五.謀反人
月日は流れ、また蒸し暑い雨の続く季節がめぐって来た。ティエンと出逢って、もうすぐ一年。振り返ると、あっという間の日々であった。
その一方で、まだ一年しか経っていないのか、という思いもある。
ティエンと暮らし始めて、もう五年も経っている気分なのだ。それだけ彼と過ごす時間が濃いのだろう。
「今日は晴れたな、ティエン。久しぶりのお日様だぜ」
突き上げ戸から身を乗り出し、晴れ渡った空を見上げたユンジェは、衣の帯をしっかりと締める。
既に身支度を済ませているティエンは、昼餉に食べる弁当の用意をしていた。
昨晩、森で獲ったジャグムの実を丁寧に切り分けている。
その手つきは慣れたもの。実を切り分け終わると、蒸した芋に添え、手早く葉で
ユンジェは当時のティエンを思い出し、小さく噴き出してしまう。
(変わったよな、ティエンの奴。すごく頼もしくなった)
この一年で、ティエンは出逢った頃より、ずっと逞しい男になっていた。
ユンジェに比べれば、まだまだ非力で、手先も不器用であるが、うんと体力もつき、ひとりで畑仕事ができるほどに成長している。
反面、相変わらず声は失ったままだ。華奢な体や美しい顔も変わらないので、パッと見は女に見える。
ティエンに言えば、烈火の如く怒られそうなので黙っておくが。
「ティエン、どうした?」
弁当を作り終えた彼が、困った顔で小壷を持ってくる。
それは油を入れている壷であった。中を覗くと、すっからかんとなっている。今夜分の油がない、と言いたいのだろう。
ユンジェはふたたび、突き上げ戸から身を乗り出し、ぐるりと空を確認する。
今のところ晴れてはいるが、少々雲が多い。雨の季節なので、午後から雨が降るかもしれない。
「こりゃひとっ走り、町へ買い出しに行かねーと。ティエン、俺が買って来るから、お前は畑を頼んだ。連日の雨で、土が硬くなっているだろうから、
小壷を持ったまま、ティエンが弁当を指さす。
「昼前には戻ってくるから、弁当はお前が持っててくれ。雨が降る前に、畑仕事は終わらせないと。獣除けの柵も壊れそうになっていたから、後で確認しなきゃな」
ティエンの指が、
「お前が持っとけよ。もし雨が降ったら、それを着て仕事をしたらいい。衣が濡れると動きにくいからな」
今度はじっと見つめられる。その目を見つめ返し、ユンジェは笑った。
「ひとりでも大丈夫だって。今日は金で油を買うから、平等に扱ってくれるはずだよ。だけど騙されないようにしなきゃな。あそこの店主、値札が読めないとすぐ、巻き上げようとするから」
腰にさげた布袋から銭を出すと、手の平で数える。
大体これくらいだろう。一生懸命に数えた硬貨をティエンに見せると二枚、手の平から硬貨を取り上げられる。
なるほど、少々多かったようだ。危うく油屋の主人を喜ばせるところだった。
「……金の数え方って難しいな。物々交換が多いもんだから、いざ金で買うとなると、いくら用意すればいいのか分からなくなるよ。あっ、そんな顔をするなってティエン」
字が読める彼は、一緒に行くべきではないか、と憂慮を見せた。ユンジェが騙されないかどうか、心配でならないのだろう
「だっ、大丈夫だってティエン! お前に数の読みは習ったんだ。あ、あんまり大きな数字は分からないけど、油くらいなら騙されずに買えるって」
こういう場合、ユンジェが畑へ。そしてティエンが町へ行き、油を買った方が心配事も少なくなるだろう。
けれども、ティエンは口が利けない。そこにつけ込む商人も多いため、彼だけで買い出しに行かせることは、とても難しい。
また雨が降る前に、畑仕事を終わらせたい。ユンジェ一人で行くのが一番なのだ。
「じゃ、行ってくる。畑を頼むな」
小壷を持って足軽に家を出ると、ティエンが後を追って来た。
