永遠の一瞬

まさぼん

離れていても一緒だよ

 サンクチュアリの小説、星の王子様にでてくる“キツネ”のような人だった。小麦畑の様な金色の髪の星の王子様が、自分の元を離れて旅立っていく。それでも共に過ごした日々を、黄金色の畑を見るたびに思い出すことができるから平気なんだ、と。

 思い出にひたるという行為、思い出の全ての意味を見るという行為を、ただひたすら繰り返し反芻(はんすう)して、1人、終活を行う日々を過ごしている初老の女性が、”彰乃”(あきの)である。


 慎ましくも眠るところと食べるものに困らない生活が送れる様にと、古希を過ぎた今でも働き続けている。

 もう2度と一緒に笑いあう事のできない3人が家族だった日々の思い出にひたっては、

 「わたしは、一生に一度の大恋愛をして、愛する人との子供を授かった幸せ者よ。」

 そう、自分自身に言い聞かせるのであった。


 テレビもない。

 パソコンもない。


 あるものは、

 家中の部屋の壁を埋め尽くす本棚と、そこに詰められた無数の本。

 子供がいた時から使っている食卓が1つ。

 入っている食器が極端に少ない食器棚が1つ。

 それだけだ。

 質素な部屋。アパートの一室。それでも、


 「ここがわたしの城。最期を迎えるのは、この城でじゃなくちゃ嫌。それがわたしの孤独な生涯の終わりにふさわしい。」

 そうとでも思っているのであろう。

 

 どこの家族にも、歳月に比例して何かしら事情というのが出てくる。




「ちょっと、事情があって今出かけています。」

 このセリフを聞くと、親族ではない誰か、多分、恋人にご不幸があって葬儀…に参列?と勘ぐってしまう人は流石に少ないと思うが、意味深な響きをこのセリフは持っていると思う。


 かつて、幼き日の彰乃の母、佳乃(よしの)が、彰乃宛にかかってくる電話に対して、このセリフを言っていた。


 事情は本当に深い意味のある事情であった。

 彰乃の母、佳乃は、

 彰乃が幼きある日、夫と離婚をした。理由は、夫が会社を辞めて、家で昼寝ばかりしていたから。それだけ。

 そんなちっぽけな事を期に、彰乃の人生は大人の都合に翻弄されるところから始まった。


 彰乃の事を自分1人の力で育てるのは不可能だと判断した佳乃は、お腹を痛めて産んだ娘を、

“10万円“

 という額で在所に預けた。養女に出した。在所の親戚と戸籍上での正式な養子縁組も行った。

 言い方が悪いが、佳乃は彰乃を捨てた。


 養子に入った在所には、年の近い女の子がいた。その子に彰乃は、家でも学校ででも執拗に苛められた。

 彰乃は、1人耐えた。そこで、

 ”孤独を愛する”

 事を覚えた。


 子供ながらに孤独を愛する彰乃だけれど、

 年に数回、母、佳乃が在所に泊まりに来てくれる時は、孤独から解放されて、母からの愛を求めた。

「お母さん、隣にお布団敷いて寝ようね。手つないで寝ようね。」

 と、佳乃の隣にピッタリと布団をくっつけて敷き、手を繋いだ。

「お母さん、明日の朝目が覚めた時、まだいる?」

 彰乃の問いかけに、佳乃は、

「いるよ。」

 と答えた。

 が、

 いつでも、彰乃が目を覚ますと、昨夜の晩、一緒に繋いだ手の持ち主、母の布団は畳まれていて、触ると冷たかった。







 まあ、そんな想い出があるから、捻くれた性格の持ち主になってしまったのであろう。

 養子に出され、戸籍上は未だに実の母、佳乃の娘ではなく、在所の養女となっているのも大きな捻くれの理由には持ってこいの話だ。

 「私はあんたの娘じゃないんだから、頼ってこないでよね。」

 90歳を過ぎ、独居が厳しくなっていた頃、佳乃が彰乃に、

 「一緒に住もう。アパートの階段上るの大変でしょう。ここの家で一緒に住もう。」

 と、言い出した。


「なんで、私が面倒みなくちゃいけないのよ。私の親じゃないでしょ?」

 彰乃は、そう言いのけ断った。



 彰乃は、中学を卒業する少し前、高校の進路を考えていた頃、母の佳乃に手紙を書いた。一緒の家に暮らしている女の子が自分の事を苛める、辛い。お母さんの所から高校に通わせてもらえないか?という趣旨の手紙を送った。

 そのころ、母の佳乃は、再婚をしたばかりで、気持ちにも金銭的にもゆとりがあった。なので、切実な娘の手紙の内容に、涙して1度預けた(離れた)娘を引き取った。


 

 そうして彰乃は、実の母の元で暮らし始める事が出来た。


 普通に思春期を迎え、

 反抗期を迎え、

 少しぐれて、

 恋をして、

 「青春」

 を送った。

 そして、愛する人と結婚し、

 母に、なった。


 そこに、確かに愛はあった。

 誰しもがそう信じている。けれども、彰乃は授かった娘を出産して僅か3~4年後に、愛する夫と離婚した。かつて母の佳乃が離婚した時の様に、些細なきっかけで、離婚届にハンコを押してしまった。

 彰乃は悔いている。


 自分は夫に愛されている。もし離婚届にハンコを押しても、彼は絶対に役所に届けたりはしない。

 そう思い、口喧嘩に拍車がかかった時に突き出された離婚届に、勢いで簡単に署名してハンコを押した。

 実際の所は、

 彰乃の愛する夫には愛人がいた。

 彰乃と夫の間の双方共の激しい性格からくる絶えぬケンカが原因ではなく、夫が愛人と一緒になりたいがための離婚の申し出であったとは、彰乃は思ってもよらなかった。

 

 彰乃の夫は、産まれた娘を溺愛していた。だから、離婚届を提出されてしまった後のあがきは、娘を人質にとるという方法しかなかった。娘が手元にいれば、夫は必ず帰ってくるであろう。

 そう思い、親戚中をたらいまわしにされていた涼(りょう)が、夫と義理の父母の元へ引き取られて間もなく、彰乃は涼を奪い返した。引き取った。涼を人実に分捕った。


 ま、そんな生い立ちがある、涼のお母さん。

 涼が大学に入り、ちっとも家に帰ってこなくなってからは、ペットのネコ4匹と静かに暮らし、時々帰ってくる涼に、ちょっかいを出して、車を出せ。お母さんをドライブに連れて行け、100円焼肉に連れて行け、動物園に連れて行け、ジェットコースターに乗せてくれと、遊びたがった。涼のお母さん、彰乃にとっては涼とデートをしたかったのであろう。


 涼が子供の頃、彰乃はよくジッと空を見つめていた。涼が、

「お母さん何してるの?」

 と、聞くと、

「宇宙を見てるのよ。」

 と答えたものだ。涼はお母さんが宇宙を見ていると悲しくなって泣いた。


 涼は、幼き頃から、思春期を迎え反抗期を迎え、巣立つまでの間、

 母の彰乃の事を客観的に見て思っていた。

「私に子供が出来たら、たくさん笑顔を作ってくれたお母さんみたいなお母さんになろう。でも、宇宙を見るのは無し。」

 


     ―

 暑い。

 汗がダラダラ流れる。

 サウナに入るのは好きでない。どちらかというと、嫌いだ。何でわざわざ自ら好き好んで我慢大会に参加しなくてはいけないのか?と涼は思うのだ。


 この地を訪れたのは何て事ない、ただの『手伝い』で、だ。当初は、それだけであった。


 吉本のベテラン芸人の2番弟子についている随分年の離れたS男のおじさん。売れないお笑い芸人の彼氏と同棲生活を始めるにあたって、短大のある名古屋から大阪へと引っ越しをする友達の悦ちゃん(えっちゃん)の引っ越しの手伝いで、この地、大阪にやってきた。


