六.死生命有り、富貴天に在り(弐)
◆◆
ユンジェは養蚕所の隅で、藁の束を捩じっていた。
リオの頼まれた藁田を編みなおすため、壊れていない藁田をお手本に、それらしい形を作る準備をする。
ずいぶんと使い古されているのか、編み直してほしい藁田は一つや二つではなかった。
けれども、形を見る限り、ユンジェでも編むことができるものだったので、足で藁を固定し、手早く編んでいく。
傍ではリオが見守っていた。面白くもないだろうに、飽きずに手元を眺めてくる。
「ユンジェ、本当に器用ね。藁田って編んだことないんでしょ?」
「お手本さえあれば、なんとなく、どこをどうすれば良いか分かるよ。ずっと藁に触ってきたしな」
がさがさ、と藁の束ねる音が響く。会話が途切れ、静まり返った。どうしてだろう。会話が続かない。考えてみれば、一年ぶりの再会なのだ。妙に緊張してしまう。
「ねえ、ユンジェ。ティエンさんって優しい?」
先に静寂を打ち破ってきたのはリオだった。ユンジェは一つ頷く。
「優しいよ。ちょっと、気難しいところもあるけど、心を開いたらすごく優しい」
「そっか。私ね、初めてティエンさんに会った時……ちょっと怖いなって思ったの。声を掛けても、すぐ背を向けちゃうし、見てくる目も冷たかったから」
それはきっと、ティエンが警戒心を丸出しにしていた証拠だろう。ユンジェは苦笑いを零した。
「ごめんな。ティエンも悪気があったわけじゃないんだ。ただ、ちょっと人間不信なところがあってさ。特に兵士とか、王族とか、そういうのに関わりのある奴だと態度が悪くなるんだ」
それはユンジェがどうこうしてやれる話ではない。少しずつ、彼の心の傷が癒えてくれたら良いのだが。
「私達は大丈夫なの? 奥さんって勘違いしてたけど、私のこと怒ってなかった?」
それを怒りたいのは、彼ではなく、ユンジェの方である。口が裂けても言えないが。
「怒ってないさ。俺の知り合いってのもあるだろうし、リオ達はティエンに優しくしてくれた。あいつ、人から親切を受けたことが殆ど無くてさ……だから、夕餉に時間はすごく楽しそうだった。リオ達と食事ができて、嬉しかったと思うぜ」
そういえば、夕餉のティエンはよく喋っていたと思う。
それに伴い、食事もいつもより多めに取っていた。それだけ彼女達に心を許していたのだろう。
「唐辛子で味付けされた煮魚があったろ? ティエンの奴、とくにそれがお気に入りだったみたいでさ。汁まで綺麗に飲み干していたよ。そんだけ美味しかったんだろう」
ユンジェもじつは、あれが一番美味しくて、汁まで飲み干している。もう一度、食べたいな、と思って仕方がない。
「ふふっ、それなら良かった。今度はユンジェとティエンさんの好きな物を作らないとね」
叶わない話だろう。
ここを発てば、ユンジェとティエンは遠いところへ行く。紅州をあてもなく彷徨うかもしれないし、べつの土地に行くかもしれないし、この国自体にいないかもしれないのだから。
リオは察しの良い娘だ。すべてを理解できずとも、話の流れで、きっと分かっていることだろう。なのに。
「ユンジェ、約束よ。必ずまたここに来て。遠いところへ行っても。追われる身のままでも。時間が掛かっていいわ。ティエンさんと一緒に、私のご飯を食べに来て」
手を止め、彼女を見つめる。リオはあどけない顔で笑った。
「私にはユンジェが麒麟さまの使いだとか、ティエンさんが王子さまだとか、難しい話はよく分からないわ。でも、貴方達が大変な目に遭っていることは、とても分かったの」
そんな友人に何ができるか、リオは考えた。
よく考えて、導きだしたのはご飯を一緒に食べる約束をする、であった。
ユンジェもティエンも追われる身の上、誰も彼らを引き留める者はいない。
毎日が野宿で、気の休まる時もない。捕まれば殺されるか、利用されるか、だなんて聴くだけでとてもつらい話だ。
リオには二人を助けることなんて、大それたことはできない。
