その6:青空(六)~力道山復活・あの旗に託した未来(ゆめ)を──東北は負けねぇ!

  六、Here Today Act.6



 その建物へ初めて足を踏み入れた日、世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』の御曹司は一〇分と経たない内に猛烈な頭痛と眩暈に見舞われ、病人のように蒼白な顔で屋外へ飛び出してしまった。右手で押された口元からドイツ語の呻き声が漏れていたが、喉の奥からこみ上げるものを耐え抜いたかどうかは定かではない。

 一つの事実として、オランダ・アムステルダムまで親友を訪ねるときにもくだんの建物にだけは滅多に寄り付かなくなってしまった。やむにやまれぬ事情でもない限りはオムロープバーン家の屋敷か、『ハルトマン・プロダクツ』と提携しているオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』へと足を運ぶわけだ。

 それも無理からぬことであろうと、誰もがザイフェルト家の御曹司――ギュンターに同情を禁じえなかった。一度でも屋内に立ち入った経験のある人間は揃ってSFサイエンスフィクション映画に登場する異次元空間と錯覚するのである。

 は現代科学による再現が不可能なSFサイエンスフィクションの近未来都市などではなく、二〇一四年六月半ばのアムステルダムだ。ジュール・ヴェルヌの想像力には遠く及ばないが、人智を超えた空間であることはギュンターの反応からも明らかであろう。

 ドーム型の天井には照明器具など取り付けられておらず、光を取り込むガラス窓すら一枚もない。中央付近に置かれた机を取り囲むようにして筒状のフロアスタンドライトが七台ばかり立てられているが、テーブルランプを除くと室内を照らす物はそれだけである。

 台座はラタンを編み上げたカバーで覆われ、ガラスの筒にはモンステラの葉を象った模様が生い茂るように散りばめられていた。

 テーブルランプのほうも何本かの珊瑚を組み上げた支柱と円錐型に藁を編んだシェードが珍しい。建物の主は南国情緒を好んでいるようで、机と椅子の下に敷かれた正方形のラグマットでも真っ赤なハイビスカスが大輪の花を咲かせている。

 壁一面を覆い隠すような形で並べられた本棚からは分厚い書物が今にも溢れそうだ。

 間接照明しかない室内ではすこぶる読みにくいだろうに、から抜き出されたとおぼしき何冊もの本が中央付近の机に積み上げられ、液晶一体型のパソコンを挟むように左右で壁を作っていた。

 光源の乏しさはともかくとして、ならばありふれた書斎である。折角、取り揃えられた南国情緒を台無しにしているのは、机に面した中心部にて日本家屋の大黒柱さながらにそびえ立つ一本の巨大樹であった。

 本物の自然物であったなら、あるいはギュンターも拒否反応までは起こさなかったであろう。そもそも「巨大樹」という表現すら比喩に過ぎないのだ。大抵の人間にはパソコンの残骸を積み上げた前衛芸術にしか見えない。

 改めてつまびらかとするまでもないが、この場合の「芸術」とは大いなる皮肉であった。

 木の幹と見えるのは何らかのサーバーとおぼしき機械である。余人の手に触れさせないよう四方に立てた金網で遮断しているのだが、そこには細長い鉄片が何本も突き刺さり、大小様々な液晶モニターがワイヤーを使って括り付けてあった。

 如何なる意図が込められているのかはついに誰もものの、薄暗い異空間に何年も籠ってこれを完成させた人物は枝と木の実に見立てていたのかも知れない。

 『善悪の知識の樹エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ』――アダムとイヴが口にしてエデンの園より追放された禁断の果実がる樹を示すヘブライ語から名称なまえを付けられているのだが、旧約聖書『創世記』の引用など全く似つかわしくない。

 人類の祖先に知恵を与えたという禁断の果実とは正反対に鉄片からぶら下がるモニターは見る者に混乱を振り撒くのみである。真っ青な画面に白い文字が隙間もないほど並んでいるのだが、これを正確に読み取れる人間は絶無に等しいだろう。何しろ地球上に存在する数多の言語ことばが何処のものとも判らない文法でたらに入り混じっているのだ。

 それぞれのモニターに表示される文章は全て異なっており、〝木の幹〟から張り出して蔦の如く鉄片に絡まっているケーブルでもって連動しているわけではなさそうだ。

 夥しい量のケーブルは〝木の根〟の如く床一面に走っている。その内の数本は机上のパソコンにも接続され、多くのモニターと同様の文章を液晶画面に映し出していた。一つだけ他と違うのは操作用の小さなパネルが表示されている点であろう。

 常人には理解し難い文法に従っているのか、英語・仏語・独語・伊語・露語などを組み合わせた文字列が操作パネルの入力欄に打ち込まれていく。不正解を示すかのような不協和音が狭い空間内に鳴り響いたのは、作業が一段落して甲高い打鍵音が天井に跳ね返った直後である。

 それも並みの音量ではなかった。天井や壁から突き出した幾つものスピーカーが一斉に起動し、口を開けて準備していないと鼓膜が破られてしまうような轟音が四方八方から容赦なく降り注ぐのだ。聴覚に異常が生じなくとも脳を揺さぶられて失神し兼ねない。完全防音を施した壁でなかったら、近隣住民が徒党を組んで怒鳴り込んでくるだろう。


「……今に始まったことじゃないけれど、ホゥリー先生のダメ出しは本当に手厳しいな」


 椅子から立ち上がる際に引き摺った溜め息はたちまち残響に掻き消されてしまったが、そこに瓦礫の如き巨大木を作り上げた人物の名前が含まれていた。

 無論、その呟きはオランダの言語ことばによって紡がれている。

 長らく向き合っていたパソコンから本棚へと身を移し、を見繕っているのはストラール・ファン・デル・オムロープバーンであった。

 オランダ式キックボクシングの名門ジムとして全世界に名声を轟かせる『バーン・アカデミア』を率い、また同国の格闘家たちを束ねる〝顔役〟として畏れられてきた『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家の御曹司である。

 『ハルトマン・プロダクツ』が本社を置くハーメルンで行われたスポーツ用ヒジャブの発表会にその御曹司ストラールが出席してから半月ばかりが経過している。

 プレゼンターが「人類の可能性を拡げようという歴史的瞬間」と述べるくらい大切な一日ということもあり、会場となった多目的ホールではネクタイを締め、背広まで羽織っていたが、現在は胸元が覗くほどアプリコットのワイシャツのボタンを外している。ダークブラウンのスラックスもサスペンダーで緩く吊っており、身体的な負担を軽減している様子であった。

 長く伸ばした金髪ブロンドを三つ編みに束ね、これを胸元へと垂らしているのだが、煌びやかないろは暗闇の濃さに競り負け、塗り潰されてしまっている。

 間接照明しかない空間では見え難くて不便であろうが、ゴーグル型のサングラスで双眸を覆っており、パソコン画面が意味不明な文字列に埋め尽くされていくさまを真っ黒なレンズに映していた。

 現在いまは星空ともたとえられるだろう。小さな光がプラネタリウムの如く無数に瞬き、レンズをもすり抜けて翡翠色の瞳に飛び込んでいるのだ。

 床だけでなく壁や天井を覆い隠す〝蔦〟はそれぞれの連結部に電球が内蔵されており、これが夜景を彩る電飾イルミネーションのように明滅を繰り返していた。確かに暗闇の中で急に網膜を突き刺す鋭い光ではあるものの、これを和らげる為にゴーグル型のサングラスを装着しているわけではないだろう。

 そもそも、本人ストラールは暗闇に似つかわしくない黒いレンズを不便とは感じていない。視界が極端に妨げられているわけでもない。これ以上ないというほど柔らかい微笑みを浮かべたのは、足の踏み場もないような部屋に入ってきた伴侶パートナーを横目で確かめたからである。

 赤褐色の頭髪かみは暗闇を明るく照らす灯火のようであった。

 彩り様々な〝星屑〟を背にしていることもあり、比喩ではなく本当に煌めいて見えるのだが、機械などに頼るまでもなく『レーナ』は希望の光を纏っている――と、ストラールは心の中で甘やかに呟いた。

 そのマフダレーナ・エッシャーも将来を誓い合った伴侶パートナーが余暇を過ごす場所であればこそ合鍵を預かっているだけであり、本来は友人ギュンターと同じように自分のほうから近寄りたいとは思えないのである。

 何よりも室内が極端に寒い。スカートの裾がくるぶしまで完全に覆う長袖のワンピースを着ていても気を緩めた途端に風邪を引きそうになってしまうのだ。

 机上のパソコンや金網の内側に立つサーバーが熱暴走で故障することを防ぐ為、スピーカーの間隙を縫うような形で取り付けられたエアコンは人間が凍えそうになるほど室温を低く設定している。この状態を常に維持し続けているのだから、アムステルダムの片隅へ局地的な寒波が到来したように感じるのも当然であろう。

 遠い祖先の時代に環状運河地区が整いつつある一七世紀のアムステルダムへと流れ着いたものの、本来は深い森の中で自然と共に歩んできた一族であり、SF映画を彷彿とさせるような機械とは本質的に相容れない。事実、ただ歩を進めるだけでも凍てつく風が薬草の芳香かおりを部屋中に運び始めるのだ。

 決して居着きたいと思えない空間ではあるものの、伴侶ストラールが『善悪の知識の樹エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ』という形で先人から受け取った〝遺産〟自体にはマフダレーナも無関心ではない。画面内の操作パネルに『MANAマナ』――と、やはり余人には意味の理解できない言葉が入力された瞬間などは手近なモニターを前のめりになって覗き込んでいた。

 『MANAそれ』が何処いずこに伝わる言葉であるのか、大地の囁きに耳を傾けてきた一族の末裔には分かるようだ。

 ストラールと共にるマフダレーナは暗闇の底で『善悪の知識の樹エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ』を作り上げ、これをただ一人の教え子に引き継がせた人物の名前も知っている。現在いま伴侶ストラールから「先生」と呼ばれるホゥリー・ヴァランタインとはる研究を進めるべく手を組んだこともある。

 ここで最期のときを迎え、アムステルダムの土に還ったことも知っている。本人の意向で葬儀は行われなかったものの、埋葬にはストラールやギュンターと共に立ち会った。

 外観を確かめるまでもなく学術機関とは思えない構造であるが、このドーム型の建物をホゥリーが『アカデミー』と称していたことも記憶に留めている。たった一人の教え子にとって「先生」の遺産はそのまま最後の課題となり、を解き明かすべく最愛の伴侶ストラールは数え切れない量の書物を机に積み上げているのだ。


イワケンまで一八時間の長旅フライトになるけれど、お供にする本は決まったの? 機内に備え付けてある雑誌が貴方を満足させられるとは思えないし……」

「……イワケン……?」


 伴侶マフダレーナが何を話しているのか、ほんの一瞬ながら脳が認識に至らなかったストラールは小首を傾げそうになったが、愛しい顔を曇らせてしまうよりも早く〝イワケン〟という他国の地名に閃くものがあり、深い水底から一つの記憶が浮かび上がってきた。

 目の前の伴侶マフダレーナから急かされ、一晩で終わらせた旅支度も今では鮮明に想い出せる。今日の夕方には空の旅へ出発する段取りとなっているのだ。


「……ギュンターが一緒だったら、暇を持て余して『本よりも映画を観ろ』と煩わしく絡んできそうだね。スヒップホルとランゲンハーゲンで空港も飛行機も別々だから、機内でレーナと静かに過ごせるのは有難いかな」

「掛け替えのない親友に随分な言い草じゃない。向こうはわたしたちよりも乗り継ぎが多いし、更に飛行フライト時間が長いのよ? 空港のあるハナマキで落ち合う約束だって無事に果たせるかどうか……」

「ホゥリー先生みたいに痩せ細って現れたら私も驚くかな」

「また縁起でもないことを……。そもそも、若い頃のヴァランタインさんは非常に恰幅が良かったと聞いているわよ? 一緒にするのはさすがにギュンターが気の毒よ」


 必要な記述を確かめていた書物を閉じ、これを本棚に戻したストラールはマフダレーナに椅子を勧め、腰掛けた伴侶パートナーを後ろから優しく抱き締めた。

 彼女マフダレーナとしても陰りそうになった表情かお伴侶ストラールへ見せずに済んだわけだが、着席も抱擁も、未来を誓い合った二人が互いを気遣ったものであったのかも知れない。


「とりあえず、『ラアウ・ラパアウ』の本を何冊か見繕うとしよう。薬草術を極めたキミから教わることも多いだろうし」

「同じ薬草術でも欧州ヨーロッパとハワイでは〝系統〟が違うのに? わたしにとっても実りある時間になりそうね。……ありがとう、ストラール」

「お礼を貰えるようなことは何もしていないよ。レーナと過ごす時間を私の全てより大切にしていきたい――ただそれだけのことさ」


 『ラアウ・ラパアウ』という不思議な響きの言葉をマフダレーナの耳元で囁きながら、ストラールは己が日本まで赴く理由を探るべく記憶の水底へと意識を沈めていった。





 キリサメたちが水平線を望む喫茶店コミュニティカフェ『ライド・ユア・サイクル』を出る頃には昼下がりと呼ばれる時間帯も過ぎていた。真冬であったならそろそろ陽も傾き始めるだろうが、都心から訪れた人々の肌を刺す風が四方の山より吹き付けつつも初夏という季節には変わりがない。日没までは十分に余裕があるわけだ。

 むしろ、散歩には最適な頃合いであると語った店主マスターは、陸前高田の海を間近で眺めたいと望むイズリアルに脇ノ沢漁港を勧めた。喫茶店コミュニティカフェから程近く、港内の人間に事情を話せば作業の邪魔とならない程度に見学させてくれるというのである。

 他の地区と同様に脇ノ沢も東日本大震災で壊滅的な被害を受け、六〇艘を超える漁船が大津波によって流出してしまっていた。二〇一四年にいては防潮堤など港内施設の復旧工事も完了していないのだが、段階的ながらも漁船を増やすなど港としての機能は回復しつつあり、名物である牡蠣の養殖も再開している。

 震災の翌年から陸前高田市で開催されているサイクリングイベントひいては一九二〇年アントワープオリンピックに倣い、復旧半ばの姿こそ目に焼き付けておきたいというイズリアルの希望にはキリサメたちも反対する理由がなかった。彼女イズリアルと同じように誰もがこの町の生命を育んだ母なる海を一望したいと思っていたのである。

 その予定が何の前触れもなく変更されてしまったのは、喫茶店コミュニティカフェを後にして一〇分ばかり歩いた頃であった。

 携帯電話の経路案内ではなく、店主マスターの手書きによる地図に従って海岸線の道路を進む最中に突如としてイズリアルが足を止めたのである。期せずして二組が落ち合った『奇跡の一本松』を右手に、目当ての漁港を左手にそれぞれ一望し得るほど開けた場所であるが、特別に珍しいわけでもない道端なのだ。

 更地に砂利を敷きながらロープで仕切ってもない急拵えの駐車場のようであり、塀の如く積み重ねられた土塁によって海辺と隔絶されている。復旧に至っていない防潮堤の代用かわりであるのと同時にこの地を訪れた者が海辺まで下りてしまわない為の措置であろう。

 腰の辺りまで積まれた土塁へ吸い込まれるようにして歩み寄り、その向こうに広がる水平線に視線を巡らせたままイズリアルは全く動かなくなってしまった。砂利を砕いて根を張ったかの如く直立不動で波音に耳を傾け始めたわけだ。

 一〇分も歩けば店主マスターから勧められた漁港に辿り着く地点で気まぐれを起こしたようなものであるが、ここでもイズリアルに苛立ちがぶつけられることはなかった。影の如く随伴しているVVは言うに及ばず、店主マスターから渡された地図に基づいて道案内を行っていた麦泉でさえ一言も戒めなかったのである。

 特別なモノなど何もない場所だからこそにわつなもとの末裔は引き留められたのだ――と、他人の情況ことに関心が薄いキリサメにも察せられた。

 海の幸に恵まれた陸前高田市の人々にとって漁港ほど身近に感じる場所は他にないだろうが、水産業の要だけあって港湾施設へ気安く立ち入ることはできない。これに対して一行が立ち止まったのは職業や立場の別もなく誰もが通う公道である。この町の〝日常〟へ気に留めるほどでもなく当たり前のものとして溶け込んだ風景なのである。

 海を臨む駐車場から後方を振り返ってみれば、公道を挟んだ向こう側に木立の生い茂る小高い丘が見て取れた。互い違いに傾いた木々や漂着した〝何か〟に抉られた窪みなど天災の爪痕が生々しく残っている。


「広田湾なう――っと。正確には広田湾付近ってコトになるんだろうけど、そこまで気にするフォロワーもいないだろうし、イージーに行くとしよう」


 青空と境目もなく交わった水平線に口笛を吹いた沙門は、陽の光を跳ね返して煌めく穏やかな波を携帯電話スマホのカメラで撮影し、次いで液晶画面を右の人差し指で撫で続けた。

 彼は陸前高田市に足を踏み入れて以来、町の各所あちこちで同じ行動を繰り返している。『万人施宿塔』から始まり、喫茶店コミュニティカフェでは店主マスターの許可を得た上で自身が注文した食事まで写真に収めていたのである。

 最初の内はキリサメも写真撮影が趣味なのだろうとしか考えなかったが、カメラ機能の起動を意味するシャッター音に続けて沙門は決まって「なう」「わず」などと謎めいた言葉を呟きつつ携帯電話スマホを操作しており、どうにも不可解であったのだ。