 何も、親が大金払って入学金と授業料を収めたばかりの時期、寮ではあるけれど1人暮らしまで始めて通い始めた矢先の短大を中退して一緒に暮らす事無いのに、と同級生は皆そう囁いた。

「卒業してからで、いいんじゃね?ねえ。」

 悦ちゃんは、彼氏と同棲生活をしようかどうか迷っているという旨の相談を、皆にしまくっていて、相談した相手誰からも同じ、そうアドバイスを受けていた。にも関わらず、悦ちゃんは中退という道を選んだ。

「だったら、相談すんなよ。ねぇ。」

 皆、彼女が夏休み前に荷造りを始めだし、いらない洋服を“せんべつ”だと配る、その服を受け取る時、そう口にして言った。


 短い付き合いで終わりをつける悦ちゃんは、そんな皆に向かってシラーっと言い放つのであった。

「だって、彼、私の事とっても好きみたいなんだもの。」

 悦ちゃんは涼しい顔でシラーっとそう言ってのけ、爽やかに学校を去っていった。


「涼、あんたの車大きかったよね?荷物運ぶの手伝ってよ。」

 当然の様に涼に向かって悦ちゃんは頼んだ。お願いを断る理由は、涼には何処にもなかったので手伝ってあげた。涼は、当然の様に手伝った。


 それが、

 今。


 ずるずる居座り、サウナで汗を流している。


 短大が夏休み中の今、知らない土地に中期滞在してその町の庶民に触れるのも悪くはないな?と、悦ちゃんの引っ越し先の同棲相手の家に入った時、その場に居合わせた同じ吉本ベテラン芸人に弟子入りする4番弟子にあたるペン太というこれまた売れない芸人の家に、涼はシレーっと転がり込んだ。4畳1間、風呂無し共同トイレのその部屋は涼から見ると、めっちゃカッコよくて斬新で新鮮さを放つ恐るべき狭さと貧乏くささを持っていた。


 悦ちゃんは、

「涼、あんた何やってんのよ。」

 と、ペン太の家に電話をかけてきて、ふっつーに電話に出る涼に向かって言うのであったが、

「あんたに言われたかないよ。」

 と、涼は言いのけ、シラーっとした顔で4番弟子ペン太の部屋に居座り続けた。



 ペン太の主な収入源は、ねるとんパーティーの司会だ。

 テレビに出た事は、2度しかない。吉本の先輩芸人が出演する旅番組で司会というかレポーターをやったので1回。吉本売れない若手芸人たち、という名目で芸人と名乗る者が勢ぞろいして並んでいる光景というだけので、もう1回。この合計2回、ペン太はテレビ出演している。ペン太の自慢だ。司会じゃなくてレポーターじゃね…?と、テレビもビデオもDVDプレーヤーもないペン太が言い張る、

「俺は、姉さんの旅番組で司会した。」

 というビデオテープを、悦ちゃんの家で見た涼は、“司会じゃあない、けど、司会って事でまあいいや”と思っていた。


 昔、涼のお母さんがレコードプレーヤーで流して、そのあまりにも切ないメロディーラインに胸を痛めさせられた“神田川”という歌。まさしくあの世界がペン太との暮らしの中にはあった。

 と言っても、切ない要素は何処にもない。陽気にケラケラ笑って過ごしている。


 ペン太が、『俺はテレビでもやった事あるプロの司会者だ!』とねるとんパーティーの司会のバイトに出かけていくと、涼は、少ない小遣いしか稼いでないペン太からくすねた小銭を片手に近所のパチンコ屋に行った。パチンコ玉をはじきながら、隣や後ろから喋りかけてくるおっちゃん、おばちゃんと親交を図った。


 ペン太がバイトを終えて帰ってくる時間を見計らって帰宅し、質素な晩御飯を作って帰りを待つ。


 ペン太は、『突然転がり込んできたこの珍客の涼は一体いつまで居るのだろう?この子は一体何なんだ?』と心のどこかで思いながらも、迷いこんできた涼。自分の部屋に寝転がって銭湯帰りの濡れた髪を拭いてる涼の姿を見ては、思った。


 銭湯は、パチンコ屋以上に庶民の触れ合いを味わう事の出来る場所であった。入りたくもないサウナに入るのは、その場所が1番、人が長居する、語り合う、場であったからだ。


「あっついわあ。なあ?」

「ほんまやなぁ。あっついわあ。なあ?」

「ほんま、ほんま。あっついわあ。なあ?」

 会話は、涼に伝言ゲームの様に伝え届けられてくる。

「なあ?」

 ―「お?私の番か?私に向かっての、『なあ?』か?」

「あんた、ノリ悪いなあ。名古屋の子は皆あんたみたいなん?ノリ悪いわあ。なあ?」

「ほんまや、あんたノリ悪いでえ、なあ?」

「はい。ノリ悪いです。すみません。」


「標準語喋ってるで、この子。」


 酷い名古屋弁を話す涼が真実の涼なのだが、大阪人気取りして、大阪弁を話したりしたら、確実にかっくじつに激しいツッコミを入れられる、と、銭湯に来た初日に肌でビシビシ感じたので、大阪弁を話したいんだけれど話す事が出来なかった。かといって名古屋弁を垂れ流すのが出来たかというと、出来なかった。無難に、テレビアナウンサーを真似て東京弁で受け答えしていた。


「あっつい。汗ダラダラでるわ。なあ?」

「ですね。暑いです。汗止まりません。ね?」

「この子、『ね?』って言わはった。聞いたか?あんた聞いとったか?お上品やなあ。なあ?」

「聞いてたで。私もこれから『ね?』って言うてみよかな?どない思う?」

「ないわあ。ないない。あんたには似合わへんで。ね?」

「うわあ。『ね?』って言うたあ。わっはっは、やられたあ。持ってかれたわ、あんたいっつも美味しいとこ持ってくなあ。ね?」

「ほんまやねえ。ね?」

「あんたまで、『ね?』言うて、おもろいわあ。なあ?」


「そこは、『ね?』やろ!」

「そこは『ね?』やろ!」

「そこ『ね?』やろ!」


 勢ぞろいしてツッコミを入れるおばちゃん達に、ボケたおばちゃんは笑顔を見せていた。

 ―「面白い。漫才だ。テレビの漫才よりこっちのほうが面白い。『おもろいわあ。なあ?』言ってみたいなあ。ツッコミにツッコミを入れたいわあ、なあ?」


 涼は、完全に大阪のおばちゃんの魅力に憑りつかれていた。ペン太よりもおばちゃん達の方が断然面白い。それで、サウナから中々出れないのであった。


 銭湯から上がって脱衣所で衣服を着ていたある日。

「あんた、吸いぃ~。」

 セブンスターの紙パッケージを涼の目の前に差し出してきたおばちゃんが言った。

「あんた、名古屋から大阪の学校に通いに来てはる学生さんなんやろ。お風呂家に無いんやろ。明日ここの銭湯休みなん知ってるか?おばちゃんが明日開いてる別の銭湯連れてったげるで、この銭湯の前で6時に待ち合わせな。ええか?」

「あ、はい。有難うございます。」

 涼は、おばちゃんが差し出すセブンスターの紙パッケージからタバコを1本頂き、おばちゃんが『シュボっ』っとつけて差し出すライターの火に、咥えたタバコの先を持って行って、『すぅ~っ~』と吸って一服してから、返事をした。

 本格的な親睦だあ。なあ?

