五.死生命有り、富貴天に在り(壱)
養蚕業、というもは大変儲かる職なのか、夕餉は大変豪華であった。
唐辛子で味付けされた煮魚の料理。温かな卵の汁物。玄米に菜っ葉の漬物。桑の実。それはそれは、食べごたえのある量で、しかもリオの手料理。飲み物は烏龍茶。
ユンジェはもろ手を挙げて、箸を取った。
これで酒さえあれば最高だったのに、と呟くジセンだが、あてない旅をしている二人にとって、本当にこれはご馳走であった。
こんなにしてもらって良いのだろうか。ジセンの気前の良さに、少々申し訳なく思ってくるのだが。
しかし。彼は誰かと共に食事ができる、この時間が幸せなのだと語る。
「こんな機会でもないと、僕と食事を取ってくれる人がいないんだ。今はリオやトーリャさん達がいるから、さみしい食事を取らなくて済むんだけどね」
そういえば、ジセンの家にはリオやトーリャ達以外、誰もいないようだ。広い桑畑や養蚕所を見る限り、もっと多くの人がいても良いと思うのだが。
「養蚕農家はね。この土地じゃあ嫌われているんだよ。蔑まれている、というべきかな。儲かる仕事ではあるんだけど」
「どうして? 近くの織ノ町は織物を名産にしているんだろう? 養蚕農家がいないと、貴重な糸が取れないのに」
ユンジェが尋ねると、ジセンが苦々しく笑う。
「虫を扱うからさ。織ノ町の人間の多くは、成金商人や小貴族だからね。綺麗な織物ばかり目にしているせいか、蚕を気味悪がるんだ。それを触っている養蚕業を汚いと、『その程度の人間』と、でも思っているんじゃないかな」
その程度の人間。それはどの程度の人間を指す意味合いなのだろう。ユンジェは萎れている菜っ葉の漬物を見つめる。
「蚕は糸を作ってくれる。死骸は動物の餌や、人間の食料になる。
そのせいで、この土地の養蚕農家は肩身の狭い思いをしているとジセン。
区別されることも少なくなく、世継ぎを得るにも苦労しているとのこと。それに耐え兼ね、土地を飛び出す人間も多いそうだ。
ジセンの姉弟もそれで、上と下に姉と弟がいたそうだが、各々逃げるように嫁いだり、傭兵を目指したり、と理由をつけて家を離れてしまったという。
ジセンは姉弟と違い、昔から蚕に魅せられていた。ゆえに、この家業を継いだと語る。
「昼間は訳ありの人間に来てもらって、仕事を手伝ってもらっている。多くは夫を失った女性だけど、みんな良い人だ。女は強いよ、力仕事だってこなしちゃうんだから」
彼が隣に座るリオに視線を流す。やや申し訳なさそうに眉を下げた。
「リオもすごく働いてくれているんだ。ただ僕の家に嫁いでしまったせいで、町へ行くと敬遠されることも多い。しかも僕は三十五、若くもない」
すると、彼女は猛反論した。
「私はいつも言っているでしょう。この家に嫁いで良かったって。ジセンさんは優しいし、貧しい私の家にも良くしてくれている。今だって、故郷が焼けたお母さん達の面倒を看てくれている。私の友達が困っていたら、手を差し伸べてくれる。貴方は素敵な人よ」
感情的になるリオは、ジセンの後ろめたい態度に不満があるようだ。妙にムキになっている。
それを見守る母親のトーリャは、苦笑いを浮かべていた。娘の主張に思うことがあるらしい。
ユンジェは漬物を咀嚼して、それを見守っていたが、ふとティエンに視線を投げて疑問をぶつける。
「なあティエン。俺達、農民も上の人間にとって汚いのかな?」
ユンジェのいた故郷でも、農民は商人に軽視されたり、蔑まれたり、と不当な扱いを受けていた。農民は土を弄る。土を触れば小汚くなる。その格好で物売りをする。みな、生きるために必死だった。
それを見ていた商人達は汚い、と嘲笑していたのだろうか。
「米や野菜を作っているのは、俺達農民だ。商人はそれを売るために求めてくる。不作が続くと、食い物に困った町人は騒ぐ。なのに、農民は蔑まれる。なんか変じゃないか?」
