第29話 にじゅうく

 蜘蛛が足をうごかしている。

 くるくるくるくる。

 巣を張り、かかったエモノを巻き取る。

 くるくるくるくる。

 もうじゅうぶんと思ったのか。


 蜘蛛はエモノにながい鋏角をつきたてる。

 ちゅうちゅうと吸う。

 ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅう、ちゅうちゅうちゅうちゅうちゅう。


 蜘蛛の糸に巻かれたエモノはしぼむ。

 みるみるしぼむ。

 みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみるみる、みるみる、みる、みるみるみる。


 なにを捕まえたんだろう。

 みるみる、みるみる、みるみる、みるみる、みるみるみる。


 なんとなく、ちょうのように見える。


 なんとなく、蜘蛛はちょうをたべる。


 なんとなく、キレイな羽をしている。


 なんとなく、ちょうのはらがうごく。


 びくびくうごめく。


 なんとなく、長い翅脈が蜘蛛の糸に絡まりよじれるのを想像する。

 なんとなく、見てみたくなる。

 ちょうが喰われているところを。


 そっと足音を忍ばせて近寄りのぞきこむ。

 手のひらくらいと思っていたが。

 蜘蛛は異様に巨大で。


 首を伸ばしたくらいでは。

 向こう側をのぞけない。

 仕方なく蜘蛛の周りを回る。

 糸にからめとられたそのものを。


 みる。


 真っ白い糸でまったくぜんぶをつつまれた。

 薄く茶色がかった黄色のそのもの。


 ちゅうちゅう。

 ちゅうちゅうちゅう。

 ちゅうちゅう。

 と、ちゅうちゅうちゅうされたからか。


 枯れ木のように細かった。


 よく見えない。

 反対側に回ってみる。


 そのものが、こちらを向く。

 橋田坂下だ。

 蜘蛛は橋田の首の後ろ。


 鋏角をつきさす。ち

 ゅうちゅうちゅうちゅうちゅう。

 ちゅうちゅうちゅうと吸っていた。


 見る間に橋田はしぼみ。

 かさかさと乾いた皮膚と爪。

 かさかさの皮膚だけの顔と腹。


 にやにやと笑っていた。

 何が嬉しいのか、にやにやと。


 にやにやにやにやと笑っていた。


 見ているだけで腹が立つ。


 にやにや、にやにや。


 あんまり腹が立ったので。

 耳をつかんで引き剥がす。

 蜘蛛の糸からべりべりべりと。


 あんまり糸が強いので。

 耳と皮膚だけ裂けていく。

 皮膚を剥ぎ取りめりめりと。


 蜘蛛の粘膜ぬらぬらと。


 皮膚はあちこちびりびりびり。

 かまわずべりめりべりめりり。


 目がべりめりめりべと裂けて二つの。


 穴がひとつにつながった。

 首がめりべりめりべりべりと。

 裂けて背中へ谷が走る。


 べりめりべりめりめりめりり。

 もう何もひっぱれない。


 うす黄色い茶色いいやな。

 ひたひたと手にべたつくものを。


 ぶんぶん振って振り落とし。

 落とそうとしたがべたべたと。


 胸や腹や右手や左手にくっついてくる。

 ふと気付くと右手にかさかさと唇が。



 かさかさと さざめく。

 ごわごわと うごめく。


 声がする。


 唇から。


「君は見ておいたほうがいい。君に見せるため描いた。君は見なければ。君は見る。見るだろう。いつか、見る。見るかもしれない。見るだろうか。見ないほうがいい。見なければいい。見なければならない。見なければ。知らないほうが。知れば。知らないままでは。見れば。み……れば……。知る……ろう。……るだろう。知るだろう。しるだろう。


 知れば。


 知れば知れる。


 知れば見れば見えない。


 知れば、見えない。


 見えない。


 見えない。


 ぶんぶんと手を振る。


 とれない。とれない。


 とれない。


 壁に手をこする。ごりごり。


 ごりごり。

 ごりごり。

 ごりごり。


 壁ではないではないか。

 壁ではない。


 やわらかい。


 やわらかいもの。さりさり。

 さりさりさりさりさりさり。


 襖だ。

 これはふすまだ。


 開ける。

 がらり。


 何もない。

 知っている。何もない。天袋だ。


 天袋にある。


 いや天袋から押入れおしいれおしいれ?


 これは押入れだったろうか。


 押入れはこれだったろうか。


 おしいれではなく、そうだ。


 襖の向こうは弟の部屋。

 弟。

 弟が急に出て行ってしまって……。

 急に出て行って。

 急に。


 襖を開ける。何もない。何もない。

 布団は? 布団はどこ? 寒い。

 がたがたがたがた。布団がない。

 この部屋には布団がない。布団がない。


 寒い。寒い。


 広い部屋、広すぎるのに狭い。


 狭すぎる。

 かくれない。

 かくれられない。

 どこにもかくれない。


 まるみえ。

 の せますぎる。

 にげられない。


 みる。


 ふとん。ふとんはどこ?

 きゅうにどこへ?

 きゅうににげられない。

 きみはみておいたほうがいい」


 なにも。


 なにもない。


 なにもないおしいれ。


 かくれられない。


 たたみのかずを。


 くものあしのかずを。


 二ほん?


 みてみてみて。


 いとを。


 からまる。


 蜘蛛の。


 蜘蛛の鋏角が我が胸に突き刺さるのを!



 吸われていた。ちうちうと。わずかずつ。ほんの少しずつ。気付かれぬように。逃げられぬように。鋏角からは甘いしびれ。毒だ。毒を吐きながら麻痺させ逃げられぬように。悟られぬように。吸う。命を吸う。


 命を。


 ふと、さゆみの顔がみえた。


 能面ではない。


 泣いている。


 泣くなよ。

 

 さゆみ。


 お前。


 泣いたら、すごい不細工なんだぞ。


 やめとけって。

 泣くなよ。

 泣くな。


 な、いつもみたいにしてやるから。

 ぎゅってなでてやるから。

 ほら、泣くな。


 手を伸ばす。

 触れた。

 髪。


 ねばつく。

 ねば。

  糸?


 さゆみの顔だ。

 能面じゃない。

 知ってる。

 この顔。


 弥勒菩薩。

 微笑んでいる。

 衆生をすくうため。

 いや憐れんでいる。

 なのに微笑んでいる。

 嬉しいか。

 


 足を組み。頬に手をあて。

 衆生をすくうため

 瞑想している。

 


 ああ、駄目だ駄目だ駄目だ。

 救われては駄目だ。

 オレはいまだ。

 到達しない。

 底へ。

 双幅の地獄へ。

 あれを描くことができるなら。

 魂もいらない。




 蜘蛛の糸。




     絡まり、落ちる。 奈落へ―――

















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