 しかも、店主マスターは撮影を快諾しただけでなく、逆に感謝の言葉を述べている。宣伝への協力ということであったが、携帯電話スマホの操作が如何なる意味を持つのか、文明の利器に疎いキリサメは理解から更に遠ざかってしまったわけだ。

 今度も厚めの唇でもって愉快な口笛を吹いている沙門は短文つぶやきを書き込む形式のSNSへ自分の現在地を写真と共に投稿していた。『万人施宿塔』や『奇跡の一本松』などこの町で目にした風景やそこに抱いた気持ちを綴っており、写真撮影こそ憚ったものの、はなさかの了解を得た上で『青空道場』が震災直後に果たした役割も書き込んでいる。

 短文つぶやきの閲覧は原則として自由に開放され、インターネット上で繋がった人々と共有されている。『くうかん』最高師範の一人息子であり、日本選手権で三連覇を成し遂げた若き麒麟児ということもあって沙門の話に耳を傾ける登録者フォロワーは数千にものぼっていた。スペシャルブレンドのコーヒーの感想を一つ投稿して貰えるだけで喫茶店コミュニティカフェにとっては抜群の宣伝効果となるわけである。

 キリサメは置き去りとなっているものの、沙門と同じSNSは未稲や希更など多くの格闘技関係者も利用している。むしろ、登録していない人間を捜すほうが困難であり、数十万という登録者フォロワーを誇る『天叢雲アメノムラクモ』のスターダム――レオニダス・ドス・サントス・タファレルなど有名選手たちも液晶画面越しではあるものの、直接的にファンと交流を深めているのだった。

 二〇一四年五月までに全世界で二億もの利用者ユーザーが登録したSNSを企業が広報に活かさないはずもなく、『天叢雲アメノムラクモ』も今福ナオリが運用する公式アカウントから開催予定の興行や所属選手にまつわる情報を好奇心が刺激される裏話と共に発信していた。


「……先程も頼んだが、イズリア――当方のことはネット上に載せないで頂きたい。キミはどうやらアメリカ留学の経験もあるらしいが、それならば余計に〝揉め事〟は望むところではないはずだ。『くうかんドージョーと『こんごうりき』の運営資金も効率的に使ってこそというものだろう?」

「先程も申し上げましたがね、イズリアルさんに迷惑を掛けることこそ俺には望むところじゃないんスよ~。あの美しい顔を曇らせたくないッスからね」

「……その感覚は自分には理解し兼ねるが……」


 〝揉め事〟という言葉の裏側に訴訟の可能性をも匂わせたVVの警告に対し、沙門は大仰に肩を竦めて見せた。

 くだんのSNSはカリフォルニア州サンフランシスコに本社を置いており、システム自体が発展途上であった頃から公式アカウントを設けるなどアメリカのMMA団体である『NSB』には身近な存在であった。

 イズリアル・モニワも『NSB』の団体代表へ就任する以前から個人用アカウントを登録し、MMAに関連する事柄だけでなく音楽バンド活動の映像を添えた投稿も多かったのだが、ここ半月ばかりは無味乾燥ともたとえられるほど事務的な文章ばかりを連ねている。

 沙門が投稿した短文つぶやきにはキリサメや岳の写真は幾つか添えられているが、イズリアルの横顔を捉えたものは一枚もない。撮影の際に彼女が映り込まないよう細心の注意を払うだけでなく、『奇跡の一本松』で合流したことにも全く触れていなかった。

 一緒に行動していることをSNSでる種の既成事実として波及し、力業ながら望ましい結末を引き寄せられるかも知れないのだ。浮名を流す色男ならば見逃すはずもない好機をえて外した理由は極めて深刻だった。だからこそVVも脅しめいた言い回しで釘を刺したのである。


「そんなに心配なら俺のアカウントをダイレクトにチェックしたらどうです? 今の画像だって『じょうはまの寒稽古を想い出した』って書き添えただけッスよ。宮古市の支部道場が例年やっているヤツに本部の代表として一昨年、特別に参加させて貰ったんスけどね」

「誰かに指示されるより先に済ませておくのが〝仕事ワーク〟というモノだよ。〝揉め事〟が起きた場合に当方の有利と認められそうな投稿は全て画像保存スクリーンショットで押さえてある。手抜かりなど期待しないほうが身の為だぞ、最高師範グランドマスター子倅ボーイよ」

「こういうオトナにだけはなりたくないってお手本丸出しッスねぇ」


 現在地の写真をインターネット上に投稿すれば、即ち自分の居場所を不特定多数へ公表することにもなる。VVから警告を受けるまでもなくイズリアルが――『NSB』の代表が陸前高田市に足を運んでいることを誰にも知られてはならないと沙門も心得ていた。


(……話の流れはまるで読めないけれど、麦泉氏も話していた例の緊急事態に関わるコトなんだろうな。居場所を特定されるのは一番厄介だろうし……)


 SNSへ一度も触れたことがないキリサメにもイズリアル・モニワの置かれた状況は十分に理解わかっている。

 〝その話〟に麦泉が言及したのは喫茶店コミュニティカフェへ入った直後であり、未稲の質問から派生して戦国絵巻が紐解かれた端緒きっかけとも言い換えられるだろう。先祖ともえにしの深い陸前高田市を訪れたのは〝私事〟であるが、来日そのものは『NSB』代表としての〝仕事〟であった。

 発端は先月末に全世界を激震させたアメリカ合衆国大統領専用機――エアフォースワンへのサイバーテロ事件まで遡る。『バルトロマイの福音書』にける地獄の管理者を称した首謀者は逮捕から程なくして重犯罪者を対象とするフォルサム刑務所に収監されたが、公務執行妨害罪や法廷侮辱罪に問われるくらい支離滅裂な証言を信じるならば、攻撃対象は大統領ではなく同乗者であったという。

 超大国の政権中枢を支える上級職員でも政府高官でもない。その日、エアフォースワンに偶然たまたま乗り合わせていただけの『NSB』関係者がサタナスの標的であったのだ。

 彼女サタナスが狙ったのは二人――その内の一人はカリフォルニア州サンノゼの道場スタジオにて『アメリカン拳法』を極めたルワンダ人選手のシロッコ・T・ンセンギマナである。祖国を代表して大統領に表敬訪問するべく相棒と共に『空飛ぶホワイトハウス』へ乗り込んでいた。

 もう一人は『NSB』副代表の孫娘である。政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと大統領へ同行していたのだ。

 事件当日、大統領はフロリダ州に所在するコンテナ・ターミナルを視察して経済活性化を奨励する演説スピーチを行っている。同州のマクディール空軍基地からエアフォースワンへ乗り込み、メリーランド州アンドルーズ空軍基地へ飛ぶことまで過密な予定スケジュールに組み込まれていた。その機内に『NSB』と関わりの深い二人が同乗するという情報をサタナスは事前に掴み、『九・一一』の再現ともたとえられた凶行に及んだ次第である。

 現大統領とホワイトハウスを争った対立政党の重鎮は八角形の檻オクタゴンの中で繰り広げられるMMAのことを以前に『人間闘鶏』などと扱き下ろしたが、同様の論調で『NSB』の在り方に批判的な声明を出していた上院議員はサタナスのテロ行為を擁護するか否かとマスコミから追及されている。

 カービィ・アクセルロッド――『不沈艦』の異名を取った北米アメリカプロボクシング・ヘビー級統一王者チャンピオンであり、次期大統領選挙の野党有力候補とも目される男が釈明とも受け取れる会見を開いてから半月ほどしか経っていない。

 事態が収束する見通しの立たない中、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを東京ドームで開催すればサタナスの〝同志〟から模倣犯が現れるかも知れない。サイバーテロにも匹敵する攻撃をイズリアルは憂慮しているのだった。

 サタナスは格闘技そのものを重大な人権侵害と見做し、もって根絶やしにせんとする『ウォースパイト運動』の活動家である。彼女と同じ思想の持ち主たちは『NSB』の興行を火炎瓶や放水で妨害した上にこれを正義の証明とまで誇っている。当然ながら巨額の損害賠償請求に発展したが、テロ紛いの思想活動には切れ者の弁護士も加わっており、同団体の法務部も苦戦を余儀なくされていた。

 今年の二月には〝縄張り〟が脅かされる状況に怒りを募らせていた『NSB』のファンが『ウォースパイト運動』の活動家を殺害する事件にまで発展し、アクセルロッド上院議員はこの忌むべき私刑リンチもイズリアル・モニワの差し金であろうと決め付けている。

 MMAを巡る憎悪が果てしない暴力の応酬へと連鎖し始めていた。何しろ『ウォースパイト運動』という〝思想〟はSNSを通じて共有されているのだ。他者の持つ〝権利〟を叩き壊さんとする激情ほど同調し易く、速やかに増殖していくものである。

 テロ対策にも匹敵する警備体制が『天叢雲アメノムラクモ』に整えられるかどうか、これを代表自ら確かめることが来日の目的であった。つまるところ、臨時の視察というわけである。興行当日には他の上級スタッフも加わる予定であるという。

 こうれいと入れ替わるような形で『NSB』の視察が続くのだが、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの実現に向けた意見交換が中心であった前回とは状況が全く異なり、談笑など挟む余地がないほど深刻さを帯びていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』からすれば『NSB』によって特大の〝爆弾〟ともたとえるべき不安材料を持ち込まれてしまったわけであるが、『コンデ・コマ・パスコア』の共催を決定した以上、本来は無関係であるはずの問題に巻き込まれようとも突っ撥ねるわけにはいかなかった。


「……さっきから〝揉め事〟って何度も仰ってますけど、イズリアルさんが今、この場にいるってコトは『天叢雲アメノムラクモ』まで『ウォースパイト運動』の標的ターゲットにされるってコトじゃないですか。〝揉め事〟云々を話すのなら、が先だと思うんですよね」

「日本ではこういうコトを『耳が痛い』と表現するのだったな。しかし、サタナスに煽られた不届き者は地上に存在する全ての格闘技を敵視している。遅かれ早かれ『天叢雲そちら』にも火の手が回ると思うがね。ガク・ヤクモのお嬢さんにはこの理屈がお分かり頂けるだろう? 狂気の思想に冒された人間が日本にも居ないとは限るまい」

「それなら『NSB』と足並みを揃えて守備まもりを固めたほうが得策――と? 恩着せがましいにも程あるでしょ! きょういしさんと同じように言うコトがいちいちカチンと来るなぁ」

「さりげな~く俺に対する悪口を差し込むのはいけねェよ、お嬢ちゃん」

「統括本部長の家族が『足並みを揃えて守備まもりを固める』という発想を持ってくれているのは実に頼もしいな。今回の視察も『NSB』が『天叢雲そちら』の不備をつつく為に行うのではないよ。お互いの不足を補い合う為の確認作業と思って頂きたい」

「もう完全に〝押し貸し〟じゃん! 悪徳金融の手口じゃん!」


 他の〝誰か〟が割り込む隙間もないほど密着しながらキリサメの真隣に立つ未稲もVVの物言いは大いに不満であり、口の先を窄めて苛立ちの度合いを示している。

 『NSB』による視察の件は『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘でさえ今日まで聞かされていなかった。イズリアルの来日理由を喫茶店コミュニティカフェで明かしたのは麦泉であるが、彼はそのときにもう一つの視察についても言及していた。

 『天叢雲アメノムラクモ』最大のスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』も『ウォースパイト運動』の活動家による暴挙をこの上なく深刻に捉えており、経営者一族――ザイフェルト家の御曹司を送り込んできたのである。改めてつまびらかとするまでもなくこちらも会場警備の実態調査と、を論じ合う為の臨時視察であった。

 奇しくも北米アメリカ欧州ヨーロッパにその名を轟かせる国際的な組織の重要人物キーパーソンたちが伊達政宗の威光を留める奥州にて顔を突き合わせる形となったわけである。『ハルトマン・プロダクツ』側の視察も数日前に決定したばかりと麦泉はキリサメと未稲に説明したが、その段取りを引き受けたのは樋口社長であるという。

 二つの視察が同日に重なってしまったのは樋口の策謀であろう。

 彼は『NSB』の試合を新たな次元にまで進化させた『CUBEキューブ』というシステムを掠め取らんと企んでいるそうだが、相手側を出し抜こうとする腹黒さをえて晒すことでイズリアルの動向うごきに楔を打ち込むつもりであるのかも知れない。それはキリサメにも露骨あからさまな牽制と思えた。


(……あのとき、確かにモニワ氏の顔は明らかに強張っていた。それどころか、その話をする麦泉氏も納得していない様子だった――ここまで来ると樋口氏は自分の敵がどれだけ増えるのかを試しているとしか考えられないな……)


 ギュンター・ザイフェルト――つまり、『ハルトマン・プロダクツ』の経営者一族が同じ会場に訪れることを麦泉から教えられた瞬間、イズリアルの纏う空気が張り詰めた。樋口による隠蔽工作の有無はともかくとして、視察そのものが急な決定であった為に『NSB』の情報網にも引っ掛からなかったようである。

 しかし、は日程調整の不手際に対する苛立ちではなかったようキリサメには感じられた。『NSB』と提携するスポーツメーカーなど聞いたおぼえもないが、あるいは『ハルトマン・プロダクツ』の経営者一族と同じ空間に居合わせるだけで看過し難い利益相反が生じるのかも知れなかった。

 団体代表イズリアル・モニワの来日理由ひいては『NSB』の現状を振り返ったキリサメは、当人に感付かれないよう気を張りつつVVの左脇下へと視線を巡らせた。

 アメリカ合衆国大統領をサイバーテロの最大の目的ねらいが『NSB』副代表の孫娘を精神的に追い詰めることであったことは日本のニュースでも報じていた。それ自体は幼稚極まりない攻撃であるが、『ウォースパイト運動』という思想活動の性質を考えた場合、代表イズリアルの生命が直接的に脅かされる可能性が浮上してくるわけだ。

 忌々しい総合格闘技MMAを崩壊へ追い込みたいのであれば、これを主導する人間の息の根を止めることこそ最も有効であろう。

 格闘技を人権侵害と見做す思想がインターネット上のやり取りを通して際限なく増殖していることはSNSソーシャルネットワークサービスのシステムに明るくないキリサメでも理解している。そして、自らの行いが世界をより良い形に変えると信じて疑わない者たちのおぞましさは〝日本人ハポネス〟よりも深刻に受け止めているつもりであった。

 幼馴染みの少女と遠い彼方に引き裂かれてしまった『七月の動乱』は、キリサメが生まれる以前より故郷ペルーを蝕み続けてきた格差社会を転覆せんとするテロ組織が裏で糸を引いていたのである。格闘技という人権侵害に対する抗議活動――ただそれだけの為に反逆者として裁かれる犯罪ことさえ厭わないサタナスの思考が少しも理解できないと未稲は唖然としていたが、そもそも人間界の常識が通用しない者たちだからこそ、他人の生命いのちを犠牲にするような暴挙にも恥を知らず〝正義〟を掲げるのだ。

 もしも、の手を放さずに済むのであれば、VVと同じようにキリサメも『七月の動乱』にいて銃を取った筈である。法律を破ることにちゅうちょなど持たなかったであろう。取り澄ました顔でイズリアルに付き従う彼が実際には手段を選んでいられないほど逼迫していることが察せられるのだった。


(……つまり、同じ思想を分かち合う人々の間でこそ狂気が膨らんでいくことをこの人も痛感しているわけだな――)


 水平線の向こうに目を転じながらもVV・アシュフォードという気難しそうな男について思案し続けていたキリサメの左脇腹を沙門が右肘で軽くつついた。


は見て見ぬ芝居フリをしてやるのがクレバーってモンだぜ、アマカザリ。こちらの伊達男ダンディーさんも日本が銃社会じゃねェことくらい分かってるだろうしな。とびきりイリーガルな対応でもやらなきゃならねェ状況ってヤツさ」

「そこまで仰るということは沙門氏も最初から気付いて……?」

「これまた昔話になっちまうけど、大叔父が警視庁の機動隊に勤めていたんだよ。を敵視してきやがる『ウォースパイト運動』とは毛色が違うけど、日本でも長くて硬い棒切れやパイプ爆弾で〝世直し〟を試みた連中が暴れ回っていたんだよ。そのテの連中はブレーキの壊れた暴走列車と大差なかったって、盆暮れ正月に一族集まるたびにその大叔父から聞かされたんだよ」


 沙門から〝昔話〟を耳打ちされたキリサメの脳裏に亡き母の授業が甦った。自分たちの思想を正義と疑わず、内部闘争も辞さない圧倒的なる暴力をもって社会の構造を変えようとした狂気の暴走を現代の〝日本人ハポネス〟とて知らないわけではなかったのだ。

 『昭和』と呼ばれた時代の半ばには苛烈極まる思想に衝き動かされたが国内外に血の色の劫火を放ってきたのである。同じ〝世直し〟を唱えながらも主張の隔たりや主導権争いなど様々な思惑から分派を繰り返し、それぞれがテルアビブ空港での銃乱射や長野県に所在する山荘の占拠といったテロ事件を起こしている。

 〝正義〟の証明として武力闘争を選ぶなどペルーにいて〝世直し〟を成し遂げようとした『組織』にも重なる部分が多いとキリサメは認識していた。「日本の学校では教えないコト」という亡き母の講義はなしを信じるならば、状況によって警察だけでなく反社会的勢力ヤクザまでもが鎮圧の為に暗躍したという。

