コンビニとタバコとラブ

射矢らた

コンビニとタバコとラブ

 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。

 マールボロメンソールライト。



 あたしはタバコを吸わない。臭くて汚くて、嫌い。だから銘柄なんてわからない。番号が付いてるんだから、番号で言ってくれればいいのに。あたしのわがまま?

「銘柄で言うお客さんが多いから、銘柄と箱はちゃんと覚えなさい。覚えたとしても、ちゃんと確認してからお渡しすること」

 店長はあたしにそう教えた。あたしは自分で記憶力はいい方だと思っていたけど、このコンビニのバイトを始めてからタバコの箱と名前が全然一致しなくて、自信は失せた。

「わかんないときはね、何番ですかって聞きゃいいのよ、別にお客に悪いなんて思わなくていいから。そのために番号付いてんだから」

 四年目の古田さんはそう言ってくれるけれど、彼女は銘柄と置いてある場所まで全て覚えている。お客さんにタバコの名前を言われて持ってくるまで二秒かからない。神業だ。

「そりゃアナタ、四年もやってりゃ嫌でも覚えるわよ。私だってタバコなんて吸わないんだから」

 そう言われても、自信はない。特にマイルドセブン系は。わかばは好きだ。真っ先に覚えられた。箱もかわいい。けれど、ここ二ヶ月で買ったのを見たのはおじいさんひとりだけだ。


 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。

 マールボロメンソールライト。


 この三銘柄も覚えた。何故かって、毎朝買って行く会社員の三人組がいるから。毎朝、一箱。一日でちょうど二十本吸うのか、余ってても買うのか、本当はもっと買ってるのかわからないけれど、必ず毎朝、一箱。そして毎回、缶コーヒーが付く。缶コーヒーは毎回違ったり、ブームなのか三、四日同じものが続いたりだけど、タバコは変わらない。不思議。缶コーヒーは色々飲むのに、タバコは変えない。何故だろう。タバコを吸わないあたしにはわからない理由があるのかな。とにかく、三人は三人とも、毎朝それぞれ同じ銘柄を買った。


 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。

 マールボロメンソールライト。


 マイルドセブンのひとは、小柄でいつもにこにこ笑っているひと。声が甲高くて、店内でよく通る。百貨店の地下惣菜コーナーにいたら、きっと売れそう。コーヒーはワンダのモーニングショットが多くて、CMの「朝はこれ!」をよく口にしている。

 キャスターマイルドのひとは背が高くてがっしりした、体育会系っぽいひと。始めてあたしが話したお客さんもこの人。あたしがタバコの場所がわからなくてまごついた時、「おねえさん、新人? 43と、21と、16な! 俺たちそこの会社で働いてるんだ。頑張れよ!」って、それ以来毎朝ちょっと言葉を交わしてくれる。

最後のマールボロメンソールライトのひと。気になるひと。背が高いわけではなくて、顔も普通なんだけれど、声と手が好き。笑った顔が好き。優しそうな人。袋やお釣りを渡すとき、いつも胸がぎゅっ、となってしまう。直接話をしたことはない。三人で話しているのを聞くだけ。もし話しかけられたりしたら、きっと涙が出る。

 今朝も三人は仲良く買い物をして行った。OLみたい。キャスターマイルドのひとが、「来月俺ら釣り行くんだ。舟でね。こいつらに教えてやんだ」と言っていた。あたしはへえー、そうなんですかあ、という気の利かない台詞を吐いてはにかんでみただけだった。

 こんな性格やめたい。古田さんは三人とはよく話し、よく笑う。年上の女の魅力というか、母性というか、そんなオーラが出まくっている。あたしもそんな風にマールボロメンソールライトのひとと話したい。

「古田さん、あの人たち、何て名前なんですか?」

 我ながらバカな質問をしたものだと思う。

「名前? さあ。コンビニでお客に名前なんて聞かないからねえ」

「そうなんですか。仲いいのに」

 何とか抵抗して見せたら、

「何、里中ちゃん、誰がいいのよ?」

 その抵抗が墓穴を掘った。女の勘は本当に怖い。

「え、そんなんじゃないです、違います」

「誰? あの背え高い人? そうでしょ!」

「違います」

「ええ? じゃ誰?」

「じゃなくって、そんなんじゃないですって」

 多分弁解の余地がないくらい、顔が真っ赤になっていたと思う。古田さんは目をきらきらさせながら迫ってくる。これ以上抵抗するのは得策じゃないと思った。それより作戦変更、懐柔しておかなくちゃ。今後のために。

