三.ティエン(壱)


 声を失った美しき男、ティエンを拾って早ひと月。


 ユンジェは彼と、仕事に出向くことが日課となっていた。

 ティエンの怪我は十日足らずで完治したものの、彼には帰る家がなく、他に行く所もなかった。彼自身も、今後について深く悩んでおり、日を増すごとに表情は暗くなった。


 ユンジェには、彼の事情など一切分からない。


 何故、森の中で倒れていたのか。怪我をしていたのか。声を失っているのか。見たこともない、美しい衣を着る彼の身分すらも。

 しかし、困っていることはよく分かった。そこで彼に提案した。


「ティエン。助けた代わりに、俺の仕事を手伝ってくれよ。もうすぐ収穫の時期で、一人じゃ大変なんだ」


 このまま家にいても良い。

 素直にそう伝えるよりも、彼に役割を与えた方が、ティエンも要らない気遣いをしなくて済むと思った。察しの良い彼は、ユンジェの意図に汲み、何度も頷いてくれた。どこか泣きそうな顔だった。


 こうしてティエンは、ユンジェの手伝いを始める。

 華奢な体をしている彼は、見た目通りの非力なので、木を伐ったり、すきで芋を掘ったり、重い物を持つことはできない。

 それでも畑や森に連れて行くと、見よう見まねで、自分の仕事を覚えようとする。


 彼はとても熱心だった。高飛車な態度を取っていたあの頃が霞んでしまうほど、よく働いてくれた。


 本来のティエンはきっと、優しく、義理堅い性格をしているのだろう。

 声こそ聞けないが、立ち振る舞いで分かる。彼は恩を返そうと一生懸命であった。



 その頃からだ。ティエンの食事に変化が現れる。

 以前の彼は米や新鮮な川魚、形の整った甘い果実を好み、土臭い根物や彩りのない料理を拒んでいた。

 ユンジェに心を開いても、それは一緒で、芋料理や、豆ばかりの煮物、味の薄い葉物汁を出しても、あまり良い顔をしない。舌が肥えているのだろう。


 けれど。仕事を手伝うようになって、彼はそれらを美味そうに食べるようになった。

 どれも自分が働いて得た、貴重な食い物だ。思い入れが強いのだろう。なにより苦手としている芋粥を出しても、ティエンは喜んで食べていた。


 仕事に触れること自体、初めてなのかもしれない。

 晩に藁で縄やむしろをこしらえていると、彼は好奇心を宿した目で、いつもその作業を見守ってくる。先に寝て良いと言っても、ユンジェがその仕事を終えるまで、見守り続けるのだ。


 時に疲れが優って眠りこけてしまうことがある。その度に衣を掛けてやった。


 その夜もティエンは夢路を歩き、壁に寄りかかって眠りこけていた。

 作業の手を止めたユンジェは、風邪を引かないよう衣を肩から掛けてやる。あどけない寝顔は、まるで子どもであった。


(大きな弟ができた気分だよ。世話が焼けるなぁ)


 ティエンはユンジェより、年上であることには違いないだろうが、どうにも年下を世話している気分だ。彼を弟と言っても、まったく違和感はない。


(お前は今まで、どうやって生きてきたんだ? ティエン)


 ユンジェは常々疑問に思う。

 畑仕事も、木を伐ることも、藁で物を作ったことがないティエンは、これまでどうやって生きてきたのだろう。どうして、生きてこられたのだろう。

 

 良いところで育ってきたようだから商人か薬師、地主辺りの子だろう。他にも裕福な職があるかもしれないが、ユンジェの知る限りはこれらであった。


 生まれて、畑と森と町を行き来するばかりの生活を送ってきたユンジェだ。範囲を超えれば、知る術もない。


(いいや。ティエンがどこの人間だって。今は俺と同じ農民なんだ。それでいいじゃないか)