 一九六〇年代半ばから東西冷戦の延長といった性質に変わり始めたベトナム戦争へ反対するべく決起したは東京の市街地で警視庁機動隊と衝突し、暴走の有り様は現代いまの『ウォースパイト運動』にも通じると沙門は付け加えた。同様の抗議集会は〝南軍〟の主力を担ったアメリカ国内でも激しさを増し始め、帰還兵の合流や公民権運動とも結び付いてホワイトハウスを揺るがしたそうだ。


「アメリカ留学中に居候させて貰ったキックボクシングのジムはシアトルに所在るんだけどな、他と比べて治安が良くても銃社会に変わりはねぇからヤバいエリアはやっぱりあるモンさ。……自然とんだよね」


 余人の耳に届かないほど小さな声でキリサメだけに話しかける沙門のは「アマカザリだって一目で気付いたんだろう?」ともたずねていた。

 これにはキリサメも唖然としてしまった。アメリカから日本へ銃器を持ち込むという違法行為を見抜いた上でVVに挑発的な行為を繰り返していたわけだ。苛立ちからひきがねを引くことはないと確信していたのだろうが、それを割り引いても大した度胸である。


「ちょっと意味を読み取れなかったんですけど、今の話って何なんですか? どうして銃社会なんて話が? しかも、きょういしさんが話していたのって、あさま山荘事件のアレとかですよね? を妙なハナシに引っ張り込んだら承知しませんよ」

「……みーちゃん、あの……」


 少しばかり離れた位置にて岳と肩を並べつつ水平線を眺めているイズリアルや、二人の傍らへ戻っていった麦泉とVVに沙門の控えめな声は聞こえなかったようだが、キリサメの真隣に立つ未稲の耳にはさすがに届いてしまった。

 耳打ちならばまだしも、現在いまは沙門も身を引き剥がして喋っているのだから未稲に聞こえないはずもない。己の迂闊を悟り、眉間に皺を寄せるキリサメであるが、ここから誤魔化すのは至難の技であろう。何しろ銃の存在が見え隠れする物騒な部分まで把握されてしまっているのだ。

 の未来はその銃によって閉ざされてしまった。だからこそ、未稲だけは死神スーパイの息吹にも等しいひきがねから遠ざけたかった。しかし、キリサメには望んでもそれが叶わない。日本と故郷ペルー両方の公用語を使いこなせるからといって弁が立つとは限らないわけである。


「お嬢ちゃんもなかなか地獄耳だな。それともデバガメ趣味ってヤツかい? ヤバいってのはアシュフォードさんのコトだよ。あの伊達男ダンディーさんがジェームズ・ボンドみたいなオーラを漂わせているのはお嬢ちゃんにも分かるだろ? つまり、さ」

「沙門氏、それは……っ」

「キリくんの言う通りだよ。それは幾らなんでも突飛でしょ。それじゃあ何ですか? あの人、どこぞから送り込まれた特殊エージェントだとでも?」

「当たらずとも遠からずと俺やアマカザリは踏んでるんだよ。ここ最近の『NSB』を振り返ってみなって。団体の代表に身辺警護ボディーガード付けるのは当然だろ? 例の『ウォースパイト運動』は俺の大叔父に棍棒で殴り掛かってきた連中と本質的には変わらねぇもん」

「いや、『007ダブル・オー・セブン』は身辺警護ボディーガードと正反対でしょ。……勿論、言いたいコトは私なりに理解したつもりですよ? テロ同然のやり口で〝世直し〟を狙う辺りはそっくりだし……」

「どんながあるのかは本人にいてみなきゃ分からねぇし、質問しても答えちゃくれねぇだろうけど、ダウンタウンのギャングが相手でも後れを取らねぇハズだぜ。身のこなしもハンパねェってアマカザリと盛り上がってたトコさ」

「……もう一回、今度は強めに釘を刺しておきますけど、キリくんを妙なハナシに引っ張り込んだら本気マジで許しませんよっ」


 未稲の意識を銃から引き離すよう言葉巧みに誘導し、暴力に基づいた〝世直し〟という共通点から警視庁機動隊と激闘した日本の活動家たちと『ウォースパイト運動』を絡めて納得させていく沙門にキリサメはただただ感心するばかりであった。

 キリサメ自ら説き伏せようとしていたなら、はぐらかそうと試みている間に口を滑らせ続け、結局はVVが左腋下へ隠し持っている物に言及せざるを得なくなったはずである。

 その場に立ち会ったことはなく、立ち会いたいとも思わないが、おそらく沙門は女性を口説く際にもこのようにして自分のことしか考えられなくなるよう引き込んでいくのだろう。色恋を差し引くとしても彼はそもそも頭の回転が桁外れに早いのだ。


「キリくんもキリくんだよ。この人に変なコトを吹き込まれそうになったら私にすぐ相談して。……〝今〟、隣に居るのは私なんだから。隠し事はスケコマシの始まりだよっ」

「……みーちゃんが何を言ってるか、ちょっと分からないけど……」


 キリサメの態度に腹を立てているらしい未稲は頬を膨らませた状態でそっぽを向いてしまったが、それでも密着に近い状態だけは維持し続けていた。キリサメの隣はと示すつもりなのだろう。

 未稲の機嫌を損ねた原因が自分にあるとは想像もつかないキリサメだが、それでも小さな声で紡がれた言葉が愛らしくて堪らず、今すぐにでもとろけるくらい唇を貪りたかった。





 『ハルトマン・プロダクツ』を統べる会長であり、国際規模の競技大会に関わる様々な利権を貪り食らう〝スポーツマフィア〟の総帥として数限りない悪意に突き刺されてきたトビアス・ザイフェルト――その孫であるギュンターが一族を代表して岩手県で開催される興行を視察し、『天叢雲アメノムラクモ』の警備体制を調査するのは今週末のことである。

 金メダリストを数多く輩出するなど格闘技王国として知られるオランダにいても別格の存在感を誇り、欧米系の格闘技団体に一族の人間を送り込む『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家の御曹司もまた同企業ハルトマン・プロダクツに属する一員スタッフであった。

 歴史上、ドイツとオランダは戦火を交えたこともあったが、過去かつての怨讐を超えて両家は深く結び付いており、二人の御曹司も幼い頃から親友同士である。

 その親友ギュンター・ザイフェルトにオムロープバーン家の御曹司――ストラールも同行し、共に『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の臨時視察を行うことになっていた。


(――ああ、想い出してきた。……ウクライナで新たな難民が大量発生する見通しだと、難民高等弁務官マイク・ワイアットが切り出す少し前のことだったかな。……今となっては一種の予言だったあの話を……)


 まるで他人の記憶を覗き込んでいるかのような感覚がストラールを包んでいた。

 ザイフェルト家の御曹司ギュンターや最愛の伴侶マフダレーナと『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを視察するという〝特命〟が抜け落ちていたことさえも自分以外の誰かの失態のように振り返り、物おぼえの悪さに対する焦燥すらどこかに置き忘れてしまったらしい。

 それでいて余計な記憶ばかり脳内あたまのなかに浮かんでしまうことには自嘲を禁じえなかった。

 スポーツ用ヒジャブの発表会へ共に出席した際、よしさだ――MMA日本協会の副会長や難民高等弁務官マイク・ワイアットと〝難民選手〟について語らった一時ひとときは、その瞬間の感情に至るまで事細かに想い出されるのだ。

 『ガダン』の将来にも関わりが深い事柄という点が最たる要因であろうと、ストラールは自らの混沌とした追憶を分析している。

 はアラビアの言語ことばで『明日』を意味する名を持ち、ドイツの小村に設置された難民キャンプで暮らしているソマリア出身うまれの少年である。

 正確にはかつて〝少年海賊〟であった一人と表すべきかも知れない。

 日本企業のタンカーに対する襲撃というニュースによって生々しい実態が全世界に知れ渡ったばかりであるが、アラビア海を荒らし回る海賊団は人身売買によってソマリアの子どもたちを戦闘員に仕立て上げていた。ガダンもまたその〝被害者〟というわけだ。

 ガダンと行動を共にしている年少者のグループも全員が少年海賊である。悪魔が棲む船から一緒に脱走した仲間たちを支える為にも〝プロ〟の格闘家になりたいとガダンは希望しているのだった。

 彼が生活するドイツの難民キャンプは『ハルトマン・プロダクツ』が全面的に支援している。ザイフェルト家を代表して御曹司ギュンターが視察へ赴いた際にもストラールは同行し、そこでガダンと巡り逢った次第である。

 自分の半分しか生きていない少年が背負った過去ものと未来への展望に胸を打たれて以来、オムロープバーン家の御曹司は周囲まわりから贔屓と思われない程度にガダンのことを気に掛けているのだ。

 人種も文化も全く異なる土地から逃れてきた難民をどのように受け入れるべきか、ドイツを筆頭にオランダなど欧州ヨーロッパ全体が動揺する只中にって、ガダンという一個人への期待がオムロープバーン家の代表として名を連ねている企業スポーツメーカーの難民支援計画すら上回ったわけである。

 挙げ句の果てには〝少年海賊〟というガダンの身の上まで吉見たちにしてしまったのだ。公私混同も甚だしく、恥知らずの上に愚の骨頂――と、ストラールは他者に対する断罪と似たような心持ちで己の浅慮を改めて詰った。


「――あなたが未来に目を向けてくれることはわたしも嬉しいのよ? それはそれとして時おりガダンに妬けてしまう乙女心も理解わかって欲しいわ。それとも『ここから先はレーナの為に時間を使うよ』と囁いてくれたのはわたしの記憶違いだったのかしら?」

「……レーナ、そういじわるしないでくれ」

「自分ではない誰かの為、真剣になれるあなたの誠実さがわたしの心に少しだけよこしまなものを芽生えさせるのよ。遠い昔に追い立てられた悪魔の〝血〟が目を覚ますのね」

「冗談にしては皮肉ウィットが効き過ぎているかな。ここはイギリスではないのだから、笑って受け流せるものにして貰わないと返す言葉に迷ってしまう」


 自己嫌悪で満たされていたストラールの心に伴侶パートナーへの愛情で溢れ返ったのは当然であろう。追憶に沈んでいた意識を緑豊かな公園まで引き戻したのも彼女マフダレーナである。甘やかに響く声がストラールの耳へ優しく染み込んでいった。

 異形の〝巨大樹〟が中央にそびえ立つドーム型の建物からアムステルダムの空の下へと移り、市民たちにとって憩いの場でもあるフォンデル公園までマフダレーナと散歩に繰り出したばかりである。

 オランダの首都は朝焼けの色に染まっていた。靴音を跳ね返す石畳と同じように朝日でかれた雲が掛かってはいるものの、今日は青く晴れ渡ることであろう。

 鼻孔がむず痒くなるほど瑞々しい植物の香りで肺を満たしたストラールには次いで空腹感が襲い掛かった。

 彼は郊外に所在するドーム型の建物に夜通し籠っていた。今は亡き恩人から託された研究に寝食を忘れて没頭しているのだろうと見破ったマフダレーナは異形の巨大樹エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラから伴侶をべく暗闇の深淵――『アカデミー』へと足を踏み入れたのだった。

 『格闘技の聖家族』の御曹司はがっきゅうのような一面があり、誰かが止めないと何時までも巨大樹の正面に設えられた端末装置に向き合い続けるのだ。実際、ストラールは昨晩から食事をり忘れている。カフェの開店時間には些か早いものの、細かく刻んだチョコレートをたっぷり振りかけたトーストでも胃に入れないと卒倒してしまうだろう。

 自分の左腕に両手を絡ませ、チョコレートより甘やかな体温で寄り添ってくれることがストラールには堪らなく幸せであった。何より近く愛しい伴侶マフダレーナを感じている限りは追憶に戻ることもあるまい

 隣同士のベッドで産声を上げてから現在いまに至るまで生まれる前に定められた運命の如く当たり前のように同じ日々を過ごしてきたマフダレーナはどこかに〝何か〟を置き忘れたのではないかと迷ったとき、剥がれ落ちて足元に転がった〝ピース〟を必ず拾い上げ、一緒に〝パズル〟を完成させてくれるのだ。

 ガダンのことになると我知らず熱が入ってしまい、マフダレーナ本人からそれを冷やかされる始末であったが、ストラールの人生は彼女の存在なくして有り得ないのだ。


「ガダンも日本に連れて行ってあげたいというあなたの気持ちは分かるけれど、贔屓が過ぎると却ってあの子が辛い目に遭うわよ」


 頬が落ちそうになるくらい甘いミルクチョコレートのように自分を包んでくれる。そのように浸っていると急にビターチョコレートよりも苦くなる――愛しい体温の下に隠された毒気もまた伴侶マフダレーナの魅力とストラールは安らぎと共に噛み締めているが、今し方の一言にはレンズの裏側で双眸を大きく見開いてしまった。

 耳元で「可愛い反応」と冗談めかして囁かれたものの、彼女の頬を紅く染められるような小気味好い返答こたえも紡げなかった。それも無理からぬことであろう。伴侶マフダレーナが口にした提案を親友ギュンターからごく最近に却下されたばかりなのだ。

 ガダンは欧州ヨーロッパで最大の勢力を誇る打撃系立ち技格闘技団体『ランズエンド・サーガ』からプロデビューしたいと希望している。総合格闘技MMAとはルールからして異なるわけだが、〝格闘競技〟の世界に間近で触れたなら学ぶことも多いはずである。

 己自身の経験に基づき、ガダンを『天叢雲アメノムラクモ』の興行へ導こうと考えたものの、伴侶マフダレーナにも親友ギュンターにも全く同じ言葉で大いなる誤りだと諭されてしまった。


「ストラールにとっては特別な存在であっても、難民キャンプで生活している一人という事実は変わらないのだから」


 無様な姿まで何もかも見守ってきた相手だけに考えていることは互いに見通すことができる。だからこそストラールは心の中身を覗き込まれても冗談めかしていられるのだ。

 朝日を追い掛けるかのようなランニングを日課としているのか、はたまた毎年一〇月に開催されるマラソン大会に向けたトレーニングなのか。二人の真横を一組の親子が園内中央の噴水を目指して賑々しく走り抜けていく。

 溌溂とした面持ちで先導する娘から励まされ、左右の腕を大きく振って張り切って見せる両親という微笑ましい場景を見送ったストラールとマフダレーナはどちらともなく互いの指を絡め合っていた。

 そうかと思えば、小道に面する茂みの向こうより過剰なほど互いの肉体からだを密着させながら現れ、気まずそうに顔を俯かせる男女とも遭遇してしまうのだから、つくづく不思議な空間である――と、二人は苦笑いの顔を見合わせた。


「ガダン本人を連れていくのは難しいけれど、彼の面白がりそうなお土産なら持ち帰ることができるかも知れないわよ」

「いつぞやギュンターが話してくれたずんだ餅かな? ……イワも東日本大震災で大きな被害を受けた土地だ。日本格闘技界の取り組みほど効果が上げられるわけではないが、少しでもトウホクに貢献できるのなら町中のずんだ餅を買い上げても構わない。小村トロイメライへの差し入れにしよう」

「冷凍してドイツまで運ぶ為の段取りを確認しなくてはいけないわね。でも、わたしが言いたかったのはガダンが使っている上着のことよ。確かハッといったかしら……」


 ストラールが記憶している限り、ガダンは海外から送られてきた支援物資に混ざっていた古いからを纏い、その上から真新しい藍色の法被はっぴを羽織っていた。横に倒した梯子をモチーフにしたものとおぼしき白い紋様は裾に染め抜かれた日の状態を維持し続けていたはずである。


「キリサメ・アマカザリについて調べていたら、興味深い情報に行き当たったのよ。ハッを通して彼とガダンが結び付くかも知れないわ」

「その名前はガダンから遠ざけたほうが良かったんじゃないのかい」


 伴侶ストラールの体温に包まれているのとは対の左手一本でもって器用に携帯電話スマホを操作し、これを黒いレンズ越しにも見える高さにかざした。

 液晶画面に表示されたのは『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトである。選手紹介の項目を選択しているようだが、全文が日本語で記されていた。つまり、彼女はストラールならば内容が理解し切れると信じて疑わないわけだ。

 事実、彼は文句の一つも口にせず当該選手の経歴に目を走らせていく。同団体のMMA選手に関する情報を吸い上げることには興味がなく、これを手掛かりにマフダレーナの意図を読み取ろうとしていた。


「……これはキャッチコピーのつもりかな? 例の最年少選手が自ら名乗っているのか、主催者のほうで捻り出したのかは分からないけれど、『ケツァールの化身』というのは如何なものだろう。さすがの私もケツァールの生息地が南米でなく中米ということくらいはおぼえているよ」


 世界的なデザイナーとして高名なたねざきいっさくが〝開発〟に携わったという一風変わった試合着を纏うのは薄気味悪い目付きの少年であった。あるいは〝眠れる獅子〟ともたとえられるだろう。

 プロフィール欄の解説によれば日系ペルー人とはいえ両親は共に日本人である。同国ペルーの〝血〟が一滴も混じっていないことは顔立ちからも明らかだ。

 キリサメ・アマカザリ――ガダンにとっては良き先例になるだろうとMMA日本協会副会長たちも話していた『天叢雲アメノムラクモ』の最年少選手である。樋口郁郎の手によって暴かれたことだが、その新人選手ルーキーは故郷の貧民街で暴力一つを頼りに生きてきたらしく、少年海賊ガダンとは精神こころの深い領域で相通じると言えなくもない。