ユンジェは商人になったことがないので、それの気持ちがよく分からない。感謝されるならまだしも、なぜ蔑まれなければいけないのだろうか。
眉を寄せる自分に、ティエンが目を細めた。
「人間は一度、綺麗を覚えてしまうと、小さな汚れですら、ひどく嫌悪してしまうもの生き物なんだ。汚れない仕事を続けると、それが当たり前となり、汚れる仕事を軽蔑する」
「農民がいないと、米も野菜も手に入らないのに」
「みな分かっているさ。分かっていても、『その程度の人間』としか見ないんだよ。謙虚を忘れた人間は傲慢だ。常に己の下を作りたがり、それを土台とする」
「お前の話はとても難しいよ。俺達は上の人間の土台なの?」
疑問が更なる疑問を呼ぶ。ユンジェが右に左に首をかしげていると、ジセンが言葉を挟んだ。
「人間は己より劣っている者がいると、とても安心するんだよ。上に立てば立つほど、その気持ちが強くなる。だから身分制度というものがあるんだ」
「身分、せいど?」
制度とはなんだろう。
「農民、商人、王族と身分を振り分けていることだよ」
「それがあるから、農民はつらい思いをするのか。なら、その身分制度ってのは無くならないの?」
「人間は不平等が好きなんだ。平等だと上下が決まらないからね。上にあがりたい心がある限り、身分制度は無くならないよ。悲しい話だけどさ」
「へえ。ジセンは頭が良いんだな。身分制度なんて俺、ちっとも知らなかったよ」
「君も勉強すれば、すぐ僕と同じ知識を得られるよ。僕は父が厳しかったこともあって、学び舎に通わせられていたんだ。当時は面倒で嫌だったけど、今はとても感謝している」
知識が豊富になれば、文字の読み書き。物の足し引き。国の仕組みや、身分に対する不平等など、多くの視野を持てるようになるとジセン。
すると、リオが困ったように吐息をついた。
「ジセンさんったら、私にも読み書きを覚えさせようとするのよ。私は女だし、家のこともあるから、学びの時間は要らないって言っているのに」
「何を言っているんだい。学びに男も女もないんだ。必ず、リオの役に立つよ。最近絵本が読めるようになって、嬉しいって言っていたじゃないか」
「そ、そうだけど……時間の無駄な気がして。学ぶより、働いた方がお金にもなるでしょ?」
すると、ジセンは首を横に振り、そんなの一時しのぎだと言って桑の実を台の上に並べる。それはユンジェにも見えるよう、真ん中で並べられた。
「ここに十八個の桑の実があります。リオとユンジェは平等にそれを食べたいので、僕は半分の七個をリオに、残りをユンジェにあげました。さて、彼はいくつ貰ったでしょう?」
ユンジェとリオは目を合わせた。
「七個でしょ? ジセンさん、半分に分けたんでしょ?」
「はい。リオは今、僕のいんちきに引っ掛かった。どう聞いても、平等じゃない。どっちかが損をしているんだよ」
ジセンがユンジェを見つめる。急いで指で数えるが、指が足りない。どっちが損をしているのか、皆目見当もつかなかった。
「分かったかい? これが学びの大切さなんだよ。知らないと、相手の言葉を鵜呑みにして終わる。農民の多くは、商人の口車に乗って損をするんだ。ティエン、教えてあげて」
名指しされた彼が、並べられた桑の実を二つに分けていく。
「十八個の半分は九個だ。七個もらったリオは二個分、損をしている。ユンジェは十一個もらった計算になるんだ」
「なんで指も使わず足し引きできるんだ?」
ティエンに差し出された桑の実を受け取り、それの一つを口に入れる。甘酸っぱい実が口いっぱいに広がって、とても美味しい。
「それは私が学んでいるからだ。ユンジェにも、そろそろ本格的に足し引きを教えてやらねばな。文字の読み書きも大切だが、こういった計算も大切だ」
「俺にできるかなぁ」
「今まで機会がなかっただけで、やれば誰にでもできる。ユンジェにだってできるさ」
そうだといいのだが。ユンジェはまた一つ、桑の実を口に入れた。
