背中 しち
珍しくお客が来たお昼時、私はちょうどバックヤードでお弁当を食べていた。ドアが開くと鳴るセンサーの音を聞いて、慌ててお弁当に蓋をして表へ飛び出した。
「いらっしゃいませ」
画廊には一人の背の高い男性がいて、高坂百合子の絵を見ていた。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せない。どこと言って特徴のある感じではない。
背は結構高いけれど、顔も、体形も、髪形も、いたって普通としか言いようがない。どこにでもいそうで、誰とでもすぐに交代できそうだ。
男性は私に向かって小さく頭を下げてみせてから、高坂の絵に視線を戻した。邪魔になっても悪いので、受付カウンターの中に引っ込んで仕事をするふりをすることにした。
お客の来ない画廊に、そんなに仕事があるわけもなく。私は大抵、顧客名簿を何度も何度も何度も何度も、確認して、年賀状の宛名書きに向けて字の練習をしている。字がうまいことは一生の宝になると、おばあちゃんが言っていたから、気合も入る。
男性が奥へ移動した気配に顔を上げた。高坂百合子が描かれた絵の前で足を止めてじっと見つめている。ああ、この人も買って行くのかな。お金があるようには見えないけれど、人は見かけによらないもんね。
商談用の書類を音をたてないように準備していたのだけれど、男性は踵を返してドアに向かった。立ち上って見送りのためにドアを開ける。
すれ違う時、男性は私の顔を見て、ぷっと吹きだした。それからあわてて口を手で覆って、男性が真面目な顔を取り繕って、言った。
「あの、唇に青のりがついていますよ」
顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。男性は申し訳なさそうな表情で店から出て行った。
バックヤードに駆け込んで手鏡で確認してみると、確かに、ぺったりと青のりがくっついていた。犯人はちくわの磯部揚げだ。恥ずかしくてたまらない。
まあ、いい。一見のお客なんて二度と顔を合わせることはないんだから。
そう思っていたのだが、男性とはすぐに再会することになってしまった。
その時はまだ、気付いていなかったのだけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます