六.ユンジェの罪


 森の奥に進むユンジェは、強い危機感を募らせていた。

 それは追われている、この状況に対するものではない。強まる雨と森に対するものであった。

 生まれた時から、森と寄り添って生きてきたユンジェだ。雨の森の危険性は熟知している。

 視界が利かず、迷子になりやすい。雨が体温を奪い、疲れやすい。足元が滑りやすい。茂みに足を取られる等など、雨の森を避けたい理由はいくつも挙げられる。


 とりわけ、この森は崖が多い。用心して走らなければ、誤って落ちてしまう可能性がある。


 しかし。走る速度は変えられない。

 ほら、耳をすませると聞こえてくる。強い雨音にまじって、じりじりと距離を詰めてくる、人間達の足音が。


(岩穴が見えるけど、無暗に入るわけにもいかない。ああいうところには蛇が多い。獣のねぐらだったら一巻の終わりだ。火もないのに入るわけにはいかっ、うわっ!)


 余所見をしていたせいだろう。ユンジェは根深い草に埋まっている太い枝を踏み、足を滑らせてしまった。


「いってぇ。だから雨の森は嫌いなんだよ」


 尻餅をつくユンジェにつられ、ティエンもその場で両膝をつく。


「ティエン。大丈夫か?」


 必死に頷く彼だが、その顔は苦痛にまみれている。ティエンは限界を超えていた。


 無理もない。

 険しい獣道を、足も止めずに、突き進んでいたのだ。森に慣れているユンジェだって息が上がっているのだから、自分より体力のない彼が限界を迎えるのは当然のこと。


(一度、ティエンを休ませないと。だけど、追っ手はそこまで来ている……焦るな、考えろ)


 周りに見えるのは、茂みや木、そして人が隠れられそうな岩穴。

 ただし、あの岩穴が安全である保障はない。確実に近づいている足音は、ユンジェ達の姿を見失っているのか、微かに掛け声が聞こえる。


(相手の姿が見えないのは同じか)


 そうと分かれば、手はひとつ。


「ティエン。こっちだ」


 膝をついている彼を無理やり立たせると、腕を引き、岩穴の傍にある木の陰に隠れる。

 ティエンは岩穴に隠れると思っていたのだろう。ここでは見つかってしまうと言わんばかりに焦り、ユンジェの肩を強く掴んできた。

 そんな彼に静かにするよう、口元で人差し指を立てる。


「今のうちに息を整えておけよ。また走ることになるんだから」


 戸惑いを含んだ眼に笑う。


「まあ、見てろって」


 程なくして、向こうの茂みから追っ手が現れた。

 男二人は真っ先に岩穴へ向かい、その奥を覗き込むと、一人が岩穴の出口を探すために回り、一人が躊躇いもなく中へ入っていく。


 周囲をよく見渡せば、ユンジェとティエンの姿を捉えることもできただろうに。


(上手くいった)


 ユンジェは口角をつり上げると、ティエンに音を立てないように、と注意をして、その場を離れた。




 岩穴に入らなかった理由はしごく簡単だ。敵の行動を先読みして、回避したまでのこと。

 輩達は足音を頼りに、ユンジェ達を追っていた。追われる二人と同じように、敵も音を頼りに動いていたのだ。


 人間は目で状況を確認する生き物だ。それが使えなくなった時、べつの感覚を頼る。輩達は聴覚を頼っていた。それを逆手に取ったのである。


「頼りにしていた足音が聞こえなくなったら、普通どこかに隠れると思うだろう? そこに手ごろな岩穴があれば、ついつい、そこにいないか確認しちまうもんだ」


 追っている状況であれば、なおさら思考や視野が狭くなっている。

 足音が聞こえなくなり、尚且つ近くに岩穴があれば、『中へ逃げた』と、先入観を持ってしまいがちになる。ユンジェはそれを利用したのだ。

 無論、思惑通りにいくとは限らない。これは賭けであった。


「俺みたいに森に詳しい奴がいたら、この手は上手くいかなかったよ。なにせ、この森の岩穴は危険だ。中は真っ暗だし、獣や蛇がいる可能性もある。安全を確認するためには、火も必要だ」