 行く場所がない彼を、ユンジェが拾い、家に置いているのだ。身分を気にしたところで、どうしようもない。大切なのは今だ。


 ユンジェは藁や道具を片付けると、ティエンの隣に並び、彼に掛けていた衣の半分を自分の方に引いた。

 家にひとり、人間が増えるだけでユンジェの家は苦しくなったが、心は以前より穏やかであった。

 じじがいなくなってから、ひとりで生活してきたユンジェだ。


 もう子どもではないと思う一方で、人恋しく思っていた。

 毎日、同じような仕事を一人でこなす、その日常にさみしさと虚しさを覚えていたのだ。


 だから苦労が増したって、これでいいと思える。


「お金をためて、医者にティエンを診てもらおう。声が戻るかもしれない」


 ユンジェは静かに瞼を閉じた。やがて体が傾き、ずるりと壁を滑っていくが、それはティエンの肩によって受け止められる。


 大きく柔らかな手が、ユンジェの体を引き寄せたのは、それから間もなくのことであった。



 ◆◆



「ティエン。大丈夫か? もっと俺の籠に豆を入れてもいいんだぞ」


 ユンジェは朝から、ティエンを連れて出掛けていた。


 日課となっている畑仕事には向かわず、収穫した芋や豆を背負い籠に入れ、険しい森を進んでいる。

 おうとつと傾斜が激しい道なので、慣れていないとティエンのように、すぐ疲労してしまう。


「ほら、ティエン」


 頭から布をかぶり、顔を隠しているティエンだが、その下は苦痛にまみれていることだろう。

 息が上がっている彼を気遣い、己の背負い籠に収穫した豆を入れるよう促す。


 しかし、ティエンは首を横に振った。

 これ以上、軽くしてもらっては悪いと思っているのだろう。ユンジェの背負い籠には重量感のある、大小の芋が隙間なくひしめきあっている。

 ユンジェにしてみれば、彼が持ってくれている分、いつもよりも軽いと思える量なのだが、ティエンは頑なに気遣いを拒んだ。


「なら。もう少し、ゆっくり歩くよ」


 ティエンが申し訳なさそうに頷いた。険しい道に加え、歩く速度が早かったようだ。


「ん? なに」


 彼が口を動かし、何かを訴えてくる。おおかた今日の予定を聞いているのだろう。


「塩と油、それに藁が少なくなったから、物々交換に行くんだ。まずはいつも、藁をもらっている農家に行く。笊一杯分の豆と芋で、五束は交換してもらえるはずだ」


 すると。彼はぎゅっと眉を寄せてしまった。貴重な収穫物を藁に交換するのは勿体無い、とでも思っているのだろう。


 とんでもない。その反対だ。


「藁は物を作るだけじゃない。畑の肥料にもなるんだ。良い土が手に入れば、良い収穫物になって高く売れるだろ? だから藁は必要なんだ。もう米の収穫も終わっているだろうから、藁が出ているはずだ」


 ユンジェの家は水田を持っていないため、それを持つ農家の下で、物々交換の取引をしている。水田を持つ農家も、芋や豆といった食糧が欲しいことは知っている。芋に至っては保存も利くのだ。円滑に取引が行えるだろう。


「なんだよ、ティエン。そんなに感心したって、今日の飯は豪華になんねーぞ。畑仕事やっている人間なら誰でも知っていることだって」


 何度も頷き、態度でユンジェを称賛するティエンに、苦笑いを作る。悪い気はしなかった。





「あら、ユンジェじゃない。久しぶりね」


 得意先となっている農家を訪れると、を振るって米を脱穀している少女が手を止めた。

 ひとつ年上のリオだ。ここに来ると、いつもユンジェを歓迎してくれる。


 どんな状況でも、笑顔を忘れない女の子なので、彼女の顔を見ると心が軽くなる。


「リオ、久しぶり。おじさんか、おばさんはいるか? 取引をしたいんだけど」


「お母さんが家にいるわ。いま、呼んでくる。そちらの人は?」


 ティエンはユンジェの背後に立ったまま、動こうとしない。

 あまり人と顔を合わせたくないのだろう。リオに会釈をすると、背を向けてしまう。もう少し、愛想を良くしてもいいだろうに。


 程なくして彼女の母、トーリャが顔を出した。ふくよかな体が、ずんずんと大またで歩く姿は、いつ見ても迫力を感じる。


「ユンジェ。良く来てくれたねぇ。あんたを待っていたよ。さっそくだけど、少しばかり芋を多めに貰えないかい? 今年の冬は厳しくなりそうでねぇ」


「……米、不作なの?」


 背負い籠を下ろし、物々交換の準備をするユンジェは、トーリャのため息を聞き逃さなかった。


「雨が多かったものだから、穂に実がつかなくてねぇ。ただでさえ、今年は多めに税を納めないといけないというのに」


「また税が上がったの? 去年上がったばかりじゃないか!」


 ユンジェは頓狂な声を上げる。

 多くの農民は地主から土地を借り、そこで農作物を育てている。土地を借りている代わりに、収穫の一部を税として納めているのだが、近年その税の量が増えている。

 農民達にとってしてみれば、堪ったものではない。

 収穫の量は天候によって左右されるため、毎年同じ量を納めることができるとは限らない。


 なのに、地主は年貢の量を増やす。

 特に水田を持つ、農民達の税を集中的に上げるので困っているのだと、トーリャは顔を顰めた。


「米は贅沢品で、お偉いさん方の好物だ。私達から絞れるだけ絞って、たんまりと米を食べようって寸法だろうさ」


 酷い話だ。農民にだって生活があるというのに。


「おばさん、笊三杯分の芋を用意するから、多めに藁をちょうだい」


「いいのかい? 二杯分にしてくれたら、儲けものだと思っていたんだけれど」


「いいよ。おばさんのところは、八人家族じゃないか。冬に備えて、蓄えておきたいだろ?」


 ユンジェの家も苦しいが、トーリャの家はもっと苦しく、大変だということを知っている。困っている時は助け合うことが大切だと、じじから口酸っぱく教えられているため、笊三杯分の芋を用意した。

