援のチャリティー
無論、折原浩之は戦後間もない日本で力道山が果たした役割を現代の自分たちが担うという岳の主張も完全に理解し、好意的に受け止めている。日本に
生涯の〝道〟であるプロレスの門を叩くきっかけとなっただけにヴァルチャーマスクへの尊敬は岳の
ヴァルチャーマスクが自らの経験と哲学に基づいて編み出した〝総合格闘技術〟は八雲岳たちが臨み続けるMMAの
日本格闘技界に鼻が利く記者もヴァルチャーマスクが分けた二つの〝道〟のことは承知しており、逸早く被災地へ赴いた八雲岳と復興支援のチャリティー
事実、岳は自分より先んじてチャリティー
「――この『
流暢な日本語で折原浩之へ質問したのはこの日の為に来日したアメリカの記者――マリオン・マクリーシュである。同国の格闘技雑誌『ゴッドハンド・ジャーナル』の編集部に所属しており、主に『NSB』への取材を担当していた。
格闘技記者としての名声が海外にまで知れ渡っている為か、それとも日本人の女性MMA選手と結婚間近の関係にある為か、マリオンが口を開くや否や室内が水を打ったように静まり返った。
あるいはマリオンの
一方の折原はにこやかな
「自分のお師匠さんも――〝シューター〟の生みの親も日本のMMAで旗振り役を担っていたから実際に〝道〟が分かれたワケではないんだよ。『バイオスピリッツ』に出場する気満々だったんだが、自分はどうにもチャンスに恵まれなくてね。そういう意味ではお隣の
「八雲選手と
「こうやってマクリーシュ君が『日本晴れ応援團』を盛り上げようと気を遣ってくれているのは心から嬉しいよ。二本に別れた日本総合格闘技の〝道〟が復興支援をきっかけにして一本に戻るというコトなら
「今の言い回しからしますと、今日という日本総合格闘技にとって歴史的な日にはなり得ないと?」
「
格闘家の中にはインタビューを担当する記者に不躾な態度を取り、無闇に威圧する者も少なくない。挑発を含んだ
MMA日本協会理事長という肩書きを背負いながら記者にも砕けた態度で受け答えしているのだ。ともすれば礼儀を弁えない振る舞いのように見えるが、彼が四〇代に手が届くという年齢には似つかわしくないほどおどけた調子で言葉を重ねる
岳は無鉄砲にも見える行動を
MMA日本協会理事長としての〝顔〟だけではなく折原浩之はヴァルチャーマスクが拓いた〝道〟の牽引役である。何事にも無邪気な岳とは異なり、陽気な立ち居振る舞いの一つ一つに打算を含んでいることだろう。
そうして心を掴むのが常套手段というわけだ。先に述べた通り、二本ではなく最初から一本の〝道〟であったと示すかのようにピースサインから握り拳に変え、僅かな〝間〟を置いた後に右の人差し指一本を立て直すという仕草だけでマリオン・マクリーシュ以外の記者たちにも
『日本晴れ応援團』の旗を振るのは自分であり、ひいてはMMA日本協会であることを不特定多数に刷り込ませる目論見に違いない。格闘技雑誌といったメディアはそれを〝事実〟として国内外へ知らしめるには極めて有効な手段であった。
「つまり、折原が言いたいのはオレたち
「――日本MMAの恩人が拓いてくれた二本の〝道〟はいつかきっと一本に交わることでしょう。この国を代表する格闘技集団との提携は我々としても願ってもない幸運です。その実現に向けて新団体を充実させていくことこそ急務だと我々は考えていますからね。肩を並べようというときに片方だけ爪先立ちで背伸びしていたらシマりませんもの」
彼は『日本晴れ応援團』の発起人であるはずの八雲岳やMMA日本協会の会長である岡田健を差し置いて最前列の中央に鎮座していた。傍目には〝同志〟一同を従える首領のように見えることだろう。
差し向かいの記者たちは幾度となくカメラのシャッターを押しているが、会見の写真がいずれかの紙面に載れば、読者の誰もが樋口郁郎こそ日本格闘技界に君臨する最高権力者と錯覚するだろう。普段のだらしない風貌とは異なって今日は下ろした立ての背広に身を包んでおり、印象操作を画策していることは明白であった。
彼の左隣に腰掛けた三刀谷有理紗は虚無としか
鬼貫道明や
「我々は東北に元気を届けるべくMMAのリングに集結し、ここに一つの宣言を行いました。折原君の言葉をお借りすると、まさしく『
樋口郁郎は幾度も「我々」と強調しているが、厭味のようにも聞こえる連呼を
しかも、「我々」の一言は『日本晴れ応援團』のみを指しているのではない。記者会見は復興支援
「我々の取り組みに賛同してくださったのは『ハルトマン・プロダクツ』だけではござません。数多くの格闘技番組を手掛けてきた映像制作会社や
余人の口出しなどは許さないと言わんばかりの勢いで樋口は新団体の概要を語り続け、深呼吸を挟んだ