「あの、そうなんですけど、絶対、絶対にあの人たちに言わないで下さいね!」

「やっぱり! 誰? あの小さい人じゃないでしょう?」

「はい。マールボロ買う人です」

「へえー。普通、がいいのねえ」

「はい。あの、絶対、絶対、言わないで下さいね。言ったらあたしここ辞めますよ」

「言ってうまくいったらどうする? 私うまくできると思うんだけどなあ」

 そんな危ない橋ぜったい渡りたくない!

「もう絶対、絶対ダメです」

「奥手ちゃんねえ、勿体ない」

「いいんです、毎日会うんだし」

「そんなんでいいの?」

「いいんです。とにかく、暫くそっとしといて下さい。あたしはあたしでこれでも楽しんでますから。壊さないで下さいね」

「こういうときは芯が強いのね」

「すみません」

「ま、いいけど。私も見て楽しんどくわ」

懐柔どころではない。半ギレで押さえ込んだのが精一杯。三十路の女は怖い。


 次の日。今日もシフトは古田さんとだ。空が明るくなり始める朝六時に深夜組と交代してから、配送された商品の陳列作業。古田さんは結婚式直前の新郎のようにそわそわしていて、あたしまで何だか緊張して浮き足立った。けど、まな板の上の鯉。三人は八時半にやってくる。いつものように仲良く。

「さあ、そろそろ来るわねえ」

 それから先のことはショックでよく覚えていない。来店したのは二人だったのだ。

「いらっしゃいませ。あら? もうお一人は?」

 カウンターを離れて商品補充に避難していたあたしの代わりに、古田さんが代弁してくれた。

「あいつね、昨日の晩から禁煙するって言いはじめてね。ここ来たら買っちゃうからって先行ったんだよ」

「ええっ! じゃこれから来ないの?」

「さあ? まあどうせすぐ断念すると思うけどね」

「ええー!」

「そんなに驚かいでも」

 古田さん、さすがにそれ以上は突っ込むのはやめてくれたけれど、二人が出て行った瞬間からの応酬は凄かった。

「ちょっと、里中ちゃん! どうすんの、あの人もう来ないかもよ? うじうじしてる間に会えなくなっちゃったじゃない! んもー、コーヒーくらい買って行けばいいのに、女心のわかんない人! どうすんの?」

 そんな悲痛な声で責めないで。あたしが悪いみたい。泣きたいのはあたしだ。もう会えないの?

 そう思ったら、本当に泣いてしまった。そしたら古田さん、急に優しくなった。

「辛いね、好きだったのにね、悲しいね、あたしまで涙出てきちゃった」

古田さんはあたしを奥のバックヤードに引っ張り込んで、ちょっと休みなさい、って言ってホットの午後ティーストレートまで買ってくれた。情けない。何であたし泣いちゃってるんだろうか。あの人には何の罪もない。恨んだりするのはおかしい。けれど、冷たい、って思ってしまった。自分勝手でごめんなさい。けど、けど。

 あたしがこんなに想ってるのに。

 禁煙したからって、あたしに会うことまでやめなくていいじゃない。あたしの存在って、あなたの中でどれくらいだったんですか?

 防犯カメラの監視モニターを見る。カウンターにお客さんが三人並んでいた。古田さんはてきぱきと孤軍奮闘している。涙を拭いて、鏡を睨んで、あたしは店内に出た。


 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。


 それから十日間、あたしは抜け殻みたいになっていた。会えないとなったらどんどん想ってしまうのは何故なんだろう。バイト辞めようかって思ったこともあったけど、こんなことで辞めるのは自分としてもバカみたいだったし、古田さんが優しくて辞められなかった。


 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。


 ある朝、いつものように二人が来店した。キャスターマイルドのひとが古田さんと何か話している。古田さんはあたしに駆け寄ってきて声を弾ませて言った。

「里中ちゃん、釣り、行く?」

「……行きます」

 でこぼこの二人が走り寄ってきた。何だか神様みたいに見えた。七福神のうちの……布袋と、大黒、のような。あたしは自分で、行くと即答したことに驚いていた。ついでに古田さんも驚いていた。当のあたしよりも。