けれど約束を結んで、二人の訪問を待つことはできる。無事を祈ることはできる。
だから約束がしたい。追われる身の二人にも待つ者が、一緒に食事をしたい者がいるということを、どうか忘れないでほしいのだ。
「ジセンさんは口癖のように言うの。温かなご飯をみんなで囲んで食べれば、気持ちが通じ合うって。今以上に仲良くなれるって。もっとみんなでご飯を食べましょう。私、もっと料理の腕を上げておくから」
「リオ……」
「貴方達の話は、とても悲しいわ。死ぬとか、利用とか、殺すとか……そんな暗い話ばっかり。それを胸に抱えてこの地を離れるより、ご飯の約束を思い出した方が楽しいでしょ? あったかくなるし、生きようと思えるし、きっとお腹もすくわ。それを二人で笑い話にしてくれたら、私もすごく嬉しい」
顔を覗き込んでくる彼女が、いつまでも待っていると微笑む。
いつかまた、ここを訪れた二人が、旅の思い出を歌うように語ってくれることだろう。二人に家族ができたら、紹介してもらいたいし、自分に子どもができたら、その子達を紹介したい。
そんな明るい約束を結びたいと、リオ。
「ユンジェとティエンさんを、私ずっと待っているから。ね、約束」
じっと静聴していたユンジェは、間をおいて大きく頷いた。
「分かった、約束だ。俺とティエンはまた、リオの手料理を食べに来るよ。今日は酒が飲めなくて残念だったけど、今度は一緒に飲もう。俺、お土産に買ってくるから」
満足気に頷き返すリオを目で笑い、ユンジェは「ありがとうな」と、礼を言って止めていた作業を再開した。
肩の力が抜けていくのが分かる。
「リオのおかげで、なんだか気持ちが軽くなったよ。俺、心のどこかで気張っていたのかもしれない。こんなに穏やかな夜は久しぶりだ」
「麒麟の使いは大変?」
「よく分からないんだ。正直、ティエンの懐剣になったことも、麒麟の使いになったことも、未だに半信半疑。でも心に決めているんだ。俺はティエンを生かす。周りがあいつの死を望もうが、俺はあいつに生きてもらいたい。だから守ろうって」
それはティエンの懐剣でなくとも、麒麟から使命を授からなくとも、通していきたいユンジェの強い気持ちだ。
リオが微笑ましそうに目を細めた。
「相変わらず、ユンジェはしっかり者ね。私も頑張らないと。ジセンさんと一緒に養蚕業を守っていかなきゃ。でも」
「でも? どうしたんだよ」
彼女は不満気に鼻を鳴らし、口を結んだ。
「ジセンさん。私を子ども扱いするの。あの人のお嫁さんになったのに、頼るのはお母さんとか、昼間来てくれる女性ばかり。それどころか私を見て、申し訳なさそうな顔をするのよ」
それが嫌で仕方がない、リオは頬を膨らませた。
なんとなく気持ちは分かる。ユンジェもティエンに、度々そういう顔を向けられる。
どうせ、過酷な運命に巻き込んでしまったの云々思っているのだろうが、そんなの今さらだ。それを承知の上で、最後まで巻き込めと言っているのに。自分は最後まで付き合うと言っているのに。
「そういうのって腹立つよな。まるで、自分を信用されていないようでさ」
彼女がそうなのだと頷き、膝を抱えて唸り声を上げる。
「申し訳なさそうな顔をされる度、ジセンさんに信用されていない気分になるの……私、初めてジセンさんに会った時、思った以上に年上で驚いたわ。そして、怖くなったの。怒鳴られるんじゃないかって。こき使われるんじゃないかって」
しかも養蚕農家は主に虫を取り扱う仕事。リオは半べそになりながら、蚕と向き合った。初日にしては故郷が恋しくなり、母に甘えたくなった。
けれど。その気持ちを霧散させてくれたのは、ジセンが出した一杯のお茶。彼は初対面のリオにお茶を出し、まずは会話を楽しもうと言った。
それが終わると、温かな食事を囲み、リオの故郷やリオ自身のことについて、沢山尋ねてくれた。
