第6章


◆ 第6章



 七日目の朝。

 昨夜は遅くまで『K255』と話していたのに、ずいぶん早く目が覚めてしまった。

 とりあえず体を起こして、ベッドを仕切るカーテンを開けてみる。

 ほかのベッドのカーテンは閉まっていて、物音もしない。まだ私以外は全員寝ているらしい。

 やっぱりもう一眠りしようか。そう思った頃、ゆっくりと部屋のドアが開いた。

「あ、起きてたね。おはよう」

『K255』だった。彼女は音をたてないようにそっとこちらにやってきて、私のベッドに腰かけた。


 朝の日差しで同室の人たちを起こしてしまうかもしれないので、窓のカーテンも閉めたまま、私たちは声を潜めて言葉を交わした。

「おはよう。どうしたの? 寝る前に会ったばかりじゃん」

「会えるのが最後かもしれないって思ったら、会いたくなっちゃって。……今日、だよね。死ぬの」

「うん。今日の正午」

 取り立てて話すことは浮かんでこなかった。彼女も同じだったのだろう。

 何も言わず、ともに過ごせる時間をただ噛み締めていた。


「そういえば、ほんとの名前は何ていうの?」

 しばらくして、彼女が思い出したように訊いてきた。

 予想外の質問だった。

 彼女は自分の名前を呼ばれたくないと言っていたし、私の名前にも興味がないのだろうと思っていた。現に初対面のときから今まで、彼女が私の名前を尋ねてくることはなかった。

