二.食い物
ユンジェは悩んでいた。
当然、それは目覚めた男についてだ。
最初こそ動揺と混乱、そして殺意を向けていた男だが、今は落ち着きを取り戻している。ユンジェが声を掛けても、懐剣を抜くことは無い。
けれども、警戒心を解いたわけでもないようだ。
ユンジェが動きを見せる度、寝台から鋭い眼光で監視してくる。体に触れようものなら、虫を叩き潰す勢いで、手を払ってくるので迂闊に近寄ることもできない。
かと言って、親しみを込めて声を掛ければ、問答無用に物を投げられる。声こそ出ていないが、怒鳴り散らされることも多々であった。
おかげで
(……天人って、すごく我儘なんだなぁ)
とにかく取り扱いが難しい。
とりわけ頭を悩ませているのは、男の食事であった。
どうやら男には好き嫌いがあるらしく、ユンジェの作った芋の料理には一切手を付けようとしない。せっかく怪我人が消化しやすいように、芋を粥状にしたり、汁物にしたり、と工夫したのに、男はそれを拒んだ。
汚い物を見るような目で、芋の料理を見るばかりなのだ。
仕方がないので、貴重な米で粥を作ると、それはぺろりと平らげてしまう。
他にも新鮮な川魚や、形の整った甘い果実といった食い物は口にしてくれた。どれもユンジェが苦労して、手に入れなければならないものばかり男は好むのだ。
さすがに、ここまで好き嫌いがあると頭にくる。
ユンジェが普段から口にしているものは汚物で、苦労しなければらないものこそ食い物、とでも言いたいのだろうか。
芋だって立派な食い物だ。具の少ない汁物だって、米代わりの芋粥だって、ユンジェにとってしてみれば、ご馳走に他ならない。
芋さえ収穫できず、木の根や皮をかじることもあるというのに。本当は米も、新鮮な川魚も、形の整った甘い果実も、ユンジェが食べてしまいたいというのに。
こうなれば、男を追い出すべきだろうか。
助けたことを少々後悔し始めていたユンジェだが、それは難しい話だろう。
なにせ、男は寝台から一歩も動こうとしない。懐剣を傍らに置き、突き上げ戸から外を眺めるばかり。
畑ばかりの景色だというのに、飽きもせず、ぼんやりと見つめることが多い。
男は考え事をしているようだ。
(天に還りたいのかな?)
ユンジェには、彼の気持ちが分からない。聞いたところで、睨まれるだけ。こういう時、会話の有難みを切に感じる。はやく男の声が戻ってくれたら良いのだが。
男の我儘に付き合っていれば、当然、彼の好む食糧は尽きる。
ユンジェは頭を抱えた。芋料理で我慢してもらうのが一番なのだが、癇癪を起こして、暴れられては面倒である。
(はあっ。仕方ない。金を作るか。今日は川魚を獲ってこよう)
ユンジェにできる金稼ぎは、収穫した野菜や薪を売るか、藁でこしらえた筵(むしろ)や縄を売るか、である。
それでは満足に米も買えない。せいぜい二食分、買えれば良い方だろう。
そこで、ユンジェは物々交換に目をつけた。米を得るためには、それ相応の物をこちらも用意するしかない。これが世の理だ。
ある晩、ユンジェは月の訪れと共に身支度をした。自分が寝るまで、決して寝ない男に「留守をよろしくな」と、声を掛けると、彼は怪訝な顔をする。まるでユンジェを信用していない。
「帰ってきたら、腹いっぱい米を食べさせてやるからな」
やはり信用をしていない。いつものことなので、気にすることなく家屋を出る。
正直、男のためにここまでする必要性はないのだが、彼を拾ったのはユンジェ自身である。
こうなれば、傷が癒えるまで面倒を看ようではないか。たらふく米を食わせれば、相手も自分を認めるに違いない。
(必ずあの男から、礼の言葉を吐かせてやる。声が出ないなら、頭を下げさせてやる。見てろよ)
ユンジェは半ば自棄になっていた。
「野ウサギか、キツネ。トビらへんが獲れたら幸運だな」
ユンジェは獣を米の物々交換の対象とした。獣ならば、肉にもありつけるし、毛皮や小道具も作れる。交換条件は満たしているだろう。