『日本晴れ応援團』の旗を誂えたのはMMA日本協会であったかのような態度を取り、記者たちに既成事実を植え付けるつもりであるとしか思えない折原理事長を牽制しようというわけだ。
情報戦にも長けた樋口だけに記者たちの興味を最も強く引き寄せることができる
「こうして日本を代表する格闘技団体が一堂に会したわけですから、それを生かせる形で何か〝大きなコト〟をやれたら面白いとも考えていますよ。〝夢の競演〟ほど胸躍るものはございません。元気を分かち合える輪が広がっていくよう自分も努めて参ります」
いずれは『日本晴れ応援團』へ参加する競技団体との合同大会を主導したいと樋口は匂わせている。これによって日本格闘技界の最高実力者たる存在感を知らしめたわけだが、「船頭多くして船山に上る」という
「逸早く避難所の皆さんに救援物資を運び、現地の状況をご自分の目で確かめた八雲選手が被災地での開催にこだわったと伺っておりますが、具体的にはどのような計画を組まれておられるのでしょうか?」
天井を叩いたどよめきからも察せられるが、傍目には樋口への加勢とも映ったことであろう。実際に今福当人の声にも
樋口郁郎は同誌の編集長を長らく務めており、その座を退いた後も大きな影響力を保ち続けているのだ。
「我々一同の思いを背負って先駆けた彼――岳ちゃんの足跡を辿るような形で東北各県を順番に回り、チャリティー
チャリティー
樋口に礼を述べる今福の声が酷く虚ろであったことは言うまでもあるまい。ライバル誌の記者のように質問を連ねて更なる情報を引き出すこともなく、たった一度のやり取りで口を閉じざるを得なかったのは前編集長の支援のみを言い渡されている為であろう。
報道の種類は別にして取材とは記者にとって命綱にも等しいものである。この状況を今福ナオリが屈辱的な仕打ちと感じていないはずがなかった。
一個人の感情が道端の小石同然に蹴飛ばされた恰好であるが、〝暴君〟とも
一つの事実として新団体の旗揚げには〝暴君〟の力が欠かせなかった。
その上で〝暴君〟は八雲岳こそが『日本晴れ応援團』ひいては新団体の旗頭である旨を強調した次第である。今福に続いて挙手した記者から
「皆様のご懸念は尤も至極です。反社会的勢力の介入を水際で、そして、完全に遮断できるよう過去最高のセキュリティーを構築している最中です。……しかしながら、我々には八雲岳がついている。東北の現実を胸に刻んだこの男の思いを裏切ることなど誰にできるでしょう? 彼の思いに反することは東北の皆様を傷付けるのと同じでしょう」
この回答一つだけで疑いなく納得してしまえるほど八雲岳に対する格闘技関係者の信頼は厚い。彼が
岳は記者会見にも共に東北を旅した無地の陣羽織を背広の上から纏っている。帰宅後に手入れもしなかったのか、避難所で付着した泥や油は水玉模様の如く大小のシミ汚れと化していた。もはや、
しかし、それこそが八雲岳という男の足跡を揺るぎない〝事実〟として皆に伝えているのだ。記者に同行するカメラマンも日本格闘技界を代表する人々が入室し始めるや否や、一斉に陣羽織姿へとレンズを向けていた。被災地を
つまるところ、樋口は双方の絆とも言い換えられる心理すら利用したわけだ。詐欺を生業としていたなら今頃は国際指名手配を受けるような重罪を犯していたことだろう。この恐るべき男にとっては盟友が大切に扱う陣羽織すら人の心を誑かす為の道具に過ぎないのだった。
「我々が取り組もうとしているのはチャリティーです。持てる力の全てを復興支援に注ぐ所存でおります。避難先でままならない生活を送っておられる皆様を元気付けようというときに過去の過ちを再び繰り返すなんて……日本人として――いいえ、人間としてそのような真似ができますか? 私にはできませんよ」
質問に対して
改めて
薄笑いの表情を崩さないまま樋口の様子を横目で見据える折原理事長は佐志の不在が意味することを理解しているのだ。
「……今し方、樋口さんがお話しになった通り、八雲さんの思いが我々を――『日本晴れ応援團』をこの場に集結させたことは間違いありません。本日、旗揚げが発表された団体は勿論のこと、『メアズ・レイグ』や『
このままでは樋口の独壇場となり、記者会見そのものが新団体の喧伝に利用されてしまうと危惧した三刀谷有理紗は、軌道修正を試みるべく話が途切れた瞬間に割り込んで『日本晴れ応援團』という事業の概要を記者たちに改めて訴えた。
それは日本格闘技界が一丸となって被災地の復興支援に取り組むチャリティー事業なのである。どれほど強い
賛同団体より集められた義援金はMMA日本協会が管理し、然るべき機関を通して被災地へ送る体制になったことも三刀谷有理紗は言い添えた。
