月光に照らされて

 漆黒の帳が降り、人々が寝静まり返った頃。

 寮の最上階にある自室で、明かりも点けず、リズは窓の傍らに佇んでいた。窓枠にはキラが座っており、リズを見上げている。


 リズの指には、一匹の蝶が留まっていた。蝶は淡く光る紫色の粒子を纏い、羽には紋様が浮き出ている。リズは蝶に、今日あったことを報告していた。



「ということが、今日の出来事です」


『ほう……遂に来たか』



 蝶から年若い男の声が漏れる。



「はい……とうとう来てしまいました」


『浮かない声だな。よっぽどそっちの生活が気に入っていたのか?』



 やや拗ねたような口調に、リズは苦笑した。



「たしかに悪くないと思っていますけど、やっぱりそっちの生活が恋しいですよ」


『それならいい。と、なると、これからのことに対して気を病んでいるのか。特にカインとかいう少年が訪れるだろう未来のことを』


「ええ……その時が訪れなければいいんですか……」


『その少年が勇者に対してどう思っているかにもよるな。どうでもいいと思っていれば、傷は浅く済む』


「だといいんですけどね……」



 リズは複雑な笑みを浮かべ、勇者だと名乗った少年の顔を思い出す。

 勇者のことをどう思っているのか、訊いてはいない。だが、性格は大体掴んでいる。


 カイン・ベルターは良くも悪くも真っ直ぐで、あまり人を疑わない。人の言うことを、素直に聞いている。つまり、周りの人、特に身内の言葉を信じ込み、疑問を抱くことはないということではないか。

 あの性格からして、嘘をついているようには見えない。隠されている真実を知らされていないかもしれない。


 純粋に、真っ直ぐに、自分が勇者であることを信じて疑っておらず、勇者であることを誇っている可能性が高い。



「サタン様、そちらはどうですか?」



 キラが口を開き、蝶に向かって言葉を投げる。



『キラもいたのか』


「いますよ」



 淡々とした口調で返すキラに、男、サタンは軽く笑った。



『こっちは特に変わっていないぞ。ルシウスが事あるごとに、お前たちの心配しては、定期的に連絡しろとか言ってくるくらいだ』


「父上、心配しすぎ」



 キラが言い放った言葉に、リズは苦笑する。



「たまにおじさんと話したほうが良さそうだね」


『そんな事したら、俺様がリズと話す時間が減ってしまうではないか』


「一回くらい我慢してくださいよ」


『俺様の唯一の癒やし時間だぞ? 彼奴には溺愛している妻と子供がいるではないか。そっちで満足しろ』


「しょうがない人だ。でも、久しぶりにおじさんとも話したいです」


『リズが言うなら明日はルシウスに変わってやろう』



 サタンはあっさりと意見を変えた。普段は頑固なのに、リズが何かと言うと耳を傾ける。サタンの側近であるルシウスに言わせれば、リズがいればチョロい、らしい。



『しかし、勇者一行に同行できて、お前にとっては好都合ではないか? 無理矢理ではなく、ジャオリー女史に推薦されたとなれば、とりあえずお前の行動に疑問を持たれることはない』


「まあ、そうですけど……移す方法がまだ見つかってもいないので、不都合のような気も」


『探す傍ら、カインとやらの器を見極めればいいだろう。それを移しても問題ない相手かどうかを』


「そう、ですね」



 リズは左手の甲を見やる。黒い手袋に覆われたその下には、さらに包帯が巻かれている。そしてその下には、火傷と偽っているものが隠されている。


 それは、絶対に人の目に触れてはいけないもの。特に、勇者と名乗っているカインには。



『何がともあれ、これからが楽しみだ』


「他人事みたいに言わないでくださいよ。誰のせいでこの状況が出来たと思っているんですか」


『俺様だな。が、後悔などしていないぞ』


「当たり前です。後悔していると言ったら、もうしばらく家出しますからね」


『それは勘弁してくれ』



 男が真剣な声色で強く言う。それが可笑しくて、リズは小さく笑った。



『リズタルト』


「ん? なんですか?」



 本名で呼ばれ、リズは首を傾げる。



『俺様はお前を連れ去ったのを後悔したことはない。お前はどうだ?』



 目を丸くして蝶を凝視した後、リズは微笑んだ。



「僕も父上の息子として育てられて、幸せだと思っていますよ。あのままカンデレラにいたら、色々と誤解したまま、父上と敵対することになっていたと思うと、恐ろしくてたまりません」



 サタン……父は、リズの考えを尊重してくれた。父の行動や政策に疑問を抱いても、父は不敵に笑って、自分の目で確かめた上で考えろ、と言い、リズの考えを聞いても頭ごなしに否定したりはしなかった。