 涼は、そのおばちゃんに好感を抱いた。


 銭湯の前で、いつもの様に待ちくたびれて座っていたペン太の元へ走って行き、今の話を話した。

「あのね、知らないおばちゃんが、明日別の銭湯に連れてってくれるって言ってくれた。この銭湯の前で6時に待ち合わせって。明日1人でそのおばちゃんと待ち合わせして別の銭湯行ってくる。」

 ペン太は、

「あかん、あかん。そんなん相手にしたらあかん。そんなん言うおばはん、しゃあない人しかおらへんで。やめとき。」

 と言った。涼は、

 ―「新手のツッコミか?」

 と思い、大阪人気取りで、

「そうでっかあ。ほなやめとくわあ。つまらんなあ。つまらんつまらん。ノリ悪いわあ。しょーもな。なんかつまる話しないかぁ?なあ?」

 と、ペン太に向かって言った。

「ちゃうわ。そんなんちゃう。ほんまに、大阪とか名古屋とか東京とか、東京はようわからへんけど、そんなん関係なく、知らん子と待ち合わせしてその子連れて銭湯行くおばはんおかしいやろ?変やと思わへんのん?危ないわあ。この子危ない。」

 と、真っ当な事を言った。

 後ろ髪を引かれる気持ちもあったが、涼は、次の日、待ち合わせした銭湯の前には行かなかった。『おばちゃん、待ってたらゴメンなさい。』と気にかけながらも、行かなかった。


 待ち合わせ場所に行かないと決めたそれと共に、『そろそろ名古屋に帰ろう。』とも決めた。

 引っ越しの荷物をぎゅうぎゅうに詰めこんでこの街に来た時の事が、遠い昔に思える。


 ペン太の事は好きだ。純粋に好きだ。悪い人じゃない。好きだ。普通に好きだ。悦ちゃんの事を好きな様に好きだ。悦ちゃんの彼氏が悦ちゃんの事を思う『好き』とは違う『好き』だ。お別れするのも何だけど、もうここにいてもつまらない。ちょっとした旅気分で過ごした日々であった。涼にしてみれば、大阪は外国だった。

「飴ちゃん食べるか?」

 と、飴玉を差し出してくれるおばちゃん達を、何てフレンドリーな、親切で優しい人達なんだろう、と親しみを持って思って見ていたけれど、ただの方言と習慣にすぎない。

「こんにちは。」

 と、

「飴ちゃん食べるか?」

 は、同じだ。それに、気付いて帰る事にした。


 帰る予行演習で、ペン太の狭い部屋の中にあったペン太の師匠が置いて行ったという大きいタンスの中に隠れて、ペン太の帰りを待ってみた。ペン太は、

「ただいまー。涼ちゃんただいま。あれ?」

 と、涼がいない事に気付いた。どうするだろう?どうなるだろう?涼はドキドキしながら息をひそめてタンスの向こうに耳を翳した。

「…行っちゃったか。」

 ペン太が寂しそうに、ポツリと呟いた。

 ―「どーしよ、これどーしよ。ペン太に悪い事しちゃった。名古屋の電話番号くらい教えた方がいいよね?でも教えたら家に電話かけてくる。そうしたらお母さんに男の人の家に泊まってた事がバレる。それはまずい。どーしよ、これどーしよ。」

 その晩、タンスの外に出るタイミングを涼は失い、タンスの中で眠りについた。

 朝起きると、部屋の布団の上に涼はいて、ペン太の姿は無かった。


「ん?」

 まあいっか。帰ろう。

 置手紙も連絡先も何も残さずに、ペン太の元を離れた。


 名古屋までの帰り道、

 ペン太からくすねて貰っていたお小遣いはパチンコで全部すってしまってお金が無かったので、高速には乗らず、乗れず、下道を通って帰った。


 正直な話しをすると、この車は涼の車ではない。涼の事を好きな男友達の車だ。男友達、庄野君(しょうのくん)は怒っているであろうか?困り果てているかもしれない。でも、短大に入学して間もない頃からずっと借りてる車だ。返さないのは今に始まった話しではない。まあ、謝れば許してもらえるであろう。許してくれるよね?と願いながら同じ短大に通う奇遇にも“大阪”出身の、駅近、新築の広いワンルームマンションで1人暮らしをしている庄野君の家向かって飛ばした。


 車を置いていた場所は悦ちゃんの彼氏の家のそばの道端。リカーショップの隣の竹やぶに片輪乗せて停めて置いていた。『竹やぶは私有地だから片輪乗せてれば路駐で持ってかれる事はない。荷物運びの間、ここに止めとき。』と言われたその場に、そのまま1か月近く放置していた。屋根だけではなく、フロントガラスも鳥のフンだらけ。全くもって汚い。庄野君に車を返す時は、洗車してから返そう。当たり前の事だけど、凄い良い事を思いついたと勘違いして、涼は運転した。


 庄野君と初めて会ったのは、入学式の日。

 それまで公立の学校にしか通って来なかった涼が初めて実在する場所として呼ぶ、『学食』という所に足を踏み入れようとした時、学食の前をネコが横切った。涼は、家でネコを沢山飼っていたのでネコとお話しするのは日常の当たり前の事だった。普通に通り過ぎるネコに向かって、

「にゃあ!」

 と、言った。


「ヤラレタ!」

 と言う声が、『にゃあ!』の後ろに登場した。『誰?何?ネコが喋った?どうせネコが喋るなら家のネコに喋ってもらいたいわ。』そう思ったけどスルーして学食の中に入った。後ろから庄野君がついてきて、

「僕、庄野。君の事好きになった。宜しくね!」

 と、手厚い挨拶をしてくれた。

「私、涼。新貝涼。(しんかい りょう)宜しく。」

 涼は自分の事を好きだと言う庄野君に、『悪い気はしない、出会いだ。春だ。』と心躍らせた。

 新入生歓迎100人コンパというのが入学早々開かれ、先輩たちから強制的に参加させられ飲んだ。その時、屈託のない笑顔を浮かべて隣に座ってきた庄野君。

 庄野君は、お酒が飲めない人で、すぐげえげえもどしていたけど、その場を楽しんでいた。高校を2年留年していて、大学も1浪して入って来ていたので、3歳年上の同級生だった。