ジセンは一生懸命に桑の実を数えるリオと、ユンジェを交互に見やると、ティエンに微苦笑を向けた。
「この子達を見ても分かるように、学びの機会を得られなかった者達は損ばかりする。蔑む人間は、そこに漬け込んでばかりさ。酷い話だ」
「ええ。それはユンジェと暮らしていて、何度も目にしてきました」
ティエンが頭に手を置いてくるので、ユンジェは気恥ずかしさを隠すように、残りの身を口に押し込む。
「商人は農家の多くが、こういう人間ばかりだと思っていてね。よく僕を騙そうとするんだ。養蚕農家だからって、内心馬鹿にしているんだろうね。勿論、そういう人間ばかりじゃないと信じたいところなんだけど」
「読み書きも、足し引きもできない人間は、生産するしか能がない、とでも思っているのでしょうね」
「知識も力もない身分は、馬鹿にされること多いんだよ。なのに、ティエン。君は栄光ある王族を捨て、農民であり続けようとしている。王子で謀反を目論む兵が慌てるはずだね」
すると。彼は不機嫌に、王族に興味はないと鼻を鳴らした。贅沢も綺麗な物も不要だと言い切るティエンは、農民であり続けたいのだと吐露した。
「王族の身分は私に、贅沢と知識、人の恐さと絶望を与えました。反対に農民の身分は私に、家族と生きる術、人の優しさと希望を与えました。どちらを選ぶかなんて明白でしょう?」
「君を追う兵達は、今頃ティエンを変わり者だと言っているんじゃないかい?」
笑いをこらえるジセンに、彼は肩を竦めた。知ったこっちゃないらしい。
「まあ、これからのことはティエンとユンジェで決めるべきだろう。麒麟のことや、麒麟の使い、それが君達に何をもたらすのかは分からないけれど、僕はきっと意味のあることだと思うよ」
「父王に殺されるか、天士ホウレイに利用されるか。その選択以外の道を模索したいところです。万人が私の死を望もうと」
すると、桑の実を数え終わったリオが、ティエンにそれを差し出す。
「私はティエンさんの死を望まないわ。だって、ユンジェの大切な家族だもの。こうして食事を囲めば、もっと仲良くなれるかもしれないのに、どうして死を望まないといけないの? 貴方を狙う王族は変ね。まずは食事を囲んで話すべきなのに」
トーリャが席を移動し、彼の肩に手を置いた。
「そうよ。農民の私達には王族なんて大層なものが分からない。だから愚かと言われようと、あんたの死なんて望まないよ。そういう人間もいると覚えておきなさい」
ティエンの表情が柔らかくなる。幸せそうに頷く姿を見ると、なんだかユンジェも嬉しい気持ちになる。もっと多くの人間に、彼自身を認めてほしいもの。
食事を終えると、リオがユンジェに頼みごとをしてきた。
曰く、藁田と言われる、蚕を飼う籠を直してほしいとのこと。彼女はユンジェの手先の器用さを知っているので、藁田も編みなおせるのではないかと考えたらしい。
御馳走になったのだから、断る理由もない。
ユンジェは頷き、リオの案内の下、養蚕所へ向かった。
その際、ティエンについて来るかと尋ねたが、珍しいことに彼は遠慮を見せた。まだジセンと話したいとのこと。後で手伝いに来ると言ったので、待っていると返し、ユンジェは部屋を後にした。
「相思相愛なんだね。あの二人」
子ども達を見送った、ジセンの第一声はこれであった。
ユンジェとリオのやり取りで、二人の気持ちを見抜いているのだろう。
しかし、嫉妬する様子は見せない。微笑ましそうに目尻を下げている。大人の余裕、というべきか。
ティエンもユンジェの気持ちには気付いている。
だが、こればかりはどうしようもない。どうリオを想うが、二人は決して結ばれない。決して。
すると、母のトーリャが愚図る幼子をあやしながら、辛らつに物申す。
「ユンジェには財力がないからねぇ。嫁がせれば、家も娘も不幸になる」