 ティエンに笊一杯分の豆を用意してもらい、トーリャに差し出す。彼女は頭を下げ、感謝を述べた。


「ユンジェ。本当にありがとう。後で藁と一緒に砂糖をあげるよ。持っていておくれ」


 砂糖は米よりも贅沢品だ。手軽にもらえる品物ではない。

 しかし、トーリャは渡すと言って譲らなかった。彼女は本当に律儀で優しい女性だ。ユンジェは心の底から、トーリャを尊敬する。


「あんたのところも、チョウじいが亡くなって大変なのに、すまないねぇ」


じじが死んで、もう二年経つんだ。大変なことは多いけど、慣れていかないとね」


「あんたはしっかり者だねぇ。リオ、ユンジェを見習って頑張るんだよ。あんたも、もう立派な大人で、人様の嫁になるんだから」


 嫁。ユンジェはリオを凝視した。


「お前、嫁ぐのか?」


「うん……七日後にね。もう、十四だから」


 彼女は近くの土地で、養蚕業を営む家に嫁ぐのだそうだ。

 ユンジェはくしゃりと、胸が押しつぶされたような、つらい気持ちになった。喜ばしい話だというのに息が苦しい。


「まだ会ったこともないんだ。私の旦那さん、どんな人だろう……」


 リオは乗り気でないのだろう。表情は浮かない。

 近くとはいえ、知らない土地で、知らない人間と、新しい生活を送らないといけないのだ。楽しみより、恐怖があって当然だ。


 それでも彼女は嫁がなければならない。

 それはきっと家のためであり、家族のためなのだろう。語る口から一言も、拒絶の言葉は出なかった。


「元気でね、ユンジェ。里帰りしたら、きっと貴方に会いに行くから」


 帰り際、ユンジェはリオにお別れの言葉をもらった。

 返す言葉が見つからず、頷くことしかできなかったユンジェだが、彼女の濡れそうな瞳と目が合い、強くはっきりと告げた。


「必ず幸せになれよ、リオ。挫けるなよ。お前は笑っている顔が一番似合っているから」


 リオのくしゃくしゃな笑顔が、頬を伝った涙が、胸に突き刺さる。


 これは彼女の望む結婚ではない。分かっている。

 農家に生まれた女の大半は、こうして世継ぎのために貰われていく。分かっている。

 リオだけが特別な運命を背負うわけではない、他の女達も似た境遇に立たされる。すべて分かっている。


 けれど、リオにだけは、彼女だけには気の利いた言葉を贈りたかったのだ。


 でも、あの顔を見てしまうと、幸せを願った言葉すら、本当は言ってはいけないような気がした。もっと知識があれば、リオを喜ばせる、気の利いたお祝いの言葉が贈れただろうか。


(……リオ。幸せになれるといいなぁ)


 砂糖の入った布袋を見つめ、それを強く握り締めた。

 町へ向かう足取りが重くなる。ため息が増えた。心がいつまでも潰れたような、つらい気持ちでいる。


 と、軽く頭を撫でられた。弾かれたように顔を上げると、ティエンが慰めるように、微笑んでくる。

 途端に気恥ずかしくなり、ユンジェはかぶりを振って、彼の手を落とした。


「り、リオと会えなくなるのは残念だけど、あいつは嫁ぐんだ。きっと幸せになるさ」


 ちらりとティエンを一瞥すると、困ったように笑っている。その顔すら美しく思えるので、美貌とは恐ろしいものだ。

 やはりこの男、人間の皮をかぶった、天人てんにんなのではないだろうか。


「わっ、ちょっと! ティエン!」


 彼は気丈に振る舞っている、ユンジェの気持ちに気付いているようだ。

 頭から振り落とされても、ふたたび頭に手を置いてくる。軽く叩いてくる。そして、静かに撫でてくる。


(なっ、なんだよ。俺は子どもじゃねえぞ!)


 ユンジェは顔を紅潮させると、慰める手から逃げるように早足で歩き始めた。じじに似た、あたたかで優しい手だと片隅で思った。


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