 庄野君の住む新築マンションにようやく到着した。ピンポンを鳴らす。出ない。誰も出てこない。お留守かな?もう1度ピンポン鳴らした。

「誰?ちょっと今シャワー浴びてる。出れない。」

 庄野君の声が中から聞こえてきた。

「涼、涼だよ。長い間、車借りっぱなしでゴメンね。返しに来た。」

 大きな声で話した。

「声大きいよ、涼。大家さん下に住んでるから大きい声出さないで。ここの大家、直ぐ家に苦情言いに来るんだよ。」

 下半身にタオルを巻いて玄関のドアを開けて中に通してくれながら、庄野君はぼやき半分、来客の喜び半分で、話した。


「で、姫。どこ行ってたの?1か月くらい行方不明だったよね?」

「あ、ああ。ちょっとね、中期滞在の旅に出てた。」

 庄野君は興味津々で聞いてきた。

「え?どこ?どこで中期滞在してたの?ロンドン?」

 涼は、

「まあ、外国みたいな所だよ。詳しくは聞かないで。思い出の色が話すと濁っちゃうから。」

 と話をかわした。

「カッコいー。言ってみたいそういうセリフ。ねえ、姫。今日うち泊まっていきなよ。いっぱい話そうぜ。」

 庄野君はそう言って、直ぐ。

「変な事はしないよ、泊まるってそういう意味じゃないからね。ただ、もっと姫と話したいっていう意味だからね。」

 と、付け足して言った。

「そだね。泊ってこっかな。お酒ある?ああ、飲めないんだったね。あるわけないか。まあいいや。コーヒーでも飲ませてよ。コーヒー飲みながら話そう。」

 涼は、何故か庄野君からは『姫』と呼ばれていて、それが何故かと考えた事もなく、その呼ばれ方を受け入れていた。

「はい、姫。インスタントコーヒー。砂糖と塩はどれくらい入れる?」

 庄野君のボケだか天然だかの質問に、

「クロ。女は黙ってブラックコーヒー。」

 と答えた。


「カッコいー、僕も黒コーヒー飲んでみよう。これからコーヒーはクロ飲むことにする。男も黙ってクロコーヒーって言っていい?」

「どうぞ、どうぞ。」


 2人は朝まで語り明かした。

 涼の頭の中に、少しペン太の事が残っていたけれど、考えない様にして庄野君の音楽話しを『うんうん』『へえ』『そうなの?!』と相槌を打って聞いた。

「ふわあぁ~」

 大あくびが出る。朝も過ぎ昼の時間になって、2人は大あくびをした。

「眠いね。寝よっか。」

 と、眠りについた。


 涼が目を開けると、視界は薄暗く2つのコーヒーカップが浮かび上がって見えていた。

「ペン太?」

 涼の寝ぼけ眼で発した言葉で、庄野君が目を覚ました。

「ペン太?って何?」

 庄野君の寝覚めなのに鋭く痛いところを突くツッコミに、

「さすが大阪人。起きたてホヤホヤでも乗りツッコミ。」

 と、話をはぐらかして答えた。


 夏休みは、そんなわけで中期滞在で潰され終わった。『また学校でね。』と、庄野君のマンションを後にして、久しぶりの自宅に帰った。自宅に現れた涼を見た凉のお母さんが、

「あんた、死んだんじゃなかったの?へえ~、ほえ~。生きてたんだ。へえ~。死んだと思ってたあ。へえ~。」

 ジロジロと頭のてっぺんから足のつま先まで眺めながら言うお母さんに、

「お母さん、もうわかったから。くどいんだよ。」

 と言い残して自分の部屋に久しぶりに入った。

「はあ~、ただいま。」

 自分を迎え入れた。


 家のネコが、『知らないお姉さんがいる』という顔して、微妙な距離感を保って、涼の周りをぐるぐる徘徊しながら見ている。

「モモ、こっちおいで。涼だよ。」

 モモは、しっぽを立ててフリフリしながら涼の膝の上に飛び乗ってきた。喉をゴロゴロ鳴らしている。4匹いる家のネコの中で、モモは特別涼に懐いている。

「りょう~、ご飯だよ。」

 この家は、ごはんを作って出してもらえるのか?何てステキな家なんだろう。

 当たり前に出してもらっていた今までの食事。短大に入ってからというもの、ほとんど外泊して家に帰らず、その時々のシチュエーションでその時々に自分で用意して取っていた食事。食事を出してもらえるという事が、特別な事だと思う様になっていた。


「お母さん、ご飯美味しい。作ってくれて有難う。」

「あんた、何言ってんの?熱でもあるんじゃない?病気?何、死ぬの?あんたホントに死ぬんじゃない?へえ~、あんたが死ぬとはねえ。」

「だから、お母さんわかったってば、くどい。食べてるから邪魔しないで。」

 涼は、お母さんのそんな調子を新鮮に感じながら懐かしく思い起して食事をした。


「モモ、あんたの部屋に入って、『いない』って顔して出てきて、思い出したようにまたあんたの部屋入って、『いない』って顔して出てきてたよ。今日家に泊まっていけれるんでしょう?モモと一緒に寝てあげなさい。」


「おやすみ~。」

 部屋の扉を閉めようとする間際に、涼のお母さんが、

「モモ、早く。モモ、涼ちゃん帰ってきてるから部屋に入れてもらいなさい。早くしないと涼ちゃん死んじゃうよ。モモ。」

 と、最終的にはお母さんがモモを抱っこして部屋の扉の前に来て、

「モモ持ってきてあげたよ。受け取って。」

 と渡してきた。


 人肌には十分触れてきた、この数か月。お日様の香りがして、ふわふわの毛並みをしたネコと、モモと眠るのは心地よかった。とても、心地よかった。


 そんなこんなで、本物の家に帰る事は少なく、友達の家、庄野君の家を泊まり歩きながら短大に通う日々を送った。


「君たち、付き合ってるの?付き合ってないの?そういう事、気にならないとか言い出すタイプ?」

 短大の先生が、ある日庄野君と話してから、ゼミの教室に入った涼に向かって聞いてきた。

「君たち?へ?私ですか?」

「君たちって複数形なんだから、大学生でしょ?君は君で、君を含んではいるけど、君じゃなくて、君たち、だよ。」

「私と誰か?誰か私と付き合ってる様に見える子いるんですか?」

 かみ合わない先生と涼の会話は続いた。


 結局、庄野君と涼は今付き合ってないとしても、そのうち付き合うだろうよ。恋人同士に見える。という事が言いたかった様だった。


「庄野君と私が恋人?ないない。ないわなあ、なあ?」

 教室にいた友達に、サウナで話してた時を思い出して会話を振った。

『ないなあ、ほんまや。なあ?』

 という言葉はどこからも飛んでこなかった。少し寂しくなったから、自分で、


「ほんまや。ないない、ないわあ。」

 と言った。


「今日先生にそんな事言われたよ、無いよねえ?ないない、考えられないよね?」

 と、庄野君に教室で先生に言われた事を話したら、

「ないない、ってなんやねん。」

 と、マジ切れされた。


「俺の事なんやと思うてんねん。俺かて男やぞ。なんやねん。腹立つわあ。姫、ほんま腹立つ子やわ。なんやっちゅうねん。」


 リアル大阪弁を耳にした。

 涼はそれでも続けて言った。

「庄野君でも怒る事あるんだ。へえ~、ほえ~。凄い。大阪出身だけあって大阪弁喋れるんだ。凄い凄い。」

 と、涼のお母さんが言う様な事を口に出した。

 庄野君が、涼の両手首を掴み、ベッドに押し倒す。涼は驚いて抵抗する事も忘れていた。庄野君の手触りが、涼に『愛してる』と伝えてくる。2人が1つになろうとした。

 その時、

 庄野君はパタッと続きをするのを止めた。


 涼は、『何だ、やっぱりそういう関係じゃないって事じゃん』と思って服を身に付けた。庄野君の姿を少し抵抗感を抱いたきながら見つめた。庄野君は首を項垂れて、ボソッと呟く。

「俺、初めての時は出来んねん。」

 何だ?今のぼやきは?涼は深くは気にならなかったので、言葉を受け流した。


 その晩、庄野君の家でいつも通り庄野君はベッドで眠って、涼はカーペットの上で眠った。


 道がどんどん細くなっていく。ぐるぐる曲がりくねる。引っ張られる。道から落ちそう。危ない。一生懸命引力に逆らい道の上を歩く。ダメだ。これ以上は耐えられない。落ちる。


 青ざめた顔に冷や汗を浮かべて、涼は悪夢から目を覚ました。


「モモ、モモどこ?こっち来て。」


 涼は、モモの姿が現れるのを待った。けれど、悪夢にうなされる意識が次第に現実の世界へ戻ってきて、庄野君の家に泊まっているからモモはいない、モモがいない。怖い。とどうしようも無い気分に陥った。


「おいで。」

 庄野君が羽織っていた布団を上にあげ、涼を呼んだ。

 涼は、庄野君の布団の中に潜り込み、涼がモモにしてあげている様に、庄野君に涼が腕枕をしてもらった。庄野君の手が、涼がモモを撫でる時の様に、涼の頭を撫でる。モモが涼にする様に、涼は庄野君にギュッとしがみついて甘えた。

