―琵琶湖畔(近江国)大津―

「全体、駆け足!」


 新任の士官の緊張がありありと見える。近江のいつもの風景だ。しかし、調練を見詰める犬養征太郎と副官東漢やまとあや塩手しおでの顔に深い悩みがあるのを傍らの来嶋紗奈は感じていた。


「やはり、彼女の事ですか?」


「…わかる?だよねぇ。僕の悪い癖だ。どうも悟らせてしまう。いかん、いかん」


「それが閣下のチャームポイントですよ」


「ハハハ、美人の御世辞は嬉しいよ。僕もまだまだ枯れてないのかね、性懲りも無いけど」


 フランクさと軍人には珍しいリベラリスト振りで知られた犬養は平常運転で話し出したが、その眼は決して口振りのように軽いものを見据えていない。紗奈には良く分かっていた。伊達に朝倉尊景や坂上さかのうえ次郎じろう三郎さぶろうと並んで尊敬を集めてはいない。既に老境に至っておりながら、現役で最前線を闊歩するこの男は大阪に現れたと言う和泉なる者に不審の興味を抱いていたわけだが、今は近江の幕府総本営を離れず、湖北軍管区総督 壱岐守邦 陸軍歩兵頭取と湖南軍管区総督巨勢こせ果安はたやす陸軍砲兵頭取に監視と自衛行動以外の全てを禁じ、自らは偶然出張中だった軍務所の官僚 来嶋紗奈と副官の東漢塩手、そして子飼いの番頭として近江駐屯騎兵衆の頭に赴任させた「黄頷蛇あおだいしょう道嶋みちしま角足すみたりと「白犬」捕鳥部万太郎を傍らに兵の調練をさせつつ情報収集に当たっていた。そこで手に入れた情報には幾つかの「不安要素」を孕んでいた。


「何故、がいるのかなってね?フランスで死んだはずだろう、表向きにしろ」


「…それが、上野さんの言う『東京砂漠』にいるんですものね。彼女の、昔の、姿で」


「まあ、奇跡的な事だし、ここは既に冥府かも知れぬ。景綱公も義朝公も見当たらぬが」


「止めて下さいよ。こんなおかしな所が神の国だなんで思いたくないです」


 ぐぐっと盛った胸元の十字架を握り締めて紗奈は吐き捨てたが、犬養は表情を変えずに、


「来嶋君のフィアンセ殿も見当たらないしね」


 と呟いた。紗奈は俯いて黙り込んだが、茶化された怒りと別の感情を押し留めている雰囲気を感じて犬養は小声で謝り、しかし続けた。


「しかし、真田君も李君も確か伊豆で海上訓練だったなあ。これでは呼び寄せる事も叶わない。あれだけの実力者が居てくれれば心強かったのだが」


「・・・・・・・・・・・」


 紗奈は何も言えない。言いたくない。恋人 真田景綱は僚友の李成功そして艦隊司令の丁仲達 提督共々安否が確認できない。様々な可能性が頭を交錯する中で苦しんでいた。彼に会うまでローマの教えのみに心の拠り所を求めていた紗奈にとって、景綱は初めて垂れ掛かって行ける人物であった。貞節を誓い、彼の妻として生きる夢が儚く散華してしまったかも知れない。そんな事もし自分から口に出したら十中八九紗奈は身も心も壊れてしまうだろう。紗奈は絶対に言いたくなかった。そして言わない。認めない。仮にそうだとしたら…主の御許へ行こう。あの異人共と斬り結んでその身を好きなだけ貪られれば良い。そう思った。


 希望の裏腹の自暴自棄さは一体何時から生まれたのだろう?かつては主の教えに全てを捧げていれば済んでいたのに。恐らく彼に食堂でトマトジュースを盛大にぶっ掛けた時からだろうか。


「…上野さんは、その異人達と『一応』結んだんでしょ?」


 ごちゃごちゃの頭を整理しようと紗奈が質問した東漢塩手はその表現に引っ掛かりを覚えた。


「異人と言うのはやめられた方が良いかと存じます」


「…わかってますよ。…で、どうなの、塩さん」


 恋人の居ない苦しさが、彼女の余裕を奪っていた。塩手は最早指摘する気はなかった。


「間違いないかと。只勿論ながら大河内頭取の差金です。上野さんならきっと、確認も取らないでしょう。今頃彼等は皆殺しです。『契約者』すら歯が立たない怪人ですから」


 。しかし、彼はそれにしては、那須与一郎との身体的な差があり過ぎる。紗奈はそう思わざるを得なかった。


「…しょう姉さんにボラの餌にされるよ、そんな事言ったら」


 一瞬で顔を引きつらせた塩手をよそに犬養はACSという装甲騎兵が電力事情で使えない事や宇治で起きたような敵方への「無慈悲な行動」を如何に防ぐかを思案していた。そして、アフリカで出会い、フランスで多くの敷島兵を討った女の事を思い出した。


「…サト アオバ。次はやらせんよ。ウチの子達は‥がやらせん」


 漆黒の女が東京に居る。それだけでも彼のやるべき事は決まった。

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