 疑問に思ったら、それでいい。自分の目で確かめて、自分で考えて、自分の答えを出せ。父は語らずとも、そう教えてくれた。


 父のおかげで今、自分はここにいる。それが誇らしくて、とても嬉しい。


 だから、カインに同情している自分がいる。


 もし、自分の憶測が当たっていたとすれば。


 カインは真実を知らないまま、誤解したまま、幼い心に埋め込まれた使命を果たすために、疑うこともしないまま、今を駆けている。本来それは、カインが背負うべきものではないというのに。


 その姿を見なければならないと思うと、罪悪感が胸を縛り付ける。


 真っ直ぐで、愚かで、哀れで、それを本人は自覚していない。まるで傀儡のような彼の姿を、リズは監視しなければならない。


 カインが背負っているものは、本来自分が背負う予定だったもの。それなのに自分は、背負う気は全くない。だから、その姿を見るのは、罰か呪いのように思えてくる。

 だが、やらなければならない。それが、リズの願いに繋がるかもしれないから。



『無理はするな。辛くなったら、いつでも帰ってきてもいい』


「でも、逃げるわけにはいけませんから」


『変なところで頑固な奴め』


「父上の子ですから。でも、絶対に帰ります」


『当然だ。俺様は、お前の好きな蕎麦を打って待っているぞ』


「父上、料理出来ないのに大丈夫ですか?」


『俺様は完璧だからな。すぐにマスターするさ』


「そうですね」



 父は有言実行する男だ。蕎麦を作るのは難しいが、すぐ蕎麦作りをマスターするだろう。



『キリランシェロ。リズタルトのことを頼むぞ』


「もちろんです」


『頼もしいな。またな』



 即答したキラに機嫌良くしたのか、笑い混じりの声で告げられる。その直後、プツンという音が聞こえた。

 蝶を乗せた指を掲げ、蝶が離れていく。ひらひらと飛び、定位置である鳥籠の中に入っていった。



「元気そうだったね」


「うん。明日はおじさんと話せるね」


「質問責めされそう」


「そうだね」



 明日の夜を想像し、リズは笑い返す。



「どうするの?」


「ん? ……ああ、一緒に旅することになったから、どうするかってこと?」



 キラは頷く。



「とりあえず、これを移す方法を探すのは継続するとして、あの子の正体を隠さないといけないね。あの子に言うわけにもいかないし、バレないようにフォローしないとね」


「それ、難しいね」


「そうだね、難しいよ。だから、賢い蜥蜴の振りをしているキラにも協力してもらわないといけない時があるかもしれないから、その時はよろしくね」


「うん。オレができることだったら、なんでもするよ」


「ありがとう」



 キラの喉を撫でる。キラは気持ち良さそうに目を細め、グルグルと喉を鳴らした。

 しばらく撫でた後、リズは窓を開ける。夜風が頬を撫で、部屋の中を吹き渡った。

 月を仰ぐ。雲がなく、星の輝きもない。名月という言葉が相応しいほど、月が澄み渡って見えるほど輝いていた。

 月光が眩しくて、背中を向ける。


 左手を覆っている手袋を、おもむろに脱ぎ始めた。長さが肘まである黒い手袋を脱ぎ、手の甲に巻かれている包帯を解く。しゅるり、という音を立てて、包帯が床に落ちた。


 リズは己の左手の甲を見据えた。

 そこに火傷の痕はない。


 そこには、カインと同じ、光を表す紋章が刻まれていた。カインと違う点は、微かに光を帯びていることと、刺青というより痣に近い。



「リズ」



 キラがリズの肩に乗る。



「オレがついている。リズは一人じゃないから」


「うん」


「絶対に、それを移そう」


「うん……ありがとう」



 リズは微笑んで、右手で左手の甲を覆った。目を瞑り、あの日を思い出す。


 初めて紋章が光ったあの日、自分は誓った。この紋章を、勇者としての使命を完全に捨てることを。

 何よりも大切な居場所の為に、世界に、神に背くことを決めた。

 予言に詠まれていなかろうと関係ない。神にとって大罪人になろうと、それより大事な肩書きがあるのだ。



「絶対に、帰ってみせるから……」



 リズはゆっくりと瞼を開く。紋章が刻まれている左手を、右手で強く握り締め、小さいが強い声色で呟いた。



「この紋章を移して、父上の許に帰ってみせる……魔王サタンの息子だって、胸張って言うために……」



 夜風がリズの背中を撫でる。その夜風がまるで背中を押してもらっているように心地良く、リズは再び目を閉じて夜風を感じた。

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