 2人は、その後結ばれた。

 当たり前に結ばれた。『先生の言ってた事は正しかったです。』と、明日学校に行ったら言わなきゃ…。


 2人は、なあなあで、ずるずると関係を続けた。半同棲の状態は卒業して2人揃ってフリーターとなった後も続いた。

 涼のお母さんは、いい顔はしていないもののそんな涼の暮らしぶりを黙認していた。

 帰ってこない娘と、娘の姿を探しに部屋に入っては『いない』という顔をして戻ってくるネコのモモ。1人と1匹。正確に言えば、1人と4匹の中の1匹、他の3匹をも愛おしく思い、『いない』という顔をしているモモを見ると、抱き上げて、

「涼ちゃん、モモに会いたくなって帰ってくるよ。」

 と言い、撫でてあげた。


 庄野君はフリーターとしてビデオレンタル屋でバイトしていたのだが、レンタル屋の社長の息子兄弟がフリーのCGクリエイターをしていて、そちらで働く様頼まれ待遇がバイトから正社員へ変わって働き出した。涼はというと、フラフラとバイトを辞めては始め、始めては辞め、と本物のフリーターとして稼いでいた。そんな立場の違いがあるのに、全部割り勘という関係性に涼は不満を抱きだした。

 2人がうるさい大家のいるワンルームマンションから2DKのコーポに引っ越してきて間もない頃に不満を抱き出した。昼間働く庄野君と顔を合わせるのを避ける為に、夜のバイトを選んで、レゲエバーでバーテンとして夜中の3時までバイトした。2人が家で顔を合わせることはほとんど無かった。


 朝、普段通りレゲエバーの店長に飲みに連れて行ってもらって遊んでから家に帰ってくると、涼宛に、キッチンに庄野君からの置手紙が置かれている。普段通り、置手紙が『おかえりなさい。いってきます。』と書かれて置いてある。それは普通の事で、毎日涼が家に帰ると庄野君の置手紙は待っていた。出迎えてくれていた。

 どこから、ねじれていったのか?2人はやはり最初からそういう関係にはなれない2人だったのかもしれない。若気の至りでくっついただけで、最初から一緒になるべき2人では無かったのかもしれない。

 あの時、教室で先生が言った事を1度は認めたけれど、

「ないわあ、ないない。なあ?」

 と先生の意見に否定して言った涼に対して誰かが、

「ほんまやわあ、ないない。ないわあ。」

 と答えてくれていたらば、こうはなってなかったのかもしれない。


 涼は、

 ある日、家を出た。

 ペン太の家を出た時同様、置手紙も連絡先も残さず、家を出た。


 コーポの名義は涼名義だ。今後、庄野君がどういう対応をしてくるかで、涼が痛い目を見る事になってもおかしくはない。けれども、涼は何もせずに家を出た。

 庄野君は、その後暫くはそこで暮らして涼の帰りを待ち続けていたかもしれない。読まれていない置手紙を拾ってゴミ箱へ捨てては、朝、新しい手紙を書いてから出勤していたかもしれない。

 涼のそんな考えは正しくて、庄野君は実際に、毎日それを繰り返す日々を送った。『涼は、自分の知らない間に帰ってきていて、出かけて行ってる。それだけだ。』なんていう、虚しい発想をして、納得した振りをして暮らしていた。

 そんな事が現実だなんて思いもせず、少しは思っていたけれど思わない様にして、涼は、モモのところも、ペン太のところへも、庄野君のところへも帰らず、1人で部屋を借りて住み始めた。

 食べていくだけで精いっぱいの日々だ。涼は、寂しさを感じながらも1人暮らしをして、庄野君と一緒だった時の激しい感情から解放された事だけに目を向けて、『これでいい。これが正しかった。』と、一見華やかだけれど感情は全くもって平淡な日々を送っていた。

 そのうち、やっと、

 ―「フリーターは食っていくだけで精一杯。どこかに腰を据えた方がまともな暮らしができる」

 と気付き、何の変哲もない小さな工場兼会社の、『正社員募集』の文字に誘われるがまま就職をした。

 オーダーメイドの家具を作る小さな町工場。家族経営の会社での居心地は、悪くは無かった。夕方になると、社長と社長のお姉さんの小学生になる子供たちが会社にやってきて、社長と社長のお姉さんを迎えに来る。涼は子供の頃、涼の事を迎えに来てくれていたお母さんと自分の姿がそこにはあって居心地悪くは無かった。


 就職してから何年も経たずして、1人住まいのマンションの部屋の鍵を開けながら、

「私の帰りを待ってる人がどこかにいる。」

 と、自分の帰る場所が何処なのか、今の自分が、

「ただいま。」

 と言って入るべき玄関は何処にあるのか?と自分に問うた。問うて問うて問うた。そして、思い出した。

 お母さんのところへ、

 涼は帰った。

 借りていたマンションを引き払って、お母さんと4匹のネコが待つ家へ帰った。


 お母さんは毎日ごはんを作ってくれる。涼の帰りを待ちながら、ごはんを作っている。モモは、涼の部屋に入っても、もう、『いない』という顔をして出てくる事はない。部屋に入って涼の姿を見つけ、膝の上に飛び乗り喉をゴロゴロ鳴らした。

 ―「これが日々だ。私、大きくなったらお母さんみたいなお嫁さんを貰おう。」

 充分すぎる程大きくなっている涼が心の底からそう思う日々。家具を作る小さな会社で事務の仕事をして流れていく時間。

 平和。

 だけれど、退屈。

 退屈と幸せの境界線が、どんどん見えなくなっていった。その一方で、退屈というものを平和と感じられる大人になりたい、と、思っていった。


 お母さんが、

「涼!りょう~!ちょっと来て涼ちゃん。」

 と呼んでいる。めんどくさいなあ、と思いながらも、お母さんの元へ行った。

「これ、お母さんが若いころ買ってもらった高い補正下着なんだけど、あんたもいい年なんだから着たら?あげるわよ、お母さんもう体系気にする年じゃないから。ほら、ほぉれ、着てみなさい。」

 お母さんはそう言いながら、タンスから何枚かの汚いババシャツ色した水着みたいな服を取り出し押し付けてきた。

「何これ。これが下着?オシッコする時、どうやってすんの。どうやって服の下の水着脱いでオシッコすんのよ。トイレに入る度服全部脱いで、この水着を脱いでオシッコするの?社長の奥さんにトイレが長いって怒られるわ。」

 と、相手にせず、防水ではなくプールにも着ていけない水着、補正下着だとかいう物をお母さんに突っぱね返した。

「涼ちゃん。りょーちゃん!涼ちゃんは物の価値がわからない子だねえ。これすっごく高いんだよお。聞いてる?涼ちゃん、これおばあちゃんがお母さんがあんたくらいの年の頃に買ってくれた30万円する補正下着だよ。涼ちゃん聞いてる?返事くらいしなさい。ったく、小さい頃は上手にお買い物できる子だったのに、物を見る目が無くなっちゃって、どこでネジくれたんだろねえ。涼ちゃん!」

 涼は、お母さんの呼びかけにそれ以上応じる事無く、自分の部屋に閉じこもった。

 涼の部屋の扉がノックされてる。コンコンコンカンカンコン軽い音が鳴る。

「だからあ、お母さんしつこい!いらないものはいらない!」

 ゴンゴン

 大きい音が扉の向こうからした。

「呼んだ?涼ちゃん、お母さんの事呼んだ?用事何?何かとって欲しい物でもあんの?ちょっと、モモ。亮ちゃんの部屋の扉食べちゃダメ。これは食べ物じゃない、とーびら。わかった?モモ。りょーちゃん、モモが入れて欲しいって言ってるわよ。お母さんには用事ないのね?お母さんもう寝るよ。喉乾いたら自分で冷蔵庫のアイスコーヒーとって飲むんだよ。わかった?だからモモ。食べちゃダメっ!」

