あの時間

川添

第1話 タモツ


タモツとは旅行先で知り合った。貧乏旅行だから、宿泊は人の家か、もっぱらホステルだった。そこはバス停からリュックを背負い、30分歩いたところにある山間のホステルだった。比較的新しくきれいな建物で、宿泊客に日本人はいなかった。北米やヨーロッパ、オセアニアからの旅行者ばかりだった。受付を済ますと、あらかじめ予約しておいた10人部屋に通された。ベッドもトイレも真新しいその部屋は、1泊2千円。滞在したのは5日間。その3日目に、宿泊客としてタモツが現れた。半袖のTシャツに短パンでサンダル履き、リュックを背負い、サングラスをつけてハットを被っていた。初めは日本人だと気づかなかったが、向こうは気づいたようで話しかけてきた。


「きみ、どこから来た?旅行中?ここに来る前はどこにいたんだ?こんなところに泊まっているんだからバックパッカーだよな?このあたり物価高いよね、8人部屋であんなに取られるとは思わなかった。でも俺が前いたところはもっと物価高くてね、実は俺も旅行中なんだけど、直前はノルウェーに留学していたんだ、大学院にね、で在学が終わったから日本に帰る前に旅行中ってわけだ。帰ったらまた仕事漬けの生活に戻らないといけないから、つかの間の休暇だよ。その前は勉強漬けだったしね、ああ、何の話だっけ、物価の話だ。ノルウェーは世界一物価が高いからここなんかはまだましに思えるんだけど、それにしても高いことには変わりない、まあいいんだけど。ところでここに来る前は、つまり昨日の話なんだけど、有名な滝を見に行っていたんだ。滝壺が5つぐらいに分かれていて、アリの巣の断面みたいになっている。行った?もし行ってないならおすすめするよ、これから行けばいい、ここからは少し遠いけど、バスで4時間ぐらいかな、あんな風景はなかなかないからさ、もちろん日本にはないし、世界中探しても他にはないだろうね、まあ興味あればって話だけど、自然とか、旅行者だったら大自然に興味持ったりするよね?ちなみにその滝も世界自然遺産に登録されているよ、ほら」


滝の写真を見せてきた。青と緑のグラデーションがかかった水面、枝分かれした滝壺、どの位置から撮ればこんな写真になるのだろう。確かに見たことのない風景だった。タモツはオスロの大学院で修士を取り、また日本の会社へ戻るということだった。僕が無職で旅行中の身であることを話すと「生産性のない時間を無駄に過ごすのはもったいない、俺だったらお前と知り合ったことさえ無駄にしない」と何やらそれらしいことを言われ、連絡先を交換した。


日本に帰ってしばらくしたら、言葉通りタモツから連絡があった。タモツの職場は東京だったが、出張でこちらに来ているそうだ。宿泊しているホテルのバーに呼び出された。タモツは襟のないシャツに紺のジャケットを羽織り、黒いデニムのパンツという姿だった。髪にはパーマがかかり、襟足がカットされ、うっすら伸びた髭は整えられている。旅行先で会ったときとは別人のようだ。あのときはいかにも旅行者然としていたが、今は日本の街中に溶け込める。かといって仰々しいなスーツだったり、かっちりしているわけではない。フリーランスや服装に自由が効く業界で働いている人間っぽい様相をかもしだしている。僕らは人のいないカウンターの端に座り、バーテンへ注文した。


「きみは相変わらずだな。ここは日本だというのに、あのときのまんまだ。俺もどこにいたって変わらない自信はあるが、きみとはやっぱりニュアンスが違う。さすがに見た目や服装はこのとおり変わるし、中身が同じでもやっていることは違う。きみのように何もかもそのままというわけにはいかない」


「好きでこうなってるわけじゃない」


「それは違う。きみは好きでそうしているんだ。些細な変化だって拒んでいる。環境が変われば普通、幾分か人間は変わるもんだ。少なくとも外側は変わっていく。きみのそれは意図的だよ、それもかなり頑固な。なんだってそう意地を張っているんだ?どうしたいんだよ」