本当は昼間に狩りに出掛けるべきだろう。
夜は視界が利かない上に、肉食の獣も多い。下手をすれば狩る前に、襲われてしまう可能性だってある。
それでも、ユンジェは夜の狩りを決行した。昼間は大人の狩人や農民が森をうろついており、捕らえた獲物を横取りされる恐れがあるのだ。
それを幾度も経験しているユンジェは、夜の狩りに慣れていた。
横暴な大人に太刀打ちできないと知っているからこそ、頭を働かせる。ただただ生きるのではなく、強く生き抜くために、どうすればいいのか、よく考えるのだ。
ユンジェは夜の森を慎重に、常に警戒心を抱えながら走り回った。
猛毒の蛇はいないか、腹を空かせた狼はいないか、身ぐるみを剥がす夜盗はいないか。こみ上げてくる恐怖を拭いながら。
「ただいま。いま、帰ったよ」
ユンジェが帰宅したのは、あくる日の夕方のこと。
腹を空かせていたのか、男はいつにも増して、帰宅する自分を睨んでくる。しかし、それも、すぐ驚愕に変わってしまう。男はユンジェの身なりに、目をひん剥いていた。
対照的にユンジェは、決まり悪く腕を擦る。
「ごめん。獣を狩ろうとしたけど、全然獲れなくてさ。物々交換ができなかった」
更に足を滑らせ、崖から転げ落ちてしまった。その上、頭をぶつけて気絶してしまったのだから、とんだお笑い種だ。踏んだり蹴ったりである。
「あ、明日はちゃんと獲ってくるからさ。今日は……芋粥で我慢してくれないか?」
腫れている右頬を隠すように背を向ける。
ユンジェは気恥ずかしかった。男に腹いっぱい米を食べさせると宣言していたのに、こんな結果で終わってしまうなんて。ああ、大見得を切るのではなかった。
(自信はあったのになぁ)
不貞腐れたいような、泣きたいような、そんな気分だ。
ユンジェは男が癇癪を起こさないよう、次の手を打った。
彼に近付くと寝台の上に、笹の葉に
子どもは甘いものが大好きだ。男も子どもっぽいので、これを食べれば、芋粥も我慢して食べてくれるとユンジェは考えた。
「桃饅頭。美味いと思うぜ」
すると、それまで睨んでばかりの男が、はじめて別の顔を見せた。戸惑ったように自分の髪を抓み、哀れみの目を向けてくる。
言いたいことが分かったユンジェは、うなじをさすって苦笑いを浮かべた。
「時間を掛けて育てた野菜を売るより、何もしなくても伸びる髪の方が高く売れるって悔しいよな」
狩りに失敗したユンジェは、その足で町へ向かった。桃饅頭はおまけで、目的は塩や油を買うためだった。
男が家に転がり込んでからというもの、生活物資の減りが早い。今日買っておかなければ、明日困るものばかり足りなくなっていた。
背中まで伸ばしていた髪を切るのは名残惜しかったが、遅かれ早かれ金の足しにするつもりだった。髪はまた伸ばせばいい話だ。
「腹減っただろ? それでも食べて、気長に待っててくれよ」
桃饅頭を一瞥すると、ユンジェはそそくさと寝台から離れる。
甘味が好きなのは自分も同じだ。想像しただけで唾液が溜まる。
けれど、一個しか買えなかった。
二個分の金がないわけではなかったが、ユンジェは今後の生活を優先した。桃饅頭を買うくらいならば、塩や油を買った方がいい。そう何度も自分に言い聞かせた。
(……なんで、俺がここまで我慢しなきゃならないんだろう。間違っている気がする)
片隅で疑問に思ったが、仕方がないと言い聞かせた。男の癇癪の方が面倒なのだから。
出来上がった芋粥を持って、男のいる寝台に戻る。桃饅頭はそのままにされていた。
「あれ、なんで食べていないの?」
桃饅頭が嫌いなのであれば、喜んでユンジェが食べるつもりだ。
それとも、口直しのために取っているのだろうか。ああ、きっとそうだ。男は芋粥を、汚物を見るような目で、見てくるのだから。
芋粥を桃饅頭の隣に置く。
離れようとしたところで、男に腕を掴まれた。ユンジェは驚いてしまう。苦情を言われても、今日は芋粥しか出せないのだが。
「え? 座れって?」