 扉の向こうでワアワア捲し立てるお母さんの声を聞いて、

 ―「うるさい母親だ。やっぱりお母さんみたいなお嫁さんはいらない。私がお嫁さんになって3食昼寝付きのただ飯ただ住まいをさせてもらう側になるわ。相手探そ。婚活しよ、婚活。この家出よ。ついでに会社も、永久就職で寿退社しよ。」

 心の中で浮かんだ新しい未来の形が、現実の物となります様に、と切に願いながら、コンコンカンカンカリコリカリコリ鳴る扉を片手で引っ張って10センチくらいだけ開けて、モモを中に通した。モモだけじゃなくて、珍しく、マオちゃんまで部屋に入ってきた。2匹は、涼の敷いたばかりの布団の上に登って、寄り添って喉をゴロゴロ鳴らし、重そうな瞼を閉じかけていた。

「あんた達、仲いいねえ。可愛いねえ。」

 2匹の乗っている布団を引っぺがして自分が潜り込んで上にかけ直すのが可愛そうだったから、涼も2匹に混ざって布団の上に乗って横になり、重い瞼を閉じかけながら考えた。

 婚活って、何から始めればいいんだろう?現実問題どうしたらいいのか皆目見当つかないな。

「あ!ねるとんパーティー!」

 しまった。大きい声で言ってしまった。お母さんに聞かれたらまたくどくど根掘り葉掘り問いただされる。聞こえたかな?大丈夫かな?

 部屋の扉の向こう側は静まり返っている。

 ―「セーフ。」

 部屋に置いてある最近新調したばかりのノートパソコンの電源を入れて、ねるとんパーティーがどこで開催されていて、どうやって参加できるのかを調べた。

 涼が、フリーター時代にわんさかいた女友達、男友達もだけれど、友達という存在が今の家具会社には存在しない。身近な話し相手に『婚活ってさあ。』と話せる人がいない。もう行くっきゃない。ねるとんパーティー。

 ネットで調べて出てきたねるとんパーティーは、婚活前提と漂わせるウェディングドレス姿の女性と白いタキシード姿の男性が手を取り合っている写真が掲載されたものがまず目に入った。『アラサー、1人での参加安心』これいいねえ。涼の顔はにやついていた。


 短大に入る前から恋多き女だった涼。だが、今現在、いや、ここ最近、それ以前に、一番最後に付き合った人と別れてから、もう2年近く経とうとしている。

 ―「枯れる。女が枯れる。」

 そうは思うのだが、出会いが無い。従業員総人数10数名の家族経営の会社で働いていて夜遊びも長い事していない。出会いが無い。

 ねるとんパーティー。


 ねるとんパーティーの参加料金は、女性は無料~高くて3000円程度。もうこれっきゃない。涼は、会社でいつもの様に電卓をはじきながらも頭の中はもう参加の予約をしたねるとんパーティーの事で埋め尽くされていた。ペン太の家に泊まってたのが、こんなところで役に立つとは。面白い、おもろいおもろい。

「新貝さん、何か良い事でもあったの?」

 社長の奥さんに突然話しかけられて、体がビクッとなった。

「新貝さん、今日何かいつもと違うわよ。何か良い事があったの?」

 奥さんに、

「いえ、何も。」

 と平常心を心がけて答えた。でも、顔に出てしまう。涼は心の中が顔に出てしまうタイプの人間だ。

「へえ、新貝さんにも、やっぱり彼氏さんがいらっしゃるのね。」

 奥さんの質問内容は現実を飛び越えすぎている。まだ彼氏が出来たところまで行ってない。

「いえ、いませんよ。」

 奥さんの顔までにやつきはじめた。

「へえ~。」


 社長が、ニヤニヤしてる奥さんと涼、2人だけの事務員の様子を見て、『何事だ?私にも話しを聞かせてくれよ。』といった面持ちで歩み寄ってくる。

 奥さんが社長に、

「あなた、あ、ごめんなさい。社長。あの話は無し。新貝さん良い人もういるみたい。あの話はお断りして。」

 と言った。

 ―「あの話とは、どの話し?聞きたい聞きたい。聞かせて欲しい。」

「お話しって何でしょうか?」

 涼は、間髪いれずに社長に向かって聞いた。

 社長が、口を開く。

「いやね、良い人がいるんだったら遠慮なく断ってくれて構わないんだけれど、縁談があるんだ。新貝さんにどうか?って家内が言うもんだから、私の方で先方に新貝さんの履歴書の写真を送らせてもらったんだ。そうしたら、先方の方がえらく気に入られた様子で。是非話しを進めて欲しいと言ってきていて…。」

 ―「何、その美味しい話し。むふっ。」

「社長、その先方の方のお写真は…お持ちですか…?」

「ん?写真?写真あるよ。見たいかい?」

 涼が見せてもらった写真に写っていたのは、“つるりん”というあだ名が似合いそうな爺さんだった。

「社長。せっかくのお話しで恐縮ですが、私、結婚相手はもう少し年の近い方が良いです。申し訳ありません。」

 勿体ぶって、後から断るのも何だから、とどうせ断るんだから早いか遅いかだけだから、と写真を見て即答した・

「ははっ、正直だな。新貝さん若いから若いな。若いから若い?ん、変な日本語だ…。私は何を言いたかったんだったかな?はははっ。」

『社長もああ言って下さってるから、即答お断りして大丈夫だったよね?』自問自答しながら、普段、猫被って働いている涼からかけ離れた対応をとった事を、反省した。



 ねるとんパーティー当日。

 とうとうやってきた、今日ねるとんパーティー開催日。週末、家でゴロゴロしている涼が、普段会社に行く前にするメイクの顔、休みの日はすっぴんでテレビの前に転がってネコをいじっている人とは見違えた、恋に花咲かせていた若き時代を思い起させる容貌で部屋から飛び出した。お母さんが、

「うわっ!あ、あああビックリした。泥棒かと思った。泥棒?泥棒ですか?涼ちゃんですか?あなた泥棒?涼ちゃん?どっち?」

 と怯えた目で涼を見てアタフタしている。

「自分の娘と泥棒を間違えないでよ。」

 涼は、『それ以上何も言うなよ。』というオーラを全身から醸し出して家の玄関ドアを開けて街へ飛び出した。

 ―「何、この必死さ。ひく。」

 ねるとんパーティーに来ていた男性陣は、今夜のお相手探しを必死で足掻いて探している印象しか与えてこなかった。女性陣は、結構オシャレで可愛くて綺麗な子が揃っているのに、なんで男性陣は、ああなのよ。期待が膨らみ、大きくなりすぎていたせいもあってか、がっくりと肩を落とした。

 最初に、用紙を渡されて、簡単なプロフィールを記入した。その用紙をテーブルの上に置いて、中華料理屋の回転テーブルの様にぐるぐるぐるぐる回る。目の前に座る男性が5分程話す。回る。次の料理、いや男性。5分話す。はい、次。プロフィールを見せ合いながら話す。はいっ次っ!次っ!つぎぃっ!目が回りそうだった。