何か忘れ物でもしたのかと思いきや、頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。ついでに鼻を抓まれた。からかっているようだ。
「ティエンっ、お前なっ!」
どうかしたのか、と首を傾げてくる彼は、すっとぼけた顔で見つめてくる。そんな顔をしたところで、ユンジェには通用しない。
「お前の目を見てりゃ、何が言いたいのか、すぐに分かるんだよ! くそっ、子ども扱いしやがって! 俺はもう十四だ。たとえ騙されたとしても、泣いて帰ってくるもんか!」
ティエンがおかしそうに頷いてくる。はいはい、とでも言っているのだろう。
すっかり兄分の顔で、ユンジェを見送ってくれる。
悔しいが、こういうやり取りは嫌いではない。心のどこかで甘えたくなる自分がいる。
ふと、ティエンの帯に目を向ける。
そこには例の懐剣がたばさんである。落とせば血相を変えるくせに、帯に挟む癖は何度言っても直らないのだから、困ったものだ。
(……あれ以来、あの懐剣には触れていないなぁ)
ティエンが顔を覗き込んできた。
我に返ったユンジェは、何でもないと顔を振り、今度こそ家を出発する。
一度だけ、足を止めて振り返る。ティエンが笑顔で手を振っていた。それに大きく振り返すと、ユンジェは町を目指し、森へと入った。
(俺が懐剣から聞いた使命、あれは幻聴だったのかな)
道すがら、懐剣の出来事を思い出す。
ティエンが懐剣を落とした、冬のあの日。
懐剣を見つけたユンジェは高熱を出し、倒れてしまった。
更にそれは五日も続く大変な熱で、ろくに水も粥も喉を通らず、何を口にしてもおう吐した。
極端に人を避けるティエンが、顔なじみのトーリャに助けを求めるほど、それはそれは酷いものだった。
ユンジェ自身も、高熱で死ぬかもしれない、と覚悟を決めたほどだ。いま思い返しても、あれはつらい熱だった。
そんな中、ユンジェは夢を見た。
熱に魘されている間、ずっと夢を見ていた。おぼろげな夢だった。しかし、はっきりとした夢だった。矛盾していると言われそうだが、そうとしか言えないのだ。
ユンジェは憶えている。
おぼろげな夢の中で、はっきりと姿を現した
見上げるほどの巨体を持ち、目がくらむような、美しい体毛を持っていた。黄金色の毛であった。体には鱗もあった。三つの立派な角もあった。
夢の中、ユンジェは麒麟と向かい合い、視線を交わしていた。
言葉は無かったが、見つめる眼が、大きな使命を託そうとしていた。それを受けるべきかどうか迷ったところで、ユンジェは目を覚ます。夢はその繰り返しであった。
熱が引くと、麒麟は姿を消した。
あれ以来、一度も夢に出てこなくなってしまったのだ。
(あの夢は一体、なんだったのだろう……)
誰かに聞きたいところであったが、尋ねたところで首を傾げるだけだろう。
ティエンに聞けば、何か分かるかもしれないが、少し気が引ける。
彼は高熱に魘されるユンジェを、本当に心配していた。容態が落ち着き始めると、ホッと胸を撫で下ろし、陰でこっそりと泣いていた。その姿を知っているので、当時の話が出せずにいる。
(ティエン……自分のせいで熱が出たんだって、責任を感じていたしな)
そんなわけがないのに。
体調を崩したのはユンジェ自身の問題だ。懐剣を拾い、鞘から刃を抜いただけで、あれほど苦しい高熱が出るとは思えない。
あの時のユンジェは、自分でも気づかないほど、体調不良だったのだ。きっと、そうだ。
(でも倒れる寸前、ティエンの傍に麒麟がいた。あいつ、吉凶禍福の運命を背負う天の子だって麒麟に言われていた。あれは幻だったのかなぁ。もっぺん懐剣を抜いてみれば、なんか分かるのかな)
けれどティエンが、それを許すとは思えない。考えれば考えるほど、頭がこんがらがる。