言ったのはトーリャなのに、傷付く顔をするのも彼女なのだから、ティエンは何も言えずにいる。これもまた、農民の現実なのだろう。
「私はジセンに娘を嫁がせたことを、これっぽっちも後悔していないよ。職の苦労はあるだろうけれど、ひもじい思いもしないし、子が生まれても安心して育てられる」
ユンジェと結ばれるより、ジセンと結ばれた方がリオも幸せなのだ。
「……でもね。私はユンジェにも幸せになってもらいたいんだ。あの子は、本当に苦労してきたよ」
幼い頃に両親を失い、十一の時に祖父を失い、たった一人で生きてきた。
あの子どもは誰にも頼ろうともしなかった。
大人として振る舞い、理不尽な仕打ちにも孤独に耐えてきた。トーリャが声を掛けても、対等に接しようとするので、子どものように甘えさせることもできなかった。
祖父が死んだ時ですら、あの子どもは泣くことすら押し殺して、静かに受け入れたのだ。トーリャは心配した。いつか、この子どもは限界を超えて、崩れてしまうのではないだろうか、と。
トーリャに子どもがいなかったなら、きっとユンジェを養子にしていたことだろう。
「そんな時かねぇ。ユンジェがティエンを拾ったのは。お前さんのおかげで、ユンジェは明るくなったよ。子どもっぽさも戻った。あんたによく甘えているようじゃないか。ティエンの傍にいるあの子は、とても幸せそうだ」
幸せ。
呪われた王子はいつも、災いを運ぶと言われ、忌み嫌われていた。そんな自分が、あの子どもに幸せを与えているのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
ティエンがあの子の傍にいて幸せだと思うように、ユンジェも幸せだと感じてくれるのならば、本当に嬉しいものだ。
「すまないねぇ。なんだか湿っぽい話になって。私が言うのもなんだけれど、ユンジェとこれからも仲良くやっておくれ」
「トーリャ……ええ、仲良くやっていきます。ユンジェは私の大切な家族ですから。あの子だけは守り通します。何が遭っても」
ユンジェに言えば、守るのは自分の役目だと突っぱねられそうだが、ティエンは本気で守るつもりでいた。守られるばかりの人間なんて、そんなの情けないではないか。
「そうだジセン、お前さん、困りごとがあるって言っていたじゃないか。ティエンに話してみたらどうだい? 私やリオじゃ力になれないけど、ティエンなら力になれるかもよ」
困りごと。
そういえば、ここに来る途中、トーリャがそんなことを言っていた。こんなにも世話を焼いてもらったのだから、恩は返したいもの。
ティエンにはユンジェのような手先の器用さは持ち合わせていないため、藁田を編みなおすより、持てる知識で応えられるところは応えたい。
愚図る幼子の泣き声が強くなる。トーリャは部屋で寝かしつけて来ると言って、もう一人の幼子と共に退室する。
それを見送った後、ジセンは箪笥に向かい、竹簡を取って、ティエンに差し出した。紐解くと、生糸を納める理想数が事細かに記されている。これは税に関する公文書か。
「そこには、年間に取れる糸の五割を収めろと記されてね。正直、頭が痛いんだ」
「五割? 半分も税に取られるのですか?」
「ああ、来年からね。職によって違うだろうけど、麟ノ国民である以上、税の引き上げは免れないだろうね」
では貧しい身分の者達は、今以上に苦しみあえぐことになるのだろう。ティエンは眉を顰めた。
「これのせいで三年分の取れ高と、来年の取れ高を推定計算して報告しないといけない。学び舎に通っていたとはいえ、桁が大きすぎて、頭がおっつかないんだ」
正直、五割も取られてしまうなんて、やっていけない。ジセンは深いため息を零す。
来年から苦しい生活を強いられることは目に見えており、雇う人間の数を減らすか、賃金を減らすかなどを、視野に入れていると語った。
彼はこれの計算を手伝って欲しい、と頼んだ。