彼女は女子MMA団体『メアズ・レイグ』の代表であってMMA日本協会の理事ではないが、透明性の高い組織こそ事業の舵取りに最も相応しいと考えていた。社会貢献に尽力してきた『
「八雲さんが
「――つまり! お為ごかしの謳い文句なんかではなくて、皆が皆、全身全霊で手を取り合っているワケですか⁉ 全員の元気を東北に送りたいとッ!」
思わず順番に割り込んでしまったことを周囲に詫びつつ、今福ナオリが三刀谷有理紗に対して質問を重ねた。前編集長へ加勢したときとは全く異なり、前列の椅子に腰掛けた男性を押しのけそうになるくらい上体を傾け、声にも活力が漲っている。上役の意向から外れた行動であるが、これこそが記者としての本懐なのだ。
その思いが伝わったのであろう。国を隔てたライバル誌のマリオン・マクリーシュは言うに及ばず、誰一人として今福の割り込みを責めなかった。
三刀谷有理紗もまた「
「八雲さんの情熱を受け取った
「――力道山ッ!」
三刀谷有理紗と今福ナオリのやり取りへ耳を傾けている内に熱い
「有理紗の言ったようにオレたちは一人一人みんなが力道山なんだ! 焼け野原になった戦後の日本を空手チョップで元気付けた偉大な魂を胸に秘めてオレたちは
「おいっ、余計な一言を混ぜるな、岳! 孫はお前、『お
岳の手によって台座より引き抜かれ、日本格闘技界の関係者と招かれた記者――その双方の最前列に腰掛けた人々の頭上を掠めるようにして振り回される旗は美しい青空を映したような
轟々と風を切って翻る
小会議室の天井は高く、岳が両腕を突き上げたところで旗の先端がシャンデリアを叩いてしまうことはない。だが、竿を振り回す勢いは竜巻さながらに凄まじく、手のひらに汗が滲めば両の五指からすっぽ抜けてしまうかも知れなかった。陣羽織の裾も捲れ上がるのだから猛烈な遠心力が作用していることだろう。
万が一、振り落とされたときには壁や窓ガラスに直撃し、容易く突き破るはずだ。会見の妨げとならない位置に控えるホテルの従業員が戦々恐々とした面持ちになってしまうのは無理からぬことであった。
実際、他の出席者よりも背の高い鬼貫の眉間には幾度となく竿がぶつかりそうになっている。樋口などはただでさえ薄い頭髪が容赦なく吹き付ける
その一方、
MMA日本協会の岡田会長と吉見副会長も岳に呼応し、轟々と風を切る音にも負けない声量でもって「力道山ッ!」と雄叫びを上げていた。無論、両雄は揃って左右の握り拳を腰に押し当てている。
これは現存する写真の多くで力道山が披露している『アーム・アキンボー』であるが、その
この場には心から格闘技を愛する者たちが集まっているのだ。
それはつまり、
「オレたちだけじゃねェ! 駆け付けてくれた記者のみんなも、テレビの前で東北の無事を祈り続けているお茶の間のみんなも――地球上の
新団体の運営企業――『サムライ・アスレチックス』に所属することとなった麦泉は会見の裏方として立ち回っていた。椅子にも座らず小会議室の片隅に控えており、青い旗が風を切り裂き始めた直後から心配の二字を顔面に貼り付けていたのだが、
記者たちも同様であった。今福は己に課せられた使命をも忘れて立ち上がり、青い旗に向かって拍手を送り始めた。マリオン・マクリーシュが分厚い手帳を脇に挟んで彼女に続くと他の面々も左右の手を打ち鳴らし、たちまち室内は祝福の音で満たされた。
いつまでも
動作こそ控えめであったものの、それは紛れもなく力道山が最も得意とし、街頭テレビに群がる戦後の日本人を沸騰させた伝家の宝刀――空手チョップである。〝日本プロレスの父〟の復活を連呼する好敵手への揶揄でないことは柔らかな微笑みが明かしていた。
「力道山の空手チョップは戦後日本に
肩に竿を担ぐ恰好で岳が掲げた旗は青地の中央に白い雲の塊が染め抜かれていた。大きな
『
名付け親も岳であった。格闘技の可能性は空のように果てしない――全ての格闘家が目指すべき理念と、武の顕現たる伝説の神剣を引っ掛けた
そこに託した思いは改めて確かめるまでもないだろう。
「――我々の知る八雲選手は! 八雲岳というレスラーは指図だけして人を動かすんじゃなく! 信念も闘魂もご自分の行動で体現する
取材用のノートを椅子の
質問者の今福ナオリに対し、一足早く答えを示すかのように
「オレがやらなきゃ誰がやるッ⁉ オレと
垂直に立て直した竿の
その直後に不死鳥の絨毯の上で大歓声が爆発したのだ。雲間より差し込む陽の光を仰ぐかのように誰もが決意の一言を待ち望んでいたのである。
遥かなる青空を映した旗は〝力道山の復活〟と
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