第一章 一
風の吐息が木々を揺らし、草花が声なき声を上げて光を求める。
神の流した泉からの雨を期待し、植物は地中に生える根を瀬一杯伸ばす。
遥か彼方の黄色の大地には、眠たげな太陽が顔を覗かせている。
そんな緑に栄えた森林内に、早朝から鍛錬に励む青年が一人いた。
「ふっ、ふっ、ふっ」
側には緩やかな小川が流れ、青年の体躯よりも数倍巨大な岩が依然として、水の流れに逆らっている。
青年はただひたすらに片手を岩上に着き、逆立ちの状態を保ちつつ腕立てを行う。
「ふっ、ふっ、ふっ」
この場にはもう1人。澄み切った川の水に足をつけ、此方を見詰める者が。
その者は、薄汚れた大地とは違い、清らかな漆黒のドレスを着込んでいた。その炎々たる紅色の長髪を揺らし、その者は言った。
「なぁ、えん。これから何処に向かうのだ?」
「ふっ、ふっ、ふっ」
病気染みた白い肌に、何処かしら力強さを感じさせるその様相。
「何故、わざわざ効率の悪い訓練などするのだ?」
「ふっ、ふっ、ふっ」
銀に輝く頭髪はとうに汗で濡れ、岩の上には既に相当量が染み渡り、その雫に朝日が反射する。
「私は、腹が減ったぞ」
その言葉に俺は妙に納得し、数千回反復した腕を休ませる。
「ふぅ――――そうだな。イル、そろそろ飯にするか」
腰に巻いた布で汗を拭き取り、岩陰に置いていた茶色の軽服を着る。
丁度その時、木々の中から姿を現す獣がいた。2、3ラッドはあるであろう体躯。銀色に輝く毛並みは柔らかな風に揺られ、その獰猛な口には野兎が咥えられている。
「ガル。いい子だ」
蒼色の瞳を細め、頭を撫でられる獣。こいつは、イルと共に旅を共にしている竜犬。
竜の如く速さで大地を駆け回り、獲物を喰らう魔の存在。
「お主ばかりずるいぞガルっ! 私にもその兎をくれっ」
ガルル ガルッ
「なんじゃと? おいっ。無視するでないっ」
同種のようにじゃれ合う2匹を尻目に、俺は朝食の準備を始める。
料理と言っても、昨夜作った汁物を鍋で温め、干し肉とパンを用意するだけという簡素なもの。
焚き火で鍋を温めながら、巨大な背負い袋から大量のパンと干し肉を取り出した。
「ほほぉ、良き匂いだ」
「食うぞ」
汁物を木の器に掬い、手元に少量のパンと干し肉を置く。
少し逆流する疲労を落ち着けながら干し肉を口に咥え、パンを頬張って汁物で流し込んだ。
「もふっ、もふっ――やはり、えんの作る汁物は旨いのぉ」
イルは汁物の入った鍋ごとを口元に持っていき、大量の干し肉を一度に頬張る。
細身のその体格とは裏腹に、次々と食べ物を飲み込んでいく彼女。
毎度、その高価な黒のドレスを汚してしまうのでないかと、不安になることがあるのは秘密だ。
旅路の格好としては異様だが、長らく付き添っている俺には見慣れた光景。
ガルルル
「どうしたガル?」
口元を器用に舐めていたガルが身を寄せてきた。咄嗟に、食後のあれを与える時間だと気がついた俺は、腰についた布袋に手を突っ込む。
取り出したのは、くすんだ緑色の玉。
「ほら、食べな」
ガルルル
一口にその玉を食べたガルは、鼻を鳴らすと側に腰を落ち着けた。
「その犬も健気だのぉ」
「食べたならその器をくれ」
汁物の入っていた鍋と木の器を川の水で洗い、背負い袋に仕舞い込む。
一夜をお世話になった焚き火を消した後、腰に愛用の刀を帯び、背中を覆う大きさの袋を背負った。
「行くぞイル」
「ぉっ、もう行くのか?」
「日が傾く前には村に着いておきたい」
イルは端麗なその顔を綻ばせ、妙に大きく膨れた胸を張って伸びをする。
「――んっ。それでは行くとするかのぉ」
まだ芽吹き始めたばかりの植物が覆う地を、革靴で踏みしめる。その度に足裏に柔らかい感触を感じ、心までも穏やかになるよう。
鼻歌を刻みながら隣を歩くイル。キメ細やかな絹の黒いドレスは光を集め、自然色の森には異様に栄えていた。