(やめだやめだ。考えたって答えは出ないんだ。それより早く油を買って、あいつの下に帰ろう。そうだ。せっかく町に行くんだ。お土産でも買っていこうかな)
ティエンと出逢って、もうすぐ一年。
お祝いするというのもおかしいが、ちょっとくらい贅沢をしても良いだろう。金は多めに持ってきた。桃饅頭を買う金くらい残るはずだ。
(いつもは一個を半分にするけれど、今日は二個買っていこう)
それを二人で一緒に食べるのだ。想像するだけで心が弾む。ユンジェは駆け足で、見えてきた町へと向かった。
◆◆
「な、なんだ? なんの騒ぎだ?」
町に入ったユンジェは戸惑った。
何やら、町の様子がおかしい。あちらこちらで、かっちりと鎧を着た人間が見受けられる。肩に弓を掛けている者や槍を持った者、馬に乗っている者もいた。
それらは無遠慮に町人の家屋に入っている。そのせいで、町人達は酷く怯えていた。
物々しい町の雰囲気に眉を顰めながら、油屋を目指していると、『カエルの塩屋』の前で悲鳴が聞こえた。
足を止めて様子を窺うと、カエルの顔をした店主が膝をつき、青い顔で懇願している。それを尻目に、鎧を着た人間達が塩の入った大袋を、次から次へと刃物で裂いた。
あの店主には積年の恨みがあるユンジェだが、あれは酷いな、と思う。
あんな風に破かれてしまえば、多くの塩が地面に零れ落ちる。売り物にはならないだろう。
(何だろう。すごく嫌な予感がする)
鼓動が早鐘のように鳴る。
息が詰まるような胸騒ぎを感じていると、広場の方から厳かな声が聞こえた。
近寄ってみると、馬に乗った勇ましい男が、集う野次馬達に向かって声音を張っている。ユンジェは野次馬にまぎれた。
「この辺りに、
野次馬達がどよめく。ユンジェは首を傾げた。聞いたことも無い、難しい単語ばかり耳に入ってくる。
(さんだつしゃ。むほんにん。りんのくに? まず王子ってなんだよ。第三ってことは第一や第二もあるのか? 縛り首は、なんとなく分かるけど)
反芻したところで、知識の乏しいユンジェには、まったく理解ができない。ティエンなら意味が分かるだろうか。
「ピンイン王子の特徴は次の通りだ。黒髪に黒目。華奢な体躯をしており、容姿は美しく、おなごのよう。その容姿を活かして性別を偽っている可能性もある。誰か、ピンイン王子や、輩を匿う謀反人のことを知らぬか。知らせた者には褒美を渡そう」
すべての音が遠のいた。口内の水分が吹き飛び、背中に冷たい汗が流れていく。息を詰めると、腕におさめる小壷を強く抱きしめる。
(まさか、ピンイン王子って……)
しかし、ユンジェはすぐに己の考えを否定した。
いくら特徴が重なるからといって、それがティエンだとは限らない。彼のように、美しい容姿を持つ、天女のような男が近くにいるやもしれないではないか。
けれど。脳裏に過ぎる一年前の記憶が、ユンジェを嘲笑う。
出逢った当初のティエンは、浅いながらも怪我を負っていた。高価な衣を着ているにも関わらず、無一文で倒れていた。
目覚めた彼は声を失い、ユンジェに酷く怯えていた様子で、懐剣を向けてきた。
(……生活に慣れても、あいつは俺にしか顔を見せようとしなかった)
彼はいつも人を避けていた。
(俺はティエンのことを、ほとんど知らない)
べつに知らなくても良いと思っていたのだ。
ティエンも口が利けないし、仮に事情を聴いたところで、自分には理解できない話だと決めつけていた。大切なのは今だと思い込んでいた。
手汗を衣で拭うと、ユンジェは予定通り、小壷を抱えて油屋へと向かう。
(落ち着け。下手に焦って周りに見られたら、怪しまれる)
こういう時だからこそ、よく考えろ。人間は予期しない場面に出くわすと、冷静さを欠かしてしまう。
