人の嫌い方
クロロニー
第1話 妹の話
僕は昔から人の死によく遭遇した。何気なしに外を出歩く時は、特にそうだった。
例えばふらっと駅のトイレへ入る、入口に一番近い個室のドアを開く、すると首吊り死体がゆらゆらと揺れている。そんな具合に。
車に轢かれた野良猫やカラスの死体にも人並みには遭遇する。しかし人間の死体に遭遇する頻度は明らかに常軌を逸していた。
体質とも言い難いなんとも奇妙な性質だった。
わかっている法則は何一つなかった。目に見えてわかる規則性は何もないのだ。発見現場や次に発見するまでの期間、死人の職種や容姿、さらには遭遇する死の進行度合いや死に方でさえ、日によってまちまちだった。大抵は死後数十分から数時間というところだが、公園で衰弱したホームレスの死に目に遭遇したこともあれば、海で死後数日の水死体に遭遇したこともある。ただ、まちまちな中でもあえて言うならば、首吊り死体には出くわすことが多かった。単純に絶対数が多いのだろう。
さて、そんな性質が僕の旺盛な好奇心にどう影響したのかと言うと、驚くことに何の影響もなかった。僕は死に対して一定の怖れを抱きながらも、好奇心を萎縮させない程度には鈍感になっていたし、そうでもなければ足が竦んで外へ出ることすらままならない人生だっただろう。しかしそういう性質があるからと言って、性格がねじ曲がることも決してなかった、と僕は信じている。
僕は死に遭遇しやすいという一点を除けば、好奇心旺盛で、人が好きで、臆病な善良を持ち合わせた普通の男子だった。
さて、妹の話をしよう。僕にはかつて双子の妹がいた。由美子という名前で、つぶらな瞳が印象的な、可愛い可愛い妹だった。僕はこの瞳に滅法弱かった。目と目を合わせてお願いされた日には、とてもじゃないけど断ることなんてできなかった。
そんな由美子も小学生になるまでは、僕と瓜二つだったらしい。男女の差こそあれ服の色や大まかな顔かたち、好きなものや嫌いなもの、泣いて嫌がること等々、まるで一卵性双生児であるかのように何から何まで似通っていた。そんなわけで当然おもちゃの取り合いもよくやった。男だからと言って僕が勝てていたわけでもなく、むしろ負けて泣きだすことの方が多かったらしい。胎内から取りあげられた方が先だからという理由で僕の方が兄だということになっているが、気質で言えば由美子の方が幾分か年上のようだった。
そんな可愛くも元気一杯で、負けん気の強かった由美子だが、小学校へ入って二年目のある日にその様子は一変した。
何がきっかけなのか、定かではない。しかしその日を境に由美子は笑わなくなった。いや、笑うだけではない。表情を顔に出すこともなくなった。つぶらな瞳が虚ろな瞳へと変わった。自然と口数も減った。そして風邪を引いたと言っては寝込んで、たびたび小学校を休むようにもなった。母は何度か学校へ行かせようとしたが、そうすると由美子がトイレで嘔吐するものだから、特に無理強いをすることもなかった。もっとも、それが嘔吐するふりであることに僕は気づいていたのだが、気づいたからと言って特に告げ口をすることもなかった。
無表情でも可愛い妹には違いなかった。僕は学校から帰ってくると毎日部屋で由美子と話をした。学校で見たもの、起こったこと、友達のこと、勉強のこと、色んな話をした。そのお陰か、言葉や仕草の僅かな違いで由美子の感情らしきものを読み取れるようにはなっていた。だが由美子の表情が戻ることはなく、依然として仮病は続くのだった。
そんな風に由美子は何日か出席して何日か欠席するのを繰り返していた。そしてその学校嫌いは中学校卒業まで続いた。
さて、高校へ進学してその状況は一変した。つきっきりで勉強を教えていた甲斐があり、由美子はなんとか第二志望の高校に合格した。地元を離れることになったからだろうか、きちんと毎朝学校へ行くようになった。表情こそ元に戻ることはなかったけれど、人並みにオシャレに気を遣って、人並みに髪の毛を弄って、少し早い時間に家を出るようになった。