男はユンジェの腕を引き、座るよう態度で促してくる。仕方がなしに、寝台の縁に腰を掛けると、彼は懐剣を抜いた。
まさか切られるのか。心中でハラハラするユンジェを余所に、男は笹の葉を開き、それで桃饅頭を半分に割った。片割れを差し出される。
「……俺にくれるの?」
顔を出している白餡と、彼の顔を交互に見やっていたユンジェだが、やがて頬を緩めると、有り難くそれを受け取った。
勘違いでなければ、男は一緒に食べようと誘ってくれているのだろう。くすぐったい気持ちになる。
「あんたの隣で食べていい?」
思い切ったことを聞いてみる。睨まれるかと思ったが、男は静かに頷いてくれた。ぎこちないながらも、微笑みをくれる。
ユンジェはとても嬉しくなった。
これまでの行いが報われたような、そんな温かな気持ちに包まれる。齢十三相応の笑顔で返すと、桃饅頭を笹の上に置き、己の分の芋粥を取りに行った。
その時間の夕餉は、すごく楽しかった。
塩気の薄い芋粥を食べながら、男と色んな話をした。もっぱら話すのはユンジェで、聞き手は彼となったが、ちっとも気にならなかった。
誰かと食事をする、この時間が久しぶりで、楽しいと思えたのだから。
桃饅頭を食べる頃になると、ユンジェは男自身について尋ねた。
絶対に
「あんたが女だって言われても、まったく違和感ないよ。
力いっぱい頭を叩かれた。思ったことを口にしただけなのに。
なにやら男には事情があるらしく、怪我をしていた理由や、森で気を失っていた理由、身分について尋ねると目を泳がせる。
深く追究したところで、知識の乏しいユンジェには分からない話だろう。
うっかり名前を聞いてしまった時は、お互いに気まずい思いを噛み締めた。
男は声が出せず、答えることができない。機転を利かせた彼が、ユンジェの手の平に、名前であろう文字を書いていくが、自分には読み取る力がない。
「ごめんな。俺、字の読み書きができなくて」
彼に信じられないような顔を作られてしまうが、本当のことであった。
ユンジェは生まれてこの方、文字の読み書きを学んだことがない。所謂、文盲だ。学んできたことはいつも、生きるための術であった。
「文字は読めるようになれば便利だってことは知ってるんだけど……学び舎に行くお金も時間もなくて。
ユンジェにはできなかった。
暗い空気になりかけたところで、ユンジェは話を戻す。
「声が出るまで、呼び名を付けていいか? あんた呼ばわりは嫌だろ?」
男が承諾の代わりに、頷いてくれたので呼び名を考える。やや憂慮ある眼を向けられるが、変な名前を付けるつもりはなかった。
せっかく隣に座る許可を出してくれたのだ。仲良くいきたい。
「うーん。天人じゃないって言われたけど、あんた、それっぽいから
悪くはなかったようで彼、ティエンは笑ってくれた。
少しは心を開いてくれたようで、就寝する際、ティエンはユンジェに隣で寝るよう手招いた。
元々そこはユンジェの寝台なのだが、それについては棚に上げているらしい。
だがユンジェは素直に従った。
寝台の持ち主のことなど微々たる問題だった。大切なことはティエンが、ユンジェに心を開こうとしている、この瞬間だ。
「おやすみ、ティエン。明日の夜こそ狩りを成功させるからな」
腹いっぱいに米を食べさせてやるから。
ふたたび約束を取りつけようとすると、ティエンは首を横に振り、もういいのだと態度で示した。
ユンジェに失望して首を横に振っているのではない。
生活の現状と、優しさを知ったからこそ、遠慮してくれているのだ。
明日からティエンは、ユンジェと一緒に芋粥を食べてくれるだろう。我儘に振る舞うこともないだろう。子どものように起こしていた癇癪も、きっと無くなることだろう。
それが嬉しいやら、でもやっぱり米は諦められないやら。
(明日の夜も狩りに行こう。ティエンと一緒に米が食べたい)
心の中で計画を立て、ユンジェは眠りに就いた。
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