夫となるジセンは優しく、賢く、人の不安や緊張を取り除いてくれる人であった。
「文字の読み書きを教えてくれたり、足し引きを教えてくれたり。男の子に学ばせる知識を、私にも学ばせてくれて。女だからって見下さなくて」
時間が経てば経つほど、人間味のある優しい人だと分かったのに。良き妻になろうと思ったのに。意気込んでいたのに。
彼は時間が経てば経つほど、申し訳なさそうな顔を作ることが多くなった。
その度に、リオはとても悲しい気持ちになる。
「あの人のことだから、養蚕農家に嫁がせたことに罪悪感を抱いていると思うの。蔑まれている職だし。それでもジセンさんがいれば、私は頑張れる。そう思っているのに……私が十五だからいけないのかしら。私が二十ならまた違ったのかしら」
「お前がいくつでも、あの人は罪悪感を抱くんじゃねーの? ジセンさんってさ、ちょっと目を放したら一人になりそうな人だな。リオを巻き込みたくないことばかり考えてそう」
「すごいね、ユンジェ。さっきから全部言い当ててる」
「当てているというより、腹立つくらい似てるんだよなぁ。ティエンと」
己の運命に巻き込んでしまった。
自分と出逢わなければ、ユンジェの平和は崩されなかった。
ティエンの根底には、その意識が根付いている。罪悪感が息づいている。
想像するだけで腹が立つ。
ティエンがユンジェにもたらしたのは、決して厄介事ばかりではないのに。一緒に畑を世話し、薪を作り、食事をした日々は孤独だったユンジェの生活に明るいともし火を与えたというのに。
「いつか、自分の傍にいない方が良い、とか言ってさ。ティエンは俺を置いて行きそうな気がするんだ。そして、誰も巻き込まないよう、一人で生きる道を進む……あいつならやりかねない」
ユンジェはそんな彼を求めてなどいない。求めているのはたった一つ。
「天は俺とティエンをめぐり合わせた。そして俺は、自分の意思で懐剣になった。どんな形であれ、俺はあいつと一緒に生きると決めたんだ。だから、ティエンにも、同じ想いでいて欲しい。一緒に頑張ろうって、そう思って欲しい」
でなければ、さみしいではないか。巻き込んでごめん、と思われ続けるなんて。一緒に頑張りたい気持ちが、じつは一方通行だなんて。
赤裸々に胸の内を語り、リオに力なく微笑む。
「俺がリオなら、ジセンに対して腹立たしいやら、歯がゆいやら、さみしい思いを抱くよ」
もちろん、彼らの気持ちが分からないでもないが、後悔したって現状は変えられないのだ。そういう気持ちは捨てて欲しいもの。
「今の俺達にできることは、信用してもらえるまで徹底的に張り付くことだ」
「張り付く?」
「そっ。俺、絶対にあいつを一人にしないって決めてるんだよ。追われる身になろうが、旅を強いられようが、二人でなんとかやっていくって決めている」
こういうものは、粘ったもん勝ちだとユンジェは思っている。
否応なしでも傍にいて、一方的の思いを相互的な思いに変えてやるのだ。ユンジェはティエンと違い、辛抱強い。粘り強さには自信がある。
「リオもジセンにしつこく張り付いちまえ。何を言われようが、私は貴方の奥さんなんだから、一緒に乗り越えていくのっ! 十五がなによ! 私をお嫁に貰ったのはそっちなんだから、一緒に生きる覚悟を決めなさい! ってな具合にな」
リオがおかしそうに笑いを噛み締めた。
「なんだかユンジェが言うと、物騒に聞こえる。それじゃあ、まるで喧嘩を売っているようよ」
「頓珍漢共にはそれくらいの負けん気がねーと、やってられねーぜ?」
「そうね。私、頑張る。信用してもらえるまで、しつこく傍にいるわ。ユンジェに応援してもらっているんだから、死ぬ気で頑張らないと」
それでいいのだ。
ユンジェは目尻を和らげ、編みかけの藁田を見つめた。
リオは良い旦那さんを見つけたのだから、良い人生を歩むべきなのだ。彼女の家が苦労していたことは、幼い頃から目にしている。