僕らはそれを見てほっと一安心した。いや、正確に言うと安心したのは僕一人だけだった。母はとっくに由美子を見限っていたし、父はそもそも家庭の事情にあまり関心がなかった。
しかしそれも長くは続かなかった。
秋になると由美子の学校嫌いが再発した。由美子は部屋の中で布団に籠もりきり、たまに外へ出てきたかと思えばトイレで下手な嘔吐の演技を始め、そしてまた部屋へ戻るのだった。何がきっかけなのかはやはりわからなかった。しかも今回は、登校と仮病を繰り返していた小中の頃とは違い、何日も何日もそれを続けるのだった。
母もさすがに今回の演技には違和感を覚えたようだった。
「本当に風邪かどうか見て来てくれない? 体温を計らせるだけでもいいから」
一週間くらい経ったある日の朝のことだった。
「いいけど……でも、まだ起きてないかもしれないし……それに、もし仮病だったとしても、由美子が行きたくないと思っているならその意思を尊重してもいいんじゃない、って僕は思わなくもないけれど」
僕は生意気にもそう擁護してみたが、母は「ありえない」と言ってばっさりと切り捨てた。
「せっかく学費を払ってあげているのに、サボるなんてありえない。もし行きたくないっていうなら辞めさせるわよ」
当然僕がそれに反論できるはずもなく、「まあ、そうだね」と言葉を濁してそれに従うばかりだった。
「なに? どうしたの?」
ドアの隙間から覗かせたその顔は相変わらずの無表情だった。
「母さんが本当に風邪なのか探りを入れて来いってさ」
「疑り深いね……きっと、わたしのことが嫌いだから……」
そんなことない、僕はそう言ってあげたかった。でも、それは悲しいほどにその通りで、臆病な善良しか持ち合わせていない僕は言葉を濁すしかなかった。
「まあ、前科があるから仕方ないよ」
「でも、体調が悪いのは本当なの」
「体調が悪いなら、病院とかに行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫、少ししたらよくなるはずだから」
「とりあえず、体温だけでも計っていく? お母さんの疑いを晴らすためにも、さ」
「体調は悪いけど、熱はないの」
「熱はないって……お母さんそれじゃあ納得しないかも。相当疑っているようだったし」
「お母さんには適当に言って誤魔化して」
「適当にって言われても……」
「おねがい」
由美子は祈るように手を合わせると、あの真ん丸な瞳で僕の顔を見上げるのだった。そんな風に頼まれてしまったら、善良な兄たらんとする僕は聞き入れないわけにもいかないのだった。
さて、その日の夜のことだった。父も母も寝静まっている夜更けのこと、隣の由美子の部屋から奇妙な音が聞こえてきた。ドンドンッという妙にくぐもった鈍い音、そこに時折混じるパンッという乾いた音。まるで何かを殴ったり平手打ちをしたりしているような音だった。それからすり足気味の足音。誰かが風呂場へ向かって歩いて行ったようだ。
僕は無意識的に動いていた。
由美子の部屋のドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。音を立てないようにゆっくりと開くと、部屋の中へと忍び込む。電気は点いておらず、中は真っ暗だ。何も見えない。
勿論スイッチの場所は知っていた。だが電気を点けはしなかった。そんな必要はなかった。僕は布団を踏みつけながら前に進み、色々なものに躓きながら前に進み、そしてクローゼットの扉に手を掛けた。まるで僕はそこに何かがあることを知っているようだった。
