空手がぁる!
石動天明
私、変わりたい……です
プロローグ
テレビの向こうにいる少女である。
セミロングの髪を、頭の上で結わえ、その髪の隙間に汗を滴らせている。邪魔にならないように捌かれた前髪の下に、凛々しい眉と瞳があった。唇には薄っすらと笑みが浮かび、時折、赤い舌がつるりと除いたかと思うと、火照った皮膚を舐め上げる。
身体が細い。身長は一五六センチと出ていた。体重は、四二キロ。体脂肪が殆どない為に、そのような数値になる。その身体を形成しているのは、良く絞り込まれた筋肉だ。圧縮された筋繊維の束が、刃のような引き絞られた肉体を作り上げているというのだ。
着ているのは、白い道衣だ。白いと言っても、汗と垢で黄ばんでいる。ズボン状の下衣を履き、袷の上衣を黒い帯で締めていた。その帯も白いささくれが立っていて、純粋な黒とは言えなかった。上下の衣の生地は薄く、一見すると同じようでも、柔道ではなく、空手のそれであると分かった。その左胸に、“月照会”とあるが、これは沖縄空手の流れを組む流派である。
歳は一七歳。
その少女が、今、テレビの中で、戦っている。空手の試合の最中なのだ。
夕希が見ているのは、フルコンタクト空手団体の連盟が主催するオープントーナメントだ。空手には幾つか試合の方式があり、大別して、伝統派・防具・フルコンとなるが、この内のフルコンタクト制の試合では、必要最低限のサポーターを付けて、実際に相手にパンチや蹴りを当てる事で決着を付ける。
その、女子無差別級の決勝戦。
無差別と言うのは体重の事だ。ボクシングなどでは一七にも分かれている体重による階級だが、今回の大会では、軽量・中量・重量級の三つになっており、それとは別に、出場する選手に体重の上限も下限もない無差別級がある。当然、男女では同じ重量級でも設定体重が異なる訳だが、体重別の試合に出るのならば軽量級の選手と、重量級の選手がマッチメイクされる事は、珍しくない。
画面の中が沸いているのは、そうしたマッチメイクが、決勝戦の場に於いて行なわれたからであった。
真橘の相手は前回優勝者で、女子
無差別級であるから実現する試合である。
空手のような打撃系格闘技ではどうしても、体重が勝敗を左右するファクターとなる事が多い。と言うのも、打撃の威力と言うのは、質量×速度で求める事が出来る為、同じ速度でパンチを繰り出せる、体重の違う者同士が試合で当たれば、体重の重い選手が有利になってしまうのだ。そうした体格という天性のものによって勝敗を左右する事なきよう設けられたのが、体重制であった。
しかしながら、武道・格闘技の実用性、即ち、実戦性を重く見る層によって、無差別級が提唱されるようになる。護身術としての格闘技は、弱い――腕力や体格で劣る者が自分よりも強い相手から身を守る事を本分とする。ならば試合体系もそうした事を想定すべきではないかというのが、彼らの意見であった。
だが、試合、特にトーナメントという形式上、スタミナの問題も出て来る。一概に言う事は出来ないが、単純に考えるなら、身体の大きい者の方がスタミナを蓄えている。そうではなかったにせよ、体重が多ければ、相手の体力を削り落とす打撃を繰り出して、その足りない分のスタミナを補う事が出来る。
例え一回戦で小よく大が制されたとしても、次に大柄な選手が勝ち上がって来れば、そこでスタミナ切れを起こしてしまうかもしれない。
だから結局、無差別級とは言っても、勝ち残って来るのは体力のある大柄な選手ばかりなのである――という定説を、この東堂真橘という少女は覆してしまったのであった。
東堂真橘、身長一五六センチ、体重四二キログラム。
城島恵久美、身長一六〇センチ、体重六〇キログラム。
体重差は一八キロ。一〇キロ違えば打撃の威力も一〇キロ分増す訳であるから、そのダメージ量が分かる筈だ。そうした事がありながらも、東堂真橘は、一八キロも重い城島恵久美と決勝戦で向かい合い、しかも、終始、有利に事を進めていたのである。