だからどうか、幸せになって欲しい。ジセンはユンジェに持っていないものを、たくさん持っている。
「私、ちょっとお母さんの下に行って来るね。それから馬小屋にも寄ってくる。餌をあげてこなきゃ。ついでに、藁も持ってくる」
「助かるよ。そろそろ尽きそうだったから」
早足で養蚕所を出て行く彼女は、外壁に差している松明を手に取って、生活の場としている平屋の方へ向かう。その際、振り向き、ユンジェを呼んできた。
「あのね。ユンジェ」
目を泳がせ、言葉を選んでいる彼女は、やがて曖昧に微笑む。
「貴方のお嫁さんになる人は、とびきり幸せ者になると思うの。私が保証するわ」
間の抜けた声を出してしまう。何を突然。
「だってユンジェはしっかり者で、手先も器用で、頭も良いから。ユンジェを幸せにしてくれるお嫁さんに出逢うまで、決して死んではだめよ。決して」
微笑みが笑顔に変わった。それは、まぎれもなくリオの本音なのだろう。
「……お嫁さんって言われてもなぁ」
残されたユンジェは口を曲げていた。眉間に皺を寄せ、やきもきもしていた。妙に叫びたくもなった。なんだろう、この悔しいような、放っておけと怒鳴りたくなるような、むしゃくしゃした気持ちは。
いや、正体なんぞ、ハナッから分かっている。
「いまの俺がお嫁さんなんて貰えるかよ。持ち家も畑もねーのにさ」
藁田を脇に置くと、頭の後ろで腕を組み、その場で寝転がる。自分自身には休憩だと言い聞かせているが、誰がどう見ても、ユンジェは拗ねていた。
(ま、最初から無理なのは分かっていたけどさ)
たとえ持ち家や畑が残っていたとしても、あの暮らしでは簡単にお嫁さんなんぞ貰えないだろう。
ユンジェの家は大変貧乏であった。
明日食べていくのがやっとだった。誰が嫁ぎたいと思おうか。子ができても、それに満足に食べさていけるか、どうかも分からないのに。
(お嫁さんは夢のまた夢だな。お尋ね者である限り)
でも、べつにいいのだ。自分にはかけがえのない兄がいる。それで十分だ。
(俺達は一体、どれだけ逃げ回る日々を過ごすことができるんだろう。敵はクンル王に、天士ホウレイに……いつまでも逃げ切れると思えない)
そっと身を起こし、ユンジェは宙を睨む。
追っ手の数は多い。あてもない旅を続けるより、人里離れた山奥にでも身を隠し、静かに暮らしていくべきだろう。もしくは他国へ逃げてしまうべきか。
(現状、謀反兵は俺達をしつこく追っている。王族もいつ動くか分からない。国を離れるのが一番だろうな)
ユンジェの思考を止めたのは、絹を裂くような悲鳴であった。
その声は確認するまでもなくリオのもの。外へ飛び出すと、ジセン達のいる平屋の方角に、小さな赤い点が見える。あれは松明だ。
それだけではない。桑畑から複数の馬の足音と松明の炎が見えた。これはまさか。
(追っ手かっ!)
血相を変えて走ると、先に家屋を飛び出したジセンが、屈強な男に担がれているリオを取り戻そうと掴みかかっていた。
しかし、彼は膝を悪くしている。
それだけでも分が悪いというのに、相手は腕っぷしのありそうな大柄な男。真っ向から向かって勝てるはずがない。
太い腕を活かし、易々と彼を引き倒して、その両膝を踏みつけていた。それを見たリオが悲鳴を上げ、四肢をばたつかせ、必死に男から逃れようとしている。
さらに驚く光景を目にする。
「ティエン!」
なんと、彼は馬に乗る男三人に囲まれていた。おおよそ、リオの悲鳴を聞きつけ、ジセンと共に外へ出たのだろう。
しかしながら、男達はユンジェの予想する追っ手ではないようだ。
女を逃がすな、と勘違いしている。様子を見る限り、あれはユンジェとティエンを追う者ではなく人攫い。
「ここの養蚕農家を荒らしたら、次の養蚕農家に行く。金目のもの奪え」
そして追い剥ぎだ。
養蚕農家は町から、やや離れた場所にある。町人達から避けられた存在だと知っているからこそ、襲いやすく、稼ぎも良いと小耳に挟んでいるようだ。簡単に奪えると嘲笑する声が聞こえてくる。