王族出身のティエンであれば、庶民の人間よりも、正確に計算できるだろうと、期待を寄せてくる。
それは一向に構わない。桁を見る限り、許容範囲であった。
「糸をそんなに持っていって、どうするつもりなんだろうね。織物を大量生産するつもりなのかな」
「いいえ。竹簡を読む限り、糸は王都に納められるようです。おおよそ、他国に輸出するつもりでしょう。良質な生糸は外貨代わりになると学びました」
あるいは他国と交流を図るために、ありったけの生糸を集めて献上するか。
どちらにせよ、養蚕農家にとって大きな痛手な話。半分も生糸を取られてしまうだなんて、生活苦は回避できない。
しかも来年からとは、また急な話。税を上げるには、国民の生活と収穫量を見なければいけないため、それなりに年を要すると学んだのだが、これは勅令だろうか。
(他国との溝が深まったか。それとも他国の文化や技術に目をつけ、献上の約束を取り付けたか。何を考えている、父上……急な税の引き上げなど、国民の反発は避けられないだろうに)
国民が倒れてしまえば、国は崩壊する。いくら愚王でも、そのくらいの頭はあるだろうに。
「税引き上げにまつわる、不穏な噂を耳にしている。西の白州では、農民による暴動があったそうだよ。鎮圧され、みな
それは腹部を両断させる死刑のひとつだが、斬首よりもひどく、即死できないため苦しみも強い。よほど重い罪の人間でなければ、執行されないのだが、ああ、想像するだけでも痛々しい。見せしめなのだろう。
しかも運が悪いことに、西の白州は王妃の嫡男リャンテ王子が任されている領土。好戦的で残虐性の強い男の目に付けられたのならば、腰斬刑もあり得る。
(離宮を出て、はじめて分かる。麟ノ国は平和とかけ離れた、支配国だ)
顎に指を当て思案に耽っていると、ジセンがそっと話を切り出してくる。
「じつは不穏な噂と一緒に、こんな話も耳にしている。ここ南の紅州に、西の白州第一王子リャンテの兵と、東の青州第二王子セイウの兵が派遣された、と」
息が詰まりそうになった。
まさか、兄達の兵が紅州に派遣された、だなんて。揃いも揃って、呪われた王子の首を討とうと考えているのか。
「各々兵は子どものいる家を訪問しているそうだよ」
「子ども?」
「ああ。十二から十五の男子がいると、兵に連れて行かれ、一か所に集められるんだ。そこで酷いことをされるのかと思いきや、あることをさせられるだけ。みな、兵のすることを不思議がっている」
十二から十五の男子を集める。良い予感はしない。
「連れて行かれた子ども達は、各王子の麟ノ懐剣を前にし、兵達の前でそれが抜けるかどうかを試される。抜けなければ、無事家に帰されるそうだ」
麟ノ懐剣を、庶民の子どもに抜かせている。両兄が?
ティエンは混乱した。なぜ、そのようなことを。
あれは命の次に大切な物。自分でさえ信頼する者にしか触らせていないというのに、自尊心の高い兄達が市井の子ども達にそれを触れさせているなんて。
と、ジセンが控えめに尋ねる。
「麟ノ懐剣とやらは、王族にしか抜けないんだよね?」
「え、ええ……」
「でも君の懐剣は、農民のユンジェが持っている。彼はティエンの懐剣を抜けるわけだ」
「はい。あの子は麒麟に使命を授かったので」
「そういう事例は、今までにもあったの?」
「稀に王族以外の者が、懐剣を抜くことがあると記録に残っております。抜いた者は麒麟に使命を与えられた者だと、所有者に関わる使命を麒麟から授かるのだと」
しかし、実際に使命を与えられた者はごくわずか。残っている記録も数少なく、本当に実在したかどうかも怪しい。それだけ遥か昔の話になる。なのに、まさかユンジェが己の懐剣を抜くとは。
そこでティエンは血の気を引かせる。まさか。
「たしか王妃の嫡子リャンテ王子と、第一側妃の庶子セイウ王子は王位継承権を争っているよね。僕が彼らなら、喉から手が出るほど欲しいよ――懐剣を抜いた、麒麟の使いを」