 私は自分の名前を告げた。

「つばささん、か。いい名前だね」

「ありがとう」

 視界がぱっと明るくなった気がした。朝陽を遮られた薄暗い部屋が、鮮やかに彩られたように思えた。

『イモムシ』でも『A127』でもない、私の名前を呼んでもらえた。

 いい名前だと言ってくれた。そのことを、素直に嬉しいと思った。

 私ももう一度、彼女の名前を尋ねてみた。

「私は『K255』でいいよ。本名はどうしても好きになれない。ごめんね」

「……そっか」

 予想通りの答えではあったけど、ほんの少しだけ、彼女との壁を感じてしまう。でも名前だって、きっと誰しもが呼んでほしいものではないのだろう。

「『K255』として死ぬのが、私の理想の死に方だから。『K255』って呼んでくれれば、私はそれで嬉しいよ」

 そう言うと、『K255』はベッドから立ち上がった。

「じゃあね、つばささん」

 笑って手を振る彼女に、ふいに、いつかのツバサくんの姿が重なった。

「うん、じゃあね」

 私も手を振る。

 彼女に呼びかける名前がないのが口惜しい。


 正午までの数時間を、私はベッドの上でまどろみながら過ごした。


 外の世界に出たら、私はまた『イモムシ』にならなければならない。

 だから、死ぬと決めたことに後悔はしていないつもりだ。

 死ぬためにここに来たんだ。その意思は変わらなかった。

 だけど最後に過ごしたひとときはまるで夢のようで、それだけで、私の人生も悪くなかったかな、とさえ思える。


  *


 0時00分、正午きっかりに、A号室に人型ロボットが入ってきた。

 私のベッドの前で止まり、音声を発する。

「『A127』さん、お待たせしました。所定の時刻になりました。私のあとについてきてください」

 いよいよだ。私の人生の終わりまで、もう秒読みといったところだ。


 言われるままに、ロボットのあとをついていく。1階に下り、廊下を進んで、『職員以外立入禁止』の扉の前で立ち止まる。

 ロボットが扉にアームをかざすと、電子音が鳴って扉が開いた。

「お待たせいたしました。中にお入りください」

 私がその部屋に足を踏み入れると、ロボットは外側から扉を閉めた。


 薄暗い小部屋だった。

 左右の壁には天井までの高さがある本棚。正面の机の上ではいくつものモニターが光っており、雑多な機械が青白い光に照らされている。

 私のイメージでしかないけど、研究室みたいだな、と思った。

 白衣を着た男性が、私に背を向けて座っていた。

「『A127』さんだね。待ってたよ」

 彼は椅子から立ち上がり、こちらを向いた。

『A120』が違反行為をしたときに一度だけ姿を見せた、あの職員だった。

「初めまして。いや、久しぶり、と言ったほうがいいかな?」

 敬語を使っていたあのときと比べてやけに親しげに話すのは、私が若い女だからだろうか。

 それにしても違和感があった。顔を見たから初めましてではないにしても、あれは三日前のことだ。久しぶりというほどでもない。

 どういうことだろう、などと考えていると、彼がポケットから右手を抜き出した。

 白衣の下から、人間の肌ではない、それが見えた。

「義手……。まさか……!」

 大きさは違うけど、見覚えのある色と形をした、右腕の義手。間違えようがなかった。

「そう。僕は志村ツバサ。この施設の職員だ」

 彼は白衣の胸ポケットにしまわれていた名札を取り出した。


 心臓が高鳴る。手足が麻痺したように動かない。

 会いたかった、嬉しい、はずなのに、脳が処理しきれていなかった。

「まさか君がここに来るとは思わなかったよ。あの頃の君はそういう感じの子じゃなかったのに。僕と別れてから今までの間に、何があったんだい?」

 今目の前にいるこの白衣の男性に、あのツバサくんの面影は見当たらない。

 私が記憶の中にしまい込んでいたツバサくんからは、想像できない人だ。

 だけど、右腕の義手と、名札に書かれた名前。彼はツバサくんで間違いない。

「……ツバサくん、どうしてここに……?」

 やっとの思いで、言葉を振り絞る。

 こんなことを言いたいはずじゃなかったのに、という思いが頭の裏側にちらついたけど、何を言えばいいのかわからなかった。

「僕は君の顔を見ただけじゃわからなかったよ。君も、僕の顔を見ただけでは気づかなかったみたいだね。まあお互い、最後に会ったのが11年も前だから、しかたないか」

 喉が渇く。顔が紅潮しているのがわかる。

 混乱している。この状況を受け入れきれていなかった。

「なんで僕は君がわかったと思う?」

 彼が私に問いかける。

 フリーズしかけている今の私の頭でも、その答えは少し考えればすぐにわかった。

「……最初のアンケート、だよね?」

「そう。ここに来たとき、君はあのアンケートに名前を書いただろう? それで僕にはわかったんだ」

 そう言うとツバサくんは私に背中を向け、モニターに表示されたデータを読み上げた。

「改めて、『A127』さん。希望の死亡方法は『安楽死』だね。安楽死には、専用の『安楽死マシン』を使う」

 言われて、今更のように思い出させられた。

 私はこれから死ぬ。

 ツバサくんの手によって、安らかに殺されるのだ。

「特に希望はなかったみたいだから、誰にも見られない場所で、ひっそりと死んでもらうことにするよ」

 義手の右手で、机の上の機械を操作する。

「さて、この部屋の向こうに、例の『安楽死マシン』がある。だけど、ちょっとマシンの準備に時間がかかるんだ。その間、少し昔話でもしようか。僕がどうしてここにいるのかの話だよ」

 私に向き直り、ツバサくんは語り始めた。


  *


 僕の右腕が義手になったのは交通事故が原因だ、っていう話は覚えてるよね。


 事故に遭ったのは、幼稚園の卒園式の日だった。

 あの事故で僕は右腕だけじゃなくて、本当は命まで失うところだったんだ。

 当時の僕はまだ小さい子どもだったし、放っておいたら間違いなく死んでいた、って病院の先生も言ってた。

 でも医療技術ってすごいもので、僕は右腕の肘から下を義手にするだけでたちまち蘇生した。

 小学校に上がる頃には、事故に遭う前と何ら変わりない生活ができるようになってたよ。


 だけど怪我が治った僕は、この世界のことを、どこかつまらないと思った。

 何かが足りない、と子どもながらに感じたんだ。


 その違和感の正体に気づく瞬間が、その後の人生でいくつかあった。


 最初は、小学校1年生のある夏の日のことだった。

 翼の千切れたアゲハ蝶を見つけたんだ。そいつはただでさえ短い命を、片方の翼だけで、懸命に生きようとしてた。

 そういえば、あのときは君も一緒にいたよね。覚えてるかな?


 ここで僕は悟ったんだ。

 寿命の短い生き物たちにあって、今の人間たちにないもの。

 それは生きたいという強い想いだ。

 あのアゲハ蝶はとても綺麗で、儚くて、僕は心を打たれた。こういう生命の輝きこそ、僕が求めていたものだったんだと、そう思った。

 そして生命の輝きというものは、限られた命にこそ宿るんだ。


 思えば、義手をつけ替えるときなんかもそうだ。

 当然、体の成長に合わせて義手はつけ替えなきゃいけないんだけど、つけ替えるときに、千切れた自分の右腕を見ることになる。

 そのたびにいつも、僕は事故に遭ったときのことを思い出すんだ。

 あのときのことはよく覚えてる。すごく痛かった。すごく怖かった。

 だけどそのとき、僕は本気で「生きたい」って思ったんだ。


 科学や医療が進歩して、人間は何年でも生きられるようになった。

 だけどその代わり、生きる喜びや、命の価値を見出せなくなっているように思ったんだ。

 そんな人間が蔓延してる世界は、僕には何もおもしろくなかった。


 僕はあのアゲハ蝶みたいな、生命の輝きが、命の強さがもっと見たかった。

 そして願わくば、その輝きを、生きたいという強い想いを、剥製のように保存したかった。


 かといって今の時代、他人の命が危険に晒されてる場面なんて、そう見かけるもんじゃない。

 人間以外だと、案外あっさり死んじゃうかぜんぜん死なないかってことが多くて、いつかのアゲハ蝶のような生き物はなかなかお目にかかれない。

 だから僕は、生死の境を自分から彷徨いにいくようになったんだ。

 具体的には、致命傷になる危険行為や、致死量ギリギリの薬物なんかを試した。

 その過程で顔に怪我を負って手術したこともある。君が顔を見ても僕だと気づかなかったのはそのせいもあるかな。


 そんなあるとき、僕は『自殺幇助推進組合』の存在を知った。

 死期の迫った人間、死が約束された人間を相手にすれば、生命の輝きを見ることができる、と気づいたんだ。


 そして僕は組合の職員を志願して、3年前、無事に採用された。どうやら意気込みを買ってもらえたらしい。

 今年の春からはこの施設を任された。実際に人の命に触れられる部署だ。

 僕はまだ18歳だけど、一昔前とは違って、今は18歳でも立派な成人だからね。


 ここはいい職場だよ。毎日のようにいろんな輝きが見られる。

 死に際に儚く光る命を見るのは楽しいし、やっぱり生きたいと足掻く人の、燃えるように煌めく命を眺めるのはもっと楽しい。

 ついこの前も、やっぱり生きたいって必死に嘆願してた人がいたよね。『A120』さんだっけ。ああいう人を見るのが僕は嬉しくて、とてもぞくぞくするんだ。


  *


 ツバサくんは酔いしれるように話していた。

 一呼吸置き、再び機械の画面を一瞥すると、彼は落ち着きを取り戻した。

「よし、準備OKだ。お待たせ、『A127』さん」

 11年ぶりに再会したツバサくんは、私の名前を呼んではくれなかった。


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