クローゼットを開き、しゃがみ込むようにして身を屈める。そして僕は虚空を掴むイメージで手を中に突っ込み、そしてそれを掴んだ。それはビニールの袋のようだった。手元に寄せた瞬間、強烈な金臭さが鼻についた。その頃には目が暗闇に慣れ始めていた。僕の掴んでいるものは色のついたビニール袋で、軽くかた結びされていた。それを解いてやると、臭いに辟易しながらも中を覗いた。
中に入っていたのは肉の塊だった。
その時だった。目の前がパッと明るくなった。誰かが部屋の電気を点けたのだ。僕は慌てて振り返った。部屋のドアの前に立っていたのは、風呂上がりの由美子だった。
由美子はあくまで、無表情だった。驚きも顔に出さず、怒りも顔に出さず、呆れも顔に出さず。その時僕は初めてそれを恐ろしいと思った。
「やっぱり」由美子はゆっくりと口を開いた。「やっぱり、お兄ちゃんには隠せないか」
「これは……何だ?」
「えっとね……胎児の出来損ない、かな。お兄ちゃんにとっては、こんな形すらわかんないようなものでも、人間なんだね」
僕のこの性質のことを、由美子だけは知っていた。
「説明……してくれる?」
由美子は素直に頷くと、言葉を選び選び説明し始める。自分が一カ月かそれ以上前に妊娠していたこと、先週それに気がついたこと、体型の変化を気取られないように寝込んだふりをしていたこと、これ以上騙し通せないことに気がついたこと――そして、誰にも気づかれない内に自分の手で堕胎させようとしていたこと。由美子は自分の腹を思い切り殴りつけ、角度を変えて何度も殴りつけ、それから棒状のものを色々と突っ込んで胎嚢を引っ張り出したと言うのだった。命さえ危ぶまれる非常に危険な素人処置で、由美子は見事目的を達成した。
相当痛いのだろう、由美子はがに股気味にぴょこぴょこと歩き、そして袋を持つ僕に歩み寄る。僕は少し身構えたが、その必要はなかった。彼女は這いつくばるようにへたり込むと、祈るように手を合わせて僕にその瞳を向ける。人を魅了する、そのつぶらな瞳を。
「おねがい、誰にも言わないで」
由美子はいつもの調子でそう言った。まるで、僕が今握る袋の中の胎児なんて、初めからなかったかのように。
僕は戦慄し、そして恐怖を覚えた。
生まれもしない胎児を慈しむべきだと、そう考えているわけではなかった。ただ、虫を殺すことと胎児を殺すことの間には大きな隔たりがあることを、由美子はきっとわかっていなかった。これ以上誰からも幻滅されたくない、その自己愛が由美子から想像力を奪っていた。
一点の曇りもない自己愛は、本人の意思に関わらず、きっと悪意なのだ。その時僕は初めてそう認識した。
さて、しかし僕は、由美子の頼みを断ることはできなかった。人の嫌いかたを忘れてしまった僕は、どうしても妹を嫌いになれなかった。結局僕はその瞳に魅せられ、善良な兄を演じるしかなかった。
全てを隠蔽するために、僕らは汚れたシーツや衣服類をゴミ袋に詰めていった。そしてそれらをリストアップして、いつどこに買いに行くかを話し合った。そうしているうちにいつの間にか日は昇り、僕らはゴミ袋を持ってこっそり家を出た。
それで一先ずのところ証拠隠滅が完了し、心配事が一つ解消された、僕らはそう安堵していた。だが、所詮は子供のすること、そう甘くはなかった。端的に言えば、人を舐め過ぎていた。
学校から帰ってきた僕を待ちうけていたのは、スーツ姿の父と髪の毛を振り乱した母、そしてトイレから漏れ聞こえる由美子の呻き声だった。母は父に向かって狂ったように吼えていた。まるで由美子に対する憎悪の感情が一気に噴き出したかのように、由美子の犯した過ちを繰り返し繰り返し吼え立てていた。そんな母の姿は今まで見たことがなかった。自分の中である程度神格化されていた母が、一人の人間であったことに初めて気がついた瞬間だった。