 知る者からしてみれば、火も持たず岩穴へ入るなど、自滅の道を辿るようにしか見えない。

 ユンジェが男達の立場であれば、まず自分が中に入ることを躊躇ってしまう。

 それをしなかった男達は、あまり森の知識に深くないのだろう。


「岩穴が深ければ、良い時間稼ぎになるんだけどな。こればっかりは運だ。少しでも長く休憩できることを願おうぜ」


 ユンジェはティエンと共に、巨木で足を休めていた。大きな根っこの下に身を隠し、体力の回復を待つ。

 彼の隣で胡坐を掻くと、衣を絞って水を切る。そして、水を含んで重くなった頭陀袋から、干し芋を取り出し、皮むき用の刃物で細く切り分けた。


「ティエン。しゃぶっとけ」


 青い顔をしている彼に、棒状にした干し芋を差し出す。

 このまま食べたところで、硬いし、美味しくも何もないが、何も口にしないよりかはマシだろう。しゃぶり続ければ、干し芋が唾液を吸って柔らかくなるはずだ。


「なに遠慮してるんだよ。ばか」


 一向に受け取ろうとしないティエンの頭を叩き、干し芋を押し付ける。


「お前、口が切れているな。落ち着いたら、冷やさないとな」


 こちらの様子を窺ってくる彼の目から逃げるように天を仰ぐ。雨はまだ止みそうにない。


「ティエンってさ。ピンイン王子って奴なの?」


 いつまでも視線を投げてくるティエンに耐え兼ね、ユンジェは話を切り出す。

 目を見開く彼に、町で騒動になっていたと告げ、それはお前のことなのか、と尋ねた。

 たっぷりと間を置き、ティエンは小さく頷いた。隠すつもりはないようだ。


「ふうん。そっか。お前、本当の名前はピンインって言うのか。変わった名前だな」


 ティエンが、きょとんとした顔で見つめてくる。ユンジェも、きょとんした顔で彼を見つめた。

 様子を見る限り、彼はもっと別の反応に、心構えをしていたようだ。


「あっ。もしかして王子の方に反応してほしかった? だったら悪いけど、期待には応えられそうにないぜ? 俺は王子がなんなのか、これっぽちも分かっていないんだから。それは商人か?」


 彼は首を横に振る。


「じゃあ、医者とか?」


 彼はまた一つ、首を横に振る。


「地主?」


 彼は眉を顰めて考え込んでしまう。地主と何か関係があるのだろう。迷う素振りを見せた。もしかすると、王子は地主に似たものなのかもしれない。ユンジェは己の知識の浅さを思い知る。