騒動を聞きつけたトーリャが見に来たので、ジセンが部屋へ戻るよう声を張った。
中には幼子達がいる。それも人攫いの対象となりかねない。そう指示する声が、うめき声になる。ジセンは腹部を力いっぱい蹴られていた。
ユンジェは焦る。
真っ向から勝負を挑んで勝てるはずがない。しかし、考える時間もない。どうすれば。
「いやっ、いや! ジセンさんっ!」
賊が柳葉刀を抜き、それを倒れるジセンに振りかざした。
もう、なりふり構わっていられない。ユンジェは急いで懐剣を抜き、彼の下へ走る。
間一髪のところで、柳葉刀を受け止めることに成功したものの、おかしい。
いつものように相手を見切ることができない。力が入らないわけではないが、次に動くべき行動が思いつかない。体が思うように動かない。柳葉刀を押し返せない。
何かしら懐剣から伝わってくる、麒麟の心魂を感じない。そのせいで軽々と懐剣が弾かれた。
ああ、まずい。
察した時は、すでに懐剣を手放し、柳葉刀が右肩から胸に掛けて滑っていく。かちん、と体のどこかで金属同士のぶつかる音が聞こえる。
夜の刻なのに、痛みのあまり目の前が真っ白となった。
「ゆっ、ユンジェ――っ!」
泣き声まじりのリオの悲鳴が遠い。
崩れる体をジセンが受け止めてくれるが、それすら他人事のように思えた。
かろうじて意識はとりとめているものの、見える視界がぼやけている。気をしっかり持て、とジセンに揺すられるが、反応できずにいる。体中が熱くて痛くて痺れている。なにより肩が痛い。
その時であった。向こうで短剣を構え、逃げまどっていたティエンが呆けたように佇む。
「ゆん、じぇ?」
彼は混乱しているようであった。馬に乗る男達が、そこまで来ているのに、それすらどうでもいいように、呆然としている。
「うそ、だ。ユンジェ。ゆんっ……」
やがてユンジェが斬られた現実に顔をこわばせ、それが受け入れられず、その場で咆哮する。
瞬間、夜の天が割れた。
その先に見えるものは、深い混沌。稲光が絶えぬ雷雲が漂うとこであった。
ごうごうとうねる天の向こうで、怒り狂った獣の声が聞こえる。不協和音の鳴き声は咆哮するティエンと重なり合い、新たな声となった。
声は大地を震わせ、桑畑を揺らし、その場にいる者どもに畏れさせる。
ああ、耳をすませると聞こえてくる。
それはティエンの声、それに重なった天の声――我、決して血を好まず。我、決して殺生を好まず。我、決して
「穢れた御心なんぞ、その身共々亡びるがいい。凶禍福の運命を背負う天の子は、お前を決して許しはせぬぞ」
咆哮が途切れ、憎しみに溢れた言葉が、ティエンの口から迸る。
驚くほど、彼のかんばせは花が咲いたように、美しい笑顔となった。黒い真珠のような瞳が、仄かに
天から稲光が落ち、それはティエンを囲む男共の視界を奪った。近付くことすら許されない。天は男共に、そう告げているようにみえる。
「どけ。邪魔だ」
もはや彼の目は、リオを捕らえる賊しか見えていない。短剣を逆手に持つと、囲んでくる馬達に道を開けるよう命じ、地を蹴って駆け出す。
そして獣達は彼の言葉通り、恐れおののきながら、ティエンのために道を開けた。
賊達が手綱を引き、それを止めようとすると、揃いも揃って乗り手を振り落とす。馬に踏まれ、悲鳴を上げる者もいた。
そんな人間なんぞ脇目に振らず、ティエンは飛躍して短剣を横一線に振った。短い刃は間合いを取るのが難しく、それは賊には届かない。
「彼女を返せ」
なのに、彼は怯まず垂直にそれを振り下ろして、賊を討とうとする。弓の方が得意なくせに、短剣で仕留めようとする。
弱者から強奪しようとする悪意ある人間を、彼は決して許そうとはしない。
思いが彼に力を与えているのか、普段はもっぱら足が遅いというのに、今の彼はネズミのようにすばしっこい。