「それにしても、平和だのぉ」
「そうだな」
「暇じゃ。わたしは暇だぞ、えん」
その様相とは裏腹な喋り方で、頬を栗鼠のように膨らませ、つまらなそうに言葉を漏らす。
「俺のせいではない」
「そんなのわかっているわっ。相変わらずの無愛想じゃのぉ」
「無愛想なのは幼少からだ」
前方で、虚空を舞う蝶を無邪気に追いかけるガルに目を向けながら、脳内には炎の記憶が垣間見える。
「次の村はなんて言うとこかのぉ」
長い旅路の中で、たくさんの村を越えて来た。この世界には未だに人類の未踏の地が多く存在する。
魔の空気が染み渡る幻想海域、闇の世界へと繋がると言われる暗雷の谷、永劫の炎が顔を覗かせる火炎の山。
そんな中、俺たちが向かうべき地は、遥か海の先の国。古神の歴史が色濃く刻まれた始まりの地。
「次の村の名は、ナルだ」
「ナル? しけた名じゃのぉ。どんなところじゃ?」
林道を抜けた先に次の村はある。脳内の奥底から、貧相な村に関する過去の記憶を引っ張り出す。
「何もない村だ」
「はぁ、また新しい服は買えぬか」
ふと、その黒いドレスに目を向ける。もう数週間もそれを着ているだろうか。
「我慢しろ。お前の衣類は値が張り過ぎる」
「仕方がなかろう? 私の楽しみなのじゃ、邪魔するでない」
「ふんっ」
ここら周辺は危険な獣もおらず、比較的安全な地であったと記憶している。
蝶を追いかけていたガルは既に側に寄り添い、赤髪のイルは空を見上げていた。
「ぬぅ~暇じゃッ、ひまじゃ~。エン~何か面白い話でもしてくれぃ」
「そんなもない」
「それなら、あの話をもう一度してくれ~」
「――またか? もう何度も話したぞ」
「いいのじゃっ。私はその話が好きなのじゃッ」
綺麗な赤目を輝かせて請う姿に、溜め息を一つ吐く。
「わかった」
これから話す物語は、世界に伝わる最も有名な伝記の一つ。
始まりの時代に、全ての生命、世界を創造した一つの神と呼ばれる存在がいた。
神がその右手を掲げると、その無機質な大地に緑が栄え渡る。
神がその左手を掲げると、その空虚な世界に生命の声を溢れさせる。
その姿に感動した神の涙が世界に海を創り、心優しき神の笑い声が太陽を作り出した。
神はさらなる繁栄を期待し、最も早く生まれた虎の子に絶対的な力と勇敢さを与え、次に生まれた鳥の子に光を越える俊敏さと優しさを与え、次に生まれた蛇の子に果てない身体と賢さと与え、最後に生まれた竜の子に残った自身の全てを与えた。
それらを総して、我らは四ツ神と呼ぶ。
四ツ神は、己に与えられた神の力を行使して、新たに誕生した世界を繁栄の地にさせていった。
しかし、次第に四ツ神は互いの力を妬み、戦火の竜巻の如く立ち上っていくことになる。
幾千の戦いの末、神の愛しき緑は枯れ果て、涙の海は同胞の血に染まった。
世界に暗雲をもたらせた四ツ神に、優しき神は哀しみ、四ツ神の力を封じ、暗黒に塗られた空を晴らすべく、自身の魔力を結集させて月を形成したのである。
「――――終わりだ」
「ほほぉ。やはり、この話は何度聞いても心が躍るのぉ」
暗雲が立ち込めた世界とは考えられない程に、晴れやかな太陽が光を差す大地。
ひしひしと砂の道を歩いていくと、やっとのことで木々が犇き合う森を抜けた。
前方を目を細めながら見やると、確かに其処には人間の営みが感じられる母屋があった。
「おっ? あれがナルの村かの?」
「――――あぁ」
「そうかっ! 何か面白いことがあるといいのぉ」
そう言って、軽快な足取りで前を行くイル。
ガルル?
ガルと目を見合わせ、俺もフラフラと先を行く小さくも、巨大な背中を追う。
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