喪失を攫う波、頬の雫を撫でる風。

空唄 結。

第1話

 汗ばむ額を拭う振りをして、そっとあなたを見るのが、好きだった。盗み見たあなたはいつだって、キラキラの中心に立っていて、私なんかが届くはずもない場所にいて、そんなあなたを眺める度に私の心の中はまるでサイダーの泡が弾けていくみたいになるのだった。ぷちぷち。しゅわしゅわ。痛いほどの跳躍とほんのり甘くて不健康な感覚。そういえば私は昔から炭酸のあの泡が怖かった。骨が溶けると脅された幼少期を引きずったまま、今に至る。もしかしたら私は、あの人に齎されるしゅわしゅわに溶かされてしまいたいのかもしれない、なんて。


***


「ねぇ」


 だから本当に、驚いた。キラキラのあの人が、高遠くんが目の前にいて、私を見ているんだもの。思わず後ろを振り向く。


「いやいや、君だよ君」

「わ、私……?」

「君以外いないでしょ」


 変な子、と彼は笑う。私を嘲笑う感じではない。心底楽しそうに、私まで楽しくなれるほどに、カラカラと。胸の中でまた炭酸が弾けて、泡が昇っていく。しゅわしゅわ。


「わ、私に何か……」


 あー、そうだった、と高遠くんは息を吐く。なんか笑っちゃった、ごめんね、気を悪くしてない? とんでもないです、と返すのが精一杯だった。魔法にでもかかったみたいに口が働いてくれない。


「君に頼みたいことがあるんだ」


***


 憧れの人の頼みなら、なんだって叶えてあげたいと思ってしまうのは、乙女ゆえの思考なんだろうか。特に恋する乙女特有の。……自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいから止めておこう。


「ちょっと、聞いてる?」

「うわっ、と、はいはいっ!」


 もし、過去に戻れるとしたら。私は迷わず、何を頼まれるんだろう、と胸を高鳴らせた自分に忠告してあげたい。


「こういう花だってば、こういうの。しっかり調べて」

「あ、はい、分かった……!」


 あの日、高遠くんは私に頼み事をした。こういうの誰に聞けば良いのか分からなくて、とはにかんだ笑顔で。


『佐伯さんって花に詳しいんだって?』

『詳しい、というか、好き、というか……』

『確か園芸部だって』

『う、うん、なんで知ってるの……?』

『なんでってクラスメイトだろ』


 もう本当にその時の笑顔といったら。一生忘れないフォルダに即保存、パスワードつけてロックをかけるくらい、特別に見えた。


『あのさ、俺、弟がいてさ』


 弟? と思った時にはもう後に退けないことを悟った。


『頼む! 弟の話を聞いてやって欲しい!』


 そりゃね。思いましたとも。あなたの頼みなら、出来ることを何だってやってみせるわ! なんて。柄にもなく。

 でも。だけど。


「ねぇ、調べた?」

「あっ、……まだ」

「はぁ? まだ? ほんと使えない」


 こんな……こんなに生意気な子のお世話をすることになるなんて!


***


『弟がさ、花を調べたいっていって』

『えっと、じゃあ図鑑とか……?』

『うん、俺もそう言ったんだけど、それじゃ良く分かんないって怒られちゃって』

『怒られる? 高遠くんが?』

『そうなんだよ。俺より弟の方が強いんだ、うち』

『そうなんだ……でも何だか分かるな。高遠くん、優しそうだから……』

『そう? 何だか照れるな。有難う佐伯』

『えっと、その、う、うん……』

『それでさ、兄ちゃんの知り合いに花に詳しい人いねぇの、とか訊かれちゃって』

『うん……?』

『それで、探しておくって答えちゃって』

『……もしかして……』

『そう。それで佐伯さんに行き着いたんだ』

『……私、人に教えられるほど詳しくはないよ……自分が好きで、勝手に、気になることだけ、ほんの少し、図鑑捲って見てるくらいだし……』

『それでもいいんだ……!』

『でも……』

『やっぱり……迷惑、だよな……ごめん』

『ち、違うよ! 迷惑だなんてそんなこと……!』

『じゃあ……!』


***


 あの時の、高遠くんのきらきらした顔を思い出すと、幸せな溜め息が込み上げてくる。なのに。隣にいるのは、その高遠くんに良く似た顔で、高遠くんとは似ても似つかない不機嫌な顔しかしない弟くんなのだ。さっきの溜め息とは真反対のものが口の中に充満する。


「あのさ」

「あっ、ごめん……私ってばまた……」


 慌てて弟くんの指示を思い出す。高い木に咲いた白い花を調べたい、だっけ。


「あのさ」

「えっと、今調べて」

「あんたさ」


 花の図鑑を捲る手を握られ、突然のことで驚いて振り払ってしまう。弟くんの傷付いた顔に、高遠くんの顔がダブって胸が痛くて堪らなくなる。


「ご、ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて、びっくりして」

「いや……いい……」


 ああ。どうしてこんなことに。喉の奥で炭酸の泡が弾けているみたいで、涙が出てしまいそうなほど、痛かった。

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