(……しかし、この少年とガダンが結び付くとは想像し難いな。死んだ魚のような目とガダンの燃える眼差しを一緒に見ることはさすがに無理があるし……)


 互いに絡み合わせる形で腰に締め込んだ三枚の布切れは先端が尖り、斜めの切れ込みが幾つも入っている。全身像を捉えた写真を見る限り、風になびくと南国の空を飛び交う鳥の尾羽根のように舞い踊る仕掛けのようだ。

 臀部を覆うように五枚ばかり垂らされた飾りは燕尾服を彷彿とさせる輪郭シルエットであり、これに着想を得て『ケツァールの化身』なる珍妙な呼称が付けられたのかも知れない。


はわたしもどうかと思ったけど、注目して欲しいのは名前の漢字表記のほう。『天を飾る』と書いてアマカザリと読むそうよ」


 マフダレーナによる解説を受け、ストラールのなかで記憶の糸が繋がった。角張った独特の字体であったが、ガダンが羽織る藍色の法被の背面にはそのような二字が白く染め抜かれていたはずである。


「日本でも珍しい家名ファミリーネームのようね。トーキョーではホンバシという町に一軒だけ見つけたわ」

「どうやって個人の家名ファミリーネームを割り出したんだい? まさか、『バーン・アカデミア』の練習生名簿にでも載っていたのかな?」

「世界最大のスポーツメーカーが持つ情報網ネットワークもってすれば造作もないこと――と言いたいところだけど、インターネットで検索したら第一候補として浮かび上がったのよ。日本むこうの建築業界では知る人ぞ知る名職人なのだとか。トーキョータワー建設にも携わったそうね」

「その名職人がキリサメ・アマカザリの親類で、難民キャンプに例の上着を送ってくれた人物かも知れないのか。まだあのハッが余っていたらガダンの仲間たちの分も譲って貰うとしよう。……確かにこれは良い土産になるな」


 ハーメルンで昼食ランチを共にしたMMA日本協会副会長も〝日系ペルー人の喧嘩師〟などと仰々しく語っていたはずだが、ストラールはそのことに一言も触れないままペルーというキリサメ・アマカザリの出身国を右の人差し指で示し、「ご両親のどちらかが職人と親子であったなら、イワにも応援に駆け付けるだろうね」と言い添えた。

 しかし、ゴーグル型のサングラスで覆われた双眸は相槌など求めていない。『天飾』なる家名の職人について説明されたのはこれで何度目であったのか――と、黒いレンズの向こうから儚げな眼差しでもってたずねていた。


「ペルーの『アマカザリ』とトーキョーの『あまかざり』は〝血〟という糸で結ばれているのか、翡翠の瞳で見通せたら良いのに」


 少しばかり強く首を横に振りつつ携帯電話スマホをハンドバッグに仕舞ったマフダレーナは、空いた左手で愛しい伴侶ストラールに悪戯を仕掛けた。三つ編みに束ねた長い金髪ブロンドを手に取り、その先端を絵筆のように使って彼の頬や顎を撫で始めたのだ。


が魔眼の類いでないことは誰よりもレーナがっているだろう? 演算に基づいて私の脳内チャンネルにほんの僅か先の黄昏ラグナロクを映すだけだよ」


 両者の間でしか通じないような暗号めいたやり取りに「機会があったらホンバシに足を向けてみよう。それくらいの寄り道はギュンターだって許してくれるさ」とも付け加えたストラールは、次いで緩やかに波打つ赤褐色の頭髪かみへと唇を落とした。

 口では来訪の意欲を示したものの、実際に東京へ足を踏み入れる頃には左手から心の奥底まで伝った愛しい体温ぬくもりくらいしか記憶に留めていないだろうと、ストラールは一種の諦念を見上げた空に解き放った。

 オムロープバーンという家門を背負う者として決して口にすることなど許されない思いすら〝永遠〟を誓い合った伴侶パートナーには見抜かれていることだろう。黒いレンズの表面には慈愛と切なさを綯い交ぜにしたような顔が映されていた。




 八時間もの時差が生じる海の向こうで挨拶を交わしたおぼもない人間が己の家名ファミリーネームを話題にしていることなどキリサメ当人には知る由もあるまい。仮に想像が及んだとして今は気にも留めないはずだ。

 〝今〟、隣に居るのは私なんだから――先程のいじらしい言葉に心を射抜かれたキリサメは未稲の華奢な肉体からだを抱き締め、丸メガネが吹き飛ぶほどの勢いで唇を貪ることしか考えていなかった。

 今まさに彼女の肩を掴もうとしていた左右の五指が急に止まったのは、その間際に養父が振り返った為である。

 改めて詳らかとするまでもなく、養子が実娘を人目に付かない物陰へ連れ込まないよう目を光らせていたわけではない。八雲岳の名前を呼ぶ大きな声が公道のほうから飛び込んできたのだ。


「水臭ぇでねぇが、八雲先生~っ! 道案内だら自分がいるではねぇですか~!」

「ンなコト、頼めるワケね~だろ! お前さん、陸前高田市ここが地元ってワケじゃ――ていうか、何でこの町にいるんだよ⁉ 昼前に電話したときだってお前、晩メシから合流しようぜって話したじゃね~か!」

「いやいや! 居でもっでも居られねぇですって! 伊達政宗公の面影がのごった土地は自分にどって庭ど一緒んだがら~!」


 岳が両手を大きく振って応じた声の主は格闘技に携わる人間の目には特別に不思議ではなく、それ以外の人間には珍妙と映るような風体であった。三日月の刺繍が眉間でがねいろに煌めくプロレスマスクを被り、これに『おうしゅうプロレスたんだい』と刷り込まれたシャツや水玉模様のトレーニングパンツを組み合わせているのだ。

 黒地の覆面マスクは両目と口の部分のみが刳り抜かれており、実際に隻眼ではないものの、右目に刀の鍔を眼帯代わりとして宛がっている――『どくがんりゅう』の伝承に倣ったその魁偉おとこが岩手県で最も有名な地方レスラーであることは誰の目にも明らかであろう。

 〝特徴の塊〟としか表しようがなかった。鬼貫が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で食事をった際、店の特設リングにて好敵手ライバルのカリガネイダーと闘う姿をたった一度しか見たことのないキリサメにも『サイクロプス龍』という通称リングネームが即座に思い浮かんだのである。

 彼は三年前の会合にも被災地の代表という形で加わり、極めて神妙な面持ちで都内の格闘技関係者たちと向き合ったのだ。しかし、過剰に大きな動作うごきで手を振り返す様子は沙門から聞かされた印象とは別人にも等しいではないか。喜色満面で駆け寄ってきた岳と腕を組みながらその場で軽やかに回転し始めた。

 リングへ挑む際にこのような〝キャラクター〟を演じているのか、三年前の会合と比べて今日は故郷おくに方言ことばもやけに強いようである。

 サイクロプス龍は陽気の二字がプロレスマスクを被っているようなものであった。先程の会話でも触れた通り、準備の為に『天叢雲アメノムラクモ』興行の開催地――奥州市に入っているさいもんきみたかを交えて夕食をる予定であったのだが、約束の時間まで待ち切れなくなり、自家用車で陸前高田市まで駆け付け、小回りが利くように徒歩で一行を捜し回っていたそうだ。


「……そうか、こうして――こうやって時間は人間ひとに寄り添ってくれるんですね……」


 キリサメの呟きを肯定するように沙門がその右肩を優しく叩いた。

 沙門から教わった三年前の様子との落差が余りにも大きかった為に一瞬だけ面食らったものの、底抜けとも思える明るさこそがサイクロプス龍の本来の姿なのだろう。

 『まつしろピラミッドプロレス』しかキリサメは類例を知らないが、サイクロプス龍ひいては『おうしゅうプロレスたんだい』も岡田健が名誉会長を務める『大王道プロレス』の系譜を引き継ぎ、筋書きシナリオに基づく熱闘で観客たちを楽しませている。

 異種格闘技食堂の特設リングでも彼は誰よりも声を張り、好敵手ライバルのカリガネイダーと共にマットの上で豪快に跳ね回っていたのだ。

 ドイツ史上最悪の独裁者が取り仕切った一九三六年ベルリンオリンピックまで〝餌〟として利用し、『ハルトマン・プロダクツ』の総帥を計略で動かそうとする樋口に戸惑った顔も、MMAによる復興支援に懸念を示した顔も、いずれも本来の姿に違いはあるまい。陸前高田市に根を張る人々と同じようにサイクロプス龍も三年という時間の中で様々な思いを積み重ねてきたのだ。


(……の場合は化けて出始めたもんな……気持ちに整理をつけて一区切りってコトも許さないつもりかよ、アイツ……それとも僕あの日の恨みを晴らそうとでも――)


 この瞬間とき、キリサメの脳裏に浮かんだのはアメリカ大陸最古にして最大の闘牛場の駐車場に横たえられ、大量の新聞紙で覆い隠された少女の亡骸である。血の臭いが入り混じる風を心優しき人の泣き声が切り裂く中、を馬上より無感情に見下ろしたのだ。

 その記憶が心を軋ませ続ける限り、サイクロプス龍のようにはなれないだろう。『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだペルー伝統の手織物スカーフが新聞紙の上から更に掛けられていたのだが、ドス黒く染まったハチドリやコンドルは現在いまも網膜に焼き付いている。

 そもそも『七月の動乱』から一年にも届いていないのでサイクロプス龍と同じ心境に至れるはずもないのだが、生来の為人ひととなりを差し引いても自分の場合は歳月の経過によって〝何か〟が解決されるとは思えない――だからこそキリサメは揃いの手織物スカーフを少女の亡骸と共に埋葬し、闇の底へと永遠に封印したのである。


「八雲岳――その名は混迷の時代に眩い光をもって〝路〟を示す太陽を意味しているのよ。誰もが彼の一挙手一投足に惹き付けられ、片時も目を離すことができないわ。我々、『NSB』だって八雲岳がMMAのリングに帰還かえってきてくれたからこそ日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの申し出に応じられたのよ。……ミッキー・グッドウィンに完全決着の場を用意できなかったことが悔やまれてならないわ。両雄の永遠なる友情に祝福あれ……ッ!」


 違和感と共に喪失の恐怖すら覚えた未稲がレインコートの袖を強く引っ張るほど虚ろな目に変わっていくキリサメに対し、軽やかに舞い踊る岳とサイクロプス龍へ感激したらしいイズリアルはまたしても芝居がかった調子で拍手を送った。

 改めてつまびらかとするまでもないが、VVは「また始まった」と言わんばかりの辟易うんざりとした表情でかぶりを振り続けている。

 この岩手県で『けいちょうさんりくしん』の復興支援に向き合った先祖――茂庭綱元が伊達政宗と肩を並べて見つめたであろう母なる海に一礼したイズリアルは、次いで岳へと視線を巡らせて「日本MMAの誉れ高きリーダーに祝福あれ」と噛み締めるように繰り返した。


「貴方たち『天叢雲アメノムラクモ』は八雲岳を太陽にたとえているわね。私はえてそこに光り輝く大海原も付け加えたいわ。MMAという大きな命を育んだスケールは五大陸の隅々まで駆け巡る――その〝血〟を身に継ぎ、大勢を揺り動かす息吹を感じてきた愛娘あなたが羨ましくないといえば嘘になるわね」

「いきなり私に振らないで貰えません⁉ きょういしさんトコのお父さん並みにアレな妄想に付き合う余裕もないんでっ!」

きょういしとももミッキー・グッドウィンも……格闘技を愛する者はみな八雲岳を放ってはおけない。誰も彼もその背中に魅了される――そうね、『岳』という名前の通り、大地の体現者とも言えるわ。彼が自らの力で耕し、撒いた種から日本MMAが花を咲かせたのだから。キリサメ・アマカザリはまさしく父なる大地につのよ。海も山も太陽も、そして、澄み渡る青空も八雲岳。もはや、地球そのものといっても過言ではないわね」

「……空手バカの息子並みに他人ひとの話を聞かないなァ、このおばさん……!」


 激しい頭痛に苛まれているかの如く苦悶の声を洩らしながら頭を抱えた未稲は言うに及ばず、VVと揃って置き去りにされてしまった麦泉も大きな口を開け広げたまま呆然と立ち尽くしている。

 両手を大きく広げることによって海と岳を同時に指し示すイズリアルの姿を「野原で高らかに唄うジュリー・アンドリュースみたいなんですが……」と往年のミュージカル映画にたとえた麦泉にはVVもし口を晒しつつ疲れた様子で頷き返した。


「あの〝独眼竜〟を引き継いだ彼も、サイクロプス龍もまた一つの太陽ね。岩手というこの土地を隅々まで照らすことでしょう。我が祖先の大いなる遺産にも等しくて――」

「――僕もあの人のようになれるでしょうか。岳氏のように……」


 尊敬してやまない伊達政宗に倣った風体のサイクロプス龍へと目を転じ、〝祖先〟の面影を重ね始めたイズリアルの声をキリサメの問いかけが遮った。彼女の言葉は意味深長であり、喫茶店コミュニティカフェ店内なかであったなら店主マスターが「ご先祖様は茂庭綱元じゃなかったかな?」とすかさず指摘したことであろうが、驚愕ともたとえるべき一言が横から割り込んだ為、誰一人としてに意識を向けなかった。

 自分は養父ちちのようになれるのか――〝身内〟である未稲と麦泉にもキリサメが懊悩を吐き出すさまなど今日まで想像できなかった。それどころか、やり場のない感情を胸のうちに溜め込んでいると考えたことすらなかったほどである。いつでもまぶたを半ばまで閉ざしているこの少年は何事にも無感情であったのだ。

 しかし、その声は憧憬あこがれで昂揚しているわけではない。アメリカ本国どころか、おそらくは世界最大の規模を誇るであろうMMA団体の代表にまで認められた養父ちちと同じ戦場リングに立つ資格が己に備わっているのか――その答えをキリサメは己のなかに見つけられなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』と関わるようになって以来、存在意義に対する自問は尽きない。秋葉原に於いて瀬古谷寅之助と激しい斬り合いを演じた際には競技選手としての資格を手放しそうになった。〝プロ〟にあるまじき不祥事を経て故郷ペルーで犯した罪が暴かれたときには樋口の情報工作によって〝暴力〟そのものが肯定される形となり、〝貧民街スラムで研ぎ澄まされた殺人拳〟などと喧伝された喧嘩殺法が生き抜く為に必要なすべであったことを証明するという未稲との誓いまで揺らいでしまっている。

 しかし、心の奥底で渦巻いていた迷いを吐露し、誰かに答えを求めたことなど今日まで一度もなかったのである。


(きっと次に化けて出たときはのヤツ、厭味みたいに目を合わせながら嘲笑わらうんだろうな。も〝富める者〟に染まった証拠――食うに困らない人間の道楽だって……)


 イズリアルが振るう熱弁に耳を傾け、改めて確認するまでもなく養父ちちが『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長という肩書きに留まらない偉大な男ということは十分に理解わかっている。力道山の精神に倣い、格闘技を通じて東北復興支援を成し遂げるようとする飛び抜けた発想も、『日本晴れ応援團』の白旗のもとに同志たちの心を束ねた新沼三太夫の如き行動力も、キリサメには想像も及ばなかったのだ。

 見れば通りかかった地元の人たちが岳のほうへと歩み寄っていくではないか。サイクロプス龍の風体が何よりも目立つので先ずそちらに意識を引き寄せられ、次いで岳の存在に気付いた様子であった。

 岳の姿を認めるや否や誰も彼も双眸を見開いて驚き、握手を求めながら嬉しそうに笑うのだ。有名人だから持て囃されているわけではない。東日本大震災にける彼の行動が三陸海岸にまで知れ渡っている証拠とも言い換えられるだろう。


「アマカザリはどこまでも真面目だよなぁ。あんまりガチガチだと、バカっつう二文字をアタマに付けられちまうぞ。程よく肩の力を抜いていかなきゃバテるのも早いしよ」


 瞬時にして真後ろまで回り込み、おどけた調子で両肩を揉み始めたきょういし沙門も大きな〝器〟の持ち主とキリサメは認めている。二〇代前半という若年にも関わらず、次の世代が〝シゴキ〟といった旧態依然の悪習に苦しめられないよう自身が所属する空手道場の改革に挑んでいるのだ。己の在り方すら定められない半端者へ気さくに話しかけてくれることが不思議に思えるような俊英なのである。

 三年前の会合には岳や沙門と肩を並べる大器の人々が一堂に会していたのだ。

 昭和を代表する二人のプロレスラーは言うに及ばず、一九九〇年代半ばから日本格闘技界を牽引し続けてきた『こんごうりき』はチャリティー大会を積極的に開催し、児童養護施設や身体からだにハンデを持つ人々の活動をたすけていた。沙門の父――きょういしともは同団体にて競技統括プロデューサーを務め、社会貢献を指揮してきたのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の契約選手であり、長野興行にも出場したギロチン・ウータンは筋書き《シナリオ》と現実の区別が付けられない人々から不当な誹謗中傷カミソリレターを受けてきた〝悪玉ヒール〟レスラーの地位向上に半生を捧げてきた。

 その彼女ギロチン・ウータンを飛び膝蹴りで撃破した希更・バロッサの実母――ジャーメインは熊本県八代市に所在する道場ジムにてムエ・カッチューアの担い手を育て、心に寄り添う言葉でもって進むべき〝路〟に迷う大勢の気持ちを奮い立たせた。

 じまプリンスホテルの小会議室には居合わせなかったが、希更の実父にしてバロッサ家の顧問弁護士も務めるアルフレッドはかつて〝悪玉ヒール〟レスラーを苦しめたものと同じ同調圧力を「性根の腐り切った外道に正義を名乗らせておくことは法律という平等が敗れたも同然」とまで切り捨てたという。

 おそらくアルフレッド・ライアン・バロッサは年端も行かない少女をテロの標的に選んだサタナスとその〝同志〟――『ウォースパイト運動』の活動家にも同じことを決然と言い放つであろう。

 格闘技そのものに対するテロ行為が全世界を震撼させるなかであっても日本初の女性MMA選手であるよしさだは決して歩みを止めない。インドネシアやイランなどを旅して回り、総合格闘技MMAという〝文化〟の普及を躊躇わないのだ。沙門が語った補足説明によれば難民高等弁務官とも会議を持ったというではないか。

 MMA日本協会を代表し、生まれ故郷の代表として立つことが叶わない〝難民選手〟の受け入れなどを話し合ったのではないかと沙門は推し量っていた。

 ブラインド柔道のパラリンピアンであり、心身のハンデを持つ人々が安心して働ける社会の実現に向けて奮闘するすけよりも、『格闘技医学』の見地から競技選手の肉体からだを守るべく奔走している杖村という整形外科医も――誰も彼もキリサメにとっては余りにも眩い存在であった。

 養父と熱い抱擁を交わしながら何事かを語らっているサイクロプス龍にもキリサメは敬意を抱かずにいられない。彼と『奥州プロレスたんだい』は被災地の〝現実〟を東北から遠く離れた土地にまで伝える語り部として文字通りに東奔西走しているのだ。

 二〇一一年三月一一日に現地で一四時四六分を迎えた『大王道プロレス』のレスラーたちはおそらく現在いまも三年前と変わらず、東北に思いを馳せてリングへと臨み、数え切れないくらい多くの人々を元気付けていることだろう。

 総合格闘技MMAの〝道〟を現代に拓いた前田光世コンデ・コマの足跡を追い掛け、世界を相手に闘い、最強を目指したいと夢見る親友――空閑電知のように格闘家としての精神こころを支えるモノなど握り締めてはいない。寅之助と剣を交えた際に野次馬から極めて似ていると称されたが、八雲岳をプロレスラーの〝道〟に導いたヴァルチャーマスクと己を比べることすらおこがましいと思っている。


(大昔に母さんから聞かされた円卓の騎士みたいだ。普通に考えたらアーサー王は岳氏なのだろうけど、例の会合には樋口氏が居たのだから椅子取りゲームが始まるか……)


 MMA日本協会のメンバーも、有理紗を始めとする『サムライ・アスレチックス』のスタッフも、誇り高き格闘家たちと同じである。誰もが格闘たたかいを通じて〝何か〟を成し遂げようとしてきた。

 二本の指で標的の目を抉り、握り締めた拳を叩き付け、『聖剣エクセルシス』でもって薙ぎ払う行為はキリサメにとって殺傷と略奪の手段でしかなかった。ひとたび、戦端が開かれたら互いの命を喰らい合うしかない。破壊とは異なる〝何か〟をもたらす可能性など今日まで考えたこともなかったのである。

 MMAすら勝つか負けるかという二択でしか捉えられなかった。それはつまり、暴力の応酬という思考かんがえに囚われ続けている証左なのだ。『天叢雲アメノムラクモ』のリングを故郷ペルー非合法街区バリアーダスと地続きのように感じてしまう自分が大器の人々と同じ場に立てるとは思えない。肩を並べられると空想するだけでも格闘技への冒涜になるだろう。

 の笑い声に彩られた瀬古谷寅之助との斬り合いがを明かしている。

 初陣プロデビューを迎えようという間際になってMMAへ挑戦する決意の根本がキリサメのなかで揺らいでいた。胸に秘めた未稲との約束も今だけは支えになってくれないのだ。

 二〇一一年三月の〝あの日〟に〝円卓の騎士〟ともたとえるべき人々が立ち向かったのは数多の命へ未来を約束する闘いである。これに対して血塗られた『聖剣エクセルシス』がしたのはキリサメ・アマカザリという個人ただひとりの命に〝その日〟を凌がせることのみである。

 同じ〝命を繋ぐ〟という行為でありながら、養父たちの挑戦とは全く重なり合うことがない。その事実が胸中に産み落とした懊悩は、目を逸らすことも叶わないほど膨らんでしまったのだ。

 格闘技との直接的な接点は定かではないものの、亡き実父――くさゆきもまた〝円卓の騎士〟の一員であった。


「……僕も岳氏のようになれるでしょうか……?」


 改めてイズリアルと向き直り、キリサメは先程の問い掛けを再び絞り出した。

 現状のままではMMA選手としての行く末に期待しているというこうたいじん――こうれいを失望させ、電知が「格闘技界の汚点」とまで吐き捨てたひきアイガイオンと同じ末路を辿るのは間違いない。『天叢雲アメノムラクモ』の先輩選手にもそのように指摘されてしまったのだ。

 元フライ級の日本人プロボクサーであるひきアイガイオンは挑戦者の立場で臨んだタイトルマッチで王者チャンピオンの右目を失明させ、ボクシング界から永久追放されている。堕落の果てに許されざる罪を犯してしまった男ともキリサメは記憶していた。


(……こんな状態でリングに立ったら城渡氏にも失礼だもんな……)


 初陣の対戦相手であるじょうわたマッチは暴走族チームの総長であり、試合に際して大勢の仲間が湘南から応援に駆け付けている。舎弟の中で最も忠誠心の強いつるぎきょうはこの有り様に「てめーには総長の前に立つ資格なんかねぇッ!」と激怒するはずだ。

 瀬古谷寅之助との闘いに関わって以来、何を血迷ったのか、御剣恭路はキリサメに対して「兄貴分」などと自称している。意味不明にして傍迷惑ではあるものの、友好的な感情を向けられていることは間違いない。つまり、これを裏切るような状況は想像しただけでも気鬱というわけである。

 しかも、今度ばかりは口汚く面罵されても言い返しようがないのだ。


(……僕は岳氏のように――MMA選手になれるのだろうか……?)


 同じ質問を養父本人にぶつければ満面の笑みで頷き返してくれるだろう。確かめるまでもなく分かり切った反応である。だからこそキリサメはえてイズリアルにたずねたのだ。八雲岳という男を誰よりも認め、尚且つ客観的な視点に基づいて答えを与えてくれる相手には『NSB』の代表こそが最も相応しかった。


「ビバリーヒルズの広告代理店で働いていた頃に当時の上司からこういうアドバイスを頂いたわ――出会って間もない人間の言葉で頭を悩ませている問題が解決したならすぐに預金残高を確かめろ。そして、カードの暗証番号を変更しろってね。そういう手合いは〝獲物〟の思考ロジックを幾つものパターンに当て嵌めて自分の望む方向に誘導する腕利きの詐欺師だそうよ」

「……超能力者エスパーにも人の心を読めるのでは?」

「貴方にもその才能があるじゃない。私が続けたかったことを先読みしてしまうなんて。超能力者エスパーなら映画の題材に最適もってこいだが、雇った次の日には金庫が空っぽになっているだろうから出会ったらすぐに逃げろと例の上司には注意を促されたわ」

「そして、逃げおおせた後には金庫の暗証番号を変更するワケですか」

「貴方と私でお笑いコンビでも組んでみない? ベガスのステージにツテがあるのよ」


 イズリアルが質問に対する回答とは言い難い例え話を持ち出した意図はキリサメにも伝わっている。だから、遮ろうともせずに相槌を打ち続けたのだ。彼女の背後に控えたVVが「美男子の生皮で作った仮面の下に豚の顔が隠れていても上辺だけで見分けるのは不可能だ。本性を暴きたければ女神ペレの壁画の前に立たせるしかない」と、ハワイの長老から聞かされた教訓はなしを日本語で引用しても見当違いと指摘することはない。


「ご覧の通り、私は全知全能の神なんかではないわ。今し方、VVが話していた女神ペレでもない。だから、は安心して貰って構わないわよ」

「詐欺の才能があるなら、そちらで稼いだほうが今よりずっと割に合うしな。戦いを取り仕切るという行為そのものが骨折り損ばかりだ。……いや、しかし、そうか――口八丁で選手を言いくるめ、試合場オクタゴンに差し向けるのは詐欺師の手口と大して変わらないか」


 VVは故郷ハワイの例え話に続いて不調法な皮肉を飛ばしたが、潮風と共にを背中で受け止めながらもイズリアルは振り返ってめ付けようとはせず、キリサメと真っ直ぐに視線を交わし続けた。

 『NSB』を束ねる大器がそのまま顕れたかのような佇まいであり、誠実の二字を映した表情かおはレインコートの袖を掴み続ける未稲にも嫉妬を抱かせなかった。


「MMAの未来を担う人材とお互いの腹を探り合う不誠実な付き合い方は望まないもの。ところで貴方のほうは? 私のカード番号は判ったのかしら? 質問に質問で返すのは行儀が悪いのだけど、謝罪の言葉はセルフサービスで私の心から読み取って貰えるわね?」

「ご期待に沿えなくて申し訳ありませんが、僕はハリウッド映画の題材にはなりません」

「そうとも言えないと思うわ。『八雲岳の秘蔵っ子』と来れば目鼻が利くプロデューサーなら放っておかないもの。ダン・タン・タインと組んでみるつもりはない? きっと貴方ならヴァン・ウィリアムズとブルース・リーのような名コンビになるハズよ」

「次の言葉は『ハリウッドにコネがあるから口を利いても良い』――ですか? その切り返しは反則でしょう。岳氏の耳に入ったら自分も出演せって聞きませんよ」

「……キリくんとモニワさん、何というか、ヒくほど息ぴったりだね。私、海外ドラマの一幕ワンシーンでも観ているような気分になってきたよ……」


 こうして言葉と視線を交わす相手の為人ひととなりを全て理解できているのか――イズリアルの黒い瞳が問い返している。言葉として紡がない〝声〟に気付いたからこそキリサメは目を合わせたまま首だけを左右に振って返答こたえに代えた。

 未稲が呆れ果て、麦泉が「今、頭の中で『熊蜂の飛行』が流れているよ」と肩を竦めてしまった喜劇のような掛け合いこそ不可能ではないが、ただそれだけでイズリアル・モニワの心を読み取れるわけではないのだ。

 何事にも無感情なキリサメでさえ彼女こそ北米最大のMMA団体を率いるのに相応しい傑物であろうと理解している――が、人間としての器と性格は必ずしも一致するわけではない。ましてや挨拶を交わして半日と経っていないのである。イズリアル・モニワという個人の在り方など掴めるはずもなかった。

 未稲とは異なる方向性で自身が愛好するモノへの想いが深く、ひとたび熱中し始めると周囲まわりの様子を脳が認識できなくなる人間タイプと判った程度であろう。無論、イズリアルの側も同様である。ただでさえ感情の働きが読み取りにくいキリサメの為人ひととなりなど理解を早々に放棄したのかも知れなかった。

 問われたことには答えようがないとイズリアルはビバリーヒルズの例え話を交えながら示したわけである。秋葉原で起こした不祥事のみを判断材料にする浅慮な人間には〝人種のサラダボウル〟でMMA団体を率いることなど不可能であろう。聞こえの良い回答ことばを用意せず、これを模索もしないということは寧ろ誠実なのだ。

 イズリアルから突き放された恰好ではあるものの、『天叢雲アメノムラクモ』に対して後ろめたい気持ちを抱えているキリサメには容赦なく切り捨てられたことが却って心地良い。『NSB』の所属選手でもない自分は彼女の〝身内〟ではないのだ。


「……それでも敢えて一つのヒントを手渡すなら、……貴方のお父上から――八雲岳という男から目を離さないことね」


 イズリアルが右の人差し指でもって示した手本は、この場の誰もが想像した男である。

 ここまでの言行を振り返ればイズリアルが選出する相手は容易く予想できるのだが、今度は夢見心地に浸っているわけではない。MMAの将来を創っていくだろうと期待する少年を一つの指針へ導くその声は凛と張っているのだ。まさしく『NSB』代表としての態度といえるだろう。

 彼女イズリアルの瞳が恍惚の二字を湛えるたび辟易うんざりと言わんばかりに顔を顰めていたVVも今だけは瞑目し、「八雲岳から目を離すな」という助言にも押し黙ったまま首を頷かせた。


きょういしさんのお父さんだったら、今の台詞を鼻水だらっだらで吐いたでしょうね」

「八雲さんに全力で抱き着いて頬擦りしてな。……息子としちゃあ、簡単に想像できちまうのが複雑ったらありゃしないぜ。両親のピロートークに出くわすほうがまだマシだ」

「……あなたの発言はどうしていちいちセクハラじみているんですかねぇ~」


 未稲と沙門の会話を頬で受け止めたイズリアルは、ほんの少しだけ眉根を寄せた。


「……私だって八雲岳の全てを肯定しているわけではないわよ。『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げが決まったミーティングでは選手の安全確保も議題になったと伝え聞いたけれど、結局は個々人にの覚悟を求める形になってしまった――そうよね、麦泉さん?」

「モニワさんがご承知の通りですよ。余震などの災害に見舞われても自己責任と契約書に明記されています。選手もスタッフも不可避の危険性リスクを承知した上で参加する――とね」

「エディ・タウンゼントから否定された根性論や精神論が二一世紀の日本で未だに幅を利かせている現状が哀しいし、選手・スタッフの命を預かる団体として余りにも無責任で、明らかに誤った判断が八雲岳というカリスマで有耶無耶にされていることは否めないわ」

「返す言葉もありません……」


 両眉で八の字を作りながら右頬を掻く麦泉に一礼をもって詫びるイズリアルであったが、『天叢雲アメノムラクモ』が内包する問題点を抉り出す指摘ことばだけは決して止めなかった。あまつさえ「日本を代表する格闘技団体ということを自覚すべき」とまで言い捨てたのである。

 他団体の規範とならなければならない『天叢雲アメノムラクモ』が悪例を示しては日本MMA全体の信頼を損なうだろう。その事実に対するを求められた麦泉は彼女イズリアルの真意を悟って双眸を見開き、いよいよ答えに窮してしまった。

 は三年前の会合の顛末を沙門に教わったときからキリサメも疑問に感じていたことである。ブラインド柔道のパラリンピアンであるすけよりは東日本大震災直後という状況にいてイズリアルと同じ視点を持ち、被災地での開催を主張する岳に対しても試合場は都内に設置すべきと反論をぶつけたのである。

 『三・一一』の本震にも匹敵する余震が数え切れないほど繰り返されるだろうと、災害研究の専門家も述べている。これらを踏まえた上で佐志は人的被害を回避し得る無観客試合であること、選手やスタッフの避難経路を最優先で確保する会場設営などをくだんの会合で提案していた。

 動画サイトと提携し、試合の映像をインターネットで配信すれば都内の開催であっても岳が望むように避難所まで元気を届けられるとも佐志は訴えたのだ。

 いずれの提案も気持ちばかりが先行する岳の発想を現実的な着地点へ導くものであったが、現在の『天叢雲アメノムラクモ』には一つとして反映されなかったのである。興行イベントで配布されるパンフレットに彼の名前は記載されていない。それはつまり、建設的な意見で貢献しながらも同団体の運営にことを意味しているのだった。

 新人選手ルーキーが首を傾げた『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理体制は国外団体の代表も問題視しているわけだ。イズリアルの口振りから察するに佐志輔頼の考案が黙殺されたことも間違いなく把握している。そのように甘い認識で格闘技そのものを標的としたテロ行為へ対処できるのかという懸念が積み重なった結果、今回の臨時視察が決定されたのだろう。

 『NSB』は既に『ウォースパイト運動』から〝攻撃〟を受けている。差し迫った状況下で危機回避能力を欠いた団体に大切な選手の命など預けられまい。同様の議論が最大のスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』で起きたことも想像に難くなかった。


「第二回興行のときにはつるじょうの公園内に観覧席を特別に設置したと聞いているし、その写真もVTRも拝見させて貰ったわ。……日本が起源ルーツでハワイ出身だけど、私もアメリカ人よ。日本国内外の投資家たちを狼狽させた風評被害は自分のことのように苦しい。えて福島の中心地で大会を開催した英断を私は心から尊敬しているわ」

「……『尊敬はしてるけど、安全面は褒められたもんじゃない』と続けたいワケですね。娘が庇ったら身贔屓みたいになってしまいますが、お父さんの――父の名誉の為に言っておきたいコトがあるんですけどっ」

「先程のお返しにこちらも『統括本部長は団体の運営に直接は関わってないし、ルールを決定する権限もない』と反論を先読みして差し上げましょう。……勿論、八雲岳が組織の体質を決定付けたとは思っていないわ。だけど、『天叢雲アメノムラクモ』がリスク管理を棚上げした事実は変えられない」

「火炎瓶や違法な放水で試合を妨害された『NSB』は幾ら心配しても足りない。……福島でも大きな余震が続いていますし、組み立て式の観覧席はどうしても耐久性に難があるのでには観客もろとも崩落し兼ねない――そこは言い返せませんね」


 のちに東日本大震災の余震ではなく誘発地震と結論付けられたが、二〇一一年四月一一日には浜通りで震度六弱もの地震が発生している。同年の福島県はそれ以降も立て続けに震度五を観測する揺れに見舞われており、会津若松市にける興行は想像を絶する危険性リスクと背中合わせであったのだ。


