ひもろぎ覓ぐ

砌七兵衛

第一話 泡の音

慌ただしい人の動き。赤く点滅する照明。

どこか遠くでアナウンスが聞こえる。合成音の無感情な女性の声だ。

【…緊急事態です。危険度:特等。職員は指南書に従い指定の手順を行なってください。緊急事態です。本館はまもなく当所の規則に基づく自衛措置を実行します。職員は…】


小走りで右往左往する白衣の人々とは対照的に、自分はやけにゆっくりと廊下を進んでいる。視界も音もはっきりしているのに、海底を歩いているかのごとく身体が重いのだ。見下ろせば白衣は所々破れていて、血と思わしき赤黒いシミもある。金属片が腿にめりこみ、足を踏み出すたびに痺れるような痛みが走る。他の箇所からも血が染み出して、新たなシミを作ってゆく。

 目的の扉の前に着く頃には、周りに人影は無くなっていた。ほつれた髪を結い直し、扉の横のキーパッドに触れるが、反応はない。電力の供給自体が止まっているようだ。特等なんて言うくらいだから当然か、と嫌に落ち着きながら、扉の表面の僅かな凹みに手を食い込ませ強く引っ張る。びくともしない…電動扉なのだから、手で開けることなど考えて作られてはいない。

そろそろ食いしばった奥歯が痛む、という頃になって一気に扉が開け放たれた。自分の力ではない。反動で軽く飛ばされかける。なんとか堪えて開いた扉に転がり込んだ。

「ロス!」

その部屋にいるはずの人物に呼びかける。 壁には大きく亀裂が走り、向こうの部屋が見える。その人物は扉のすぐ近くにいた。向こう側で一緒に引っ張ってくれたらしい。

「ロス…しっかりして!」

意識はあるものの、この状況をうまく処理できないのか呆然としている彼女の肩を揺さぶり、部屋の外へ引っ張り出した。ロスは私をじっと見つめ、

「…貴方は逃げなくていいの?」

と一言。

足の覚束ない彼女を無理矢理歩かせながら私は答える。

「逃げるのよ。一緒にね」

私の回答を聞いてなお一層困惑を顔に滲ませた。

「でも…こっちは出口じゃあない」

「そうね。でも私たちにとっては出口なの」

ロスは私の意図を探るように黙り込んだ。


 もうアナウンスも聞こえない。急がないとこの施設の全ての機器は無力化され、ただの鉄屑になる。それまでに辿り着かなくては…。先程の光景が嫌でも頭に浮かぶ。はかせの掠れた声が頭の中に響く。

「大丈夫…生きる未来は…必ずあるから…その力を持って…いるから…」

轟音と共に施設が大損害を受け、はかせの声がスピーカーを通して所内に響き渡ったのはほんの十数分前の事だ。まだ全てを飲み込めているわけではない、でも…私にできる事はまだある。

 目的の部屋は幸いにも扉が大きく割れており、そのまま入ることができた。中には人が横になって入れるような大きな箱が一つ。自然派ナチュラリストには"棺桶"なんて呼ばれていたか。箱を目にした途端にロスが目に見えて狼狽えだした。意図がようやく掴めたらしい。

「どうなるかわかっているのか?君は…成功率は高くないんだ、そのまま死んでしまうかもしれない。」

「落ち着いて…。わかってる、わかってるの。だけど、私たちにはこれしか道が無い。

たとえ外に逃げられたとしても、近いうちに全て無くなる…それよりも、私は賭けたいの。私たちに。」

ロスは大きな溜息をついた。そして大人しく箱の中に横たわる。

「しかし私の身体だけでは限界がある。少なくとも…あと二つは必要だ。」

「ええ…大丈夫。設定は全部済んでるから、あとはうまくやってくれるはず。」

最後に太いケーブルを自分の首筋にあるポートに差し込む。そしてまだ不安気な彼女の顔を見つめた。

「大丈夫。はかせの意思は私たちが継ぐのよ。」

「…善処する。」


箱の蓋を閉じ、金具を丁寧に押し込み、全ての事項に同意。

「それでも、私はあなたと会えて良かった。」

最終確認の『はい』に触れて、私の意識は眠るように遠のいていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る