「いつですか?」

「今度の日曜! 車、新井が出す」

「新井?」

「禁煙中のやつ」

 新井さんって名前だった。

「あたし日曜お店入ってます」

「何言ってんの! あたしが代わってあげるわよ、そんなん」

 なんか、神様ばっかりだ。いいんですか、って言ったら、脇腹を小突かれた。

「当たり前じゃないの、行ってきなさいよ、ねえ?」

「古田さんも来たら」

「二人とも休めないわよー」

 古田さんにも来てもらいたかった。あたし一人なんて、心細くて死ぬかも知れない。でも、あたしは絶対に行こうと思った。あの人に、新井さんに会える。

「じゃあ、すみません。お願いします」

 そのあと、キャスターマイルドの人から、手短に話を聞いた。キャスターマイルドの人は岡田さんで、マイルドセブンライトの人は高橋というひとだということ、釣りは朝早くから行かなければならず、四時集合だということ、当日はこの店に車で迎えに来ること、乗合い漁船で海に出ること、海の上は寒いから温かくしてくること、潮がつくからいい服は着ないこと、スニーカーを履いてくること。最後に「金はいらないから」と、笑った。

 その日仕事が終わって、あたしは別の店でマールボロメンソールライトを買った。店員のお兄さんは、あたしが銘柄を言うと、三秒で出してきた。早いな。でも古田さんには敵わないよ。自分で買ってみると高いな、と思う。こんなのを毎日買ってるなんて、勿体ない。店を出て、自分は大バカだと思った。私はきっと、こんな卑怯な作戦でしか、好きな男のひととつながれない。気付いたら買っていた、と言うほうが正しい気がする。仕方がない。こんなことしかできない。待てよ、間違えた。焦って、間違えた。少し歩いて立ち止まった。これって怒られるんじゃないだろうか。あたし何やってるんだろう?あたしはもう一度店に戻り、自分の店でも売れてるのを見たことがない禁煙パイポを買った。オマエ、どっちなんだよ。どっちかにしろよ。店員はきっとそう思っているだろう。あたしは痛い女です。神様、見逃してください。こんなものでも持っておかないと、あたし船に乗る切符ないんです。

 

 日曜日、新井さんの私服を初めて見た。イギリスの皇太子のような、かっちりとしたツイードのジャケットと細身のノンウォッシュデニム。先の尖ったブーツ。レイバンのサングラス、首元には、真っ赤なスカーフ。きゃー、カッコいい!早くサングラス取って見せてよ。新井さんのBMWで港へ行き、大きなクルーザーに乗った。運転はもちろん新井さんだ。波しぶきを上げて、まだ暗い港の水門を駆け抜ける。クルーザーはザン、ザン、と波の上を跳ね、新井さんの横に立っていたあたしはその度によろめいて、新井さんはついにあたしの肩を引き寄せてくれた。また胸がぎゅっ、となった。このまま、世界の果てまで行けたらいいのに。二人きりで暮らせる、幸せの無人島を探しに行けたらいいのに。

「はあ、タバコ吸いたいなあ。こういう所にくると、タバコが妙に恋しいぜ」ハンドルに突っ伏すような格好で、新井さんは少し低めのかすれた声であたしに向かって呟いた。どんな表情をしているの?サングラスの奥の目は、何を求めているの?タバコ?禁煙パイポ?それとも、あたしを抱きしめたい?

「新井さん、どうして禁煙したんですか?」新井さんは初めてサングラスを取って、とても優しい目をしながら言った。

「子供、生まれるんだ」

「え……」

 そうだ。聞いちゃいけないんだ。こんなこと。


 あたしはぐしゃぐしゃに泣きながら目を覚ました。夢だった。 時計を見た。二時二十九分。外はまだ真っ暗だ。こんな時間なのに、目覚ましがなる直前に目が覚めるなんて。あたし、おばあちゃんになってしまったのだろうか。

 目覚ましの予約を止めた。もういやだ。行きたくない。もう、新井さんの顔が見れない。あんな優しい目をした新井さんの顔も見たくなかった。あたしはニコチン中毒者みたいな痛い女で、あの人は幸せの真っ只中にいる王子様みたいなイケメンだ。一緒に釣りに行ったって、あたしと新井さんが釣り合うはずがない。釣りに行っても釣り合わない。なんだそれ。はあ、あたし、どうしたいんだろう。

 ずいぶん長いこと布団の中でじっとしていた。寒くて出たくなかったのと、出て何すんだ、って思ってしまったから。もう一度時計を見た。二時三十三分。あれ、あんまり時間経ってない。みんな、もう支度してるのかな。岡田さん、「仕掛け」を徹夜で作るって言ってたっけ。新井さんも、もう起きてるかな。起きて、顔を洗って、歯を磨いて、コーヒーを飲んで。奥さん、も起きてるのかな。これ朝食? 夜食? なんて言いながら作ってくれるのかな。ジャケットを着て、トレンチコートを着て、ブーツを履いて。寒いから、出掛ける前に車を暖めておかないとな、なんて言ってるのかな。あたし、まだ布団の中だ。

 いけない。こんなんじゃ、ダメだ。行かないと。せっかく誘ってくれたのに。行かないと。これからお店でどんな顔して合うっていうんだ。あたしは跳ね起きた。

 昨晩迷いに迷った挙句、コーディネイトは決めていた。顔を洗い、歯を磨いてコーヒーを作って念入りに化粧をする。タバコも禁煙パイポもいらない。あたし、自分の力で新井さんと話するんだ。

 店に着いたのは三時四十五分。いつも六時にシフト交代するから深夜組は驚いていたけれど、ちょっとね、お出掛けです、とだけ言っておいた。

 リポビタンDを買って、バックヤードで雑誌を読んだ。モニターをちらちら見る。こんな時間にはお客さんはほとんど来ない。配送の人もまだ来ない。静かだな。

 三時五十七分。モニターで駐車場に車が一台止まるのが見えた。来た? 車から出てきたのは、間違いなく新井さんだった。あたしは店内に飛び出した。

 新井さんの私服姿を初めて見た。赤いダウンベストに薄いグレーのパーカ、キャメルのチノパン。オニツカタイガーのスニーカー。浅くかぶったキャップ。かっこ良くもかっこ悪くもない。素敵。ああ、よかった。

「あ、おはよ、こんばんは、かな」

「お、おはよございます」

 スニーカーに挨拶した。目なんて見れるわけがない。

「新井です」

 知ってます。

「里中、えりこです」

「もう行ける?」

「はい」

「じゃ、ちょっと買い物しよ」

「はい……、あ、ちょっとだけ待ってて下さい」

「うん」

 やばい。おしっこ漏れそうだ。初めてしゃべった。あたし、泣いてない?

 岡田さんと高橋さんは車の中で待っていた。新井さんはパンとおにぎりをいくつかとホットの缶コーヒーを三本カゴに放り込んで、「里中さん、飲み物は?」と聞いた。

「あ、午後ティーで、」

「どれ?」

「赤いの」

 何が赤いの、だ! 無意識に必死でかわいこぶってる自分に嫌気がさす。午後の紅茶ストレートティーって名前ついてるだろ。

 深夜の子にちらちら顔を見比べられながら会計をした。お金を出そうとしたら、新井さんがいいよ、って言ってくれて甘えてしまった。タバコ、岡田さんと高橋さんいいんですかね、って言おうと思ったけど言わなかった。カウンターの二人に、目と手で「じゃあ」って言って店を出た。気持ち悪いくらい、しおらしい感じになっていたと思う。六時に古田さんが来てから、みんなで何を言われるか、わかったもんじゃない。もう、どうでもいいや。

 新井さんの車はBMWなんかじゃなくって、赤っぽい小さな軽だった。かわいい、と思わず口から小さくこぼれ出た。新井さんはちゃんと聞いていて、「ありがとう」って言ってくれた。あたしは助手席に案内されて、車内は芳香剤とタバコのにおいがした。あ、多分、奥さんいないな。彼女も……いないかな。わかんないけど。

「おおー、えりちゃん! おはよう! 寒いな! 眠いな! 行こうぜ」

 岡田さんはいつも通り元気満々で、これ、二時間後に効いてくるから、と言って酔い止めをくれた。高橋さんはテンション低めでおはよう、と笑ってくれた。

 流れるFMを聴きながら川沿いの道をまっすぐ海に向かって走って、河口にある渡船屋さんに着いて、車を停めたのが四時五十分。行き道、車内ではやっぱり岡田さんが引っ張ってくれてあたしを打ち解けさせようとしてくれた。ほとんど岡田さんや新井さん、高橋さんの質問に答えていただけだけど、お陰で新井さんともたくさん話せた。三人は入社二年目の同期で、みんなそれぞれ違う地域から上京してきたらしい。新井さんは北海道出身だった。

 彼氏は? と聞かれて、今、いないです、とだけ答えたら、「俺らも彼女、いねーんだよ、何故か高橋だけ彼女持ちなんだ、えりちゃん何とかしてくれ」って岡田さんがうなだれて言うから、笑ってしまった。それに、唯一彼女いるのが高橋さんだなんて。

「でも、いつも楽しそうですよ、三人で」本当にそうですよ。あたしは嬉しくて、助手席できゃっきゃきゃっきゃ、飛び跳ねたかった。奥さんも彼女もいなかった!

 渡船屋さんのなかは暖かかった。石油ストーブのいいにおいが充満していた。「出船は十五分だから、ちょっと待っとってよ」ストーブの上ではやかんがしゅんしゅん怒っていて、お店のおばちゃんがお茶の葉の入った袋を入れるとやかんは大人しくなった。外はまだ暗くて、風の音が時折ひゅう、と聞こえた。岡田さんはお店のおじさんとカウンターを挟んで何かしゃべっていて、新井さんと高橋さんは、アイスクリームの冷凍什器を覗き込んでいる。

「えりちゃん、これ見て」

 高橋さんが手招きする。あたしは猫みたいにするすると二人のところへ行って什器を覗いた。

「わあああああああ!」

 什器のなかはミミズに足がたくさん生えたようなのが上になり下になりごちゃごちゃと這い回っていた。その他にも生きたドジョウやシャコやエビがパック詰めで所狭しと入れられている。

「あはははは、びっくりした?」

 新井さんはお腹を抱えて笑っている。この人っ。

「これを触われるのは岡田だけだなあ。俺、無理っぽいなあ」

 うーん。男ならこれくらい触われてほしいような、こんなの絶対触ってほしくないような。難しい。

 お店のおばちゃんが、

「お茶入ったから、飲むかい」

 って、お菓子まで出してくれた。四人で何だかほっこり。朝の四時だとは思えない。おじさんが紙の束を持ってきた。乗船者名簿だという。あたしは人前で名前を書くのがあんまり好きではない。

「えっ、えりちゃんって、苗字も名前も里っていう字なんだ」

 ほらね、やっぱり言われた。

「そうなんですよ! つけたとき、気付かなかったんですって。マヌケすぎますよね。お姉ちゃんは佐知子ってつけてもらってるんですけど」

 わざと怒ったふうに弁解する。このやりとりを今まで何度したことか。

「お姉ちゃんいるんだ、呼んだらよかったな」

 さすが岡田さんだ、こういう反応した人は初めてだった。

「お姉ちゃんも彼氏いませんよ。お姉ちゃんは皆さんと同い年です」

「あああーっ、今度はおねえちゃんも呼ぼう!」

「あはは、あたしと一緒に行動するの、嫌がりそうですけどね」

 お店の中が暖かかった分、外は寒かった。海からひゅうひゅうと風が吹いてくる。街灯も少なく暗い岸壁沿いの道を、岡田さんと渡船屋のおじさんが少し前を歩いている。新井さんと高橋さんはあたしのすぐ前でたまにあたしのことをちらちら気にしてくれながら何か話をしている。仕事の話みたいだった。堤防に登るとワカメの匂いがした。クルーザーとはかけ離れた、オンボロの小さな漁船が波に揺れている。乗客はあたし達四人とおじさんが二人。

「海の上はもっと寒いから。足元、気を付けてな」

 岡田さんはたくさん荷物を抱えて大きな体でひょいひょいと船に乗り込んだ。高橋さん、新井さんも続いて危なげなく乗る。簡単そうに見えたから、あたしも、と思ったけど、岸壁と船のへりの間にはタイヤがいくつか挟まっていて、その隙間からかなり下に水面がゆらゆら見えて、あたしはしゃがみ込んでしまった。その体勢のまま、右足を伸ばそうと思ったけど、てんで足が出ない。頭が真っ白になった瞬間、新井さんが手を差し出してくれた。

「大丈夫? ちょっと、高いよね」

「すみません」

 新井さんの手は温かかった。あたしの手、冷たかったろうか?