「ただでさえ狭い空間に当日は色々な機材やテントが設置されていたのでパニックが起ころうものならが壁になって立ちはだかって、……控室のプレハブが置かれた駐車場にさえ辿り着けなかったハズです。モニワさんはそう言いたいんでしょう?」

「お嬢ちゃんとイズリアルさんもベガスのステージに立てそうだな。アマカザリにも負けない名コンビっぷりを楽しませて貰ったぜ」

「……きょういしさんの口から『ベガスのステージ』って言葉が出ると、いかがわしく聞こえてならないんですよね。ホント、全身の鳥肌が立ちますよ」


 未稲は不愉快の三字を顔面に貼り付けているが、八雲岳の為人ひととなりと功績を讃えながらMMA団体の代表として客観的且つ公平な視点を放り出すことのないイズリアルの態度にキリサメは寧ろ感心していた。

 アメリカの格闘技界から永久追放された前代表フロスト・クラントンに代わり、忌むべきドーピングに汚染された『NSB』の再生を背負うことになったイズリアルはを僅かな時間で再生させ、一度は失墜した信頼を取り戻した。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体のような解散に追い込まれることもなく完全復活を成し遂げたのである。

 アメリカ最大のMMA団体という〝王座〟へ返り咲いた経緯について詳しくないキリサメにも立ち居振る舞いの一つ一つからイズリアルの才覚と手腕が感じ取れた。


「ついでに言わせて貰うなら危機対応能力への懸念は会場設営だけではないわよ。二一世紀にもなって体重別の階級制すら設定しない有り様には『NSBこちら』の副代表も常識として理解できないと腹を立てているわ。前身団体バイオスピリッツの時代より更に悪化している。かつての『アルジャーノン路線』と同じ過ちを再び繰り返している――とね」

「こいつはまた、……『こんごうりき』の新人にとっても耳が痛いご指摘を喰らっちまったぜ。選手生命とイコールな問題だもんなぁ。『NSBそちら』の副代表バイスプレジデントがブチギレるのも当然さ」

「……日本の格闘技界は何時になったらくにたちいちばんの呪いから解き放たれるのかしら……」


 一秒たりともイズリアルは口を噤まない為、『アルジャーノン路線』の再現という指摘を受けて苦笑する沙門に『くにたちいちばん』の名前が挙がった理由をたずねるいとまもなかった。「男女混成トーナメントを開催した『NSB』には国舘一蛮イチバン・クニタチの呪いを批判する資格もないだろうがね」というVVの皮肉もキリサメの眼前を素通りしていくのだった。

 くにたちいちばん――ヴァルチャーマスクの誕生に携わり、日本格闘技界にも多大な影響を及ぼした昭和の漫画原作者である。

 世を去って久しい人物の名前をえて口にしたことからも察せられる通り、『天叢雲アメノムラクモ』が内包する問題の〝病根〟をイズリアルは正確に捉えているのだ。を受け止めたからこそ未稲は「父の名誉の為に」という盾の如き反論ことばを飲み下したのであった。

 つまるところ、イズリアルは樋口郁郎によるを危険視しているわけだ。日本格闘技界にいて尋常ならざる影響力を握った男は〝最後の弟子〟と呼ばれるほどくにたちいちばんに近い存在であり、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに記者として勤めた若き日に薫陶を受けたのである。

 麦泉もまたイズリアルの真意を悟っている。それ故に「国内他団体は『天叢雲アメノムラクモ』の体質を規範とすべきではない」とまで扱き下ろされた際にも口を噤まざるを得なかったのだ。

 他の誰でもない彼自身が樋口の強権的な手腕に穏やかとは言い難い感情を抱いている。そして、胸の奥に押し込めたドス黒いもやもイズリアルに看破されている――そこまで理解わかってしまった麦泉に反駁などできようはずもあるまい。

 腹芸ができるか否かではない。偽りを述べることは共催団体の代表に対して誠意を欠くことにも等しく、『サムライ・アスレチックス』の一員としてそれだけは避けなければならなかった。


「……先程の言葉を繰り返すわ。私たち、『NSB』は八雲岳の呼び掛けに応じたのよ。貴方たちのお父上が差し伸べてくれた手を振り払うことなどできはしないわ」


 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアが樋口郁郎の主導による立案であったなら交渉の余地すらなかったとイズリアルは言外に語っていた。麦泉は俯き加減となって頭を掻いたが、如何とも動かし難い事実だけに今度も反駁できなかった。

 『ウォースパイト運動』を刺激し兼ねないという懸念も含め、全世界から注目を集めるMMA大会の実現に向けて歩調を合わせなければならないはずの日米両団体は大切な準備期間でさえ水面下では主導権争いを繰り広げている。おそらく臨時視察が行われる奥州興行も穏やかには済まないだろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』はメインスポンサーからして異なっている。前者が『ハルトマン・プロダクツ』を後ろ盾としているのに対して、後者はオレゴン州に本社を置くアメリカ最大のスポーツメーカー『ペースメイク・ブリッジ』を頼みとしていた。

 改めてつまびらかとするまでもなく両社は世界のトップブランドを争う不倶戴天の敵同士なのだ。ごく最近もスポーツ用ビジャブの開発を巡り、かつてのフォードとフェラーリの如く抜き差しならない状況に陥ったばかりであった。

 規模の大小に関わらず競技大会の運営を支えるのは出資者スポンサーであり、そこに生じる様々な利権を独米二社が競って喰らうような構図である。岳が大きな夢を託した日米合同大会コンデ・コマ・パスコアいてさえ醜悪な諍いが起こり得るわけだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』のようなチャリティー優先の興行イベントではなく、競争社会の縮図の如く捻じ曲げられていくだろう。

 巨額の予算カネを分け合う裏舞台の様相はスポーツという言葉が世界に生まれて以来、その〝文化〟から人々の関心を遠ざけるものとして常に問題視されてきた。のうろうのように相互理解と自他共栄を唱えた近代オリンピックの父――クーベルタン男爵の精神オリンピズムから掛け離れた事態なのだ。

 そこで国際的なスポーツマーケティング会社『エアフォルク・インターメディア』が調和と均衡を保ち得る方策として出資企業スポンサーは一業種につき一社に限定するという大原則を提唱したのである。

 この仕組みが初めて導入されたのは一九八二年にスペインで開催されたサッカーワールドカップ――『ハルトマン・プロダクツ』が運営団体と〝蜜月の仲〟の如く結び付いた国際競技大会であった。

 商業化に拍車が掛かるオリンピックでもくだんの大原則は二〇一四年現在まで守られ、一つの慣例として様々な競技大会にも波及・定着していた。

 広告利権が焦点となるスポーツメーカーが好例であるが、同じ業種のロゴマークが隣同士の状態で人々の目に留まれば試合場にて企業間の〝競合〟が発生し、宣伝効果まで損なわれてしまう。他社のスパイクシューズに対する購買意欲が促進されるようでは出資した意味が消え失せるというわけだ。

 このような事態の回避にも有効である為、一業種一社という慣例に誰もが従っていた。そして、これこそ数多の企業が〝パートナーシップ〟へ群がる理由でもあった。

 『エアフォルク・インターメディア』なるスポーツマーケティング会社はそもそも『ハルトマン・プロダクツ』の傘下企業であり、国際社会を一業種一社という体制へ誘導したことも経済活動の秩序を守る為などではなく、各種競技大会にまつわる利権の独占を目的とした謀略であろうとこんにちまで信じられている。

 ひいては同企業ハルトマン・プロダクツが『スポーツマフィア』などと忌み嫌われる由縁であった。

 しかし、のちの格闘技史にまで大いなる皮肉として語り継がれる筋運びとなった。

 ザイフェルト家の総帥による画策がスポーツこそ〝金鉱脈〟であると全世界に知らしめてしまったのである。つまるところ、〝スポンサーシップ〟とは友愛を連想させる聞こえの良い言葉とは裏腹に莫大な利益の俗称であるわけだ。

 日米MMA双方の利害について譲歩し得る点と堅持すべき点を幾度も議論し、二〇一五年末の日米合同大会コンデ・コマ・パスコアは東京ドームで開催されることが決定された。つまり、『天叢雲アメノムラクモ』側がホストの役割を果たすというわけだ。

 万難を排して『NSB』を迎え入れるには普段の興行と同じように『ハルトマン・プロダクツ』を頼みにすることこそ適切であろう――これもまた妥協点の一つであるが、ホスト側の提案とあってはイズリアルたちもメインスポンサーという最大の〝特権〟を譲り渡すしかなかったわけである。

 万が一、日本国内に潜伏している『ウォースパイト運動』が日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの運営を妨害したときには全責任を『天叢雲ホスト』側に負わせ、あわよくば賠償金をせしめて共催に要した費用の全額を賄ってしまおうという腹積もりもあったはずだ。

 当然ながら『ペースメイク・ブリッジ』にとっては不本意な結果である。『NSB』側の選手が使用する試合着や道具に関して『天叢雲アメノムラクモ』及び『サムライ・アスレチックス』は一切干渉しないということでようやく折り合いが付いたものの、ザイフェルト家の総帥が強硬的な意見を発表しようものなら〝合同大会〟を共催する者の間で訴訟に発展し兼ねないほど危うい状況であったのだ。

 想い出深い東京ドームで日米合同大会コンデ・コマ・パスコアが開催されると決定した瞬間に八雲岳センパイが弾けさせた笑顔を振り返った麦泉は「八雲岳は私たちを取り持ってくれた縁結びの神様ね」とキリサメに語るイズリアルから目を逸らし、誰の耳にも拾えないほど小さな溜め息を吐いた。


(一体、これのどこが『武士道』なんですか? 自分の背中にある掛け軸が社長の目には見えていないんですか? くにたちいちばんに書いて貰った『武士道』の三文字が……ッ!)


 独米間で燻り続ける〝企業戦争〟の火種を把握しながらえて樋口は『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』双方の視察をぶつけたのだ。世界最大の威力を誇る『天叢雲アメノムラクモ』の〝後ろ盾〟をイズリアルに突き付け、要らざる干渉を牽制しようという目論見である。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの実現に向けて、いよいよ友好的な関係を育んでいかなければならないときに生々しい〝企業戦争〟を持ち込むなど言語道断であろう。信頼を決定的に損ねるものであり、麦泉も柴門もあってはならないことと説得したのだが、に明るいという秘書のに背中を押されたらしい樋口は聞く耳を持たなかった。

 世界を代表するスポーツメーカー二社の〝代理戦争〟に『天叢雲アメノムラクモ』が巻き込まれる危険性すら樋口の思考あたまからは抜け落ちてしまったようである。これを見据える有理紗の瞳が冷ややかな軽蔑を湛えていたことを麦泉は鋭い胃の痛みと共におぼえている。

 イズリアルほどの傑物であれば、部下である今福ナオリにさえ「欲に目が眩んだ権力者なんて漫画の中だけの話だと思っていたわ」とまで扱き下ろされた樋口の企みなど見透かしていることだろう。露骨あからさまとしか表しようのない計略を仕掛けてくる人間に心など開くはずもあるまい。「私たち、『NSB』は八雲岳の呼び掛けに応じた」とまで彼女は言い切ったのだ。


(……つまり、岳氏と樋口氏が何かのきっかけで仲違いしたら合同大会の中止どころでは済まないというワケか。最悪、日米のMMA団体が戦争状態に突入するんだな……)


 自身が所属するMMA団体のルールさえ勉強の途中であるキリサメには格闘技界の内情など想像すら及ばない。そのような少年にさえ『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の間に――正確には樋口郁郎とイズリアル・モニワの間に穏やかならざる空気が垂れ込めていることは理解できるのだ。

 リトル・トーキョーで開かれた共同記者会見をキリサメはテレビ画面を通してしか知らないが、少なくともその映像の中に樋口郁郎の姿は確認できなかった。『NSB』側の演説台には〝団体代表〟のイズリアル・モニワが立ち、これに対して『天叢雲アメノムラクモ』側の声明を読み上げたのは〝統括本部長〟の八雲岳であった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表は渡米すらしていなかったのではないだろうか――ほんの一瞬だけ脳裏をよぎった想像はキリサメのなかで確信という名の輪郭を伴っていた。

 『NSB』は選手の心拍数や有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など最先端技術を結集して総合格闘技MMAそのものを新たな次元へと進化させている。物理的接触時に生じる衝撃を肉体への描画によって可視化するプロジェクションマッピングなどはSFサイエンスフィクションの世界と見紛うばかりであった。

 指貫オープン・フィンガーグローブや試合着に組み込まれた超小型のICチップで有効な打撃の命中を判定し、これによって加算される得点スコアや心電図という形で表示される選手の状態コンディションは戦略を組み立てる指標となるわけだ。

 これら全てを複合し、高次元の技術で操作・実行していくシステムは『CUBEキューブ』と呼称されている。樋口は日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを通じて必要機材から運用に係るノウハウまで根こそぎ盗み取ってしまおうと画策しているのだった。

 日本MMAの未来に遺すべき遺産レガシーが見込めなければ『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表は『NSB』に歩み寄ろうともしなかったはずだと岳は苦々しげに語っていたが、卑怯あるいは下劣の二字こそ似つかわしい思惑すらイズリアルは見破っているに違いない。

 養父と樋口社長――それぞれの名前を呼ぶ声にも明らかに温度差があった。

 改めてつまびらかとするまでもないが、樋口のほうでも自分の企みがイズリアルに見透かされていることなど承知しているだろう。その上で表向きは『NSB』と友好的に議論を重ね、好機が巡ってきたときには『ハルトマン・プロダクツ』をも利用する挑発行為で同団体を煽り立てるわけだ。

 もはや、キツネとタヌキの化かし合いにも等しい腹芸である。このような状況を日本では「盗人猛々しい」と言い表すそうだ――授業の一環として〝祖国〟のことわざを教え子たちに語って聞かせる亡き母の声がキリサメのなかで甦った。


「八雲岳を〝太陽のような男〟と呼ぶことには私も異論など唱えないわ。その輝きにどれだけ励まされたか、力を分けて貰ったか知れないもの。……『NSB』の組織改革に立ち向かったときだって眩いばかりの前向きさが一番の手本だったわ。陽の光は大地を育み、そこに根付いた人々に希望を示す――けれども、はげしい熱量パワーは時に蜃気楼を起こして私たちの目を惑わすこともあるでしょう? 八雲岳もその摂理からは逃れられないわ」


 人を惹き付けてやまない八雲岳という存在に頼り過ぎることの弊害を芝居がかった調子で指摘し、そこで言葉を区切ったイズリアルは深呼吸を一つ挟んだのちに水平線の向こうへと視線を巡らせた。

 イズリアルが目の前の少年キリサメから顔を背けたのは、彼の養父ちちおやを讃えながらも言葉の裏ではその存在こそが『天叢雲アメノムラクモ』の暴走を加速させる要因と決め付けてしまい、居た堪れなくなった為であろう――と麦泉は受け止めている。

 麦泉自身、気まずさを堪え切れずにイズリアルから顔を背けてしまったのである。『ハルトマン・プロダクツ』の威光を借りて『NSB』の団体代表を押し潰さんとする手口は樋口の独創ではない。彼の師匠であるくにたちいちばんが揉め事の解決に用いた常套手段なのだ。

 くにたちいちばんの背後に居並び、交渉相手を竦ませたのは世界最大のスポーツメーカーではなく日本MMAとも因縁浅からぬ指定暴力団ヤクザ――『こうりゅうかい』の構成員であった。一九八二年のことであるが、共に日本のプロレスを盛り上げてきた〝盟友〟であるはずの鬼貫道明までもが同様の手口で身辺を脅かされている。

 暗に樋口郁郎の所業を指してイズリアルは「日本の格闘技界は何時になったらくにたちいちばんの呪いから解き放たれるのか」と吐き捨てたが、その中にはの戦術も間違いなく含まれていることだろう。聡明な彼女イズリアルが一九八二年にるホテルの一室で起きた事件を把握していないはずもあるまい。


「……強過ぎる光が〝何か〟を捻じ曲げる――と、モニワ氏は仰りたいのですか?」

「どんな謎かけであっても読み解けるくらい貴方は頭が切れるでしょう? 挨拶を交わしてからまだ半日と経っていないけれど、……〝あんな事態こと〟があった後だというのに現在いまの『天叢雲アメノムラクモ』に呑み込まれていない理由が判ったわ」

「買い被りですよ、そんな……」


 そのイズリアルから促されてキリサメは養父の姿をただひたすらに見つめ続けており、二人は互いの背を向け合う恰好となった。

 今や陸前高田市の人々だけでなく自転車乗りライダーまでもがサイクロプス龍と一緒になって岳の周りを取り囲み、この上なく楽しそうに語らっていた。誰も彼も笑顔を輝かせているのだが、やはり一等強い光を放っているのは中心に立つ八雲岳その人である。

 この半日の間に教わった範囲でしか為人ひととなりも想像できないのだが、おそらくは新沼三太夫の周囲まわりにも大勢の人たちが集まり、大きな輪を作っていたのだろう。キリサメのなかで天保の偉人と養父が改めて重なった。


「貴方と『NSB』は契約関係にないし、仮にそうであっても代表の立場から無責任な助言だけはしたくないわ。選手が出さなければならない答えを操作コントロールするようなことは厳に慎むべきだもの」

「一瞬たりとも養父ちちから目を離すな――と?」

「蜃気楼とも陽炎ともたとえられる問題点もまた一つの真実よ。善いことも悪いことも全てを心に刻み込み、その背中にアマカザリ君――貴方の手が届くかどうか、自分自身に問い掛け続けるしかないわ。……〝答え〟は貴方だけのなかにしか生まれないのだから」


 イズリアルは八雲岳の全存在をただ単純に肯定することは誤りであり、彼の生き様からモノに基づいて己自身の頭脳あたまで結論を導き出すしかないとキリサメに諭したわけだ。

 ドーピング汚染によって傷付いた選手への対応ケアや失われた信頼の回復など『NSB』の歴史上、最も険しい試練を乗り越える為に八雲岳の姿勢こそ手本であったイズリアルの言葉だけに極めて重く、肩越しにを受け止めたキリサメも神妙な様子で首を頷かせた。

 直接的に言葉を掛けられた養子だけではなく実の娘も、イズリアルに勝るとも劣らない熱量で岳に焦がれる父の憧憬ことが理解できないわけでもない青年も、この場の誰よりも〝太陽のような男〟の眩しさを知っている麦泉も躊躇くことなくキリサメに倣っていた。


「……どこを目指せば良いのか分からなくなっても、着いた先で迷ったとしても、この海原のように大きな背中を追い掛けていれば決して〝道〟を踏み外すことはないわ。八雲岳の大きな背中はそれ自体がMMAへ携わる人間の〝道〟なのよ。日本もアメリカも関係なく、世界中の誰もが求めてやまない太陽そのもの……ッ!」


 己の言葉を噛み締めるかのように繰り返したイズリアルはキリサメたちに背を向けたままである。八つの瞳には岳の笑顔しか映っておらず、それ故に彼女イズリアルの変化にはVVただ一人しか気付かなかったのだ。

 己が紡ぐ一言一言は欺瞞に満ちているのではないか、伊達家が治めたこの地にいて恥ずべき振る舞いではなかったのか――祖先たる茂庭綱元ひいては伊達政宗が自らの目で見据えたであろう陸前高田の海に『NSB』代表としての行いが正しいか否かを問い掛けているような面持ちであった。

 母なる海はイズリアルを満足させる答えを運んではくれなかったようだが、それでも日本に起源ルーツを持つ黒い瞳は打ち寄せる波を捉えたまま微動だにしない。遥けき故郷ハワイにまで繋がっていくこの海に彼女が求めている〝何か〟を察したVVは背後ではなく真隣に並んで腕組みし、さながら〝共犯者〟の如き風情で同じ水平線へ視線を巡らせた。


「わざわざ目で追い掛けなくても無理矢理に視界へ割り込んできますよ。何しろ岳氏は大きな――果てしなく本当に大きな人ですから」


 自分を取り囲んだ人々からせがまれ、力道山が最も得意としたという〝伝家の宝刀〟こと空手チョップをサイクロプス龍と共に再現し始めた岳をただただ真っ直ぐに見つめ続けるキリサメに対し、イズリアルは背中を向けたまま何も

 それぞれが別々の〝何か〟を瞳に映し、異なる感情おもいを胸に秘めた三者の頬を同じ潮風が撫でていった。




 誰をも惹き付けてやまない八雲岳の為人ひととなりは、目的達成の為ならば手段を選ばない上に自らが預かった選手の運命さえ弄ぶ樋口郁郎と一蓮托生の関係である以上、その暴走に拍車を掛ける最悪の組み合わせだとイズリアル・モニワは言外に批判していた。

 苦言を呈するといった生易しいものではなく、控えめながら樋口への敵愾心を隠そうともしなかった。あるいは八雲岳という存在こそが樋口郁郎を日本格闘技界に君臨し、古巣の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンまでも思うがままに操る〝暴君〟たらしめているのかも知れない――誰よりも敬愛する男を一種の〝病理〟と見做さなければならないほど彼女イズリアルの憂慮は深いのだ。

 裁判所に正義の審判を求めるまでもなく格闘技という〝社会〟から抹殺されても不思議ではない樋口の暴挙さえ岳に対する数多の信頼によって見逃されている可能性を指摘したわけだが、こうした警戒心は樋口個人への嫌悪感とは異なる部分から染み出していた。

 三年前――二〇一一年にも『NSB』代表は樋口郁郎の所業に戦慄を覚えたのである。

 は日本格闘技界全体として被災地復興を支援する為のチャリティー事業と、新たなMMA団体の旗揚げが発表された記者会見にいて露となり、瞬く間に五大陸の隅々まで知れ渡った。

 今こそ力道山の魂と戦後プロレスが果たした役割に倣うべきと八雲岳が拳を突き上げ、に呼応する〝円卓の騎士〟が議論を交わしたじまプリンスホテルの小会議室に大勢の記者が詰め寄せたのは東日本大震災からひとつき余りが経過した四月一五日のことである。

 ホテル側の許可を得た上で壁に留められた『日本晴れ応援團』の白旗を背にし、不死鳥の刺繍も鮮やかな絨毯の上に立つ記者たちを迎えたのは日本格闘技界を代表する人々だ。およそ半月前の会合時と同じように誰もが厳かな出で立ちであり、真摯という二字を貼り付けた顔で椅子に腰掛けていた。

 それ故に室内の空気は神聖な儀式の如く張り詰めているのだが、その中でMMA日本協会の理事長だけが異彩を放っていた。濃紺の背広に同色のネクタイを合わせた装いは両隣の八雲岳やきょういしともと変わらない。それにも関わらず、彼一人だけが陽気に照明スポットライトを浴びているよう錯覚してしまうのだ。

 実際には口を真一文字に引き締めているのだが、小粋に口笛を吹きつつ飄々とした足取りで現れたかのような印象を記者たちにも与えていた。それでいて厭らしく感じないのは顔立ちに生来の人柄があらわれている為であろう。

 MMA日本協会理事長――おりはらひろゆきの存在感はあらゆる意味で群を抜いていた。

 元から栗色に近い毛髪を更にがねいろに染め、自ら拵えたスモーキークォーツのピアスを左耳に付けるという軽佻浮薄を絵に描いたような外見とは裏腹にヴァルチャーマスクの哲学に基づいて考案された〝総合格闘技術〟を現代いまに伝える後継者の一人でもあるのだ。

 所属団体が計画した東北復興支援のチャリティー試合マッチと重なった為、岳が呼び掛けた会合には代理を差し向け、自らは欠席せざるを得なかった。『日本晴れ応援團』と大書された白旗を目にしたのもこの日が初めてなのだが、「この場に集まったみんな、気持ちは一つですよ。復興支援は団結してこそ意味を為すのです」などと淀みなく語る姿を見せられた記者たちには最初から主導的な立場で参加していたようにしか思えないのである。

 無論、折原浩之は戦後間もない日本で力道山が果たした役割を現代の自分たちが担うという岳の主張も完全に理解し、好意的に受け止めている。日本にける〝総合格闘技〟の先駆者と並んで腰掛けた姿はそのまま賛同を意味するわけだ。

 生涯の〝道〟であるプロレスの門を叩くきっかけとなっただけにヴァルチャーマスクへの尊敬は岳のなかで鬼貫道明に向けるものを上回っているだろう。そして、憧憬に二字ではとても表し切れない感情を抱く相手ヴァルチャーマスクの直弟子が折原浩之なのだ。

 ヴァルチャーマスクが自らの経験と哲学に基づいて編み出した〝総合格闘技術〟は八雲岳たちが臨み続けるMMAの戦場リングとは似て非なる〝道〟なのだ。〝総合格闘技〟の先駆者に好敵手ライバルは多いが、『こんごうりき』のきょういしともや『NSB』のミッキー・グッドウィンとは比べ物にならないほど強い対抗心を折原浩之に抱いているのだった。

 日本格闘技界に記者もヴァルチャーマスクが分けた二つの〝道〟のことは承知しており、逸早く被災地へ赴いた八雲岳と復興支援のチャリティー試合マッチで闘う折原浩之を並べ、醜悪な〝手柄争い〟などと揶揄するネットニュースもあった。

 事実、岳は自分より先んじてチャリティー試合マッチを敢行した折原浩之に穏やかならざる感情まで垣間見せている。それでも記者会見の席では好敵手ライバルの一言一言に黙って耳を傾けていた。


「――この『ホンオウエンダン』を通してヴァルチャーマスクの足跡から枝分かれしていた〝道〟が三十余年を経て一本に交わるということでしょうか? 何人もの〝シューター〟がMMAの興行イベントに参戦していますが、ふたつの団体が手を組んだことはありませんよね」


 で折原浩之へ質問したのはこの日の為に来日したアメリカの記者――マリオン・マクリーシュである。同国の格闘技雑誌『ゴッドハンド・ジャーナル』の編集部に所属しており、主に『NSB』への取材を担当していた。

 格闘技記者としての名声が海外にまで知れ渡っている為か、それとも日本人の女性MMA選手と結婚間近の関係にある為か、マリオンが口を開くや否や室内が水を打ったように静まり返った。

 あるいはマリオンの質問ことばが衝撃波と化して皆を打ちのめしたのかも知れない。彼がヴァルチャーマスクという通称なまえを口にした瞬間に誰もが息を呑んだのである。改めてつまびらかとするまでもないが、『鬼の遺伝子』の一角であり、今も岳の心を捉えて離さない伝説的な覆面レスラーは何年も前に日本の格闘技界を去っているのだ。

 一方の折原はにこやかな表情かおを崩さず質問を受け、マリオンにピースサインでもって応じた。当然ながらこれは歓喜を表す仕草ゼスチャーではない。ヴァルチャーマスクの足跡から枝分かれた〝道〟を示していることは誰の目にも明らかであった。


「自分のお師匠さんも――〝シューター〟の生みの親も日本のMMAで旗振り役を担っていたから実際に〝道〟が分かれたワケではないんだよ。『バイオスピリッツ』に出場する気満々だったんだが、自分はどうにもチャンスに恵まれなくてね。そういう意味ではお隣のきょういし君とも同じ境遇というワケさ」

「八雲選手と決着ケリをつけるチャンスという意味ですね? 折原選手の不幸は『NSB』にとっての幸運とも重なりますよ。運命のすれ違いが続いていますが、グッドウィン選手との頂上決戦が実現したら日米どちらかの至宝が再起不能になるのは間違いありませんし」

「こうやってマクリーシュ君が『日本晴れ応援團』を盛り上げようと気を遣ってくれているのは心から嬉しいよ。二本に別れた日本総合格闘技の〝道〟が復興支援をきっかけにして一本に戻るというコトなら注目度ニュースバリューも桁外れだろうしね」

「今の言い回しからしますと、今日という日本総合格闘技にとって歴史的な日にはなり得ないと?」

次号つぎの『ゴッドハンド・ジャーナル』の表紙が決まったワケじゃないのなら見出しをこちらからリクエストしても構わないかな? 今日という日が――『四月一五日が日本総合格闘技にとって歴史的な日になる』ってね。いや、のちのちの格闘技史にまで語り継がれる一日とハデに打ち出してくれ。それくらい大きなプロジェクトなのだから、少しくらいゲタを履かせても罰は当たらないだろう?」


 格闘家の中にはインタビューを担当する記者に不躾な態度を取り、無闇に威圧する者も少なくない。挑発を含んだ大言壮語ビッグマウスもまたパフォーマンスの一つとしてファンを楽しませているのだが、これらの類例に対して折原浩之は実に不思議な男であった。

 MMA日本協会理事長という肩書きを背負いながら記者にも砕けた態度で受け答えしているのだ。ともすれば礼儀を弁えない振る舞いのように見えるが、彼が四〇代に手が届くという年齢には似つかわしくないほどおどけた調子で言葉を重ねるたび、俄かに張り詰めた空気が緩やかに和んでいくのである。

 岳は無鉄砲にも見える行動をもってして人を惹き付け、その勢いに巻き込んでいく人間であった。これに対して折原浩之は隣で話しているだけでも心が賑やかになっていく人間である。今は不死鳥の絨毯を二つの太陽が照らしているわけだ。

 MMA日本協会理事長としての〝顔〟だけではなく折原浩之はヴァルチャーマスクが拓いた〝道〟の牽引役である。何事にも無邪気な岳とは異なり、陽気な立ち居振る舞いの一つ一つに打算を含んでいることだろう。

 そうして心を掴むのが常套手段というわけだ。先に述べた通り、二本ではなく最初から一本の〝道〟であったと示すかのようにピースサインから握り拳に変え、僅かな〝間〟を置いた後に右の人差し指一本を立て直すという仕草だけでマリオン・マクリーシュ以外の記者たちにも次号つぎに掲載する記事の見出しを決めさせたはずである。

 『日本晴れ応援團』の旗を振るのは自分であり、ひいてはMMA日本協会であることを不特定多数に刷り込ませる目論見に違いない。格闘技雑誌といったメディアはを〝事実〟として国内外へ知らしめるには極めて有効な手段であった。


「つまり、折原が言いたいのはオレたち全員みんなの〝道〟は同じ目的に通じるって――」

「――日本MMAの恩人が拓いてくれた二本の〝道〟はいつかきっと一本に交わることでしょう。この国を代表するとの提携はとしても願ってもない幸運です。その実現に向けて新団体を充実させていくことこそ急務だとは考えていますからね。肩を並べようというときに片方だけ爪先立ちで背伸びしていたらシマりませんもの」


 好敵手ライバルの言葉を引き取ろうと身を乗り出した岳を制し、その声をも遮ったのは慇懃無礼を絵に描いたような態度でマリオン・マクリーシュに笑いかける樋口郁郎であった。

 彼は『日本晴れ応援團』の発起人であるはずの八雲岳やMMA日本協会の会長である岡田健を差し置いて最前列の中央に鎮座していた。傍目には〝同志〟一同を従える首領のように見えることだろう。

 差し向かいの記者たちは幾度となくカメラのシャッターを押しているが、会見の写真がいずれかの紙面に載れば、読者の誰もが樋口郁郎こそ日本格闘技界に君臨する最高権力者と錯覚するだろう。普段のだらしない風貌とは異なって今日は下ろした立ての背広に身を包んでおり、印象操作を画策していることは明白であった。

 彼の左隣に腰掛けた有理紗は虚無としかたとえようのない表情である。ひとつき前の会合から引き続いて列席しているギロチン・ウータンらも樋口が口を開くなり顔を強張らせており、話の腰を折られてし口を作った岳や「お手並み拝見」とばかりに薄笑いを浮かべている折原のように感情を真っ直ぐに晒す者のほうが珍しいくらいだ。

 鬼貫道明やとくまるでさえ現在いまは憂鬱という二字を顔面に貼り付けている。それだけに「お前の言いたかったこと、自分にはちゃんと伝わっているから」とでも言いたげな視線を岳へと送るきょういしとも表情かおが良くも悪くも際立っていた。


は東北に元気を届けるべくMMAのリングに集結し、ここに一つの宣言を行いました。折原君の言葉をお借りすると、まさしく『のちのちの格闘技史にまで語り継がれる一日』でしょう。ご承知の通り、『ハルトマン・プロダクツ』もに全面協力してくれることを約束してくださいました。海の向こうにまで〝同志〟の輪が広がっている――その事実が私は日本人として誇らしい限りです」


 樋口郁郎は幾度も「我々」と強調しているが、厭味のようにも聞こえる連呼をもってして〝同志〟たちの主導権はMMA日本協会ではなく己が掌握していると印象付けたいのだ。

 しかも、「我々」の一言は『日本晴れ応援團』のみを指しているのではない。記者会見は復興支援事業プロジェクトの発足だけではなく、『バイオスピリッツ』の系譜を継ぐ新しいMMA団体の発表も兼ねているのだが、樋口はその代表として名乗りを上げたのである。


の取り組みに賛同してくださったのは『ハルトマン・プロダクツ』だけではござません。数多くの格闘技番組を手掛けてきた映像制作会社や衛星放送パンプアップ・ビジョンとも提携し、黄金時代かつての『バイオスピリッツ』にも劣らないスポーツコンテンツをお届けすることをハッキリと約束致しましょう」


 余人の口出しなどは許さないと言わんばかりの勢いで樋口は新団体の概要を語り続け、深呼吸を挟んだのちに運営の一切を取り仕切るスポーツプロモート企業を立ち上げること、更に興行イベントでは『昭和』を代表するレスラーの鬼貫が解説を担当することまで言い添えた。

 『日本晴れ応援團』の旗を誂えたのはMMA日本協会であったかのような態度を取り、記者たちに既成事実を植え付けるつもりであるとしか思えない折原を牽制しようというわけだ。

 情報戦にも長けた樋口だけに記者たちの興味を最も強く引き寄せることができる好機タイミングを狙っていたのだろう。


「こうして日本を代表する格闘技団体が一堂に会したわけですから、それを生かせる形で何か〝大きなコト〟をやれたら面白いとも考えていますよ。〝夢の競演〟ほど胸躍るものはございません。元気を分かち合える輪が広がっていくよう自分も努めて参ります」


 いずれは『日本晴れ応援團』へ参加する競技団体との合同大会をと樋口は匂わせている。これによって日本格闘技界の最高実力者たる存在感を知らしめたわけだが、「船頭多くして船山に上る」ということわざの通り、小会議室に詰め寄せた記者の何割かはこの場の誰が本来の発起人であったのか、完全に見失った様子である。


「逸早く避難所の皆さんに救援物資を運び、現地の状況をご自分の目で確かめた八雲選手が被災地での開催にこだわったと伺っておりますが、具体的にはどのような計画を組まれておられるのでしょうか?」