どうやら母は由美子の部屋から漏れ出る異臭に異変を感じ取ったらしい。部屋の中に無理やり押し入った母は、シーツがなくなっていることに気づき、由美子に問い詰めた。由美子は頑として口を割らなかったらしいが、母は自らの疑念に従って家の中を捜索。それでも見つからないことに不審を覚え、まさかと思いながらゴミ捨て場にまで探しに来た。そしてようやくシーツと、そして赤黒い肉塊を見つけたというわけだった。
「あれは何! 何なのよ!」
僕が共犯者であることを直感的に悟ったのだろう。母は呆然としている僕に詰め寄ってきた。そして僕は洗いざらい話した。善良な人間を演じるために。
――おねがい、誰にも言わないで。
由美子のあの約束を、僕は破ったのだった。
全てが白日の下に曝されたあの日の夜、由美子抜きの家族会議が行われた。その会議はまるで由美子の罪状を決める学級裁判のようでもあった。
由美子は一体どういう意図でそういうことをしたのか。由美子をのけものにしたにも関わらず、そんな事ばかりを話しあった。母は徹底して由美子のことを気持ち悪がり、一方父は都合のいい理解者であろうとした。当然母と父の言い分はぶつかり、喧嘩になった。
「身内だからこそ厳しく罰するべきよ」と母。
「親子だからこそ庇ってあげるべきだ」と父。
「これはきっと犯罪行為よ。警察へ出頭するように促すべきよ」と母。
「それよりも身体に異常がないか心配だ。まず病院に連れていってあげるべきだ」と父。
「あなたがそんな甘ったれた教育をしてるから、由美子はあんな子になったんだわ」と母。
「君がそんな愛情に欠けた教育をしてるから、由美子は愛情を別の形で求めたのかもな」と父。
「馬鹿言わないで、ロクに家庭を顧みなかった癖に」と母。
「その点は後悔している。君に育児を任せるべきではなかったと」と父。
「由美子みたいな恥知らずは私の子じゃない」と母。
「誰が何と言おうと由美子は家族だ」と父。
「この先あの子と一緒に暮らしたくない」と母。
「家族である以上、そんなことは許されない」と父。
一触即発の遣り取り。私情を押しつける母と正論を押しつける父。そんな息苦しい空気の中で二人が出した結論は離婚だった。
それから二人は僕と由美子の行く末について話し合った。由美子は父に引き取られることが確定していたが、問題は僕だった。
母も父も、僕の親権を放棄するつもりはなかった。母は僕に対する愛情から、父は母の教育能力に対する危惧から。二人の意見はまたしてもぶつかり、最終決定権は当事者たる僕に委ねられることになった。
僕は大いに悩んだ。母も父も、僕は嫌いになれなかった。そして何より由美子のことも、僕は嫌いになれなかった。僕は悩み続け、そして保留した。保留できるだけ保留し続けようとさえ思った。由美子は「お兄ちゃんと離れたくない」という意思を示し続けた。口ほどに物を言うあの瞳を、僅かに潤ませながら。
由美子のことを恐ろしいと思う自分がいた。由美子のどうしようもなく理解できない一部分が、恐ろしいと思う自分がいた。嫌いになれないからこそ、嫌いになれないまま近くに居続けることに身の危険さえ感じる自分がいた。
僕は由美子のことを嫌いになるべきだったし、そうでなければ理解できないところも含めて好きでいるべきだった。中途半端は、由美子を傷つけるだけだった。
結局、僕は由美子から逃げた。父ではなく母を選び、由美子に対する感情の全てを保留したまま、逃げたのだった。
こうして僕らは離れ離れになった。母は由美子を恐れるあまり、生活圏が被らないよう慎重に慎重を重ねて隣県に新居を決めた。その慎重っぷりは徹底しており、由美子が決して訪ねて来ないよう、父にさえ住所を教えることはなかった。
こうして破綻は一旦の収束を見せた。
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