 長い木の板が船のへりに打ち付けられていてベンチになっていて、それに四人で腰掛けた。ベンチは木が朽ちているのか、少し前かがみになった。エンジンの音がどたどたっと聞こえて、船が動き出した。運転はもちろん、渡船屋のおじさんだ。新井さんが運転なわけないじゃん。今さら、今朝見た夢が本当にバカらしく思えてきた。

 波しぶきを上げて、まだ暗い港の水門を駆け抜ける。漁船ははザン、ザン、と波の上を跳ね、新井さんの横に座っていたあたしはその度によろめいて、ついにあたしは新井さんに肩をぶつけてしまった。

「ごめんなさい」

 新井さんは、優しい目で、

「揺れるね」

 と言った。胸がぎゅっ、となった。このまま、世界の果てまで行けたらいいのに。二人きりで暮らせる、幸せの無人島を探しに行けたらいいのに。船には七人乗ってるけど。

「はあ、タバコ吸いたいなあ。こういう所にくると、タバコが妙に恋しいぜ。おっちゃん、タバコ吸っていい?」

 岡田さんが海の男気取りで船のへさきに立ち、腕組みをして言った。すでにタバコをふかしていた渡船屋のおじさんが、

「そこに灰皿あるよ」

 と指差して返す。岡田さんはこちらに向かってキャスターマイルドの箱で手招きした。高橋さんを呼んでいるのだ、と思った。あたしを挟んで高橋さんと新井さんのした会話が、最初理解できなかった。

「新井、もう諦めろ」

「……そうだな。ちょっと一言断ってからにするわ」

 何を諦める? 誰に断る?

「えりちゃん、俺禁煙、断念したんだ」

「え、はあ、そうなんですか」

 タバコ、持って来てあげたらよかった?

「それだけ。ちょっと、ばつが悪くって店で買いづらかった。これから、また行くから」

「あ、はい。」

 またお待ちしてます、なんて言うのは変だと思って言わなかった。灰皿を囲んでタバコをふかす三人を見ながら、タバコ吸う人って、何だか囚人みたいだな、って思った。その後はずっと、ばつが悪くて店で買いづらかった、という言葉を反芻していた。

 「ポイント」に着く頃には、あたしと高橋さんは船酔いでダウンしていた。ちょっと前まで四人で「海軍ごっこ」をやって盛り上がっていたのに。東の水平線から真っ赤なお化けみたいな太陽がゆらゆら上がってきて、みんなで感激したまではよかったけど、すっかり夜が明けて船がエンジンを止めた頃に高橋さんがまず胃の中のものを全部あげた。その直後、あたしも海に向かって午後ティーとおにぎり、その他を全部もどした。ごめんなさい、新井さん。せっかく買ってくれたのに。ごめんなさい、岡田さん。せっかく酔い止めくれたのに。


 岡田さんいわく、釣りの結果を釣果というらしい。その日の釣果。出竿、午前五時四十五分、納竿、十時ジャスト。岡田さん、タコが二匹。新井さん、アイナメが一匹。高橋さん、あたし、ゼロ。おじさんA、小さいカレイが一匹、タコが一匹。おじさんB、タコが二匹、アイナメが二匹。釣りって、こんなもの?