 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記者という立場を名乗り、樋口郁郎を指名した上で新団体の興行形態について質問したのはいまふくナオリであった。

 天井を叩いたどよめきからも察せられるが、傍目には樋口への加勢とも映ったことであろう。実際に今福当人の声にも感情きもちといったものが全く宿っておらず、新団体の発表を後押しするよう上役から厳命されてきたことは瞭然であった。

 樋口郁郎は同誌の編集長を長らく務めており、その座を退いた後も大きな影響力を保ち続けているのだ。


一同の思いを背負って先駆けた彼――岳ちゃんの足跡を辿るような形で東北各県を順番に回り、チャリティー興行イベントを実施する予定となっています。復興支援を妨げることがないよう既に渉外部も自治体との交渉を進めていますよ。開催地と縁の深い社会人プロレスともがっちりとスクラムを組んでいきますし、前身団体バイオスピリッツ以上に地域交流へ力を入れたいと考えています」


 チャリティー興行イベントを通じて社会貢献に注力する『こんごうりき』とも異なる方向性を示した樋口は「被災地を元気にすることがに課された使命ですから」と胸を張って回答を締め括った。

 樋口に礼を述べる今福の声が酷く虚ろであったことは言うまでもあるまい。ライバル誌の記者のように質問を連ねて更なる情報を引き出すこともなく、たった一度のやり取りで口を閉じざるを得なかったのは前編集長の支援のみを言い渡されている為であろう。

 報道の種類は別にして取材とは記者にとって命綱にも等しいものである。この状況を今福ナオリが屈辱的な仕打ちと感じていないはずがなかった。

 一個人の感情が道端の小石同然に蹴飛ばされた恰好であるが、〝暴君〟ともたとえるべきくらい影を日本格闘技界に落とす樋口を公然と批判する者は一人もいない。

 一つの事実として新団体の旗揚げには〝暴君〟の力が欠かせなかった。ひとつき足らずという短い準備期間で組織編制を整えるには相応の人脈を備えていなければならない。競技団体の場合はスタッフだけでなく出場選手の招聘までに加わるのだ。いくら八雲岳が日本MMAの先駆者であろうとも独力ではとても実現まで漕ぎ着けなかったはずである。

 その上で〝暴君〟は八雲岳こそが『日本晴れ応援團』ひいては新団体の旗頭である旨を強調した次第である。今福に続いて挙手した記者から前身団体バイオスピリッツを破滅に導いた不祥事が再現されるのではないかとただされた樋口は「この岳ちゃんが統括本部長を務める限り、あんな間違いは二度と起きませんよ」とも断言した。


「皆様のご懸念は尤も至極です。反社会的勢力の介入を水際で、そして、完全に遮断できるよう過去最高のセキュリティーを構築している最中です。……しかしながら、には八雲岳がついている。東北の現実を胸に刻んだこの男の思いを裏切ることなど誰にできるでしょう? 彼の思いに反することは東北の皆様を傷付けるのと同じでしょう」


 この回答一つだけで疑いなく納得してしまえるほど八雲岳に対する格闘技関係者の信頼は厚い。彼が前身団体バイオスピリッツに続いて新団体でも統括本部長に就任すると発表されたのはつい先程のことだが、その際にも祝福の拍手が起こったのである。

 岳は記者会見にも共に東北を旅した無地の陣羽織を背広の上から纏っている。帰宅後に手入れもしなかったのか、避難所で付着した泥や油は水玉模様の如く大小のシミ汚れと化していた。もはや、専門業者クリーニングに依頼しても完全に拭い取ることは不可能であろう。

 しかし、こそが八雲岳という男の足跡を揺るぎない〝事実〟として皆に伝えているのだ。記者に同行するカメラマンも日本格闘技界を代表する人々が入室し始めるや否や、一斉に陣羽織姿へとレンズを向けていた。被災地をたすけるべく奔走したことをこの場の誰もが称賛している証左あかしとも言い換えられるだろう。

 つまるところ、樋口は双方の絆とも言い換えられる心理すら利用したわけだ。詐欺を生業としていたなら今頃は国際指名手配を受けるような重罪を犯していたことだろう。この恐るべき男にとっては盟友が大切に扱う陣羽織すら人の心を誑かす為の道具に過ぎないのだった。


が取り組もうとしているのはチャリティーです。持てる力の全てを復興支援に注ぐ所存でおります。避難先でままならない生活を送っておられる皆様を元気付けようというときに過去の過ちを再び繰り返すなんて……日本人として――いいえ、人間としてそのような真似ができますか? 私にはできませんよ」


 質問に対してえて質問を返し、これをもって樋口は前身団体バイオスピリッツの汚点をこの場で二度と持ち出さないよう皆に警告したわけである。

 改めてつまびらかとするまでもないが、くだんの記者は顔から血の気が失せていた。前身団体バイオスピリッツの解散理由へ反社会的勢力が絡んでいるだけにチャリティーという〝大義名分〟を掲げてもテレビの地上波放送復帰には至らなかったのか――とも質問していたのだが、樋口がその回答を避けたことにも気付いていない様子であった。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記者に対する回答の中でも東北各県にける開催に言及していたが、選手を含む興行関係者の安全と被災地の迷惑を一挙に解決し得るすけよりの献策はとうとう採用されなかったわけだ。日本のブラインド柔道を代表するパラリンピアンの姿が記者会見の席に見受けられないことこそ何よりの証拠であろう。

 薄笑いの表情を崩さないまま樋口の様子を横目で見据える折原理事長は佐志の不在が意味することを理解しているのだ。ひとつき前の会合にて如何なる内容ことが議論されたのか、岡田会長たちから聞かされていないわけがない。


「……今し方、樋口さんがお話しになった通り、八雲さんの思いが我々を――『日本晴れ応援團』をこの場に集結させたことは間違いありません。本日、旗揚げが発表された団体は勿論のこと、『メアズ・レイグ』や『こんごうりき』、『大王道プロレス』など競技や団体の垣根まで取り払って東北復興をたすけて参ります。賛同団体は興行イベントで得られた収益の一部を義援金とする他、選手主導の募金活動も積極的に行う予定でございます」


 このままでは樋口の独壇場となり、記者会見そのものが新団体の喧伝に利用されてしまうと危惧した有理紗は、軌道修正を試みるべく話が途切れた瞬間に割り込んで『日本晴れ応援團』という事業の概要を記者たちに改めて訴えた。

 は日本格闘技界が一丸となって被災地の復興支援に取り組むチャリティー事業なのである。どれほど強い影響力ちからを握っていようとも一個人の思惑に振り回されるわけにはいかず、岳の呼びかけに応じた皆が主体性を持って行動していることを強調したのである。

 賛同団体より集められた義援金はMMA日本協会が管理し、然るべき機関を通して被災地へ送る体制になったことも有理紗は言い添えた。

 彼女は女子MMA団体『メアズ・レイグ』の代表であってMMA日本協会の理事ではないが、透明性の高い組織こそ事業の舵取りに最も相応しいと考えていた。社会貢献に尽力してきた『こんごうりき』も財政難が悪化し、外国シンガポールのスポーツファンドとの交渉が始まったという風聞が格闘技関係者の間に流れている。信頼性という点では些か心許ないのだ。

 前身団体バイオスピリッツの崩壊を味わった樋口だけに『こうりゅうかい』のような指定暴力団ヤクザが再びMMAに入り込むことは決して許さないだろう――が、〝ファンの善意〟を託せるほど信じ切れないのも動かし難い事実なのである。


「八雲さんが鹿しまじんぐうで書いて頂いた『日本晴れ応援團』という文言を意匠化し、これを刷り込んだ品々を興行イベント会場で販売致します。また試合中に使用されたグローブなども選手の許可を得た上でネットオークションへ出品することになりました。これにつきましては全額を義援金に充当致します。是非ともご協力を頂きたく」

「――つまり! お為ごかしの謳い文句なんかではなくて、皆が皆、全身全霊で手を取り合っているワケですか⁉ 全員の元気を東北に送りたいとッ!」


 思わず順番に割り込んでしまったことを周囲に詫びつつ、今福ナオリが有理紗に対して質問を重ねた。前編集長へ加勢したときとは全く異なり、前列の椅子に腰掛けた男性を押しのけそうになるくらい上体を傾け、声にも活力が漲っている。上役の意向から外れた行動であるが、これこそが記者としての本懐なのだ。

 その思いが伝わったのであろう。国を隔てたライバル誌のマリオン・マクリーシュは言うに及ばず、誰一人として今福の割り込みを責めなかった。

 有理紗もまた「日本格闘技界われわれを動かしたのは八雲さんです」と強く頷き返した。樋口郁郎でも折原浩之でもなく、八雲岳こそが〝同志〟たちの中心にるのだと一等強く示したのだ。


「八雲さんの情熱を受け取った日本格闘技界われわれは止まりません。『日本晴れ応援團』も団体間の協力体制を意味する言葉でもないのです。深く傷付いた人たちへ寄り添いたいという一人一人の決意を束ねたモノなのです。そして、その精神たましいは戦後の復興を支えた――」

「――力道山ッ!」


 有理紗と今福ナオリのやり取りへ耳を傾けている内に熱い感情おもいが堪えていられないほどに高まったのだろう。一人一人の決意を束ねたモノが『日本晴れ応援團』という一言に衝き動かされた岳は〝日本プロレスの父〟と畏敬される男の通称なまえを叫びつつ椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、窓際に三脚の台座でもって立てられている旗の前まで駆け寄ると気合いの吼え声と共に竿を掴んだ。

 鹿しまじんぐうの祭神にして武神・たけみかづちのおおかみの加護を受け、東北復興支援を誓い合う証とは別に用意された新しい旗である。『日本晴れ応援團』の白布が横断幕のように広げられているのに対しては正方形だ。


「有理紗の言ったようにオレたちは一人一人みんなが力道山なんだ! 焼け野原になった戦後の日本を空手チョップで元気付けた偉大な魂を胸に秘めてオレたちはつ! ち上がるッ! 力道山の復活を宣言する為、オレたちは今ここに集結したんだ! 半世紀が過ぎようが、教え子の鬼貫道明が赤いちゃんちゃんこの似合う爺様になろうが! 力道山の魂は永遠に不滅だァッ!」

「おいっ、余計な一言を混ぜるな、岳! 孫はお前、『お祖父じいちゃんは幾つになっても強くてカッコ良い』と褒めてくれるんだぞ⁉ 『鬼の遺伝子』の魂も不滅と言えっ!」


 岳の手によって台座より引き抜かれ、日本格闘技界の関係者と招かれた記者――その双方の最前列に腰掛けた人々の頭上を掠めるようにして振り回される旗は美しい青空を映したようないろである。

 地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の代表はひとつき前の会合に招かれておらず、それが為の記者会見にも列席していない。同団体は真っ赤な染糸で火山の紋様が刺繍された黒地の旗を掲げ、をロゴマークとしても使用しているのだが、色合いから意匠に至るまで好対照を成しているのだ。

 轟々と風を切って翻るたび、そこに青空が映されるのだった。

 小会議室の天井は高く、岳が両腕を突き上げたところで旗の先端がシャンデリアを叩いてしまうことはない。だが、竿を振り回す勢いは竜巻さながらに凄まじく、手のひらに汗が滲めば両の五指からすっぽ抜けてしまうかも知れなかった。陣羽織の裾も捲れ上がるのだから猛烈な遠心力が作用していることだろう。

 万が一、振り落とされたときには壁や窓ガラスに直撃し、容易く突き破るはずだ。会見の妨げとならない位置に控えるホテルの従業員が戦々恐々とした面持ちになってしまうのは無理からぬことであった。

 実際、他の出席者よりも背の高い鬼貫の眉間には幾度となく竿がぶつかりそうになっている。樋口などはただでさえ薄い頭髪が容赦なく吹き付ける烈風かぜによって散らされてしまわないよう両手で庇いつつ、おどけた調子で悲鳴を上げた。

 その一方、きょういしともは青い旗が頭上をすり抜けるたびに目を輝かせている。左右の五指を胸元で組み合わせ、感嘆の溜め息を熱く洩らす様子は髭面の中年男性でなければ〝恋する乙女〟そのものだ。

 MMA日本協会の岡田会長と吉見副会長も岳に呼応し、轟々と風を切る音にも負けない声量でもって「力道山ッ!」と雄叫びを上げていた。無論、両雄は揃って左右の握り拳を腰に押し当てている。

 は現存する写真の多くで力道山が披露している『アーム・アキンボー』であるが、その仕草ポーズの解説を小会議室にる誰一人として必要としていなかった。

 この場には心から格闘技を愛する者たちが集まっているのだ。

 それはつまり、くにたちいちばん最後の弟子を称する〝暴君〟の実態を誰もが承知しているという意味である。だからこそ樋口が〝同志〟の主導権を巡ってMMA日本協会理事長を牽制し始めるなり重苦しい空気が垂れ込めたわけだが、青い旗が起こした烈風かぜは記者たちの胸に溜まった陰鬱な靄まで吹き飛ばした次第である。


「オレたちだけじゃねェ! 駆け付けてくれた記者のみんなも、テレビの前で東北の無事を祈り続けているお茶の間のみんなも――地球上の全員みんなが力道山なんだよッ! この旗は全ての力道山たちの思いを受け止めて翻るんだッ!」


 新団体の運営企業――『サムライ・アスレチックス』に所属することとなった麦泉は会見のとして立ち回っていた。椅子にも座らず小会議室の片隅に控えており、青い旗が風を切り裂き始めた直後から心配の二字を顔面に貼り付けていたのだが、現在いま八雲岳センパイの横顔を誇らしげに見守っている。

 記者たちも同様であった。今福は己に課せられた使命をも忘れて立ち上がり、青い旗に向かって拍手を送り始めた。マリオン・マクリーシュが分厚い手帳を脇に挟んで彼女に続くと他の面々も左右の手を打ち鳴らし、たちまち室内は祝福の音で満たされた。

 いつまでもまない拍手へ自己主張の強い外見には似つかわしくないほど静かに耳を傾けていた折原浩之は椅子に腰掛けたまま右の五指を伸ばし、これを内から外へと水平に振り抜いた。

 動作こそ控えめであったものの、それは紛れもなく力道山が最も得意とし、街頭テレビに群がる戦後の日本人を沸騰させた伝家の宝刀――空手チョップである。〝日本プロレスの父〟の復活を連呼する好敵手への揶揄でないことは柔らかな微笑みが明かしていた。


「力道山の空手チョップは戦後日本に現代いまへと続く未来の道を切り拓いた。『天叢雲アメノムラクモ』はその精神たましいつるぎに宿し、次なる未来を子どもたちに約束するべく全ての闇を斬り裂く――時代を超えて閃く希望の一振りになってやろうじゃねェかッ!」


 肩に竿を担ぐ恰好で岳が掲げた旗は青地の中央に白い雲の塊が染め抜かれていた。大きなむらくもである。その中心を三種の神器の一つとして伝わる諸刃の神剣が垂直に貫いているのだ。

 クサナギノツルギなる別名を持つ伝説の武具と真っ白なむらくもを組み合わせた紋様には団体名が漢字とアルファベットの上下二段で添えられている。

 『天叢雲アメノムラクモ』――かつての日本で総合格闘技MMAという〝文化〟の黄金時代を築いた『バイオスピリッツ』の系譜を継ぐ新しき競技団体である。

 名付け親も岳であった。格闘技の可能性は空のように果てしない――全ての格闘家が目指すべき理念と、武の顕現たる伝説の神剣を引っ掛けた団体名なまえであるが、旗のいろや意匠は東北で見上げた青空をそのまま映したものである。

 そこに託した思いは改めて確かめるまでもないだろう。


「――我々の知る八雲選手は! 八雲岳というレスラーは指図だけして人を動かすんじゃなく! 信念も闘魂もご自分の行動で体現するひとでした! 今度もお膳立てだけやって高みの見物を決め込むワケありませんよね⁉ 八雲岳のいないリングで総合格闘技MMAが盛り上がるハズもありませんッ!」


 取材用のノートを椅子の座面うえに放り出し、これ以上ないくらい前のめりとなった今福が現役復帰の有無を岳にたずねた。記者として質問するつもりであったのだろうが、途中から個人としての気持ちが上回ったらしく、総合格闘技MMAを愛する全て人々の代弁が先走ってしまった。最後は願望の発露で締め括ったようなものである。

 ひとつき前に開かれた会合以来、八雲岳が再びリングに帰還かえってくるという噂が国内外の格闘技関係者の間で実しやかに囁かれていた。樋口郁郎が仕掛けた情報工作の一環ひとつであったのかも知れないが、真相はともかくとして大勢の心を沸騰させたことは間違いあるまい。

 質問者の今福ナオリに対し、一足早く答えを示すかのようにきょういしともは相好を崩したが、彼一人が昂っていたわけではなく次の瞬間には誰もが同じ表かおに変わっていった。


「オレがやらなきゃ誰がやるッ⁉ オレとりたいヤツは出てこいやッ!」


 垂直に立て直した竿のいしづきでもって床を打ち、一等大きな深呼吸を挟んだのちに八雲岳は自らの現役復帰を宣言した。淀みなき大音声であった。

 その直後に不死鳥の絨毯の上で大歓声が爆発したのだ。雲間より差し込む陽の光を仰ぐかのように誰もが決意の一言を待ち望んでいたのである。

 遥かなる青空を映した旗は〝力道山の復活〟とたとえることが最も相応しい場景を優しく見守っていた。


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