所有者に関わる使命を、麒麟から授かる者。
麒麟の命を受け、所有者を守る者。
そんなものが傍にいたら、周りはどう思おうか。この方こそ、次なる君主の器だと賛美されることだろう。
「今は子ども達に懐剣を抜かせているようだけど、それもすぐ終わるだろうね。王子達はこう思っているんじゃないかな。まこと麒麟の使いに相応しいのは、呪われた王子ではない、自分だと」
麒麟の使いを見つけ出して殺す、なんて無粋な真似はしない。
なにせ、瑞獣に使命を授かった者なのだ。それを殺すなど、天の麒麟に歯向かうようなもの。天誅は誰でも怖い。
ではどうするか。現所有者を殺し、新たな所有者となればいい。ジセンが王子達ならばそうする。
「ティエン、心するんだ。君の懐剣となったユンジェは、多方面から王族に狙われる存在だと。王権争いに必ずや巻き込まれる存在だと。君の父であるクンル王も、もしかするとあの子を狙うやもしれない」
眩暈がする。頭が痛い。呼吸を忘れそうだ。ティエンは宙を睨み、動揺を抑えようと必死になった。
(将軍タオシュンは討った。しかし、取り巻きの兵はユンジェが懐剣を抜く姿を見ている。王族の耳に入らない筈がない。父を筆頭に、獰猛な兄上達にも知らせはいく)
分かっていた。子どもが懐剣を抜いた時点で、過酷な運命に巻き込んでしまったということは。分かっていたはずなのに。
改めて諭されると、事の重さが両肩にのしかかってくる。
「大丈夫かい? 顔色が悪い。お茶を持ってこよう」
膝を悪くしているにも関わらず、ジセンはティエンのために烏龍茶を湯のみに注いでくれる。
それで喉を潤すと、幾分気分が良くなった。ぬるい茶ではあったが、香ばしい味がティエンを慰めてくれる。
(よく考えろ。兄上達が兵を放った以上、紅州も安全ではないぞ)
かと言って西の白州リャンテ王子、東の青州セイウ王子、中央の黄州はクンル王のいる王都。他の土地に逃げるより、ずっと紅州の方が安全といえる。
さて、どうしたものか。ティエンはこめかみをさすり、小さく唸ってしまう。
「本当にユンジェが大切なんだね。君だって危ない立ち位置にいるのに。クンル王や兄達に見つかれば、殺されてしまうんだよ」
「私よりユンジェです。兄上達に奪われるわけにはいきません。私は己の身が八つ裂きにされるよりも、あの子が王族に利用される方が、とてもつらい」
いっそのこと、あの子どもから懐剣を取り上げ、お役を返上とはできないだろうか
麒麟の使いを下ろすことができれば、ユンジェは晴れて、ただの農民の子だ。ジセンに頼めば、なにかしら仕事を与えてくれるやもしれない。
ティエンが離れてしまえば、あの子は普通の子として生きていける。
しかし、記憶のユンジェが怒鳴ってきたので、それは無理だと思い改めた。
あの子は腹を決め、己の懐剣となった。拒絶することもできた麒麟の使命を、自ら進んで受け取ったのだ。最後までついて行く、という約束のために。
ティエンがそれを履き違えるわけにはいかない。自分とて、腹は決めているのだ。中途半端に巻き込むより、最後まで巻き込んで責任を取る、と。
「ジセン、私はどうしたら良いのでしょう」
ティエンは大人に意見を求める。
十八で成人となる麟ノ国だが、齢十九になったばかりのティエンには経験も知識も足りなかった。途方に暮れてしまう。どうしていいかも分からない。
「私はたった一人の家族を守りたい。そして、あの子と静かに平和に暮らしたい。ただそれだけが望みなのに、誰も私を放っておいてくれない。どうしたら、ユンジェを守り切ることができるのでしょう?」
弱々しい吐露に、ジセンは笑うこともなく、かといって哀れみを向けることもなく、静かに相づちを打った。
「とても難しい質問だね。僕もリオを嫁さんにもらって、いつも悩んでいるよ。あの子を守りたいのに、僕の家業は養蚕農家。この土地では蔑まれているのに、ここに置いていいのか、三十五の男の傍に置いていいのか。ここは人攫いも多いから、余計心配になる。膝の悪い僕に妻が守り切れるのかってさ」