「まあ、今日みたいな日もあるわ」

 渡船屋おじさんがおいしそうにタバコを吸いながら言った。あたしと高橋さんは船が河口に入る頃、ようやく息を吹き返した。

 新井さんも岡田さんも、ほとんど釣りになっていなかった。あたしと高橋さんの看病の合間に竿を出す。おじさんたちは何度も、おねえちゃん、戻るか? と聞いてくれたけど、

「いえ、じきに治りますから。すみません」

の一点張りで通してしまった。帰ります、と言ったほうがみんなに迷惑かけなかったな、と今さら思った。

「今日はすみませんでした。全然、釣りできなかったですよね」

 船を下りて店に帰る途中、あたしは岡田さんに謝った。日は高く昇り、風は相変わらず強かったけど、少し暖かくなっていた。岸壁の上で野良猫が黒いのと茶色いのと二匹、じゃれあっている。

「ううん、全然そんなことないよ。釣りなんてこんなもんだぜ。タコ釣れたから全然いいんだ。それより、いきなり船ってのが悪かったな。大変な思いさせた俺のほうが悪いわ」

 そんなことないんです。全然、そんなことないんです。あたし、こんなときに何て返したらいいか、わからなくてすみません。また涙が出そうになってて、何も言えなくてすみません。

「高橋まで酔うとは思わなかったけどなあ、ははは」

 新井さんは全部忘れたかのように、楽しそうに笑っている。

「いやあ、俺、乗り物酔いしないほうなんだけどなあ。ああいう船、初めてだったからかなあ」

「いや、お前、昨日徹夜でゲームして夜中にラーメン食いに行ったんだろ? んなことすっからだよ」

「それかあ、それだなー」

 高橋さんもすっかり元気そうだ。

 あたしは船を降りてから、いや、そのずっとずっと前から、新井さんのことばかり見ていた。あたしがダウンしている間、何度もトイレに連れて行ってくれて、何度も背中をさすってくれた新井さん。渡船のおやじさんにいい酔い止めもらった、って嬉しそうにあたしと高橋さんに持って来てくれた新井さん。乗るときも降りるときも手を取ってくれた新井さん。新井教太さん。

 好きです。好きです。


 渡船屋さんでお茶をもらって少し休憩したあと、新井さんの車に乗り込んで、岡田さんの声が後ろからした。

「新井、駅まで送ってくれよ、俺と高橋」

「駅? 駅でいいのか」

「いや、寄るとこあるから、なあ」

「そうそう、寄るとこあるから」

「どこ?」

「まあ、明日言うわ」

「はあ?」

 FMを聞きながら、あたしは黙っていた。後ろでは岡田さんと高橋さんがお互いのiPhoneを見せ合ってひひひひ、と笑っている。写真か何かかな。新井さんはメンソールのタバコを吸いながら、まっすぐ前の道を睨んでいる。時折助手席側のドアミラーを見る。その度にあたしは何故か太ももに力が入った。

 交通量が少しづつ増えて、駅前の大通りに出て信号に引っかかった時、岡田さんが言った。

「えりちゃん、今日に懲りずにまた付き合ってくれる?今度はおねえちゃんと一緒に」

「はい、もちろんです。絶対行きます」

「よっしゃ。じゃあ、また明日」

「はい、有難うございました」

「お疲れさん。気をつけて」

 もしかして、寄るとこなんてないのかも、って思った。そうだとしたら優しいな。恥ずかしいな。階段を上っていく二人を見送りながら、隣に立つ新井さんの左手が視界から離れなくて、あたしは化粧を気にしながらまぶたをごしごしこすった。

 

「気分、大丈夫?」

 新井さんは青い道路標識を見ながら呟くように問いかける。

「はい、もうダイジョブです」

「昼飯、食い行こっか、あっさりしたものの方がいいかな」

「はい。あ、何でもいいですよ。戻したらお腹空きました」

「ははは。そうか。じゃあ、中華行こう、中華」

「新井さん、またどこか行きましょうね」

 こんなことを、あたしはすらりと言えた。几帳面な岡田さんとムードメーカーの高橋さんのお陰だ。

「今度、俺の趣味にも付き合ってくれる?」

「趣味?」

「スキー」

「行きたい。あたし、スキーって修学旅行でしか行ったことないです」

「行こう。教えるよ」

 新井さんは交差点を右折しながら、ほんの一瞬だけあたしに目を向けて笑う。これから、この顔をもっと間近で、たくさん見られるようになるんだろうか。

 今日の釣りは、きっとあたしだけがすっごい釣果でした。古田さん、そろそろ帰る頃かな。心配してるだろうな。戻って報告しますね。それから、いい知らせ? です。明日からは、また三人一緒にタバコを買いに来てくれます。


 マイルドセブンライト。

 キャスターマイルド。

 マールボロメンソールライト。

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