 休憩タイムに入るとフリートークに入り、気に入った女性のところへ男性がやってきて談笑する。フリータイム中、ケーキ屋さんで買ってきたまんまの箱に入った10数個のケーキが真ん中のテーブルの上にトンと置かれて、女性陣で、そのケーキを頂いた。大してまずからず、美味しからずのケーキだったが、せっかくだから綺麗に頂いた。ケーキを食べながら、涼の元へやってきた男性と談笑した。談笑と言っても涼はピクリとも笑ってはいない。笑える様なハイセンスな話しをしてくる男性は1人もいなかった。1番良いと思った人から順番に1位から5位くらいまで順位を男性の番号で記入させられた。1番良いって?誰1人として良いと思った人いない。けれど、無記入で出すわけにはいかないので、適当に記入した。

 カップル成立の発表が行われ始めた。

「3番の女性と3番の男性、カップル成立です。おめでとうございます。わああパチパチパチパチぃ。3番の女性の方立ってくださーい。3番の方、3番さーん。ちょっと、そこのおねえさん、あなた。3番。おねえさん。立ってください。あなたですよ。」

 会場にざわつきが走っている。

 ―「なんだあ?」

 視線が、会場中の視線が涼に注がれていた。

「え?」

 プロフィールを記入した用紙を見た。『3番、私か。うっわ、カップル成立しちゃった。どーしよこれどーしよ。』

 仕方がないから、えへっと苦笑いをしてペコリと頭を下げて立ち上がった。皆が涼に注いでいた視線を点でバラバラの方向へ散り戻す。それと共に拍手が巻き起った。涼は、カップル成立した相手側男性の事を見ようともせすに、パーティーの終了と同時に会場を足早に退席して立ち去った。

「あれ?泥棒がピンポン鳴らして帰ってきた。うわ!りょーちゃん。その顔何?唇が赤いよ。できもの出来たの?辛いもん食べたの?虫刺され?りょーちゃん、唇まかかだよ。うわっ。目の上が緑だ。涼ちゃんどうしたの?あざ?ぶつけたん?顔面打撲?」

「お母さんわかったから、くどい。」

 涼は、まっすぐ部屋に入り、八つ当たりで思いっきり扉を閉めた。モモがベランダ越しに部屋の中を覗いている。モモまでをも近寄らせぬ扉の閉め方を私はしたのか…。涼は、ベランダ側の扉を開け、モモを部屋の中に入れた。半泣きでモモを抱っこして、モモの体に顔を擦り付けた。半泣きでモモに甘える涼の顔スリスリにモモは喉をゴロゴロ鳴らしてご満悦している。モモ、モモ、モモぉ…。

 ゴロゴロゴロゴロ…。モモで満足してちゃダメだ。モモで十分満足だけど、そんなんだから2年も彼氏がいないんだ。モモの体に擦り付けていた顔を上げ、モモを膝の上に置き、パソコンを開いて、次の彼氏を見つける方法を探した。

 ―「なんて検索ワードを入れたらいいんだろ?それすらわからない。とりあえず、求めてるのは、出会いだ。出会いを今私は求めてる。『出会い』これだ。このワード1つで良い。」

 ポチッ、クリックした。

 出てくる出てくる。出会いサイト。わあ、良いねえ良いねえ。凄い凄い。でも、お母さんがインターネット回線を引いた時、『インターネットウイルスって知ってる?ウイルスに感染して病気になるよ。止めたら?止めた方がいいよ。りょーちゃん、お母さん涼ちゃんがウイルス病になってもしらないわよ。お母さんホントに知らないからね。言ったわよ。聞いたわね。それから出会い系サイトっていうのをやると殺されるわよ。お母さん教えたからね。涼ちゃん聞いたわね。それでもやりたいなら勝手にやりやがれ。ふんだっ。』と言っていたのを思い出した。

「はぁ~…」

 ため息1つ漏らし、radikoから流れるラジオに耳を傾けた。DJがリスナーと電話で話している。『彼氏とSNS上で知りあって、東京、名古屋間で遠距離恋愛してる。毎日ネットでやりとりしてるけど実際に会ったことは1回しかない、今週末2回目のご対面しに東京に行く。早く会いたい。』そのリスナーの話しに対してDJが『奥さんいるんじゃないの?彼氏。遠くたって好きなら1回しか会った事無いっておかしいよ。今週末2回目会うから奥さんいないって?ホントにぃ?自分を大事にしてよ。』と話していた。顔の見えない相手をどこまで信頼できるか。

「まっ、私がやるんだから、私みたいな人もやってるでしょ。」

 無料は、怖い。それこそ、遊びで簡単にやってる人が多いだろう。不倫相手に貢のはあっても不倫相手探しに貢ぐ人は少ないね、だろうね。だよね。でも、お金払って登録するのはヤダなぁ…。あ、お、女性は無料、男性は有料。こういうのいいんじゃない?試しに登録してみよーっと。

 軽い気持ちで、出会い系サイト、一応は聞いたことのある名前がついてるサイト、大御所なら大丈夫でしょ、と選んで登録した。

 サイトの仕組みの理解・使い方にしょっぱなから悪戦苦闘した。でも、カチャカチャやってる間に直ぐ3通メッセージが届いた。

『今日、会えますか?僕は名古屋在住会社員25歳です。今日このサイトに登録したばかりです。良かったら今日会いませんか?』

 はい、ダメ~。目的見えすぎ。こんなの求めてない。

『こんにちは、今出張先で時間が空いたのでサイトを覗いて新貝さんのプロフが目に留まったのでメッセージ送ってます。今日も寒いですね。先週末に風邪をひき未だにひきずっています。風邪が治らないぃ。新貝さんに治してもらいたいです。』

 何が言いたいのかわからない。ダメ~。こんなんしか来ないのかな?


『はじめまして、こんにちは。ちかしつおと申します。名前の通り、地下室にいます。地下室でピアノ弾きやってます。本業は別ですが、副業でバンドのピアノ弾いてます。新秋さんは音楽は何系が好きですか?何系を聴きますか?僕はパンクが好きです。でも聴くのはもっぱらベンジー…ベンジーって解るかな?因みに演奏してるのは、アシッドジャズ。こんな感じの僕ですが、どうぞ宜しくお願いします。』

 ん?ベンジー。ベンジー…、私と一緒じゃん!名前は怪しいけど返事してみよ。

 涼は、ちかしつおさんにメッセージを送った。


 ちかしつおさんは、北海道に住む本業は薬種商のピアノ弾きだった。昼間はドラッグストアで働いているそうだ。薬種商って何?と聞いたら、今は『旧薬種商』って呼ばれるくらい古い職種、だと教えてくれた。年齢はそこから察してくださいとメッセージを送ってきた。直後に、37歳です、ジジイだと思われるのが嫌で年甲斐にもなく遠回しに言った面目ない、とメッセージがきた。素直な人柄がそこから伝わってきた。ちかしつおさんは、将来的には一般薬品しか扱えないけど薬剤店、まあ出来たらドラッグストアの経営者になって業務は雇い人に任せて音楽業に専念したいという夢を持っていた。音楽の話しから気が合って盛り上がり、お互い職場から帰ってくるとまずサイトを開いた。ちかしつおさんからのメッセージをチェックして、返事を送る。帰って来たメッセージを読む。送る。読む。送る…と、やりとりをした。やりとりを重ねていき、サイトを通してだと不便だからと、連絡先を交換した。ラインで昼休みの間もお話しする仲まで発展した。ネーミングのその陰湿さとは裏腹に、ちかしつおさんは良い意味で大雑把、気さくな人だ。でも、北海道。遠い。東京辺りだったらまだ会いに行けただろうけど、デートする為に飛行機に乗るなんて、涼には考えられない。お友達の延長上で、ちかしつおさんの事を見てやり取りしていた。それが、突然、涼の住む名古屋まで涼に会いに行く、と言い出した。1回だけ会うのも変だ。それこそいつか聞いたラジオの『自分を大事にしてよ』から反れたファーストミーティングになってしまうだろう。涼はそう思い、せっかく仲良くなれたのに残念だけど、ちかしつおさんとはここまで。と、ラインメッセージが来ても返事を返さなくした。ラインのメッセージが1日に1回か2回飛んでくるけど無視して、もうかまだか1週間くらい経つ。ちかしつおさんは、マイペースにメッセージを飛ばしてくる。『ベンジーの故郷の名古屋でベンジーのライブ聴きたいから名古屋に行くよ。会えない?』『名古屋でライブがある日会場で見かけたら声かけてね。』『ベンジーのピック拾ったの沢山持ってるから会えたら1つあげる。』そんな調子だ。ちかしつおさんに会いに行くんじゃなくて、ベンジーのライブに行く。ついでに、見かけたらちかしつおさんに声をかける。それならいっか。そう思って、無視し始めてから10日くらい経った頃、『うんわかった。ほんじゃライブ会場で会ったらその時ね』と返事を返した。ちかしつおさんに、自分の写真を添付して送ったら、『ラインのプロフに顔写真載ってるよ?』と涼的に、かなりダメージを食らうツッコミを入れられた。そんなこんなで、お母さんが言う『殺される』という出会い系サイトで知り合ったちかしつおさんと実際に会った。サイトに載せてたプロフにウソ偽りはなく、身長180センチ体重70キロ。ワイルド系の容姿をしていた。顔は、正直言うと、…認めたくないけど、イケメン。涼好みのキリッとしてるけど垂れ目な、唇がうるさすぎない程度に大きい端正な顔立ちの持ち主だった。