夫として守りたい一方、十五の娘っ子には、つらい環境なのではないか。区別されたり、敬遠されたり、と蔑まれることは、泣きたいほど悲しいことなのだから。
また、年齢の近い男の子がやっぱり良いのではないかと悩んでしまう。彼女が頑張り屋で良い子だからこそ、よく悩むのだとジセン。
しかし、それをあやふやに言うとリオに怒られてしまう。
そんなにも自分が信用できないのか、と一方的な夫婦喧嘩になってしまうそうだ。彼は苦笑いを浮かべ、ティエンの疑問に答える。
「僕が言うのも、なんだけど、ユンジェにぶつけたら良いんじゃないかな。君の不安や、抱えている思いを」
「ユンジェに?」
「一人であれこれ悩んでも、結局何も浮かばない。どうしたら良いか、なんて人から助言を貰っても、それを実行できるか分からない。だったら取りあえず、あの子に思いをぶつけて、気持ちを固めたらいいさ。こういうのって、宣言したもん勝ちだと僕は思うんだよ。一度約束を口にしてしまえば、それを守ろうと、がむしゃらになるだろう?」
要はその時の自分にお任せだとジセン。
それは期待していた答えではなかったが、どうしてだろう、いまのティエンには十分すぎる答えであった。
そうだ。あの子はいつも、ティエンと約束を取りつけ、それに従って守ろうとしてくれるではないか。
だったら、自分も一人で思い悩むより、いっその高らかに宣言してしまった方が良い。
「それとティエン。君は王族の身分を捨てない方が良いと思うよ」
ティエンは目を丸くした。その意味は。
「王族はなろうとしても、なれる身分じゃあない。それは天が決めるものだ。きっと、君が王族として生まれたことには、強い意味があると思うんだ」
しかし。ティエンはもう二度と、王族になど戻りたくない。父や兄達のような冷たい人間と接するより、ジセン達のような温かみある人間と接して生涯を終えたいのだ。
するとジセンはティエンの隣に移動して、頭を乱雑に撫でてくる。
「戻れと言っているんじゃない。その身分を捨てなくて良いと言っているんだ。捨てるなんて、いつでもできることだろう? もしもの時、王族の身分が君を救ってくれるやもしれないじゃないか」
痛いほど何度も、頭を撫でてくるので、ティエンはその手から逃げようと頭を振る。少しばかり気恥ずかしかった。
「それとね。ティエン」
逃げるティエンに笑い、彼は言葉を重ねる。
「君はまだ十九の若造なんだから、もっと大人を頼って良い。君はユンジェのお兄さんかもしれないけど、僕は君の十六上のお兄さんなんだ。遠くに行っても、頼れる場所があることを知っておいてよ」
困った時は声を掛けて良い。ジセンの惜しみない気持ちに、自然と口元が緩む。やっと笑える余裕ができた。
「貴方は変わっていますね。呪われた王子に、こんなに優しくしてくれるなんて」
「言ったろう? 災いも歓迎すれば幸いになるって。僕は君と知り合えたことで、楽しい食事ができた。周りは蚕を触る人間を気持ち悪がって、僕を避けてばっかりだからね」
考えただけで腹立ってきた。いっそのこと、生糸を全部税で納めてしまい、織ノ町の人間を困らせてやろうか。彼はいたく真面目に考え始める。
「そうすれば、どれだけ蚕を触る人間が尊敬されるべきか分かってもらえるんじゃないかな。わっ、本気でそうしようかな。僕は自棄になってきたよ」
そうおどけるジセンに、ティエンは笑う。彼はまぎれもなく心から頼れる、素敵な大人であった。
その時である。
外から絹を切り裂くような、高い悲鳴が上がった。それはリオのもの。ジセンは血相を変えて、立ち上がった。
「リオの声っ、彼女に何か遭ったのかっ!」
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