その気迫に押された賊は、物の見事に顔を引き攣らせている。一振りでも当たれば、命が無くなると思っているのか、避ける動きは大振りであった。少しでも当たりそうになると、柳葉刀で短剣の刃を受け流す。
賊が反撃を試みようとすると、担がれたリオが四肢を動かし、時に相手に噛みついて、間接的にティエンを援護する。
彼女もまた涙目になりながら、よくも旦那を、友を、と悔しそうに下唇を噛みしめ、賊の体を何度も拳で叩いた。
「加勢しろ!」
その声で、仲間の賊が駆け寄って来る。
しかし、ティエンの目はやはり、リオを捕らえる男一点に絞られていた。背後を取られようが、見向きもしない。
ようやく、その存在に気付いても短剣を振り、距離を取って終わった。
「まずい。とてもまずいぞ」
ユンジェを腕に抱えるジセンは、焦燥感を抱く。
彼は気付いていた。
いまのティエンは完全に頭に血がのぼっていることを。彼はユンジェの仇を取ろうとしている。それだけ、彼にとってこの子が大切なのだ。
いやジセン自身も、冷静ではいられない。大切な嫁が人質に取られているのだ。早いところ手を打たなければ。こんな時、膝が悪くなければ、と強く思う。
弱々しいうめき声が聞こえる。ジセンは傷付いたユンジェに、何度も呼び掛けて反応を窺う。
「ユンジェ。しっかりしろ。僕の声が聞こえるかい?」
うつらうつらと頷く彼は、微かに意識を残しているようだ。
懸命に傷口を押さえる。けれど一向に血は止まらない。己の帯を解いて、肩口をきつく縛るが、これもどこまで持つか。
新たな馬の足音が聞こえた。
ああもう、次から次へと、今日はとても忙しい。いつもは誰も養蚕農家に近付かないくせに、今度の客は誰だ。
ジセンが視線を配ると馬が二頭。松明を持った乗り手の一人が、ティエンを指さした。
「いたぞハオ、ピンインさまだ! やはり天の割れ目の下にいらっしゃっ……なんだ。この状況は」
乗り手、謀反兵のカグムが馬から降りたので、ジセンが声を掛ける。
「初対面の君とお茶を飲み交わす時間は無い。けれど、ティエンを知っているのなら、話は早い。彼を止めてくれ。あのままでは、やられてしまう。そしてどうか嫁を、僕の嫁を助けてくれ」
「貴方は……ユンジェっ!」
カグムが片膝をつき、持っていた松明をジセンに押しつけた。
「こりゃひでぇ。深く肩を斬られている。ハオ、お前はユンジェの止血をしろ。こういうのは、お前の方が得意だろう。俺はピンインさまを止めてくる」
遅れて馬から降りたハオがカグムと入れ替わり、急いで衣を短剣で裂いた。
「ほんっと、来て早々なんだってんだ。しかも、クソガキがやられてるなんざ、異常だろう。ガキでも麒麟の使いだろうに」
「助かるかい?」
「分からん。どれだけ血を流しているかにもよる。くそ、無駄に逃げ足は速いくせに何してやがる。もう少し、手元に明かりを寄せてくれ。見えん」
どれだけ血を。
そんなのジセンにも分からないが、一目でおびただしい量の血を流していることは分かる。ああ、自分を助けようとしたばっかりに、こんなひどい傷を。
「ユンジェ。どうか頑張ってくれよ。君がいなくなったら、ティエンは一人になってしまう。彼を一人にしないでおくれ」
天に強く願った時だった。
向こうでティエンとカグムの、凄まじい言い争いが聞こえた。驚くことに、両者は剣を交えているではないか。
あれほど、ユンジェの仇を取ろうとしていた彼が、カグムを捉えた途端、標的を変えた。
一体どうなっているのだ。味方ではないのか。ジセンは唖然としてしまった。
「しっ……しまった」
ハオが止血の手を進めながら、顔を引き攣らせる。
「カグムを行かせたら余計、状況が悪化するに決まってるじゃねえか。ったく、どいつもこいつも、すこぶるメンドくせぇ! 臨機応変に状況を見ろよ!」
その間にもティエンとカグムの言い争いは続き、賊から目を放してしまう。
それを見逃す輩達ではない。賊の一人はカグムの背を狙い、リオを担ぐ賊はティエンの頭目掛けて斬りかかる。