 ライブ会場で無視してる間に送ってきたラインメッセージに書いてたピックや白い恋人、ジンギスカンのタレをプレゼントしてくれた。ライブ会場で渡されて、ライブ会場で別れた。


 今週末、2人は2回目のご対面をする事になっている。今度は、“考えられない“と思っていた涼が北海道までベンジーのライブを見に行く、ついでに、北海道観光をする。その案内をちかしつおさんにしてもらうのだ。そんな予定、大雑把に言えばデート。

 北海道でライブを観て、その後ちかしつおさんの案内でオシャレなジンギスカン屋さんで食事を楽しんだ。車でホテルまで送ってくれて、ビニール袋を渡してくれた。中身は、色んな種類のチーズと北海道産のミニボトルワインだった。一緒に飲めれば良かったのに、と脳裏をよぎった涼だったが、“あ!ここホテル。ホテルで2人っきりでチーズつまみにワイン飲んだら…”と、直ぐ、正気を取り戻した。でも、ちかしつおさんも同じ様な思考回路を辿ったんじゃないかな?と思ってクスっと笑いがこみあがった。

 北海道はでっかいどう。冬にツアーをするベンジーが春に北海道でやったライブ。そのおかげで、ちょっと足を延ばして車を飛ばしてくれて小樽運河まで連れて行ってもらえた。赤レンガの建物の前で、

「写真を撮って。」

 と、ちかしつおさんに頼んでレンガの壁にもたれかかろうとしたら、

「ダメー!!」

 と、大声を張り上げながら走って涼の袖口を引っ張り、

「ちょっと指出して。ETみたいに出して。」

 と言って、涼に人差し指を出させ、その指を赤レンガに押し付けた。ヌルっとした感触に、

「何?気持ち悪っ!」

 と、叫んだ涼を見て、ちかしつおさんは、

「はははっ。ただ単に汚れてるんだ。」

 と、ステキな笑顔を見せた。小樽まで連れて行ってくれた後、

「もう見たよね?つまんないかも。」

 と、不安気な面持ちをしながらも函館に連れて行ってもらって開花したばかりの桜を見た。

「ここで花見酒したいけど、車運転しなきゃいけないから。」

 と、

「1枝拝借して、それ見ながらどこか落ち着ける場所で1杯やろうか?」

 と提案してきた、ちかしつおさん。

「うんそだね。そうしよ。」

 即答で受け入れた涼に戸惑う様子を隠せずモジモジしていた、ちかしつおさん。


 ちかしつおさんこと、小久保輝(こくぼ てる)さん、輝は、輝が、もうすぐ帰ってくる時間だ。

 輝の夢は叶って、ドラッグストアを開店させ、経営を始めた。今は1店舗だけど、軌道に乗ったら多店舗経営に業務拡大するつもり、だそうだ。

 経営や、一般薬品ではあるけれど新薬の販売に携わる勉強には、常に真面目に取り組んでやっている。『子供の頃、練習させられまくったピアノに比べたらこんなの甘っちょろいもんだ。』なにか必死にならなければいけなくなった時は、いつも『ピアノ』を持ち出して来て乗切る。


「りょーちゃん!涼ちゃん!北海道にお嫁に行くの?凍死しちゃうよ。死ぬよ。北海道は危ないし涼ちゃんにはまだ早いと思うよ。止めた方がいいよ、お母さん言ったからね。涼ちゃん聞いたね。いい?それでも北海道行くなら行けばぁ~?死ぬよぉ~。あ~可哀そう。短命で終わるのね、涼ちゃんの人生。かわいそ~。モモ、ついて行ってあげなさい。行きたいよね?モモは北海道行きたいっていうのが口癖だもんね。涼ちゃん、北海道行くならモモ連れて行きなさい。」

 涼のお母さんが、最後に涼を託した相手は輝ではなく、モモだった。表上はそうだ。そうだけど、黙認して、遠く名古屋から2人と1匹を見守ってくれている。


「モモ?桃じゃなくて?ネコ?なんでネコ連れてくるの?別にいいけど連れてきても。僕、ネコ詳しくないけど仲良くするよ。」

 輝にモモはあまり懐いていない。けれど、それは輝に始まったことではない。モモは涼のお母さんにもそれほど懐いていなかった。ただ、涼にだけ懐くネコだ。そんな内容の手紙を涼のお母さんが輝宛に結婚後送った様だ。ポロリと、輝がそんな話しを漏らしたのを聞き逃す涼ではない。涼は、輝の発する音。言葉でもピアノでも、扉のノックでも、何でも輝の発する『音』に惹かれていたので、目で追う事は少なくとも、耳は常にダンボにして聞き耳を立てているのだ。


 涼が、また何かのきっかけで家を出る日が来るかもしれない。来ないかもしれない。それは誰にも分らない事だ。


 ただ、何となく、

「私の帰る場所は、輝とモモ。1人と1匹がいる場所だろね。これから、ずーっと。いつまでモモ生きてるかわかんないけどさ。あのね、ネコは人に付くんじゃなくって家に付くんだよ。でも、モモは私に付いてるでしょ?人に付いてる。モモと私は一心同体みたいなもん。そう思わない?似てるでしょ。モモと私。自分の行動パターンが、モモ見てると自覚できる様に最近なったの。んで、帰るところは、輝とモモのいるところ、だろねって、自覚した。」

 ふと思い出したかの様に、大体同じ内容の事を、輝に向かって言い始める涼。

「もうそれ知ってるよ?前も言ってたじゃないか。」

「へ?ホント?覚えてないぃ。意識ない時に私喋ってるのかな。へ?でも、これつい最近気付いた事だよ?なのに、もう話した?」

「あ、そうなんだ。じゃ、記憶違いかも。初めて聞く話しかもしれない。でも何度も聞かされてるかもしれない。そのどっちかだってことは確かだけど、どっち?って聞かれると記憶が曖昧でわからないな、な?なあ?」

「ほんまや、わからんわからん。なあ?」

「にゃあ!」


 この時が、永遠でありますように。


 涼のお母さん、彰乃の止まった

“時”

 の秒針が、また進みだしますように。


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永遠の一瞬 まさぼん @masabon

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