試合開始から二分が経っている。試合は三分間で、その間に決着が付かなければ二分、それでも結果が出なければ、決勝戦では一分間の延長戦を行なう。
試合の決着は、一本か、技あり二つ、又は三度に渡る“注意”。最終延長戦まで持ち込まれた場合は、審判側の意見に関わりなく、体重が軽い選手に勝利の旗が上がる。
真橘の体力に余裕があれば、それを狙ったって構わない。だが真橘は、そんな事は知るものかとばかりに、城島恵久美を攻めに攻めて攻め捲った。
試合開始の合図から、ローキックやジャブで細かく打ち込んでいきつつ、要所で重い打撃を繰り出しては怯ませる。技ありや一本こそ取れていないが、判定勝ちがあれば、或いは真橘の方に旗が上がっているだろう。恵久美の方にも、自分よりも軽量な真橘が、ここまで粘り、しかも、こんなにも重い突きやキックを放って来るとは想定外だという思いがあるのであろう。
残り時間が三〇秒を切った。
真橘の怒涛のラッシュが、恵久美を襲った。
腰の回転を利用して、何度も何度も何度も執拗に打撃を叩き込む。
ローキック、ストレート、ボディ・ブロー、アッパー・カット、前蹴り、膝蹴り、猿臂……
その嵐のような乱打を体格で押し切ろうとするも、そうした時には真橘は巧く退いて攻撃を透かし、恵久美がパンチや蹴りを引き戻した瞬間に、連打を再開する。
そうした攻防の中で、恵久美のガードが僅かに下がった瞬間があった。鞭のようにしなる脚が、脇腹を越えてキドニーに入ったのだ。その痛みに膝が少し下がり、それに釣られて頭部を守っていた左腕が落ちた。そこを真橘は逃さず、試合場のマットから右足を跳ね上げた。
とんっ……
そういう音が聞こえて来るかのようであった。或いはそれは、石が水の上を跳ねる一瞬を捉えたものであるかのようであった。光る画面の中で、真橘の白い下衣が波打ちながら天に向かって伸び上がり、その裾から伸びた足が、巻き藁を斬り飛ばす日本刀のように、城島恵久美の顎を刈り取った。
恵久美の顔が傾いた。顎への衝撃で、頭部が頸を支点に回転したのだ。黒目を瞼の内側に掻き消した恵久美は、膝からマットの上に崩れ落ち、次いで、糸の切れた操り人形、又は、全ての骨格をばきぼきと圧し折られた蛇のように、その場にへたり込んで、ぶっ倒れた。
カメラマンの采配は見事であった。生でしか見る事が許されない感動を、電波に乗せてしまう事が出来たのだ。
WAAAAAAAAAAA!
会場の歓声が届いて来る。熱を孕んだ声だ。人間という火山が噴火し、それらが連鎖して、声の火山灰で会場を覆い尽しているのであった。その、降り注ぐ火の石の真ん中で、悠然と、東堂真橘一人が佇んでいる。倒れた城島恵久美に向けて、拳を構えていた。
“一本!”
主審が告げた。四人の副審が、何れも白い旗を上げている。真橘の色だ。
真橘は、倒れ伏した相手を静かに見下ろしながら構えを解き、
“押忍!”
と、力強く礼をした。
東堂真橘が勝者である事がアナウンスされ、それに対してリポーターが何かコメントをしている。会場の声が五月蠅くて、それが聞き取れない。
カメラは試合場から降りてゆく真橘を映していた。画面は切り替わり、城島恵久美が担架で運ばれてゆくシーンが映された。それと並行するように、メインアリーナから、通路へと去ってゆく真橘の背中が映る。
ふと、その真橘が小さく振り向いた。付いて来るカメラを鬱陶しがったのか、それとも他に何らかの意図があったのか。兎も角、振り向いた真橘の眼と、夕希の眼が、画面を挟んでぶつかり合った。
ぞくり……夕希の中で、何かが動き始めた。何かが、目覚めようとしていた。時間を忘れる程の激しい鼓動と共に、星沢夕希は、胸を焦がす衝動を身籠っていた。
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