そのせいで余計な行動を取ってしまい、自ら悪い事態を招いてしまう。
(思い出せ。
ユンジェは自分に言い聞かせた。
角を曲がると、向かい見える油屋にも、鎧を着た人間達が立っていた。
塩屋とは違い、そこは穏やかであった。何やら話し込んでいるようで、初老の店主が鎧を着た人間達に、媚びへつらっている。
あの顔は金にがめつく時の顔だ。
ユンジェは早足で来た道を戻り、油屋の裏手へ回る。
そこには油を入れるための、空の樽がずらりと並べられていた。誰もいないことを確認すると、突き上げ戸の下まで大樽を引きずり、それに身を隠しながら耳をすませる。
微かにではあるが、会話が聞こえた。
「ええっ。よく店に来る農民の小僧が、確かに美しい男を連れていたんですよ。そいつぁ顔をいつも、隠すように頭から布をかぶっているんですがね。あたしゃ確かに見たんです。そいつの綺麗な顔を。まるで女のような顔でしたよ」
物音と足音が交互に聞こえる。
「人毛屋の主人が、ピンイン王子らしき男の髪を切ったそうです。もう、一年も前になるそうですが」
慌ただしい足音が複数になった。
「農家をしらみ潰しに行け。ピンイン王子は、農民に化けている可能性が高い」
目の前の大樽に爪を立て、ユンジェは何度も深呼吸を繰り返した。
落ち着け、冷静になれ。けれど急いで考えろ。ティエンが何者であるか、そんな二の次、三の次。彼に危険が迫っていることを知らせなければ。王子の可能性を否定し、逃避している場合ではない。
ティエンが危ない。
(町では決して取り乱すな。走るな。焦るな。誰が見ているか分からないんだ)
おかしな態度を取れば、油屋の店主達のように、誰かがユンジェのことを知らせてしまう。
(だけど、早く町から出ないと。俺の顔は、商人達に知られている)
ふと、背後にぞくり、と悪寒のするような視線を感じた。まさか盗聴している、この姿を見られているのでは。
慌てて振り返る。誰もいない。おかしい。確かに、冷たい視線を感じたのだが。
(ここにいるとまずいな)
ユンジェはすくりと立ち上がり、音を立てないように移動を始めた。なるべく人通りが少ない道を選び、周囲を警戒しながら町を出る。
森の中に入り、町の姿が見えなくなったところで駆け足となった。
天を見上げると、黒い色の雲が青空を食らい尽くそうとしている。さっきまで、あんなに晴れていたのに。もうすぐ一雨くる。
半分まで来たところで、馬の鳴き声と蹄の音が聞こえた。
道から外れ、草深い茂みに身を投げると、瞬く間に三頭の馬が通り過ぎていく。
鎧を着た人間達が見えたユンジェは、抑えきれない恐怖と、それをねじ伏せる冷静の中で葛藤していた。
ティエンが危ない。早く危険が迫っていることを伝えなければ。
その一方で、ここで冷静にならないと、余計な事態を招くと叱咤する自分がいる。
結果、ユンジェは獣道を無我夢中で走った。
抱えていた小壷を捨て、息が切れるまで、切れても尚、走り続ける。肺が引き攣り、痛みを感じた。構わなかった。
馬よりも早く家に着くことができれば、いくらだって痛みなど我慢できる。
(お願いだ! ティエン、逃げてくれっ。あいつらが来る前に!)
ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
鼻の頭に水滴が落ちてくるが、それを拭う暇も惜しい。
三頭の馬はユンジェの家に、もう着いてしまっただろうか。
それとも、家の存在に気付かずに、素通りしてくれただろうか。自分の家は、生い茂る森の一角を切り開いた場所にある。
だから、もしかすると……いや、淡い期待は持たない方が良い。森の一角にあるとはいえ、ユンジェの家は土で固めた道が続いている。気付かないわけがない。
(あっ!)