各々それを回避すると、リオを担ぐ賊が動いた。
「小娘、邪魔だ」
ついに暴れるリオがお荷物になったのだろう。
その身を投げ、苛立ちと共に柳葉刀で彼女を斬る。寸前でティエンが体を受け止め、二人の体は仲良く地面へ転がった。柳葉刀は二人の後を追い、振り上げられる。
「リオっ、ティエン!」
ジセンの叫びが合図であった。
それまで、荒い呼吸を繰り返し、瞼を下ろしていたユンジェが目を見開き、素早く身を起こして走り出す。待て、止まれ、クソガキ、そういう声は一切届かない。斬られた痛みも念頭にない。
ただただ、いまのユンジェを突き動かすのは、使命のみ。
所有者から災いを守れず、なにが懐剣。なにが麒麟の使い。心のどこかで、ユンジェを責める声が聞こえる。そう――ユンジェは彼を守る懐剣である。寝ている場合ではない。守らなければ。
強い思いがユンジェを奮い立たせる。
リオの旦那を助けるどころか斬られ、あの子のことも助けられず、守るべきティエンに短剣を振るわせている。麒麟から使いを頼まれているのに、自分はこんなところで何をやっている。何を。
転がっている懐剣を拾うと、柳葉刀を振りかざされている二人の下へひた走る。
聞き手の右は肩が負傷しているため、不慣れな左でそれを持ち、彼らの間に割って懐剣で受け止める。甲高い金属の音が一帯に響いた。
「こっ、小僧っ……貴様まだ動けるのか」
ユンジェは肩で息をしつつ、口角を持ち上げる。所有者を守ることがユンジェの役目なのだ。動ける動けないの話ではない、動かなければならないのだ。
「ティエンにっ、手ぇ出すのは懐剣の俺をっ、折ってからにしろっ……俺はまだ、折れちゃねーぜっ」
あれほど重たかった柳葉刀を、いとも容易く押し返すと、広い刃渡りを叩き折った。
賊の戸惑う声が、ユンジェを化け物だと称する。
どう思われても構わない。化け物だろうが何だろうが、自分は懐剣。災いから所有者を守るお役を受け持っている。ただ、それだけだ。
そこでユンジェは気付く。
そうか。だから、さっきは麒麟の心魂を感じなかったのか。自分は『所有者』を守るだけの懐剣だから。ティエンの懐剣だから。
心のどこかで懐剣を抜けばどうにかなると思っていたが、それは甘い考えだったようだ。懐剣を抜く機会も、これからはよく考えなければ。
折れた柳葉刀が投げつけられる。それを懐剣で弾いた隙を突かれ、蹴り飛ばされた。
しかし、地面に懐剣を突き刺し、その勢いを弱めると、猪突猛進に突っ込む。
走る度に止血途中の傷から血が止めどなくあふれ出た。膝が折れそうになる。目も霞む。それでも、そこに災いがあるのなら。
「待てっ、ユンジェ。もういい、止まれ! 走るな!」
ティエンの声がとても遠い。
ユンジェは賊とぶつかる寸前、身を屈めて股の間に滑り込んで、男を通り抜ける。
そのまま後ろに回ると、
そして眼球をぐるりと真上に向け、白目となった。前のめりになった体は、支えきれずに倒れてしまう。
「へ、へへっ……さすがに、ジセンの家で死体を作るのはっ、あんまりだからな」
ユンジェも懐剣を握ったまま、両膝を崩してしまう。
地面に叩きつけられる前に、走って来たティエンが受け止めてくれたので、痛い思いをしなくて済んだ。
「ユンジェっ、しっかりしろ。ユンジェ!」
答えたいけれど、申し訳ないことに力がもう残っていない。
さっきまで羽のように軽かった体が、爪先も動かない。忘れていた痛みが襲ってくる。呼吸は苦しく、熱や痺れも出てきた。でも、ちょっとだけ、寒い。
ああでも、大丈夫。これくらいで死ぬような軟ではない。ティエンと体のつくりが違うのだ。少し休んだら、きっと声が出るようになる。
そしたら言ってやろう。お前、酷い顔をしているぞ……と、からかってやろう。
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