バーテンは僕らの前にコースターを差し出し、その上に注文のグラスをのせた。


「いったい何の話をしているんだ、久しぶりなのに。なんでこっちへ来た?」


僕は面倒だったので話をそらそうとした。


「そういう話はいい。どうせつまらない。まあ、ただな、こっちの話がまとまりそうなんだ。下見に来たわけだよ。これからしばらくはフロリダの本社で、近いうちにまた戻ってくる。そう、一年後ぐらいかな。それまでに準備しなければいけない。明日出発することになっている。そうだ、俺がこっちへ戻ってきたとき、きみも手伝うか?と言っても俺のやっているような仕事じゃないが、きみだったら言葉の問題はないし、土地勘もある。外国人の対応だって慣れているだろう。ただきみはこういう話に興味なかったよな。気が変わったらいつでも教えてくれ。そのときに雇えるという確証はないが、おそらく大丈夫だろう」


「お言葉だけありがたく頂戴する」


タモツが何の話をしているのかわからなかったが、てきとうに答えた。


「そういうときは嘘でも連絡するって言うもんだ。少なくともこの日本ではな。まあきみがそういう態度を取らないことは知っている。俺に対してだけでなく、誰に対してもきっとそうだろう。それが頑なだと言うんだよ。でも俺は何も、きみのそういう態度が嫌いだっていうわけじゃない。むしろ好ましいとさえ思っている。ただ相手や状況に応じて切り分けができないとうまく立ち回ることができないぞ。そういうことも、きみは十分承知の上だろうな。その上で態度を変えないことも知っている。しかしなぜだ?何をそんなにこだわっている」


タモツはグラスを口にあてがうと傾け、中身を流し込んだ。


「こだわるとか、そういうのじゃないんだ。もうそんな話はいいよ。これ以上続けてもつまらない」


タモツのわけのわからない話は、ただ聞いている分にはラジオのようで心地いいが、こちらも何か答えるように求められるのは困る。


「そうか、まあ別にいい」


タモツはそれで気を悪くすることもなく、聞いてもいないことを話し続けた。


「とにかく明日また日本を立つんだ。来年に帰ってきたら連絡するよ。そのときは多分、披露宴になると思う。婚約していてね、相手は大学時代の先輩で、当然きみは会ったことないが、東京ではなくこっちで式を挙げる予定をしている。帰ってきたらそのまましばらくこっちで働くことになるからね。披露宴ぐらい呼んでもいいだろう?祝儀なんてなくていいんだ、ただ俺らが会う口実だよ。俺は君と知り合ったことも無駄にしたくないんだ。別に人脈とか、そういうことじゃない。そりゃあきみが手伝ってくれるっていうなら歓迎するが、それ自体はさして重要なことじゃない。人間関係っていうのは必ずしも利害関係だけで測れないものだし、本当の利害っていうのは金や仕事と関わらない別のものだ。俺はそれを大切にしたいと思っている。だからこうやってきみにも連絡をとっているわけだ。俺の言いたいことはわかるか?」


「ああ、言わなくてもわかっている。そうでなければ僕なんかに連絡よこすやつはいない。お前は立派だ」


「そうじゃない、そういうことを言いたいんじゃないんだ。きみが俺のことをどう評価しようが問題じゃない。問題は、俺がきみのことをどう思っているかなんだ。主観なんだよ」


「わかってるよ。冗談だ」


そう言ったが、僕はタモツの言っていることがさっぱりわからなかった。ただ僕自身の言葉はあながち嘘でもなく、事実タモツは立派な人間だと思っている。自分の思っていることを真正面から平気で口にする、それもおそらく僕に対してだけでなく、誰に対しても同じような態度で接している。僕とタモツは、そのままホテルのバーが閉まるまでそこにいて、相変わらずタモツが延々と話し続けるのを聞いていた。

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