獣道を抜けると、家の裏にある畑が目に飛び込んでくる。ユンジェは身を屈め、木の陰に隠れた。
大切に育てている畑が、馬達によって踏み荒らされている。土の上で、無残に萎れている豆の葉が痛々しい。
ああ、それよりも。恐れていた事態が起きている。
(ティエンっ……あいつらに捕まってる)
彼は畑の真ん中で、鎧を着た人間に取り押さえられていた。
二人がかりで、両の腕を押さえられているだけでなく、喉元に
既に何度も暴れたのだろう。ティエンの口端は切れ、血が出ている。
(敵は男三人。馬は三頭か)
男達の会話が聞こえる。
ティエンを匿っていた
(謀反人って意味が分かんないけど、俺がお尋ね者になったってことは分かる。俺も危ないってわけだ)
ティエンを置いて逃げるつもりなど、毛頭も無いが。
(いい具合に雨が降ってきたな)
本格的に降り始めた雨を利用しない手はない。
ユンジェは、足音を消してくれる雨にまぎれ、家の表口へ向かう。
敵がいないことを確認すると、素早く家の中に入り、縄の束を手に取った。それを
(よく考えろユンジェ。真正面から大人に突っ込んで、まず勝てるわけがない。俺はいつも、それで泣きを見てきた。だったら頭を使え)
あの大人達の最大の強みは数と馬だ――それを崩すためには。
ユンジェは頭陀袋に銭や塩の袋。皮むき用の刃物。干し芋を詰め込む。もう此処には戻って来ることができないと分かっていたからだ。
(俺は二度と、此処に戻って来れない。ごめんな、
ティエンが持っていた麒麟の首飾りを頭陀袋に入れてしまうと、藁の束を突き上げ戸の下へ置いた。
藁の上にティエンの所有物である美しい衣を置く。それは、彼が着ることのなくなった高価な衣で、いつか売るつもりだと、態度で示していた。
(ティエン、悪い。燃やすな)
衣に木くずを盛って、火打ち石を叩く。
(油があれば良かったんだけど)
火花が木くずに落ち、小さな火種が生まれる。
急いで木くずを両手で持って、手の中で振った。やがて火種が火となると、衣の上に落とし、それが衣全体に燃えるよう、何度も上下にはためかした。
突き上げ戸から畑の様子を確認すると、藁の中に燃える衣を埋め込む。
基本的に藁は燃えやすい素材だが、それは乾燥し切った物に限った話だ。水分を含んでいる藁は燃えにくく、炎が上がるまでに時間が掛かる。
特に稲わらは十分に干さないと燃やしても、上手く広がらない。白煙ばかりが出る。
毎年藁を燃やして、肥料を作っているユンジェだ。
その知識を活かし、白煙を起こした。それは瞬く間に、家の内に充満し、突き上げ戸から漏れていく。
出入り口に立て掛けている
「げっ、なんだこれ。あいつ、何か料理でも作っていたのか? 家中が煙でいっぱいじゃんか! ティエンの奴、どこに行ったんだよ!」
畑にまで聞こえるように腹の底から出した声は、男達の耳に届いたようだ。ティエンに柳葉刀を突きつけていた輩が、様子を見にやって来る。
(よしよし。一人でこっちに来たな)
家の外壁に隠れていたユンジェは、男が出入り口に立った瞬間を見計らい、鍬(すき)で両膝裏を叩く。
体が傾いたところで、首の後ろを
「そこでおとなしくしてろ!」
「ティエン、走れ!」
遠心力で勢いづいた芋を、男達の傍らに待機させている馬の顔目掛けて投げつける。一頭の馬が驚き、天を裂くような声で鳴いて二足立ちをした。
それにつられて、もう二頭の馬も鳴いて暴れ始める。
馬に気を取られ、拘束している手が緩んだのだろう。ティエンが男達の手を振り払い、双方の顔に土を掛けると、ユンジェの下へ駆ける。
「早く! こっちだ!」
ティエンの手首を掴むと、二人で森に逃げ込む。背後から男達の怒号が聞こえた。
「くそ。雨がひどくなってきた」
降る雨が強くなる。水分を含んだ衣が重くなり、動きにくくなる。視界も悪い。
背後を一瞥すると、ティエンの息が上がっていた。長時間の逃走は難しいだろう。最善の策は敵を撒いて、身を隠すことだが。
(そう甘くはないか)
馬が走れそうにない、険しい獣道を突き進んでいたというのにも関わらず、追っ手の足音が聞こえる。己の足で追って来たようだ。
「ティエン。その目はやめろよ。怒るぞ」
追っ手を確認するために後ろを振り返ったユンジェは、ティエンの行き場のない、怒りと悲しみを宿した目に気付き、鬱陶しいと足蹴にした。
彼は責任を感じているのだろう。ユンジェを巻き込んでしまった己に、情けなさや腹立たしさを感じているのだろう。
しかし。そんな目をされたところで、この状況は何も変わらない。
「ティエンも考えるんだ。この状況をどうしたら、乗り越えられるか。よく考えないと、俺達は生き残れない」
ふたたび振り返り、いたずら気に笑う。
「謝るくらいなら、最後まで責任を持って巻き込めよ。俺は最後の最後まで、お前に付き合うさ」
力なく笑うティエンが、そこにはいた。
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