「王子のお前は悪いことをしたのか?」


 だから追われているのか。

 疑問を投げかけると、彼は静かに目を伏せた。それは肯定でもなければ否定でもない。途方に暮れた姿は、ユンジェに何を伝えたいのか分からない。

 こういう時、言葉が交わさればな、と思う。

 ユンジェは膝を抱え、雨音に耳をすませる。まだ追っ手の足音は聞こえてこない。もう少し休めそうだ。


「天は人間が悪いことをしたら、そいつに裁きを下すんだそうな。じじがよく言っていたよ。だから悪いことをするな。苦しくても盗みはするなって……これは俺のせいかも」


 ティエンが弾かれたように顔を上げ、距離を詰めて迫ってくる。違うと、そうじゃないと言いたいのだろう。

 しかし、ユンジェには強い心当たりがあった。自分は大きな過ちを犯している人間だ。


「俺な、じじが死ぬ半年前に人を殺しているんだ。俺が十歳の時だった」


 もう三年余りになろうか。ユンジェは人をあやめてしまった。殺した相手は追い剥ぎであった。


 その日、一人で町に出掛けたユンジェは日が落ちるまで物売りをし、足軽に夜道を歩いていた。

 驚くほど野菜や縄が売れたのだ。ユンジェはいつもよりも、重たい銭袋を頭陀袋に入れ、じじの待つ家を目指した。


 それをどこかで盗み見られていたのだろう。道すがらで襲われてしまったのである。

 老いた追い剥ぎではあったが、ずいぶんと乱暴者であった。藪から飛び出したかと思ったら、草刈鎌で切りつけてきたのだから。

 ユンジェは無我夢中で逃げた。怖くて恐ろしくて堪らなかった。捕まっては殴られ切られ、それでも逃げようと、生きようと必死になった。


 そうしてもみ合いになっている内に、追い剥ぎは草刈鎌を落とした。

 輩が拾う前に、ユンジェが奪い、草刈鎌で相手を切りつけた。助かりたい一心で、何度も切りつけた。


「頭が真っ白になっていたんだ。気が付いたら、血ぬれた草刈鎌を持って家に帰っていたよ。じじの驚いた顔は、今でも忘れられない」


 家に帰り着いたユンジェは、怪我と疲労で何日も寝込んでしまった。

 起き上がるまでに回復した頃、追い剥ぎの存在を思い出し、じじに尋ねた。自分は追い剥ぎを切りつけてしまったが、あれはどうしてしまったのだろう、と。


 じじは曖昧に笑うだけで、何も教えてくれなかった。もう大丈夫だと、安心させる一言をくれる以外、何も言わなかった。


 追い剥ぎを殺してしまったのだと知ったのは、畑仕事に復帰して間もなくのこと。

 じじはユンジェに内緒で、追い剥ぎの墓を立てた。森の奥地に、ひっそりと小さな墓を。


 直接切り殺してしまったのか、それとも血を多く流して死んでしまったのか、それは分からない。


 ただ、どのような死因であろうと、ユンジェのせいであることは明白であった。


「その半年後にじじは病死した。俺のせいだと思った。追い剥ぎに襲われて以来、じじは体調を崩してばっかりだったから」


 そしてじじは死んでしまった。

 天からの裁きなのだと、ユンジェは思った。自分が追い剥ぎを殺してしまったから、天は大好きな祖父を取り上げてしまったのだ。


 今度はティエンを取り上げようとしている。ティエンと過ごす一年は本当に楽しかったから、天はユンジェに告げているのだ。お前の犯した罪を忘れるな、と。


「ずっと、お前と楽しく暮らせたらいいなって思ったから、天は怒ったのかもな。人を殺したくせに、楽しくするなって……」


 ユンジェは、静聴しているティエンに力なく笑う。


「たぶん俺は、追われている王子のお前よりも、ずっと……ずっと悪い奴だよ」


 息をつく間もなく強い力で肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。

 ティエンがこれまでにないほど、口を動かしていた。真剣な顔で擦れた音を出し、鋭い眼光を向けている。

 ユンジェを叱咤しているのかもしれない。軽蔑しているのかもしれない。もしくは別の感情をぶつけているのかもしれない。


「ごめんな。もっと早く言うべきだったんだろうけど……俺は人殺しなんだ」


 何度も両の手で肩を叩いてくるティエンは、首を横に振るばかり。声が出ない己に怒りを見せた。


 気持ちを伝えられないことが、ただただ、もどかしいのだろう。

 彼は右手で拳を作ると、自分の太腿を叩きつけた。


「ティエン」


 彼にそっと声を掛けると、両手が頭を掴んできた。

 ユンジェの額に、己の額を重ねてくる。それはよく大人が、泣きじゃくる子どもを慰める時に使う手だ。

 ティエンはユンジェを慰めてくれているようだ。軽蔑されるべき話をしたのに。


「俺は子どもじゃないって」


 抵抗する気にもなれないのは、大人に甘えたい自分がいるせいだ。

 ティエンが大人なのかどうかは分からないが、少なくともユンジェは彼を兄のように見ている。甘えたくなるのは仕様がない。

 そして、それが罪びとの自分に許される行為なのか、ユンジェには判断がつかない。


 小降りとなった雨にまじって、微かに呼び合う声が聞こえる。どうやら休憩は終わりのようだ。

 聞こえる声を合図にティエンが、力強くユンジェの腕を引く。最後まで巻き込む覚悟が決まったようだ。腕を握ったまま外を指さして、見下ろしてくる。


(俺と一緒に逃げ切るつもりなんだな。お前)


 まったく。頼りになるのか、ならないのか、本当に分からない男だ。ユンジェは小さく笑ってしまった。


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